泥水(ガレルドとアスティー)
びしゃり。足下の泥水が跳ねあがって、少年の頬にかかった。けれどそれすら気にした風もなく、少年は虚空を見詰めている。呆然としたその瞳が、力無く開かれていた。
「……アス。」
呼びかける声すら聞こえていないのだろう。ただ、既に戦の終結した合戦場を見詰めて、どうすればいいのか解らないといった風な表情をしていた。打ち拉がれた子供の、折れそうに弱い眼差しがそこにあった。
少年は、ゆっくりと息を吐いた。傍らの親友が、衝撃から立ち直れていないのを知っていた。彼自身、決して平然としていたわけではなかったが。それでも、隣に立つ少年の表情を見ていると、自分がしっかりしなければならないと、そう思ってしまうのだ。
「アス。」
彼は、もう一度親友の名前を呼んだ。アスティー・ピルゲーナ。アイル騎士団−別名・跳躍する銀狼−の若き部隊長。いずれは団長にまで上り詰めるだろうと言われる、貴族の少年である。その傍らで、ガレルド・マレバリアは息を吐いた。貴族の養子でありながらリーダス騎士団−別名・俊足の黒豹−の部隊長を務めている。アスティーに負けず劣らずの武勇の持ち主である。
何故?小さく呟くアスティーの声が聞こえた。その言葉に、ガレルドは何も返せなかった。何故と問いかけたいのは、彼も同じだった。それでも、目の前に広がる現実は変わりはしない。
「ガレー……ッ。」
「…………何だ?」
「俺は、俺達は、何故……ッ!」
「お前が悪いわけでも、弱いわけでもない。あの状況で、勝てるわけがなかった。…………裏切り者の奇襲に、体勢を立て直せなくても無理はない。」
「それでも、俺は!俺は、部隊長だ!部下を護って、闘って、勝って、倒して、それで……ッ!」
「落ち着け、アス。」
くしゃりと、血と泥と汗にまみれた掌で、ガレルドはアスティーの頭を撫でた。明るい銀色の髪が、その掌の下で小さくなる。髪を汚してしまった事に気付いたが、ガレルドは止めなかった。俯いたまま拳をぶるぶると震わせる親友の、直向きすぎる無垢な魂のありように、喜ぶよりも先に憐れみを感じてしまう。
反乱分子の討伐。それだけであるはずだった戦は、けれど彼等に敗北をもたらした。勝てるはずだった。負けるわけがなかった。けれど、背後から援軍に来たはずの部隊が彼等を攻撃し、部隊は総崩れになり、前方の敵の攻撃によって壊滅した。
いや、生き残った者達もいる。本物の援軍達に治療をされている、生き残った部下達。部隊長である二人を護ろうと必死に闘い、傷ついた者達だ。けれど、戦場には生命を散らせた多くの騎士達がいる。二人が、護る事のできなかった者達が。
「俺は、あいつらを、赦さない……。」
「アス。」
「殺してやる。卑劣な裏切りで俺達を攻撃した奴らなど、俺がこの手で括り殺してやる!!!」
「お前が手を下すまでもない。近衛兵団が動くはずだ。もう、俺達の役目はおわ……。」
「終わってなどいない!仇を取るのは、取れるのは、俺達だけだ!」
燃える炎のように直向きな眼差しが、そこにある。黄金色の双眸が、太陽よりも鮮やかにガレルドを射抜いた。苦笑して、ガレルドはゆっくりと視線を地平線へと向けた。その彼方に、彼等が討つべき者達がいる。それを、ガレルドは知っていた。
「仕方ないな。付き合ってやる。」
「物好き。」
「お前のフォローができるのなんか、俺以外にいると思うか?」
「…………バカ野郎。」
優しくするなと、アスティーの背中が告げている。解っていながら、ガレルドはその背を叩いた。ここに生きている。自分達は、まだ生きている。そう、告げる為だけに。
泥水にまみれても、希望を失う事だけは有り得ない。




