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目にあまる

作者: antyoku

 夏はまだまだこれからという時期にあって、今日も暑い。ウェットティッシュを丸めてポケットに突っ込み、わたしはそっと玄関の呼び鈴を鳴らす。学校帰りに寄ったので制服姿のままだが、着替えてからくればよかったかなと後悔し始めた。

 ふと見ると金属製の郵便受けに反射した日光が、ちょうどわたしの目を灼く角度でぎらりと閃いていた。佐古くんの家には以前も一度こうして来たことがある。欠席した彼にプリントを届けたときだ。あのときはこの郵便受けに入れて帰ったから、佐古くんはわたしが届けたことも知らないかもしれない。

 今回はそれとは別の用事で、本人に会って話す必要があった。

 待っていると母親らしき人物が出てきた。彼女は佇まいからどこか恐縮しているような印象を受ける中年の女性で、「雄二くんのクラスメイトです」とこちらが名乗ると喜んでいた。用件自体は佐古くんが玄関に出てきてくれればすぐ済むのだが、体調不良で欠席している彼の見舞いという建前なのでそういうわけにもいかない。

 お友達が訪ねてくるなんて滅多にないからねえ、ましてやこんなに可愛い女の子がねえ、雄二はどうも悪趣味で気味の悪い本をよく読んでて、ときどき部屋で意味の分からないことをしててなに考えてるか分からないところがあるけど、でも根は良い子だから仲良くしてあげて、など色々と喋りながらおばさんはわたしを二階の部屋まで案内してくれた。

 佐古くんの自室へと足を踏み入れる。むわっと熱気がこもっていた。扇風機が申し訳なさそうに回っているが、おそらくここは外より暑い。先ほどアルコールで拭いたため、肌に風が当たるとひんやりとした。

 彼はベッドに寝ていたが、わたしの姿を見るなり飛び起きた。目を丸くしている。パジャマを着込んで汗を浮かべて髪がぼさぼさ、なるほどいかにも病人といった感じだが、顔色などを見るかぎりとても学校を休むほど体調が悪いようには思えない。

「い、和泉? どうして」

「お見舞い」

 ひとまずそう答えるが、明らかに納得していない様子だ。ろくに会話もしたことのないクラスメイトが、アポ無しで部屋まで上がり込んできたのだから当然か。

「風邪は大丈夫?」

 ベッド脇に腰を下ろす。「あ、ああ」と何だか煮え切らない様子の佐古くんは、先ほどから一向に目を合わせようとしてくれなかった。

 どうにも落ち着かない。当然みたいにやって来てしまったが、男の子の部屋に入ったのは生まれて初めてだった。何とも言えない独特の臭気が鼻をつく。嗅いだことのないもので、はっきり言って良い匂いではない。生臭いというか、暑さのせいもあり際立って不快なものに感じる。もしかしてこれがあの、例のあれの匂いだったらどうしよう、と思ったら体がぞわぞわして、それはなるべく考えないようにした。

 佐古くんの部屋はほこりっぽくて、見回すと床にも物がたくさん散らばっていて、なのに机の上や本棚の周辺などはきれいに整理整頓されている。

 二つある本棚の片方には生物図鑑など生き物に関する本が収まっていた。もう一方は小説の棚のようで、何やら悪趣味なエログロ本らしき背表紙も散見されたが、著名な作家の作品もたくさん並んでいる。一番左上が浅田次郎だったから、ひょっとすると思いながら見ていたところ、そこにある法則性にわたしは気づく。

「すごいね」

 著者名があいうえお順になっていることがすぐに分かった。さらに観察すると、どうやら著者ごとに出版年月順で並べられているようだ。小説も漫画も適当にケースへ入れて床に積んでいる自分からすると、全く見習いたいくらいの細やかさだった。

 ただ不思議なのは、空きスペースが最下段にしかないことだ。これでは新たに本を入れようとするたび一冊ずつ下の段にずらさなくてはいけない。なぜ最初からそれぞれの段に遊びを作って収納しないのか。そういう点も含めて、単なる几帳面ではなく偏執的なものを感じさせる秩序がこの部屋にはあった。

「普通の人は、そうしないのか?」

「多分ね」

 そこでノックの音がして、おばさんがドアを開けて入ってきた。そのあいだ会話がストップする。彼女が持ってきた麦茶を床に置こうとしたところ、上手く行かないようなので、佐古くんが二つとも受け取って置いた。遠近感が掴めないようだ。そして彼女はこちらに微笑みかけてから部屋を出ていった。また彼とわたしの二人きりになる。

 わたしが訪ねてきたときの彼女の喜びようを思うと、さっさと用件だけ伝えて帰ってしまうのは何だか申し訳ない気がしていたけれど、居座ったところで余計に話すような内容もない。

 とにかく部屋が暑かった。なぜ窓を締め切っているのだろう。扇風機は熱気を攪拌するばかりであまり涼しく感じられない。あまりこの部屋に長居すると匂いが移ってしまいそうなので、そろそろ本題を切り出すことにしよう。

「今日は、忠告をしてあげようと思って来たの」

 忠告という単語に佐古くんが少し身構えるのが分かった。メールなら数行で済む内容だ。電話でも事足りる。けれどほとんど言葉も交わしたことのない彼のメールアドレスなんて知らないし、家の番号も調べられなかった。住所だけは分かっていたからこうして直接訪ねてきたのだ。

「明日の朝、佐古くんの下駄箱に手紙が入ってると思う」

「手紙?」

 決して愉快な話題じゃないことは雰囲気で伝わっているはず。彼の反応からしてこの時点でだいたい察しがついてしまっているようで、もしかしたらわざわざ教えに来てあげるまでもなかったかもしれない。

「西さんが今日、仕込むって言ってるのを聞いたの」

 わたしたちのクラスにはいじめを行っている女子グループがいる。西はその集団におけるリーダー格の女子の名前だ。彼女らの本命の標的はまた別にいて、そちらは同性ということもあり容赦なく残酷な目に遭わされているみたいだけれど、それでも刺激が足りなくなってきたらしい。その合間に遊ぶための準ターゲットとでも呼ぶべきストックがあって、根暗で内気な佐古くんはよく玩具にされていた。

 今回は偽のラブレターという名の罠を仕掛け、指定した待ち合わせ場所へのこのこやってくる彼を見て笑い物にするという、実に古典的ながら陰湿極まりない悪戯で、わたしはその作戦会議が行われているのをこっそりと立ち聞いてしまったのだ。

「だから、無視した方がいいよ」

 応じれば酷い目に遭うから無視をしろ、と用件はそれだけだった。そこまで言い終わっても佐古くんは返事をしない。何も言ってくれなくたって別にいいとわたしは思っていた。

 それでも彼が次の言葉を探すように黙っているから、わたしは待った。考えるようなことなんてないはずだった。そうして、こちらが締め切った窓の外から微かに聞こえる車なんかの音に意識を向け始めたころ、ようやく佐古くんは口を開いた。

「なんで、わざわざ?」

 戸惑いをあらわにしている。

「別に」

 いじめ自体は正直どうだっていい。面白半分で誰かを傷つけようとする彼女たちの行為は不愉快だし、できることなら無くなってほしいけれど、何よりもわたしを苛立たせているのは今回の内容そのものだ。

 今日び下駄箱に手紙はないだろう。とても中学二年生が面白がっていいものじゃない。自分の周りで自分と同い年の女が小さな子どものようなことをしてはしゃいでいる、何よりもそれが不愉快だった。醜く成長した悪意と攻撃の幼稚さがアンバランスで気持ち悪い。

「嫌いだから。西さんのこと」

 表面上は何とかクラスメイトとして穏便に付き合っているけれど。

 いじめをやめてくれ、と祈ったって無駄なのは分かっているから、どうせいじめるならもう少し頭を使ってくれ、というふうに考えてしまう。普段は何もできないぶん、せめてこの過去最高にしょうもないお遊びだけは阻止してやろうと思ったのだ。

 今回の場合、佐古くんは朝からずっと観察対象になり続けるはずで、人目を避けて安全に忠告するとしたら今日のうちしかない。それに、ダメージを最小限に抑えるには手紙を読む前の時点でネタを知らせておいた方がいい。

 暑さで喉が渇いていたせいか、口をつける前はためらっていた麦茶を一気に飲み干してしまった。

「それだけ」

 じゃあもう行くね、と立ち上がる。しかし佐古くんは、「なあ」とわたしを呼び止めて、その声が妙に大きいからわたしは少し驚いた。呼び止めておきながら、彼は口をもごもごさせている。はにかむような笑みを浮かべて、

「もしかして、さ」

「うん」

「和泉って、俺のこと好きなんじゃねえの?」

 なんて言うものだから、一瞬言葉に詰まってしまった。好きって? とそのまま訊き返してしまう。

「だからさ、和泉は俺を好きだから、こうしてあいつらの嫌がらせについて家まで知らせに来てくれたんじゃないかって」

「違う。違うから」

 たくさんの言いたいことをさて置いて、とにかく彼の思い込みを否定しようとした。これは確実にそうしておかないと、あとあと大変な面倒につながってしまう。

 わたしはまともに話したこともない佐古くんを好きでも嫌いでもなかった。むしろここへ来てからほとんどこの部屋の独特の匂いだけが彼という人のイメージそのものになって、いっそ嫌悪感を抱いているくらいだ。

 そのうえ根暗のくせに変に積極的なところがあって気色悪い人だという印象まで加わってきて、わたしは思わず自分の体を抱くようにして一歩退いてしまう。

「違うの?」

「違うって」

 じゃあ、何でだよ? とその問いかけがいやに幼児じみていて癪に障った。なるべく冷静に話そうとするがつい語気が荒くなってしまう。

「明日そういうことが起きるって、多分わたししか知らないから。気持ち的に見て見ぬふりができなかっただけ。本当それだけだから」

 事故現場の野次馬は見ているだけでなかなか行動を起こそうとしないけれど、そこのおまえ警察を呼べ、と指示されれば多くの人は従うという。そんな心理も実際あって、説明としては充分なように思う。

 突然上がり込んでおいて申し訳ないとは思うけれど、わたしがそもそも普段あの教室でどういうことを思って過ごしていたか、どういう気持ちの積み重ねがあってなぜ今回この行動に至ったか、そんなことを詳細に語って聞かせたくはなかった。同情やお節介でここまで来たことが不快だとか、今日のこれのせいで何か余計に悪いことが起きてしまうとか、そういう話なんだったら謝りたいけれど。

「そうか。よかった」

 佐古くんは胸をなで下ろした。好かれてたらどうしようかと思ったよ、なんて言いながらヘヘヘと卑屈な笑みを浮かべた。それを見るわたしの顔には一瞬だけだが青筋が立っていたと思う。

 もっと人に好かれる努力をした方がいいよ、と喉まで出かかったが言わずにおいた。とにかく話はおしまいだ。誤解も解けたところで、今度こそ出て行こうとドアノブに手をかける。

 そのときもう一度、彼はわたしを呼び止めた。

「和泉」

「うん?」

「俺と付き合ってくれ」

 その言葉を聞いた瞬間、暑さで耳がいかれたのかと本気で思ってしまった。脱力した手がドアノブから離れる。

 頭がくらくらしてきた。佐古くんはちょっと照れくさそうだ。なぜ今その言葉を口にできるのか分からない、いや分からないわたしがおかしいのか、と言いたくなるくらいまじめな顔をしている。相変わらず目は合わないが。

「ひとつ訊いていい?」

「ああ」

「好きじゃない、って言ったよね」

「言った」

「それなのにどうして?」

 尋ねると彼は切なげにため息をついた。その仕草が病人っぽさとあいまって妙にアンニュイで、わたしはまた苛々してきた。

「説明するのが恥ずかしい」

「じゃあ返事だけするね。無理。絶対無理」

「そうか」

 事も無げな返事。当然こうなることは分かっていて、それでもまだ何か話を続けたがっている様子だった。その態度に心のどこかがざわざわする。えもいわれぬ危機感を訴えはじめている。

「まだ何か?」

 黙っている姿さえもだんだんと不気味に思えてきた。帰るなら今だ、と内なる自分が警告しているのに、わたしは先を促した。

「和泉って、すげえ優しい奴だと思う」

「はあ。それはどうも」

「みんなにも教えてやりたいくらい」

 そんな他愛もない言葉によって、わたしは彼の考えていることを全て理解してしまった。体に戦慄が走る。動揺を押し殺しつつ、再びベッド脇に腰を下ろす。

「特にあの西は、和泉のこと嫌いみたいだし」

「あの」

「和泉に見下されてることも、実際かなわないってことも分かってるんだろうな」

 彼の言うとおり、わたしは彼女を軽蔑している。自尊心の高い彼女がそれに気づかないはずもない。わたしは西さんを嫌っていて、西さんもわたしを嫌っているのに、お互い表面だけは取り繕ってぎりぎりの均衡を保っている。

「ああ、ちょっとくらい顔があたしより可愛いからってクールぶって、いつも一人でつまらなそうに気取っちゃって、バシッてひっぱたいてやりたい、男どもの目の前で下着おろして恥かかせてやりたい、って顔していっつもいっつも生理みたいに苛々してるよ。やっぱあの女は馬鹿だから怒り方も単純なんだよなあ」

 こちらに対して優位に立ったことを確信しているらしく、佐古くんは先ほどまでの歯切れ悪さが嘘のように喋りまくっている。

「だから、和泉はおまえなんかよりずっと素敵な女の子だ、って教えてあげたいんだよ。手紙の件もあの子が事前に警告してくれたんだぞって」

 ぐっと唇を噛みしめる。

 わたしは馬鹿だ。完全に見誤っていた。教室における弱者である彼のことを何となく、暗くて気弱だが裏を返せば無害な、悪く言えば愚鈍な人だと思っていたから、こうやって悪辣に足をすくわれることなどまるで警戒していなかった。

「人質を取って人間関係を強要するなんて、気持ち悪いとか虚しいとか思わないの」

 その言葉が引っかかったらしい佐古くんは、誰もいない方の虚空に向けていた視線をわたしがいる方の虚空に向け、「気持ち悪くない実のある関係ってどんなんだ?」と問いかけてくる。

「好き合ってる者同士がくっつくのが、普通なんだろうけど」

 と彼は続けた。わたしはそういった経験が皆無のため自分に即して考えることはできないが、確かに世間においてはそれが一般的な男女交際の形に違いない。

「でも、俺には無理なんだよ」

 無理? と反射的に訊き質すと、佐古くんは手で顔をあおいで一呼吸おいた。

「和泉さあ、誰かの恋人になりたいって思ったことある?」

 何も答えない。

「じゃ、それはどういう気持ちだと思う?」

 言葉に詰まった。ひとまず素直に話を合わせようとしたのだが、暑さであまり頭が働かず、すぐには返事をすることができない。彼は体にかかっていたタオルケットで額の汗をぬぐいながら、

「俺は、相手を誰よりも近い場所で見たい、そんで相手には自分だけを見てほしい、って欲望だと考えてる。人間は自分が持っていないものをパートナーに求める、って話聞いたことあるだろ?」

 さらにじっと黙っていると、部屋の時間が止まってしまった。どうやら答えを待たれている。佐古くんの言う話は聞いたことがなかったが、ここで否定すれば寄り道になってしまうと思い、わたしは首肯した。しかし、彼の話はそこからが長かった。

「俺、和泉のことずっと見てたんだ。好きなんだよ。和泉はすごい。自分で気づいてないかもしれないけど、人として上等だよ。こうしてリスクが及ぶことも省みず、あいつらの嫌がらせを邪魔するため自分の覚悟で動いたんだ。あこがれるよ。一日中地面に転がってて車にはねられたときだけ移動する轢死体みたいな生き方してる俺には絶対にまねできないことだ。

 俺はそういう自立した人間ってのにすごく魅力を感じる。一人でここへ来たってのもポイント高い。他の女だったら一人で来る勇気なんてなくて、絶対に誰かオマケをくっつけてきただろう。あいつら本当すぐ群れるもんな。小便すら複数人で行くもんな、孤立することに怯えてさ。親友だの彼氏だの、つまるところ自分の一部を他者に預けてそれを幸せと勘違いしてやがるんだな。気色悪い。恋愛に夢中になってる女なんて全然魅力的じゃねえ。だから俺としてはさ、和泉がそういう手合いに寄ってたかって攻撃されるところも見てみたいんだ。おまえはきっと誰にも相談しない。一人じゃ何も出来ない奴らに一人きりで立ち向かう姿はきっとものすごく美しいんだろうな。

 おまえは俺みたいな人間のことを歯牙にもかけてないだろう。俺が持っていて和泉が持っていない、なんてものたぶん一つもないし。だから付き合う価値がない、おまえは俺を必要としてない。だからこそ付き合いたいんだ。俺は本当に最悪の人間だからな。俺なんかを好きになるような人間はどうせ最低の、相当なバカか自分が優位に立ってなきゃ気が済まない女だろ。そんな奴をこっちも好きになれって方が無理だと思わないか? かといって俺に興味を持たない女には近づきたくても近づけない、でもなるべく近いところでそいつを眺めていたい、っていうこの板挟み。分かるか? ひどいものだよな」

 佐古くんはやっぱり照れくさそうに早口でまくし立てたあと、話を一段落させる合図として悩ましげにため息をついた。わたしは喋りの勢いに圧されて途中で口を挟むことができず、こうして投げられきったボールをどれから返していくべきなのかと頭が混乱する。何が『ひどいもの』なんだろう、とそれをぼーっと考えている。

「人間関係なんてのはさ、お互いがお互いを本気で必要としだしたらすぐに壊れてしまうと思うんだ。俺がおまえを求めて、おまえは仕方なしに一緒にいる、そのくらいが歪みも生まれずちょうどいいんだよ、きっと。だから」

 わたしは白い風景を幻視していた。ベッドの上で半身を起こしたまま理解不能な内容を朗々と語る彼はまるで患者、わたしは脇でそれを延々聞かされている看護師のようだった。ここは病室である。

「あらためて言う。なってくれ」

 そう思って見ると、本棚で神経質に整列している本、締め切られた窓までもがとてつもなく気味の悪いものに感じられてくる。わたしの沈黙は拒絶の意思表示として受け取られたらしく、そうか、と呟いて彼は頭をかいた。

「さっきも言ったけど、俺はそれでも構わない」

 先ほどの話を思い出す。細かい内容にはついていけなかったけれど、彼はわたしじゃない誰かの話をしている。わたしは強くなんかない。強ければこんなところまで来ることはなかった。

 ほんの少し平均よりも優れている容姿と空気を読む技術だけが、あの教室の中でかろうじてわたしの身を守ってくれていた。本来ならとっくに攻撃されていて然るべき人間なのだ。佐古くんの考えているとおり、そのきっかけを彼は作ることが出来る。

「彼女ったって、仲良くしてくれって言うんじゃないぞ。むしろ親しくされちゃ困る。俺のしたいことに付き合ってもらって、あとは他に恋人を作らなければそれでいい。俺は和泉の味方じゃなく、誰よりも近い敵になりたいんだ」

 扇風機があきれたように首を振り続けている。熱気のこもった静かな部屋で、人工の風がわたしたちを交互に冷やしている。そして、首がゆっくりと三往復するほどの時間が過ぎた。

 その沈黙が今度は肯定の意味に取られたようで、佐古くんの目が細められる。彼の要求してくることは何だろう。嫌な想像ばかりが頭をよぎった。けれども彼の口ぶりからしたら、わたしを過剰に傷つけるようなことはしないかもしれない。

「じゃあ」

 そうやって、良心など期待できるはずもない相手にそれを期待して、とりあえずは様子を見ようなどと考えていたのが間違いだった。

「一度やってみたかったんだ。眼窩姦」

 次の瞬間、佐古くんの両手がわたしの顔を捕まえていた。そのとき初めて彼とわたしの目が合った。ひっ、と悲鳴が漏れ、反射的に身をよじってそこから抜け出す。

「がん、かかん、て何」

 おそるおそる尋ねると、彼はおもむろにベッドから立ち上がる。

「眼球の眼に和姦の姦。窩は、帰って辞書ひいてくれ。とにかくだな、目めがけてSEXするって意味だ。眼球の入ってる穴に性器の代わりをさせる」

 正気じゃない。交際したての男女の初めてのスキンシップとしてはあまりにもゴアすぎる。およそ理解は及ばないまま危険だけを感じ取った。だが彼の目は本気だ。今度はこちらが視線を逸らし、無意識のうちに右目を庇いながら後ずさりする。

 しかし驚くほど機敏な動きで回り込まれ、部屋の入り口を阻まれてしまった。わたしは自然とベッドの方に追いつめられていく。半身を横たえていたときには分からなかったが、佐古くんの体は大きい。それでも男子の中では小柄な方だと思うけれど、しっかり男の体格をしていて、恐怖で足が竦んだ。

 そして再び意識を侵し始める、この部屋の全身に染みついて離れないような目にしみる生臭さ。あれの匂いだなんて単純な話ではなかった。もしかすると、彼の領域に踏み込んでしまったことを警告する瘴気のようなものだったのかもしれない。

「なんで嫌がるんだ」

「目はまだ使う予定があるから」

「心配いらない。片目だけだし、やるのは初めてだけどコツは予習してある。こう、眼窩の奥にある子宮をノックするようなイメージでやれば上手く行くらしいんだ」

 佐古くんは手で鉤のような形を作り、そこに握り拳をゴツゴツと当てるジェスチャーをした。

「最初はまあちょっとは痛いかもしれない、でもそれは本来の性行為も同じだろ? 網膜とはよく言ったもんだ。膜を破損させなければ挿入できないんだ」

 そもそも眼球はイクラみたいに潰せるものじゃないだろう。

「ねえ、自分で自分が何言ってるか分かってる? さっきから」

「大丈夫。おまえの気持ちいいところも探りながら、すこーしずつ丁寧に動かしてやる」

 眼底に性感帯があってたまるか。もしかすると佐古くんには、わたしの両目がすでに性器に見えてしまっているのだろうか? 腰が抜けて立ち上がることもかなわない。もう、逃げられないんじゃないか。そんな思いが頭をよぎる。

 きっとこれは罰なのだ。わたしは自分のために彼を利用した。ただ嫌いな人間のやることを邪魔したかっただけで、佐古くんを救いたかったわけじゃない。憎い相手の持ち物にこっそり傷をつけて気分を晴らそうとしたに過ぎない。それに彼を巻き込んだ報いだ。甘んじて受け入れよう。

 などと思って諦めをつけられるほどおめでたい人間でもない。これは難しく考えすぎている。現状を冷静に見てみれば、わたしは病人を見舞いにきてなぜか目をえぐれそうになっている、それだけだ。

 頭がくらくらしてくる。

「ねえ、佐古くんは結局わたしの体で、せ、性欲を満たしたいんでしょ? それがどうして目じゃなきゃいけないの? 普通に、その、ええと、一般的な行為、じゃだめなの?」

 あちらは何のためらいもないようだけれど、わたしは今さらながら男の子の前で性的なことに言及するのが恥ずかしい。もちろん死んでも彼に体を貸す気などなかったが、ここはなんとか会話を続けておかなくてはと思った。

 佐古くんはいきなり声を荒げる。

「バカか! そんなことして万が一にでも愛情が芽生えたらどうするんだ!」

 身振りが大きくなり、彼はこちらの顔めがけて汗を飛び散らせる。塩っ気のあるそれがちょうど目に入り、とてもしみたので思わずわたしは片目をつむった。

「雪山で遭難した男女が体を温めあう必要に駆られ、裸で抱き合っただけで親密になって結婚まで行ったという事例もある。素肌での密着は長時間続けていたら愛が発生するかもしれない非常に危険な行為なんだ。ましてや快感が伴えばなおさらだろう。さっきも言ったが和泉には俺を疎んじていてもらわなきゃいけない」

 鼻を鳴らし、滔々と弁じ立てる。

「だから眼窩なんだ! ちゃんと挿入行為の代替になりうるし、それでいてお互いの肌がほとんど触れ合わずに済む。男性器で目を突かれてときめく女はいまい。たぶん人類で最初にこれを行った男もこんなふうに、愛が発生してはいけない状況下で相手との繋がりを求めた結果こんな行為に辿り着いたんだろ」

 そんなはずがないのに、あきらかに異常なのに、やはり呆気にとられて口が挟めない。この状況でまともに会話を続けようとしても無駄だ。

「分かった」

 何にせよ今の距離のままいては捕まってしまう。

 ふと傍らに置かれているものに気づく。ここへ来るまで身につけていた通学鞄だ。本当ならこれを抱えてさっさと逃げてしまいたいが、やることがまだ残っている。わたしは覚悟を決めて、

「する前に、目薬。差していいかな」

 と尋ねた。佐古くんはパジャマの下にかけていた手を止めた。そして、なるほど、と勝手に何かに感心しはじめる。

「潤滑油があるなら話は早い。今ちょうど前戯について考えてたとこだったんだよ。やっぱ充分に濡れてないと痛いだろうし。人間がな、性的興奮を覚えると目がぬめってくる体に進化できればいいんだけどな」

 何がいいんだ、と反駁しそうになったが思いとどまる。彼の指がわたしの肌を這い回るところを想像すると鳥肌が立った。

「そういや深海ってさ、真っ暗な海の底でものを見ることをあきらめて、眼球が退化して消えちゃった魚が結構いるらしいんだよ。でも空っぽの眼窩だけは残ってる。それ見たらオスは考えるんじゃないか? これは何の穴だろうって。精子を守る穴かも、と思って放精するやつがいてもおかしくない気がする」

 だとしたら魚バカすぎるだろ、と思いながらとにかく鞄に手を突っ込んで目的のものを探す。視線は彼から外さないまま手探りだ。

「チョウチンアンコウのオスの習性、知ってるか? ある時期からメスの体に寄生して、そのうち精子を出して死ぬ。寄生状態に入ってからは目もだんだん見えなくなる。自分の力で生きないから目が必要ないんだな」

 そこで話は途切れ、一瞬の静寂がおとずれる。

 彼はわたしを買いかぶり、そのうえ見くびっている。というより、自身を過大評価していると言った方が正しいか。わたしが全く自分の思うままに動いてくれるなどと考えていたのだから。

「病人だからって」

 鞄から制汗スプレーを取り出し、

「優しく、してもらえると、思うなよ!」

 素早く立ち上がりつつ、佐古くんの顔めがけて噴射する。

 彼は野太い悲鳴をあげてその場にくず折れた。本来もちろん顔に向けてゼロ距離で撃ってはいけない代物だ。ハードな涼感成分によって皮膚を灼かれるような痛みが走っていることだろう。目が開けられなくなったらしく、ぼろぼろと涙を流している。

「動かないで。そのまま聞いて」

 妙な動きをしたら撃つ、とスプレーを顔面に突きつけた。

「自分を高める努力を放棄して、相手に一方的に関係を強いるなんて最低の逃げ道。分かってるだろうけど」

 わたし自身も品性のない人間だ。どんなに最低でも、それができるのならば、しても構わないと考えてしまう。だが当然思いどおりにとはいかせない。

「ねえ、佐古くんはわたしのこと、好きなんだよね」

 彼は目周りを真っ赤にして、こちらを見上げた。

 孤立に矜持なんてない。群れを憎んでなどいない。わたしがあの教室に一人でいるのは、ただ自分のことだけで精一杯で、他人の都合まで考えている余裕がないからだ。人を信用したくてもできないのだ。

「わたしは佐古くんを嫌いだから、敵になってあげる理由はないけど」

 あの教室で起こること全てに苛々する。誰かと本気で友人関係を結ぶなんて器用な真似はできない。けれど味方は欲しかった。

「佐古くんはわたしを好きなんだから、味方になってくれるよね」

 言いながら照れとわざとらしさで笑いそうになってしまう。好意なんて不確かなもの信用できるか。

「わたしは西さんが嫌い。でも、いじめが憎いわけじゃない。ただやり方の幼稚さに吐き気がする。わたしならもっと効率的に人を傷つける方法をいくらでも思いつける」

「和泉、おまえ……」

「いっそ指南してあげようか、なんて考えたりもする。このままああいうことが続くならいつか耐えきれなくなる。そうしたら本当に敵同士だね」

 教室での立場が危ういのはいじめに加担していないからでもある。彼が悪意を利用してわたしを陥れようとするなら、それより早く加害者側に回ってしまえばいい。

「でもそんなことはしたくない。佐古くんだってこれ以上、攻撃されたくないでしょ。だから」

 感謝しなくては。自分のために人を利用する、そのために使えるものは使う、人の気持ちや立場を人質に取る。まるっきり彼が教えてくれたやり方だ。スプレーを下ろして促すと、佐古くんは得心したようによろよろと立ち上がる。わたしは彼の目をまっすぐに見つめて、

「あの女を破滅させる方法、二人で考えよう」

 もう彼も視線を逸らそうとはしなかった。頷いて、同盟の証としてか握手を求めてくる。わたしは制服のポケットからまだ乾ききっていないウェットティッシュを取り出し、それを間に挟むようにしてその手を握った。

 そのとき、部屋のドアを開けて再びおばさんが入ってきた。こちらを見るなり、あらあら、と笑った。ティッシュ越しに握手するわたし達の関係をどう解釈したんだろう。彼女はお茶菓子を置き、グラスを下げてすぐに出て行った。

「そういえば、あのお母さんが右目に眼帯つけてるのって」

「ああ。練習してたとき急に部屋に入ってきたから、当たった」

 こんな息子を持ってしまったあの母親が可哀想でならない。

「それより、破滅させるってどうやるんだ」

「それをこれから考えるんでしょ」

 許可を得ずに窓を開けた。風は吹き込まない。

 たかが二人が徒党を組んだところで彼女らに立ち向かえるのか、と佐古くんは不安になっているようだ。しかし、わたしは全く負ける気がしていない。こちらには自動で人の目をえぐり取ろうとする最強の飛び道具がある。

 いや、西さんだけじゃない。何もかもに苛々していたんだ。寄り集まって生きる人間どもに自分の目はいらない。いっそ教室のやつら全員、必要のない目ん玉を根こそぎほじくり返してやる。

「おまえ今、恐ろしい顔してるぞ」

 暑さのせいか一人で妄想を激化させていくわたしを見守る彼は、何だか病人を哀れむ看護師のような表情をしていた。今さら常識人づらするな。


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