貝塚荒らし
美しい幾何学模様の青い絨毯の敷き詰められた一室。50平米程の広さのその部屋に置かれた白木造りの丸テーブルを三人の男女が囲んでいた。小さめのバルコニーへと続く大きな窓を背にシュウ。その左手側にペルネッテ、右手側にイラが座る。テーブルの上にはパンやサラダなどの如何にも朝食といったメニューが並べられていた。ウァルヘイヤ宮内にペルネッテ個人が持っている部屋に一つで、食事やお茶の時間に使われているダイニングに当たる場所だ。シュウは婚約者であるが故、皇女であるペルネッテと食事の席を共にする事は端から見ても認められるだろう。しかし、イラは立場上はただの女中である。王族と席を共にする事が許容される事はまずない。だが、そこはペルネッテの意向というか我儘を通している。イラ自身は遠慮したのだが、「将来的には姉妹なんですから」とペルネッテが押した事もあり大人しく席に収まっていた。料理は、宮廷の料理人が仕上げたもので、それを運んでもらっている形だ。ペルネッテも淑女の嗜みと称して料理は得意なのだが、それでは給仕達の仕事がなくなってしまうため、自粛している。
「今日はベーグルの生地を変えてみたそうです。先程給仕の方から聞きました」
「あらそうなんですか?」
「ほう」
イラの発言に、三人の視線が食卓の真ん中に詰まれているパンに集まる。すかさずイラが木製のブレッドトングを手にペルネッテ、シュウへと小皿に乗せて渡す。すっかりメイドの精神が染み付いているのか、行動が早い。
「ありがとうイラちゃん。ん、良い香りですね」
先に受け取ったペルネッテが両手でベーグルの香りを堪能しながら微笑んだ。シュウもまた受け取り、片手で表裏とまじまじと見るが、取り敢えずと一口囓る。習うように、ペルネッテ、イラも囓る。昔、貴族や王族の食事には毒見役が付き添い、その身を守っていたというが、大分前にその文化も廃れている。今は最初から呪術が仕込まれた皿を使い、食材の中に霊気が混じっていないか、何かの術式が紛れ込んでいないかをすぐに見抜けるようになっているからである。また王族は霊呪術の類を必ず教養と護身の一つの手として学ぶ為、その過程で解析の術くらいと多少なり霊覚も使える。ましてや、この場には参謀長たるシュウも居るため、そんな部外者は必要ないのだ。
「いつもよりしっとりしている気がします」
「そうですねぇ、こちらも良い物です」
「しかし柔らか過ぎるな。日持ちはしなさそうだ」
イラとペルネッテがそれぞれベーグルの食感など直接的な評価を下すのに対し、シュウの評価はどうにも実用性に向くらしい。軍属という職業病だろう。イラは呆れたようにジト目でシュウを見、ペルネッテは何故かニコニコと眺めていた。二人の視線に気づいたシュウが怪訝に思い眉を顰める。
「……なんだ」
「お城の料理にそんなこと考える人が居ますか。全く」
「シュウ君は真面目さんだなぁ、と思いまして」
溜息でも聞こえてきそうな声で言いながら、イラは自分のベーグルにクリームチーズを塗り始める。ペルネッテも習うように自分の手元のチーズをベーグルに乗せ始めた。そんな女性陣を横目に、シュウはテーブルの上を見回す。彼の手元にもクリームチーズはあるのだが、それではない。ひと通り見回して目的のものがないことに少し不満顔をしながら、彼はイラの方を向いた。
「おいイラ。ソースがないぞ。中濃ソース」
「……………………またですか」
たっぷりの間を持って、イラがそう返答する。ペルネッテもベーグルをかじりながら苦笑いを浮かべていた。テーブルの上にウスターソースをつけるような揚げ物は乗ってはいない。唐揚げやコロッケなどあればそのソースを要求するシュウの意見も素直に通りそうなものだが、如何せん今は朝食である。ベーグル、ポテトサラダ、フルーツの盛り合わせにボイルウインナーなど。ギリギリで許容出来てウインナーだろうが、今日のものは香草をねりこんであるものなので、そのまま食べるのが良いだろう。一体何にかけるのか、と万人が思うであろう事であるが、シュウにとってみれば違うのだ。
「当たり前だろ。パンにはソースだ」
ひらひらと、食べかけのベーグルを上げてみせる。仮にも王族の居る食卓の場で、行儀の悪い行為には違いないが、堅苦しいのを好む人間がこの場に居るわけでも、公式の場でもないので、誰も気にしない。はあ、とイラはこれみよがしに溜息を吐く。
「……ありませんよ。ウスターソースなんて」
「なん……だと……」
台詞に、シュウの表情が固まった。微かな絶望も覗かせるような大げさな反応に、イラはもそもそと自分の食事を進め始める。数秒間固まっていたシュウだったが、その視界に白い手とそれに掴まれた焦茶色の瓶が差し込んだ。
「はい、どうぞ」
声を追いその手を見れば笑顔のペルネッテが、席から少し身を乗り出して、瓶をシュウに差し出している。イラがまた溜息を吐いた。
「ペルネ様……またそうやって兄さんを甘やかして」
「まあまあ。使いすぎなければソースも体に良いものですから」
小言を言うイラをペルネッテがそう宥める。朝食のパンにまでつけるのは十分に使いすぎに入るのでは、とイラは思うが言わなかった。
「そうだイラ。一日一本のソースは医者を遠ざけるって言うだろうが。ありがとうなペルネ」
「はいはい」
「いえいえ。これも妻となる者の務めですよ」
聞き流すようなイラへ対応も、聖母のように笑うペルネッテへの礼もそこそこに、シュウは一旦ベーグルを小皿に置き、小さなスプーンを一本持った。それで塗るつもりかと思いきやそうではなく、ベーグルの乗った皿を脇に寄せ、ペルネッテから受け取ったソース瓶と対峙している。鋭い目つきは何かを見極めるように瓶の外側を見回し内側を見通す。イラはもう飽きたようでベーグルを齧りながら時折横目で様子を伺う程度に収めていた。ペルネッテは何故かシュウに付き合って、穏やかな笑みを浮かべながら彼の様子を眺めている。ふと上がったシュウとペルネッテの視線が交差し、彼女は「どうぞ」とでも促すように再度微笑んだ。それに許可を得たように、シュウの手が動く。
流れるような動きで瓶の首を左手の中指と薬指をかけるようにして掌で抑える。それと共に自由である親指と人差指で金属のキャップを掴み一息に開け切ると、少しだけ傾けて右手に持っていたスプーンへ注いだ。芳醇な香りが立ち、オニキスのような黒茶色の粘性のある液体がスプーンを満たす、と同じくして左手の指が瓶の蓋を閉めた。一連の動作に乱れも遅れも急ぎもなく、この間、一秒に満たず。
「いや、なんで無駄にスタイリッシュなんですか、っていうかなんでパンに塗ってないんですか」
「まずはテイスティングだ。当たり前だろ」
思わずツッコミを入れたイラに彼の中での正論だけを返答しつつも、シュウはスプーンの上のソースから視線を外さない。口にふくむよりも先に、香りと色を楽しむのだ。これがワインか何かであれば真剣さも相まって格好良く映るのだろうが、如何せん中濃ソースである。調味料である。一流の料理人であれば様になるだろう姿だが、シュウは料理は出来ても拘る程ではない。こだわりがあるのはソースだけである。十分に香りと色を確かめたか、シュウは丁寧にソースを口の中に流し込んだ。見ているだけで喉が乾きそうで、イラは予め注いでいたミルクを飲み干す。そんな様子を気にもとめず、シュウはソースを味わい、やがて飲み込んだ。
「香り高いが、塩味は抑えめで口当たりは柔らかい。それでいてしっかりと感じられる、野菜と果実の甘みに包まれた中のスパイスの刺激。朝食にはぴったりだな」
「それは良かったですわ」
シュウの実に真面目な賛美にペルネッテが今日一番の微笑みを返す。イラはまだ呆れたような半目で見ていたが、ソース一つで中々滑稽な気がして、口元が緩んでいた。
意気揚々とシュウがベーグルにお待ちかねのソースを塗り始める。一見はいつもの仏頂面なのでわかりづらいが、妹と幼馴染兼婚約者からすれば、微かにテンポの良い所作くらいはお見通しである。だが、そんな朝の穏やかな一幕は無粋なノック音に遮られる事となった。
こんこんと穏やかなものならまだしも、半ば殴るように重く響くノック音に、驚いたペルネッテの肩が跳ねる。扉の方を見向きもせず、舌打ちを挟んでからシュウは壁の向こうにも聞こえるよう声を張り上げた。
「ケイゼン。朝の時間は余程の有事でなければ任せるようにしておいた筈だが?」
見えるはずもなく一言も発していない扉の向こうの相手の名を言い当てる。動揺の様子もなく、参謀部ケイゼンは返答した。
「重々承知しております。しかしながら、火急の事態です」
扉を挟みくぐもった声が告げる言葉が一瞬にして、朝食の和やかな雰囲気を一変させる。窓から差し込む陽光ですら色褪せたように。少し重く、シュウは舌打ちをして立ち上がった。いつの間に席を立っていたのか、部屋の片隅のツリーハンガーにかけてあったシュウの上着をイラが取ってきている。ベーグルを口に咥え、上着を着せてもらう。袖を通しながら器用に口だけで咥えたベーグルを口の中に押しこむ、とペルネッテがミルクの入ったコップを渡した。受け取り、飲み込む。
「……行ってくる」
正直、面倒という雰囲気を隠しもせずにシュウはそう言い、出口の扉へ足早に向かった。
「いってらっしゃいませ」
「あの……シュウ君、今日は」
背中に届くイラの掛け声に続いたペルネッテの少し縋るような声音に、シュウは扉に手をかけつつ、首だけ振り向いて答える。
「会食だろ。いつもの時間には戻るさ」
前述の通り、基本的にペルネッテたちは食事の用意を自粛している。しかし、いつも城の給仕に頼りきるのも妻としては物足りないと、ペルネッテが無理を言って月に一度、彼女ら自身が料理を振る舞う日がある。それを会食と呼び、ペルネッテやイラ、エルリーンの妻のガランシェなどが集って開くのだ。ペルネッテとしては、シュウに手料理を振る舞う事の出来る稀有な機会である為、一月かけて色々と考えを巡らせたりしており、楽しみにしていた。それ故の問である事は、シュウには言われずともわかる事だった。
「今日は……ロールキャベツにしようかと思ってます。お腹、空かしてきてくださいね」
「ああ。楽しみにしてる」
笑顔での見送りを受け、シュウは足早に部屋を出て行った。
残されたペルネッテとイラが席に戻る。三人用の食卓に二人だけは、少し侘しさが付き纏っていた。
「シュウ君もすっかり忙しくなってしまって……少し寂しく思います」
独り言とも思える憂いた台詞に、イラはシュウが開けっ放しにして出て行ってしまったソース瓶の蓋を締めつつ言う。
「だから、このソースわざわざお作りになられたんですか?」
持っていたハンカチで瓶を丁寧に拭いてから、ペルネッテの前に置いた。イラの言葉に軽くうなずきながらペルネッテは答える。
「夫の好物くらい、好みに合わせて作れてこその妻ですわ」
「……いや、ウスターソース作る奥方も早々居ないのではと思いますが」
言いながら、イラはジッと茶色の瓶を見つめた。兄と違い、自分はソース狂ではないが嫌いではない。一応ここロロハルロントの特産品でもあり、それを愛する兄の気持ちもわからなくはない。瓶を見た時から、それが市販されているウスターソースの入れ物ではない事はわかっていた。彼女の記憶が正しければ、その瓶は栄養ドリンクかなにかのものだった筈だ。皇女の手作りの、調味料。興味がないと言えば、嘘になる。そんなイラの視線に気付き、ペルネッテは言った。
「イラちゃんも使ってみてくださいな。自分しか味見していないものですから、少し評価が不安なんです」
もう目的の人からの賛辞はもらったというのに、それで満足した様子を見せないのは、向上心か不安心か。それ以上に自分の好奇心を見透かされているような気がして、イラは少し頬を赤く染めた。
「……それでは、失礼ながら少しだけ」
なんとなく悪い気がしながらも、イラは少しだけサラダにつけて食べることにした。因みに、非常に味覚に合致してペルネッテにレシピを聞いたのは余談である。
「ふん。成る程な。要は鉄砲玉か」
高い天井に綺羅びやかな装飾のなされた壁、深さを感じさせる蒼いカーペットの敷かれた広い廊下を、早足で闊歩しながらシュウはケイゼンから話を聞き、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
何でも、シュウらが居るこのウァルヘイヤ宮の正門より数十人の暴徒と化した集団が、剣や斧などを手に強襲に来たのだという。たかだか数十人で何をしにきたというのか、甚だ疑問ではあるが、思い当たる節がないでもない。ないことはないのだが、そんな仕様もない事で朝食の一時を潰されたシュウの怒りは推して知るべしか。他に廊下を行く女中や高官などが一瞬見ては目を逸らす程の形相で歩む中、ケイゼンが周囲の様子と背中からも十二分に伝わる怒気に苦言を呈する。
「参謀長。お怒りはごもっともですが、あなたが手を下しては今後に障りますよ」
「そんなもの、誰にも気づかれなければいいのだろう?」
しかしお小言も焼け石に水と言った具合か、ばっさりと切り捨てられててしまい、ケイゼンは額を抑える、とふとシュウの歩みが止まった。何かと手を外し顔を上げたケイゼンの目に、一人の男が写る。
「おはようございます、陛下」
先程までの怒気を撒き散らすような声とは打って変わって、実に沈着冷静な挨拶をしながら、深々と頭を下げるシュウに習い、ケイゼンもまた頭を下げた。
「ああ」
短く挨拶へと応答する空気を震わすようなバリトンの男の声から、底にある力強さを伺わせるようなその男。蒼穹の空を思わせる豪奢な衣装と重厚なマントを身につけ、少ししらがの混じった青い頭髪に白銀の王冠を身につけた壮年の男性。体格は重層の衣装も相まって大柄に見え、手にはサファイアの巨玉をあしらった杖を持っている。ロロハルロント王。無二の威圧感と威厳を放つ眼光がシュウの姿を捉えた。
「シュウよ……どうやら賊が来ているようだが」
「承知しております。これより早急に排除及び後始末を行います」
暴徒が現れた事は既に王の耳に入っていたらしい。王宮全体には静音や緩衝の呪術が仕組まれており、それを切らなければ内部に外の喧騒が伝わる事はない。とはいえ、襲撃者の情報などすぐに知れる事には違いないが、シュウとしては事後報告のみに抑えたかったのが本音である。余計に急ぎたくなったが、王の手前勝手に立ち去るわけにもいかない。
「それで良い。片付け次第私の下へ来い。話がある」
だが王自身そのくらいの事は察しているのか、それだけ言ってシュウの横を通り過ぎた。シュウは了承の返事だけをして先程よりも足早にその場を立ち去り正門へと急いだ。
王宮の出口に近づくにつれ、人の数が多くなっていった。何も知らなくとも、何かあったのは丸分かりである。歩きづらくなるのを嫌がったシュウだが、王宮の中に参謀長の彼の路を譲らない者はまず居ない。騎士や女中らは自ずからシュウの存在に気付き路を開けていった。開かれた場所を堂々と突き進み巨大な石と鉄で造られた正門をくぐる。午前の陽光に目を眩まされながらも、薄目開けた視界に、シュウはウァルヘイヤ宮が誇る大前庭に四人の男と一つの山を確認した。
「おっ、やっときたかよ陰謀長。俺様待ちくたびれちまったぜ」
うず高く積まれた男たちの頂上に座る金髪の男。軍団長エルリーン=ラインブルーが、シュウとケイゼンを見下ろしながらそう言った。
「エルリーンさん、そいつは酷ってもんですよ。俺ら四人にかかればこのくらい瞬殺っすから!」
人の山の下にかかとをつけた蹲踞をし、エルリーンを見上げながらしたり顔をする青年。エルリーンの一番弟子タウロス。
「……これだから嫌なんだ。街は危険がいっぱいだ」
その横に立ち、ぶつぶつとよく聞き取れない声で不平を言う背が高く細い青年。上はエルリーンやタウロスの来ているものと同じ黒の体にフィットするつくりのシャツで、腕に撒く包帯は浅葱色で細身の紺色の半ズボンを身につけている、二番弟子ジェディ。
「こんな貧弱な奴らじゃ準備運動にもなりゃしねぇ」
ジェディとはタウロスを挟んで反対側に立つ、大きく厚い岩のような肉体を持つ男。腕に巻いた帯は砂色。濁声がさらにその人物を大きく見せるだろう。名はガレイシー。
軍団長エルリーンを筆頭に、古流空拳術の達人により構成された三人衆。軍団長自ら率いる空拳術部隊の三強者である。どうやら、暴徒は彼らが鎮めたらしい事は、状況をみれば明白であった。八つ当たりの相手が居なくなったと嘆息するシュウを差し置き、ケイゼンが一歩前に出た。
「お言葉ですが、軍団長。陰謀長ではなく参謀長ですよ。名称ぐらいきちんと覚えて頂きたい」
右手の薬指で眼鏡を押し上げながら、ケイゼンがそう物申す。エルリーンに先んじて、タウロスが大きく舌打ちをし、ズボンのポケットに両手を突っ込みながら、下から睨めつけるようにしてケイゼンの直近まで近づいた。
「んだてめぇ。エルリーンさんになんか文句があるってのか?」
「ロロハルロント帝国軍、古流空拳術部隊副隊長タウロス。同じ国の為に戦っている者の名前程度、覚えているのが常識と考えたまでです。今のあなたのように、不用意な諍いを避ける意味合いでも、ね」
タウロスの睨み上げる視線とケイゼンの見下す視線が火花を散らす。直情的なタウロスと理性的なケイゼンはまさに水と油であり、こうして衝突する事がよくある。と、火花散らす視線の片方、タウロスの方が青い帯を巻いた手に抑えられ下げられた。
「タウロス、いちいち相手にするんじゃない。最近、陰謀屋は暇で持て余してんだ」
いつの間に降りたのか、エルリーンの声がタウロスの頭上から降る。敬愛する師匠直々の言葉故か、タウロスは「うす」と一言了承の意を示して素直に下がった。ケイゼンもまた儀礼的に一礼をして下がり、代わりにシュウが前へと出てエルリーンに応対する。
「被害報告を聞こう」
「あぁん? 誰に向かって言ってんだ? 俺様があんなチンピラどもから被害なんざ受けるわけないだろ」
事務連絡的にメモ帳とペンを取り出しながら聞くシュウだったが、エルリーンの不遜な対応に溜息を吐いた。
「お前らは別に心配していない。周囲の、被害報告だ」
説明するのも億劫で苛立たしいと言うように、シュウの声は抑えられながらも棘のあるもので、少し大仰にペンを持つ右手を辺りを指すように振る。広い前庭の敷地は生垣や花壇などで幾何学式庭園が形成され、自然美と人工美を人々に見せつける。のが普段であるのだが、今やその前庭の玉木は根こそぎ吹き飛ばされたり、生垣が貫通していたり、花壇が粉砕されていたりした。無論、古流空拳術部隊四人が数十人の暴徒相手に大立ち回りをした所為である。シュウが聞いたのはそっちの方の被害である。ようやくそれがわかったのか、エルリーンもまた後頭部を描きながら辺りを見回した。
「あー……わからねぇ」
ざっと見ても壊れている箇所は多数だ。敷き詰められていた石版も所々壊れており、もしかしたら基礎の方まで抉れている可能性もある大穴も一つ二つある。戦闘での人的物的被害の計上は参謀部の管轄でもあり、集約して議会の方へ通さなくてはならないのだ。実際に戦闘する軍部の方で報告を出してくれれば楽だ、と常々、それこそ三役会議ではよく言っているのだが、エルリーンは一向に対応する姿勢を見せないのはいつもの事ではある。
「自分らの戦いの全容も把握出来ないのか。もういい、さっさと戻れ。後はうちでどうにかする」
「はっ。こういう後始末はお前らが似合いだよ。お前ら! 行くぞ」
お互いに罵り合いながら、擦れ違う。端から見れば実に仲の悪い事ではあるが、知っている人から見ればいつものじゃれあいのようなものだ。ミッツァ辺りが居たら恐らく笑い転げているか茶々を入れているだろうが、幸い不在である。
シュウはざっと辺りを見回し、あれこれとメモしていく。ケイゼンと二手に分かれ、彼もまた同じ作業をしていく。エルリーンに被害報告をと迫ったのだが、実際のところ人員に怪我がなく、またこの前庭という多少広くとも限られてた場所ならばそう時間はかからない。むしろ人ばかり多くても邪魔になる。早急に、シュウは仕事を片づけメモ帳をケイゼンへ預ける事にした。
――謁見の間。ウァルヘイヤ宮の正門より大広間を突っ切り、祭壇の如き長く大きな階段を登りいけば、見あげれば首が痛くなる程の高さと、とても人力で開けられるような大きには見えぬ幅を持った両開きの扉に当たる。事実、扉の重さは大の男が十人がかりでようやく開けられる程なのだが、王族や国の重役にその身を置いているものに限り、王が扉にその人物を認証させ、自由に開ける事が出来るようになっている。
参謀長シュウも、その認証を受けている一人だ。扉と同じく異様に高い天井と、扉の幅の二倍半はあろうかという広さ。奥行きは辛うじて反対側に人が居るのを認識出来る程度だ。その奥に据えられたるは、三段の祭壇と唯一つだけの巨大な玉座。世界の一、二を誇る国力を持つ大国ロロハルロントの支配者にふさわしき、豪奢で絢爛とした大空のようでも深海のようでもあるこの世に一つの席。そこに、現ロロハルロント王、テルムデイム=ロロハルロント=ラピスは座していた。
今は祭壇の下で、シュウが膝を着き、先程の騒動の顛末の報告を終えたところだ。王は終始眉の一つも動かさず報告を受け取っており、ひと通りの話を終えてすぐには返事をせず、目をつむり何かを考えている。その間シュウは身動ぎもせずひざを 付いた体勢のまま頭を下げていた。王は先程彼に、話があるとして呼びつけていた。それが何かであるかは、既に検討が付いている。やがて王は頬杖を解き、肘掛けに両腕を乗せ、言った。
「その賊の出処は、まあ掴んでいるだろう。潰してこい」
冷淡に言い渡される過激な言葉に、シュウはなんら感慨を抱かなかった。物心つく前から見知っている相手だ。そう言い渡されるのは想定内、というよりはわかりきった事である。顔を上げ、シュウは返答した。
「ええ、陛下。もう手はずは整えております。そろそろ、暗部の精鋭が潜り込んでいる頃でしょう」
シュウの言葉に王は、ほうと関心したような声を上げる。
「相変わらず仕事が早いなシュウ。それでいい……例の計画やらの関連か?」
問に、シュウは首肯し言葉を続ける。
「はい。付きましては、これより私も現地に赴く所存です」
「暗部の長が直接動くか……」
ロロハルロント国軍参謀長シュウ=ラピス=オニキオスにはこの国におけるもう一つの顔がある。それが、暗部。その存在は国の重役に限っても“ある”という事実しか知らされぬ存在だ。誰が所属し、誰が長を務めているのか、知っているのはその時の王か本人と暗部に属する者のみ。自国内のみならず他国の方々に存在し情報の収集に当たっており、有事の際には情報操作や暗殺までを行うのだ。その長を、シュウは参謀長と共に兼任している。元々情報を集めやすい参謀部が暗部に関与するのは都合がよく、当代の暗部はその殆どが参謀部関連の役職についている者達だ。
だが、暗部を動かすのはそれ相応のリスクが伴う。ロロハルロントという国の情報に精通しているのは当たり前であり、敵国、敵対勢力からすれば目の上のたんこぶに違いないからである。それ故に、多少ならば長の判断で問題ないが、今回のように敵対勢力を叩く時など、大規模に発展する可能性がある場合は王の承認が必要なのである。すぐに王は言葉を返した。
「よかろう。許可する」
「はっ。ありがとうございます。では、早速私も現地に赴きます故、失礼させていただきます」
許可を受け、シュウは立ち上がった。今回は暗部の中でも最精鋭の数人だけで行く心積りである。何せ、場所がこのウァルヘイヤ宮のある首都ポーター・ラント内だからだ。大勢を投入すれば騒ぎになる可能性が高い。故に、シュウ自身が出ることにした。
王へ一礼をし、踵を返すシュウ。出口へ向け一歩を踏み出そうとしたところで、王より言葉がかけられた。
「シュウ。貴公には期待している。参謀長として、暗部の長として、ペルネの夫となる男としてな」
はい。と顔だけを向け、シュウは答えて扉へと歩みを進める。その口元には自信に満ちたような笑みが浮かんでいた。
ポーター・ラント内北東地区。通称掃き捨て場区。世界有数の国力を誇るロロハルロントの首都であろうと、その全域が豊かで文化的な世界ではない。確かに、ポーター・ラントは優雅で麗美。知と力に溢れた場所だが、それだけではないのが世の常だ。だが、人々は美しい場所に汚物が混ざる事を基本的に赦さない。そうして当初は街の中にポツリポツリと存在していたであろう、俗に一般的と言われる人々から排斥された所謂汚れや塵が掃き溜められたのがここシェルモルド区である。区画化され路というものが几帳面に整備された碁盤の目状の他地区にくらべ、シェルモルド区は実に乱雑だ。背の高い建物など数える程度しかなく、道端に人が転がっている。道もレンガや石で舗装された他地区とは違い地べたが剥き出しで所々に雑草が散らかっている。転がる人々の身なりもボロ布を継ぎ合わせたようで、老人から子供まで、時折迷い込んできてしまう“普通”の人間に物乞いをするために道端に居るのだ。それが、シェルモルド区の入り口である。
その道を一人の男が歩いていた。身なりは他の十人動揺ボロボロの衣服にボサボサで無駄に伸びた髪だが、彼の歩きには他の者にはない生気とでも呼ぶようなものが存在していた。さらにそれを助長しているのが、端から見てもわかる怒気だ。
「ああくそがっ! なんなんだ一体!」
誰にともなく叫びながら、男は足元に転がっていた“ゴミ”を蹴り飛ばす。勢いの割にはそこまで飛ばないが、男の苛立ちは少しマシになったようだ。ふん、と鼻息を荒く鳴らし、ゴミを一瞥して狭く真っ直ぐでもない道をシェルモルドの奥目掛け歩いて行った。男が立ち去ると、彼に蹴り飛ばされ転がったボロ布の塊に周囲の物乞いが、先程まで死体のようであった雰囲気から一変、腐肉に集る蝿のように群がり、ボロ布を我先にと引きちぎり剥いでいく。どんなに汚い布一つでも、彼らにとっては必需品成り得るのだ。
そんな通り過ぎた場所の事など気にする筈もなく、男は何処かを目指してやや足早に歩いて行く。基本的に足元を、時折前方だけを見るその仕草から、男がこの場所に詳しい事を思わせる。はじめてくるならばまずこの腐敗した空気に怖気づくか戸惑い、また道を知らぬなら周囲を見回すだろうからだ。
男には、ここ数日の記憶が無かった。彼が“起きた”のは今日の午前。冷たく暗い牢獄の中に居た。それまでは、のどかに見えるだけの村に居た筈だったことまでは、覚えている。それが何故牢屋に、しかも首都、王宮の地下牢に居たのかわからない。目覚めてから男は衛兵に簡単な質問と身元確認だけをされてすぐに釈放された。なんでも、彼は今朝王宮の前庭で起きた騒ぎの場所に倒れていたらしく、暴徒の一人なのではないかと疑われたのだ。全く見に覚えのない事である。そもそも、衛兵から聞いた日付が記憶にあるのとは一週間以上違っていた。覚えがある筈もない。それも男をいらだたせる要因だが、もう一つある。それは、男が身元確認の際に、ここ北東地区の出だと伝えた時の衛兵の、何か汚物でも見てしまったかのような嫌疑の目だ。この掃き溜めの住人である以上、男は“外”の連中から自分達がどう見られているかを十二分に知っていた。そう、他地区の人間にとって、シェルモンドは憎むべき汚点なのだ。そんなわかりきった事実を改めて突きつけられた気がして、男にはそれが癪に障ったのだろう。その場では記憶違いとの混乱もあってか何も言わなかったものの、徐々に意識がはっきりとしてくる、体内の中のズレを世界の現在に合わせて納得させていくと共に、苛立ちが増してきていた。
男は、はあと先程までとは違い少し弱いが深い溜息を吐いた。苛立っていても仕方ない。目指している場所はあるが、当初の予定とは大分違ってしまった。今更遅れるも何もない。酒だ。酒が飲みたい。一旦酔ってしまって流してしまいたい。煙草と女でも居れば最高だ。そう思いながら、男はボロい靴の片方を脱ぎ、その中敷きをめくった。中には、しわくちゃになった紙幣が数枚入っている。いつ誰に襲われて物を盗られるかもしれない場所だ。もっとも大事な金の隠し場所は多種多様。ズタボロの格好に触れたくもなかったか、衛兵にもこれだけは取られなかったらしい。ほくそ笑みながら、男は現在地を確認するためにはじめて周囲を見回した。
いつの間にやら、周りに転がっている人影はなく、広い通りでもなく背は低くボロ臭い建物が並んでいる場所に男は居た。シェルモンド区の中心に近づいていると彼にはすぐわかる。この場所は外側から内側にかけて金の密度が濃い。とはいっても貧困区のこの中だけでの話だが、住人にとってそれは重要な意味を持つ。金とは即ち力だ。故にここでは弱者は排斥され、外側へと追いやられる。内側に入ってくるにはそれなりの力が居るのだ。そして、男は自分が今いる周辺程度は庭と呼べるくらいの力を持っていた。彼は頭の中にいくつかの店を思い浮かべる。貧困区とはいえ、店程度はある。他地区のそれとは比べ物にならないひどさだが、慣れ親しんだものである。頭の中に思い浮かべたいくつかの店の中から、わりかし酒の種類が豊富な覚えがあった地下バーを選び、その方向へと彼は歩みを変えた。一足で右側の道に折れ、先程より少し意気揚々と歩き出す。三つ程ボロ屋を過ぎて左手にある小さな狭い階段を下れば、その突き当りにある店だ。と、ちょうどその曲がり角のところに、一人の女が居る事に男は気づいた。
青みがかった艶やかなウェーブした長髪。首元から臍まで大きく開いた、扇情的なボディスーツに身を包んだ妖艶な美女。男性ならば目を見張らずにはいかない容姿、プロポーション。その男も例外には漏れなかった。意図せず立ち止まってしまった男の視界に、まるで滑りこむように女は近づく。
「あら辛気臭いお顔ね。それに、泥臭い格好。折角の男前が台無しよ?」
男の顎下にギリギリ触れぬように指を滑らせながら、女は顔を寄せた。わざとズタボロの格好をしている事を見ぬかれているわけだが、男は単純に誉められたとして顔がにやける。
「へへへ、すまねぇなぁみすぼらしい格好で。ちょっと仕事でよ」
「あら、素晴らしいわね。何処かのお偉方なのかしら。この地区でお仕事、なんて」
シェルモルド区は貧困区だ。何の産業も特筆すべき景観と言ったものも何もない。故に、そこに住む人々の仕事といえば、ろくなものではない。単純に奪う事が生きる事に直結する世界だ。弱肉強食。力、頭脳、なんでもいい。その強さで這い上がった者だけが人に近づく事を赦される場所。そうして強さを持った者達がさらなる己の利を求め、同じく強者と結託し大きくなる。そうして出来た所謂組織的犯罪者集団が、この場所の秩序である。かつては本当の無法地帯、それこそ個々で生きるしかなかった場所だったのだが、ここ近年になりようやくそういった組織が幾つも出来上がり、利潤を集めて地区を統括していた。しかし、そうすると今度は格差が広がる。集団に属さぬ個はもはや這い上がるのも難しい弱者と化すのだ。そこに、仕事と呼べる生きる為の糧はない。それ故に、シェルモルドで仕事を持っている者は必然、強者と認識されるのだ。そして強者は、それを鼻にかける。見下され見放され生きてきた卑屈な者達だからだ。
「良かったら、一杯付き合わねぇか姉ちゃん。この糞だまりの店だからよ、いい店とは言わねぇが、二人が朝まで飲むだけの金はあるぜ?」
「あら素敵。それじゃあご一緒させていただこうかしら。お酒の肴に……あなたの事ももっと聞きたいわ」
思わぬ僥倖、というように女は笑顔で男に言う。二人は揃って地下酒場の扉をくぐっていった。
男の気分は高揚していた。安物とはいえ久しぶりの酒。自分の話を飽きる様子もなく、急くような子供っぽさも覗かせながら聞く美女。先程までの苛立った気分など何処へやら、男は豪快に酒を煽り、延々と己の自慢話とも苦労話とも取れぬ話を続けていた。時間にして一時間程だろうか。もう大分アルコールの回った男の頭ではよくわからない。一度、頭を振る男の前に、女はいつ注文したのか、水を一杯差し出した。
「ゆっくりなさって? 私は別に急がせるつもりはないもの。早いのは早いで可愛いけど、あんまり過ぎると嫌われるわよ?」
クスクスといたずらに笑う女からグラスを受け取り、男は一気に飲み干した。熱くなった体と頭が幾分かクールダウンする。
「ああ、そうだな」
男の手が隣に座る女の体に伸びる。が、すぐ隣のその女に指先は届かない。代わりに、男は反対側の耳に吐息を感じた。
「言ったでしょ? 早すぎるのはだーめ。触れるのは、まずは女の方から……もっとゆったり楽しみましょう? お仕事、今日はないんでしょう?」
熱い息がかかるのに男の気分はまた上場したが、女の言葉にああ、と少し声を落とす。
「ちっと報告に行かなきゃなんねぇなぁ……ほら、俺は最後まで責任を持つ男だからよぉ」
したり顔で、男は直近の女と視線をあわせる。にこり、と女も笑い返した。やれやれ、と重い腰をあげて男はポケットに突っ込んでいた札を幾つかテーブルに置いた。
「私も着いて行っていいかしら? お仕事の場所できっと着替えられるでしょう? あなたのカッコイイ格好も見てみたいもの」
「上手だなぁ姉ちゃん。安心しな。こう見えて結構有能だからな。俺専用の部屋もある」
素敵、と女は男の腕に軽くしなだれる。二人はそうして店を後にした。
シェルモルド区の中心部の一角にある、石木混造の長方形の建物。高さは15m。この地区に置いては有数の巨大さを誇る無骨なビル。造形的な美しさなど皆無、ただただ利便性を追求しただけの建物の中に、男は居た。このビルの所有者は『ヅドナァバ・ファミリー』。シェルモルドを納める巨大組織のうちの一つだ。男はそのファミリーのうちの幹部であった。故に、そのビルの中に部屋が与えられている。十畳程度でベッドと机程度しかなく、剥き出しの石壁に覆われて無骨な雰囲気であり、決して良い部屋とはいえないが、ビル内に私室を持っているという事事態が組織内でのヒエラルキーの高さを表している。その私室から繋がる簡易シャワーを浴びながら、男は考えていた。彼は、外から仕事を終えて、帰ってきたのだ。それも期日は過ぎている。あまりみすぼらしい格好でボスへ報告へは行けない。として今シャワーを浴びているが、先程酒場により捕まえた女を、彼は私室に待たせている。酒に掻き立てられた情欲が、先に女に手を出せと訴える。それを理性で抑えようとしていた。
やがて、男はシャワーを浴び終わり、先程のみずぼらしい姿ではなく、部屋に置いていた、ベージュのパンツとジャケットの一張羅に袖を通した。女にシャワーを貸す間に一度ボスへ報告へ行くことに決めたらしい。シャワー室を出れば、既に女はベッドに寝そべっていた。
「あら、やっぱり男前ね」
気だるげに起き上がる女の姿に、また扇情されながらも男は体裁を保つように一つ咳払いする。
「だろう? 俺はちょっとボスに報告があるからよ。シャワーでも使って待ってな」
言って、男は足早に部屋の出口へ向かう。ドアノブへ手をかけようとした時、その扉は勢い良く開け放たれた。
「よかったオブさん帰ってたのか!」
扉の向こう側には血相を変えた20代後半といったところの男が立っている。オブと呼ばれた男は無作法なそいつの行動に眉を潜めた。
「おい、ノックぐらいするのが礼儀だろ。何があったかは知らねぇが、俺はボスにこの前の仕事の報告に行かなきゃなんねぇんだよ。期日はとっくに過ぎてるしな」
言って、オブは男を押しのけるように部屋の外へ出ようとするが、その肩を掴まれ止められた。
「それどころじゃねぇんだって! デックとピールの奴が殺された! でも、誰も何も聞いてないし何も見てない」
慌てているようで、半ば叫ばれる男の報告に、オブは眉を潜めた。彼は先程帰ってきたばかりである。そして、このビル唯一の入り口である正面玄関の見張りをしていたデックとピールの事は、ついさっき見、挨拶を交わしたばかりだった。それが殺されたなど、現実味がない。
「それに、鍵っていうか、もう入り口のドアが壊されてたんだ! 間違いなく中に居る。取り敢えず、全員を一箇所に集めろってボスが言ってて」
ただの通り魔や門番と外部の人間の諍いだけであったなら、ドアが壊されている事はおかしい。ビルの中に居る。その判断は正しい。怒りと戸惑いにオブの顔が渋面を作る最中、女はまるでわざと聞こえるように声を張って言った。
「思ったより早かったわねぇ。私が遅かったのかしら」
オブが血相を変えて振り返る。そのまま、広くもない部屋の中、女に跳びかかりその細い首を片手で掴んだ。もつれるように倒れる男女。だがそれは、情事のはじまりなどでは決してない。
「てめぇ! 何か知ってやがるな!」
血走った目でオブは怒鳴り散らす。だが、対して女は首を締められているというのに、少しの苦しさも見せず、それどころか酷薄な笑みを浮かべていた。
「早すぎるのは駄目、って言ったでしょう? それに……」
女の細い指が、首を掴むオブの手の甲を滑る。その軌跡が、どぎつい紫と黄と緑の混じりあった色に染まった。
「触れるのは、まず女の方から、よ」
冷たい物言いと共に、オブの両目が力の限り見開かれた。女の首を掴んでいた筈の手が震えだし、その震えは全身へと及ぶ。女に触れた手のうち、触れられた手の甲の箇所に、凡そ人の肌がする色とは思えぬ先程の混色が広がり始めていた。
「あ゛あっ……がっ、ご……っ」
それは痛み。浮かび上がったかのような奇妙な色から奔る、熱とも痺れとも悪寒とも言えぬ、痛み。体の中を駆け巡り食い破られるような痛み。焼きごてを突っ込まれたような、電流を流されたような、無数の虫が体を這いまわるような痛み。色が広がる。オブの全身を侵食するように。筋肉が硬直しているのか、彼は震えるだけで動かない。滑るように女はオブの下から抜けだした。
「がっ、は……ぁ……あ……あああああああああああああああああああああああ」
最後に断末魔を上げ、男は震える事すらしなくなった。全身の肌が変色したその姿は、形だけ人であっても、元が人だったとは思えない。
目の前で起こった奇妙な死に、オブの部屋に駆け込んできていた男は硬直していた。この女は誰だ。何をした。オブはどうなった。これはなんだ。これはなんだ。これはなんだ。疑問として考える事も出来ない問いに頭の中が覆い尽くされ、ただ立ち尽くす。その彼の自我を、女の声が引き戻す。
「あら、もう来ちゃったの? ジョージ」
誰を呼んだ。聞き慣れない名前。そう思い、反射的に男は女の目線を追った。そしてそれが自分の肩越しに向けられていると知るや否や、慌てて、一歩飛び退くように振り向く。動く視界で焦点を定めようとする前に、その彼の鼻先ほんの数ミリ先に、黒い肌の満面の笑みを浮かべた男の顔が映り込んだ。
「うわあああああっ!」
あまりに近くに現れたその顔に驚き、後ろ向きに飛び退こうとして、彼は腰を抜かした。また落ちるように動く視界。だが、その動きは彼が尻餅を着く前に止まる。いや、止められた。自分の頭の両側が、何か厚く大きな、そう人の手に掴まれている事を、彼は理解した。ぬ、とまるで上から降ってくるように、先程の黒人の笑顔が降りてくる。今度は、逆向きだった。
「オヤスミぃー」
ぶちん。その音を最後に、男の視界は暗転した。崩れ落ちる骸。その頭はなく、引きちぎられて床に転がった。
「おっ! イイネイイネ! リーゼちゃんどうよこのヒキチギレ具合! もうゲイジュツじゃない?」
まるでボールのように自分で引きちぎった男の生首を投げて遊びながら、ジョージはそう言った。一体何を基準にしているのかは、正直な話彼にしかわからない。同僚の女、リーゼロッテにしてもそうだ。
「そんな事よりもジョージ、ちょっと怯えさせ過ぎたんじゃない? 今の叫び声で誰か来るわよきっと」
「ナニ言ってんのリーゼちゃん。リーゼちゃんだって、そのボロゾーキン殺さない予定じゃなかったっけ」
「知らないわよぉ。コレが勝手に私に触るから」
「oh……ソリャ仕方ないネー。ジゴウジトク」
二人ともこの部屋に至った経緯は違うが、侵入者であり、既にお互い殺害を犯している状態だというのに、気の抜けた談笑をしていた。だが、無論そんな時間は長くは続かない。開け放たれた扉の向こうから、大勢の足音が聞こえてきた。しかし二人はまるで慌てた様子を見せない。気づいていない筈はなく、二人とも扉の方を見てはいる。だが、リーゼロッテはベッドの脇に座り込んで足を組み、ジョージはリズムに乗って腕や肩のストレッチをしている。その最中、足音の正体、組織の人間の一団が扉から溢れだすように入ってきた。
「貴様ら! ここで何をしている!」
先頭の、一団のリーダー格らしき男が、腰に差した剣を、今にも抜きさろうと握りながら叫ぶ。疑問符を浮かべたような表情で、ジョージはリーゼロッテに首だけで振り向いた。
「ナニはしてないヨネ?」
「流石に気分じゃないわぁ」
もとより怒りの感情が渦巻いていたリーダー格は、その二人のふざけたやり取りに一瞬で怒り心頭となった。勢い良く、剣を抜き放つ。鞘から滑るように現れる刀身。だが、それは切っ先が抜けると共に動きを止めた。
「ウッシッシ……」
何処かイカれたような男の笑い声が、リーダー格の眼前から聞こえる。目の前には黒人の屈強な男。その手は、剣の柄を握る彼の右手を掴んでいた。いつの間にジョージが動いたのか、男にはわからない。そして、掴まれた手は引くことも押すことも出来ない。抵抗している筈なのに、圧倒的な腕力がそれを許さない。鞘から出た切っ先が男の心臓目掛け刺し込まれた。自らの刃に刺し貫かれ、倒れる。その光景に、あまりに不自然にその殺され方に、周囲の十数は居る取り巻きは硬直した。
「うひょっ」
その場に居た全員が、その笑い声を聞く。同時、死んだ男の後ろに居た男二人の頭が握りつぶされた。正面ではなく、背後にいつの間にか立つ、黒人の大男の手で。
「こ、殺せ! やるんだ!」
集団の中の誰かがそう叫び、男たちは次々に己の得物を手にする。
「くっそ、なんなんだこいつ!」
だが、武器を構える。ただその動作すら許されず、また一人の頭が千切れ飛ぶ。
「う、動きが見え――ギャァアアア!」
いつ、どのようにジョージが動いたか。誰も見れない。また一人、今度は胸を拳で打ち抜かれた。
唯一人、ベッドに座り込むリーゼロッテだけが、欠伸を交えてその光景を見ていた。鍛えぬかれた体から放たれる打撃は、人を吹き飛ばすのではなく肉と骨を吹き飛ばす。相手もシェルモルドの中で生きてきただけあって、纏霊している者も居る。だが、ジョージには遠く及ばない。そうこれは戦闘などではない。ただの狩りだ。ものの数分も経たず、ジョージは一団を壊滅させた。部屋の出口付近はもはやただの血肉溜まりと化し、石造りの冷たい雰囲気がさらに殺伐とする。
「フゥ……物足りないネェ。久しぶりのオシゴトだっていうのに」
散々暴れておきながら血溜まりの上でそう宣うジョージの元に、リーゼロッテが歩み寄る。
「ま、言っても仕方ないでしょ。さっさと終わらせて帰りましょ。今ので合わせて18だから、後やれるのは12よ。ヤリ過ぎないようにねジョージ」
「エエっ!? もうそれだけナノ? ウワー」
ペラペラと言いながら、ぴちゃりぴちゃりと足音を立てながら、二人は血の池を越えて行った。
当ビル最上階。階層の半分の面積を有する一室に、ヅドナァバ・ファミリーのボス、エーリケ=ヅドナァバは居た。広さだけはあるが作りは他の部屋や建物の内部同様剥き出しの石壁ではあるが、カーペット等の内装で幾分かカバーしているようだ。部屋の奥には艶のある木製の立派な机が据えられ、その席にエーリケは座り込んでいた。堀の深い顔つきに整えられた泥鰌髭。灰色の髪はオールバックで、壮年の男性だ。部屋の両側には護衛のスーツ姿の者達がずらりと並び、机の脇には色あせた金の短髪の、エーリケより5つほど年若く見える男、側近のへディックが居た。
「……現状は」
重苦しく口を開くエーリケ。誰に向けたわけでもなさそうに見える問には、ヘディックが眉間に皺を寄せながら答えた。
「ビル内で一組の男女が暴れ回っているらしい。何が目的かはわからん」
「忌々しい。何処のファミリーの奴だ。ウガッタか、ベルペレンか。また別か」
「それも不明だ」
ガン、とエーリケは無言で机を叩きつける。敵の正体は不明、捉える事はおろか止める事も出来ないとくれば当然である。ヅドナァバは決して小さな勢力ではない。シェルモルド区内でも有数の強者だ。それが、こうも簡単に、たった二人に。憤り苛立つもの無理はない。
しばしの沈黙の後、エーリケは口を開いた。
「……総員をこの部屋に集めろ。そして誘き出して殺せ」
もはやそれしか方法はないと思ったのだろう。散り散りになって止められないのならば、集めるしかない。と、エーリケの判断にヘディックが苦言を呈した。
「恥を偲んでベルペレン辺りに応援を頼んでも良いのではないのか。このままでは失うばかりだ」
「誰の差し金ともわからんのにそんな事が出来るか!」
組織の頭と№2の言い合いに、待機している護衛達も何も言えず出来ず固まっている。敵は階下で暴れまわっているという。目的もわからないとくれば、相手は殆ど獣と一緒だ。それも至極危険な。エーリケとヘディックはお互いに無言のまま睨み合っていた。こんなことは組織始まって以来の緊急事態だ。どうするのが一番なのか、誰にもわからない。どちらも間違っているわけではない。故に、お互いに動けずに居た。その状況に護衛達はじりじりとしてしまう。動くなら何にせよ動いた方がいい。このままではどうしようもないのは誰の頭の中にも思い浮かぶ事だ。
だが、その気まずい沈黙もまた唐突に破られる。誰も欠片も思いつかないような現実を持って。
『エーリケ=ヅドナァバ、だな』
その声は、まるでこの室内という空間全体に染み渡るように響いていた。誰もが、首を巡らせる。何処から聞こえるともしれない、その若い男の声の正体を探り。そして、次に声を上げたのはエーリケであった。
「なっ、貴様っ」
あまりの動揺に詰まるようなエーリケの台詞と共に、その場に居た全員が息を飲んだ。全ての視線がエーリケに、彼の机のその上に集中した。そこには、一人の青年が立膝の状態で居座っている。ドアが開いた気配はなかった。扉は一つで、そこから机に至るまでの空間は壁際にならんだ男たちが見張っていた、その筈なのに青年はそこにいた。まるではじめからその場所に居たとでもいうように。貧困区にあるまじき、気品漂う燕尾服という出で立ちがさらにその異質感を高める。
突然の襲来にエーリケは動けずに居た。その青年は彼にとってあまりに不自然で不気味過ぎたからだ。代わりに、横に立つヘディックが声を上げた。
「貴様何者だ! 何処から入った!」
「ロロハルロント帝国軍暗部統括。何処からかは答えてやる義理はない。動くなよエーリケ=ヅドナァバ、お前に話がある」
青年の瑠璃色の眼光がエーリケを射抜く。ロロハルロント帝国軍。その名乗りだけで、その場に居る者達の心臓が跳ねた。彼らは組織的犯罪集団だ。そこに政府の人間が舞い込んできたとなれば、一大事も良い所である。誰も口にせずとも、先程から組織内を賑わせている襲撃者もまた国の人間である当たりはつく。そして何より、机に座すその青年の存在、挙動に誰も気づけなかったという事実が、確固たる恐怖として無自覚の内に刻みつけられてしまっていた。故に、先程まで息巻いていたエーリケは押し黙り、青年から目を逸らしている。その様子を満足気に、また見下すように眺めながら、青年は言った。
「今この時を持って、組織的犯罪集団ヅドナァバ・ファミリーを解体する。異論は」
突然言い渡される言葉に、エーリケが動揺よりも先に憤怒を顕に青年の言葉を喰う。
「あるに決まって――」
その声を遮断するかの如く破裂音が鳴り響いた。遅れて宙に舞う血しぶき。場所はエーリケの左腿に開けられた孔から。その延長線上には、黒と銀色の金属質の物質で造られたL字型の小さな短銃が青年の右手に握られていた。だが、その銃口からは硝煙というものが全く上がっていなかった。銃とは、火薬の爆発を推進力として小さな硬い銃弾を高速で撃ちだす武器である。主に一般市民の高級な自衛武器、もしくは狩猟の為の道具の一つとして用いられるものだ。纏霊もしていない生物相手ならば十分な殺傷力がある。しかし、青年の銃は普通のそれと違い、煙を上げずまた火薬特有の臭気も立たせていない。
「――ぐぅっ!」
痛みに体をこわばらせ呻くエーリケ。撃たれた箇所に反射的に向けられた頭の上に、青年は容赦なくその短銃の先を押し当てた。
「異論は認めない。だが安心しろ。全員殺すわけではない」
見下げ果てた視線に酷薄な笑みを浮かべ、彼はそう言う。周囲の組織員の怒りはもはやピークに達していた。それもその筈だろう。突然の侵入者に自分らのファミリーを荒らされ、その土足で最上階に突如現れ、呆れる程の高圧的な態度で自分らのリーダーを躊躇なく傷つけた。そんな理不尽な事に憤怒しない聖人が、このシェルモルド地区に居る筈がない。
青年の後ろ、その周囲を護衛の男達が取り囲む。皆一様に、ギラついた視線を、振り返りも身動ぎもしない青年の背に向けていた。その輪の中から、一人がゆっくりと前に出る。身長2mはあろうかという巨漢だ。足音を立てないようにゆっくりなのではなく、威圧感を与えるようにゆったりと、だ。その緩やかな歩みの中で男の中で霊力が高まり巡る。纏霊した存在に、火薬で打ち出した鉛弾など通らない。男が青年の背後に立った。がっしりと組まれた両腕が高々と振り上げられ、そして――青年の肩越しから、綺羅びやかな宝石が一つ、彼の目を奪った。
ガラスが割れる澄んだ音と共に、突如として弾ける瑠璃の閃光。目を焼く強烈な輝きが男の半身を包み込む光球となっていた。光が止む。青年以外の誰もがちらつく視界の中、どさりと何かが崩れ落ちる音を聞いた。床に落ちたのは先程の男の、下半身と組まれたままの拳のみ。上半身と頭は削り取られたように消失し、腰の上を丸く描く削りとり線は焼き付いて焦げたのか、出血してすらいない。何が起こったのか、理解は出来ないだろう。
「……で、話の続きだが」
しかし、何事も無かったかのように青年は話を続けた。
「ファミリーを解体するとはいえ、今のこの組織の情報収集力と根回しには一目置いている。よって、使ってやろう」
銃の先がエーリケの顎先を持ち上げ、再び今度は眉間に押し付けられる。上げられたエーリケの額には左脚に穿たれた傷の為か、突然降って湧いてきた悪魔ような青年の為かはわからないが、玉のような脂汗が浮かんでいた。
「条件は三つだ。一つ、今行なっている犯罪行為の全てを3日以内に打ち切れ。二つ、仕事はこちらから常に示す形で行く。日々をまともに暮らしていける程度の金は稼げるさ。そういう仕事をしてもらうからな。三つ、この事は無論他言無用だ。もし漏れれば一両日中にお前らも、その親族血筋の全てが消えると思え。以上だ。さ、どうする?」
言って、青年は銃口を引き、立てていた膝の上に腕を乗せる形でエーリケの返答を待つ。そこに選択権があるのかと問われれば、皆無といえる問いかけの。
エーリケは考えた。ここで否と返答すれば、目の前の青年、国の暗部と語る者は、即座にファミリーを潰すだろう事は明白だ。嘘か真かわからないその名乗りだが、現に階下では二人の化物が暴れ回り、ここにいる彼も部下を一人よくわからない方法で殺している。隷属か、死か。いや、彼にしてみれば一緒の事であった。シェルモルドから這い上がった者からすれば、理不尽に屈する事は即ち死と同義なのだ。そこに自由は無く、未来はない。力こそが全てであり、無き者は人として生きる事を捨てなくてはならない。エーリケは強者だ。故に、シェルモルドでも有数の規模を誇るこのファミリーの頂点に居る。強者とはつまり、所持者。その所有物が奪われようとしている。なら、彼の取れる行動はたった一つだった。
傷つけられていないエーリケの右足が机を蹴りあげた。瞬時に纏霊して繰り出されたそれは、青年の乗る机を高く天井際まで打ち上げる。その足を地へ着くと共に、彼は全力で床を蹴った。後方へ飛び、背後の石壁を壊して外へと逃げ去る。開いた孔の向こうから、宙に浮いたままエーリケは叫ぶ。
「奪わせるものか! 俺の築いたこの今の地位を、力を、場所を! 泥に塗れ血にむせた日々の積み重ねを、貴様のようなろくな苦労も知らなそうな青二才に奪われてたまる――」
台詞を言い終える前に、エーリケは落ちた。霊翔を失敗したのではない。彼の方を見ていたへディックらは見た。彼の胸に、斜め上から閃光のような何かが降り注いだのを。間を置かずして、遠くで鳴る重い水音。誰も、孔の方へは近づこうとはしなかった。何が起きたか、確認せずともわかった。
「いい腕だ。ケイゼン」
誰もが目を逸らすその外へ開けられた出口の縁に、青年はいつの間にか立ち、地面を、そこに縫い付けられ叩きつけられ弾け散った男の死体を見下す。その中心の辺りには、一本の矢が立っていた。さて、と彼は振り返る。そしてそのまま流れるような動作で、へディックの少し横の後に居た男の頭を撃ち抜いた。眉間に風穴を開けられ、崩れる男。
「次に偉いのはお前だろう? へディック=エムベン。先程の問いに答えてもらおうか」
男を殺したのはただの見せしめの一つだろう。外に逃げる事は叶わないとエーリケが示し、内に居ても、誰も気づかけない速さと躊躇いのなさで殺される。
ヘディックにはもはや、一つしか返答は残されていない。彼は静かに、首を立てに振った。