砂上の出会い
「いや、世話になったなスティーゴ君」
水恵都市マイラ内、学術教会地下掲剣騎士団詰所。砂の大地の地下に石組みで造られたその場所は時折砂が落ちてくる。広大な敷地に比べ、詰所は実に手狭で、奥のトイレと簡易キッチンのある給湯室を除けば、あるのは仮眠室と事務室だけである。十人も入れば手狭になってしまうだろうその事務室の傍らにある、少し古ぼけた応接セットのソファには学術教会騎士団長と、向かいにスティーゴと呼ばれた青年と彼の連れている童女が座っていた。ソファ座りが悪いのか、彼女らの居る反対側の空間に並べられた机に向かって忙しそうに働いている騎士達が気になるのか、はたまたこの空間そのものが落ち着かないのかはわからないが、口は真一文字に結んでいるのに少々うるさい程に首を巡らせ足を暇そうにバタつかせている。その様子を仕方ないなとでもいうような苦笑の目で見やってから、スティーゴは団長に返答した。
「いえいえこちらこそ。3日も泊めていただき助かりました。食事まで用意して貰ってしまって」
フェルの襲撃より3日が経つ。見事そのフェルを一人討ち取ったスティーゴは、多数の犠牲者負傷者の出てしまったここ騎士団の事後処理を手伝っていた。翳刃騎士。一般の騎士にはその名しか知らされず、その一員であったスティーゴも二年前に死んだと思われていた為、当初は旅の武芸者のような扱いを受けていた彼だったが、彼を知っている者も居たので、今では学術教会の殆どの騎士に消えた筈の翳刃騎士、その生き残りとして知られている。
今回、騎士団の受けた被害は決して小さくないものだ。二年前の事件で多くの騎士を失い、最近になってようやく持ち直したと言えたのだが。マイラの街にフェルが到達しなかっただけでも良かったとは言えるが、死んだ騎士には仲間や友人や家族や恋人が居た者も居る。
「君が来てくれなければ、この街がどうなっていたかわからんのだ。もっと誇ってくれてもいい」
「騎士が諸手を上げて勝利に喜べるのは、勝ったその瞬間だけですよ。少なくとも、俺はそういう人間です」
誇れと言われスティーゴは、曖昧な顔で笑ってそう言った。何処か遠くの哀しみを見つめるような目に、騎士団長も返す言葉が見つからず押し黙ってしまう。そうして訪れそうになる沈黙を嫌うように、スティーゴは再び口を開いた。気を取り直すように、努めて明るい声で。
「そういえば、昨日頼んだ件、どうにかなりそうですか?」
問いに、今言われて思い出したように、間を置いて頷く騎士団長。
「ああ。言うのを忘れていた。内の若いのを案内に一人つけるとしよう。本来なら人の護衛には数人つけるのだが、今は事態が事態だ。それに、君には必要なかろう」
先日、騎士団の手伝いの合間にスティーゴは、教会総本山アヴェンシスへの同行者を頼んでいた。ただ行くだけならばそう難しい事ではないのだが、翳刃騎士は教会の中では既に戦死扱いだ。そんな人物がいきなり現れて名を名乗ったとしても、すぐに信用されるとは思えない。それならば、騎士団の誰かに着いてきてもらう事が一番手っ取り早いと考えたのだ。ともかく、彼は今アヴェンシスに行く事を目的としていた。
「助かります。それで、いつ頃になりますかね」
「当人には今日にでも出れるよう準備はしとけと言っておいたが……まだ出ては来ないな。正門の辺りに行っておいてもらって構わないか? 急いで向かわせよう」
急な話だ、とスティーゴは思ったが、彼としては願ったりかなったりである。そう急ぐ旅路ではないが、先に戦闘のあったここに長居するのは躊躇われたからだ。怪我人の救護やその他の手伝いなど、彼に出来る事はもうあまりない。元々が掲剣騎士として教会に所属していたわけではないために、集団で一つの場所で働くのには慣れがなかった。今日誰かがここ学術教会から派遣されないというのなら、取り敢えずはアヴェンシスに向かい、後日騎士と落ち合う形にしてもらおうと思ったのだ。書面を持っていくのもありだが、他にも被害報告などがアヴェンシスの方に出されているのを考えると、やはり人に着いてきてもらった方がいい。
未だ室内をキョロキョロとしている童女の肩を叩き、スティーゴは立ち上がって深々と騎士団長に礼をした。
「ありがとうございます。お世話になりました。またお会いしましょう。ほら、ニィネも」
スティーゴに促され、童女――ニィネもまたお辞儀をする。
「何か書簡等あれば俺が持っていきますが」
「いや、その類は内の者に持たせるさ。心配はいらん」
そうですか、と最後のやり取りを終え、スティーゴとニィネは応接室を後にした。
外に置いてあった荷物とニィネ用の橇を担ぎ、地上の正門目指し登っていく。以下にも掘って造りましたと言わんばかりの、まるで洞窟のような様相を隠しもしない空間。実に雑とも言えるが、それがまた自然的であり、古くからの趣を感じさせる。また空間を覆っている岩剥き出しの内壁には丁寧に保護の呪印が刻まれており、ただ古びた場所と言わせるには一線を画する雰囲気を醸し出していた。
詰所の外に出て尚、ニィネは辺りをキョロキョロと見回していた。足場は石のタイルで舗装されているとはいえ、フェル襲撃の事後処理に忙しい騎士たちが小走りで行き交っている中だ。いつ誰にぶつかるとも知れないと時折ニィネの姿を横目で確認するスティーゴの羽織る外套を、ニィネがくいくいと2回程引っ張った。手や服の裾を掴まれる事はよくあるので慣れているスティーゴは、自分を見上げるニィネを一瞬だけ見て口を開く。
「どうしたんだいニィネ」
ニィネが何か用があって自分を引っ張る時は、引っ張った後に離し、一回目を合わせてから話し始めるのをスティーゴは知っていた。彼女は目は、洞窟の天井を見ている。
「スティーゴ。ここは、地面の下」
「うん。そうだね」
喋る、という事事態があまり得意ではないのだろう。辿々しいニィネの言葉に、スティーゴは律儀に相槌を打ちながら間を取りつないだ。
「ランプもないのに、明るいのはなぜ?」
問われ、スティーゴは地上へ出る階段にの途中で立ち止まって、はて、と天井を見上げた。言われてみれば、この洞窟内に灯りの類は見当たらない。だというのに、洞窟内に薄暗さは感じられない。眩しいと思う箇所もなければ暗いと思う箇所もないのだ。燭台で照らしているならその周辺だけが明るく、中心部は少し眩しいだろう。他の照明器具でも同様である。と、立ち止まって悩む二人の背後に、一人の青年が近づき言った。
「ティンダル塵ですよ。ご存知ありませんでしたか?」
降って湧いてきたような答えに、ニィネの手がスティーゴから離れ、二人は揃って振り返る。そこにはスティーゴとよりいくつか下だろう青年の掲剣騎士が、少し大きめの革のリュックを右肩にかけるような形で持って立っていた。
「ちんだる……じん?」
小首を傾げながら青年を見上げるニィネ。子供の相手は得手ではないのか、少し視線を向けたと思ったら逸らし、言った。
「ここの内壁を構成している土壁の中に含まれる成分だそうです。ある一定量以上の霊気に触れるとしばらく発光した後に消滅する性質を持ったごく微細な粒子。保護の呪印に集められた霊気に当てられて発光し、故にこの洞窟内は証明を使わずとも常にこの明るさを保っているそうですよ」
ニィネにとっては難しい言葉が並べられる、説明とも言えない説明に、ただ彼女は頭上のクエスチョンマークを増やし、スティーゴは苦笑いを浮かべる。後でニィネにもわかるように説明してあげようと思いながら、彼は話題を変える事にした。
「もしかして、君が案内役の?」
「ええ。レイク=K=D=ケルビンです。あなたには会った事があると思いますが。翳刃騎士スティーゴ」
レイクの言葉通り、スティーゴは彼の顔に見覚えがあった。だが、どんな人物かまではどうにも頭に浮かんでこない。会った事はあれどさほど会話をした覚えも何かを共にした覚えのない相手ならば、顔を覚えているだけでも良い方だろう。とはいえ、相手は自分の事をはっきりと認識しているようなので、少し申し訳なく思いながらも笑みを浮かべて手を差し出した。
「よろしくケルビンさん」
軽く握手を交わしてから、スティーゴは腰を少し屈め、隣に立つニィネの背をぽんと軽く押す。
「ニィネ。ご挨拶」
彼の言葉に、小さくうなずき、ニィネはレイクを見上げた。
「ニィネ……よろしく」
挨拶とも言えないような、か細く小さく短い言葉だったが、スティーゴはよく言えたとでも言うように、その小さな頭を軽く撫ぜる。
「はい……ええと、妹さんですか?」
どう対応していいかわからず了承の返事だけをして、話を変えるべくレイクはスティーゴに聞いた。目を瞑り、左右に首を振って問いに否定を返すスティーゴ。
「まあ、その話は道中にでもしよう。ケルビンさん、準備の方は?」
「見てわかりませんか? 万端ですよ」
言いながら、肩にかけたリュックを上げてみせるレイクに笑みを見せながら、スティーゴは地上へと至る路の方へ振り返った。
「じゃあ、行きましょう。長居していても邪魔になってしまうから」
地平線の隅々まで広がる、砂と岩だけの大地。雲ひとつない空に照りつける太陽は眩しすぎて暑すぎる。砂漠という過酷な環境下を行くには、人はその肌を隠す外套を着込まなければ火傷してしまう。揃いも揃って、ボロ布を繋ぎあわせたような外套に全身を覆いながら、スティーゴとニィネ、そしてレイクは砂漠を歩いていた。ニィネはやはりスティーゴの引く橇に乗せられ、スティーゴがニィネを引いている代わりに、レイクが多少荷物を多く担いでいた。
ふと、レイクの視線がニィネを見た。童女は、あまり体力を使わないようにか、じっと膝を抱えている。いや、違った。マイラを出て既に数時間。あまり口数の多くない少女は会話もせずただ橇に揺られているだけで、既に船を漕ぎ始めていた。しばしの間、レイクは少女の様子を見ていた。普通、このような年端もいかない子供が砂漠などという過酷な環境を越えるなどという事はまず有り得ないのが、彼の中での常識だ。良家のお嬢様が最高の設備を持った馬車でくる事は彼の記憶にもあったが、自力で歩いているわけではないとはいえ、ニィネの乗っているのはただの橇だ。大の大人でも一筋縄ではいかないのが砂漠という場所である。運ばれるだけでも、こんな日に晒されている状態では辛いものがある筈だ。
そんなレイクの視線に気付き、スティーゴは前方を見たままで口を開いた。
「ニィネは……厄災孤児なんだ」
「厄災孤児……」
スティーゴの言葉をレイクは静かに反芻する。厄災孤児。戦などで親を失った者を戦災孤児と呼ぶのと同じような意味合いで、厄災孤児とはフェルの襲撃もしくはその戦いで親を失った子供の事だ。ここ二年で確かにフェルの出現率は大幅に下がったが、それでも未だに犠牲者は後を絶たない。教会では、そういった子供の保護も行なっており、掲剣騎士たるレイクもその名はよく知っていたが、会うのははじめてであった。孤児であるとするならば、無口なその性格も頷ける。戦災、厄災問わず、孤児となった子供達の中には、凄惨な光景を目の当たりにし、精神的外傷を負ってしまうケースも多いと聞いていた。
「まあ、かく言う俺も厄災孤児でね。トゥルーガ孤児院ってとこで育ててもらった」
さらりと、何処か遠い目で空を見上げるスティーゴに、返す言葉の見当たらないレイクだったが、沈黙の方が辛い、と問いかける。
「では、この子もそこへ?」
「それはニィネに任せるよ。あそこは良いところだから、それでもいい。ニィネがこのまま着いてくるって言うんなら、俺は全力でニィネを守るだけです」
そう言い切り、微笑むスティーゴ。自分だったら、迷うこと無く孤児院に、それこそ先程まではマイラに居たのだから、マイラの孤児院に預けておくだろう。だが、レイクにはスティーゴの事情もニィネの事も全く知らない。聞くのも、あまりに無粋過ぎて出来なかった。
じっと、レイクは隣を歩くスティーゴの横顔を見る。フェルを倒す為に集められた精鋭の一団、翳刃騎士。その最後の生き残り。フェルの現象の所為か、先の戦いの際の影響が残っているのか、教会本部の方で翳刃騎士を再結成させる動きはないと聞いていた。さらに、新たな従盾騎士を選定する事も、各地の支部、それこそ学術教会も要求しているのだが本部の方が頑なに拒んでいるのだとか。と、そこまで思い、レイクは有ることに思い至った。彼の、レイク=K=D=ケルビンの悲願は、従盾騎士となる事である。そして今彼の隣に居るスティーゴ、翳刃騎士は以前の従盾騎士と戦った事のある男だ。
「何か聞きたそうだね」
意味のある視線に見られていた事に気づいたスティーゴが、レイクにそう問いかける。レイクは一瞬怯んだが、特に嫌そうな目もせずに微笑むスティーゴに毒気を抜かれ、一息吐いて言った。
「あなた方翳刃騎士は、二年前に掲剣騎士の軍勢と共に従盾騎士と戦ったと聞いています。あなたに言うことではないのかも知れませんが、自分は幼い頃より従盾騎士になりたいと夢抱いています。そこで、かのフェルをも蹂躙したあなたに、その当時の従盾騎士の力というものをお聞きしたいな、と」
焦っているのか、それとも礼がなっていない問いだと言うことを自覚しているのか、少し早口の敬語になるレイク。スティーゴは未だ笑顔は崩していなかったものの、それはただ貼りつけただけのものだった。目線は下がり、怒りか哀しみかわからないが、何かの感情が渦巻いている。自分でも、理解仕切れていないように見えた。
しばらくの沈黙。風はおろか、砂の流れる音さえ聞こえそうになる頃、スティーゴは零すように言った。
「……戦った、とは言えないよ。あれは戦いなんかじゃなかった」
確かに、数万対一に学術教会が保有していたという巨大霊具まで赴いたという。本来であれば、過剰戦力にしか思えないもので、戦いになどならないだろう。だが事実は違う。その時に敗北を、全滅を喫したのは大戦力で望んだ筈の教会側だ。有り得る筈がない。教会側が負けたと聞いた時、レイクはまずそう思った。何処に従盾騎士に勝てる要素があったというのか。何か、妙な術を前もって入念に仕掛けていたくらいしか、想像は付かなかった。そういった意味での、スティーゴの「戦ったとはいえなかった」という言葉だったのだと彼は判断した。
「俺には従盾騎士というものがよくわからない。ただ、何もかもを無意味にする強さだけが、記憶に焼き付いてる」
「無意味に……」
それは、スティーゴのあのフェルを真っ二つにした力でもという事なのだろうか。一体どんな術を使えばそんな事になるのだろうか、とレイクは思う。普通の人間が、あのスティーゴの業を無意味に出来るなど到底考えられない。もしかしたら、従盾騎士には何か特別な術が与えられるものなのかもしれない。唯一鍵乙女をその直近で守る騎士なのだ。そのくらいはあるだろう。あってしかるべきである。スティーゴらはそれに敗れたのか、と彼は納得する事にした。
その後は特に会話もなく二人は歩いて行く。スティーゴは過去を思い出した事への整理をつけるべくか、黙って歩を進めており、レイクはレイクで先程思い至った術の正体に、わかるはずもないというのに考えを巡らせている。
どのくらいの時、沈黙が続いたのか定かではない、周囲の風景は相も変わらず砂と岩ばかりで、指標になるものなど有りはしない。変化があるとすれば、少しだけ動いたような気がする太陽くらいのものだろう。その太陽も、あまりの暑さに誰も見上げる事などしないが。
「スティーゴ」
そんな折、ポツリとニィネがスティーゴの名を呼んだ。いつの間に起きたのか、相変わらず膝を抱えた体勢で座ったまま、じっと前方と見つめている。はっとした様子で顔を上げ、彼はニィネの視線を追った。
「向こう……なにか……居る」
続けて零れた言葉にレイクも反応し、ニィネの視線を追った。だが、彼女の真っ直ぐな視線はどれだけ目を凝らして追っても砂の大地と地平線にしか辿り着かない。保護色の動物でも居るのかとじっと地平線を眺めるレイクの傍ら、スティーゴはレイクにニィネの乗る橇の手綱を預けた。
「ちょっとお願いします。ゆっくりで良いので進んできてください」
半ば押し付けるように綱をレイクに持たせると、スティーゴは言うが早いか霊翔してレイク達の頭上をさらに人一人分浮かんだところで、地平線目掛け吹き飛ぶような速さで飛翔した。あっという間に点になる彼の背を呆然と見やるレイクに、ニィネが告げる。
「スティーゴ、来いって……言ってた」
「あ、ああ……そうですね」
いまいち状況の掴めていないレイクであったが、そこは騎士である。言われた命令通り、ニィネの橇を引っ張り、もはや地平線の彼方に消えたスティーゴの方向へ歩き出した。
「大丈夫ですか!」
はじめにニィネが見つけ、霊覚によりその存在を確かめたスティーゴが、目標のその真上に到達すると共に、大声で叫びながら地表に降下した。
黄土色の砂の上、一人の少女がうつ伏せに倒れている。外套は着ているものの、その半分くらいは既に風に運ばれた砂に覆われている。急いで、スティーゴはその少女を抱き起こした。小麦色の肩にかかるかかからないか程度の長さの髪も、唐草模様があしらわれた胸、肩当ても砂に塗れている。丸顔で可愛らしい顔立ちで、歳は13,4と言ったところだろうか。瞳は閉じ、口は半開きだ。スティーゴは指先を首筋に当てる。とくん、と確かに血流の感覚がして、少女がまだ存命で有ることを教えた。首筋から手を離すと共に口と鼻の辺りに手を翳して呼吸を確認する。問題ない。
「……ふぅ」
気を失っているだけという事を確認し、スティーゴの口から思わず安堵の溜息が零れた。
「失礼しますよ」
相手は気絶しているようだが、一応少女である。スティーゴは、聞こえる筈もないと知りながらも一応、一言断りを入れ、少女の額に触れた。熱い。砂漠の暑さで自分の感覚も少しおかしくなっているかもしれない事を考慮に入れ、霊覚も用いたが、やはり平熱よりも幾分高いと思われた。恐らく、この砂漠の日射と高温による熱中症と脱水症状だろう。スティーゴは腕で抱きかかえる形から膝に少女の背を預けるような形にし、自由になった右腕で外套の中からスキットルを取り出し、その口を開けて少女の口元に運んだ。少量の塩を混ぜてある水が、中には入っている。暑い場所を越えるには必需品といえる代物だ。少女の体を揺すって、スティーゴは今一度声をかけた。
「起きてください。取り敢えず水分を取らないと」
何度か繰り返すと、ようやく少女が小さなうめき声をあげ、薄っすらと暁と萌黄二つの色をしたオッドアイを開く。目の焦点は定まっていないようだが、スティーゴはその意識をはっきりさせるべく、笑いかけた。
「起きてください。これ、塩水です。少しずつで良いので口に含んでください」
言いながら、少女の唇にスキットルの口を当てる。少女はしばしの間動かなかったが、スティーゴが徐々にスキットルを傾け口の中に水を流し込むと、はっと目を見開いて、先程まで倒れていた人間とは思えない程機敏に、無遠慮にスキットルを受取ると中身を流しこみ始めた。
「あまり急いで飲むとお腹がびっくりするよ」
苦笑して言いながら、もう自分が支えていなくても大丈夫だろうと、スティーゴは立ち上がり後方を見やった。肉眼ではまだ点程度の大きさではあるが、人影が確認出来る。レイク達もちゃんと向かっていると確認した頃、少女の少しご満悦な一息が聴こえた。
「ぷはー……はぁ。死んじゃうかと思いました……」
「まだあまり喋らない方が良いよ。今、岩場に運ぶから」
まだ掠れた声の少女にスティーゴは優しく声をかけ、空になったスキットルを受け取り、その傍に膝をついた。
「少し我慢してくださいね」
言うが早いか、スティーゴは両腕を少女の膝下と背中に回し、ゆっくりと立ち上がる。
「え、あ、あの」
突然抱きかかえられた事に狼狽する少女へ、スティーゴは申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。すぐ向こうの影になってるところに行くだけだから」
言いながら、彼はふわりとなるべく柔らかい挙動で飛び、近くの大岩の影へと向かう。日陰ではあるが、暑いという事には変わりはなく、簡易テントなどの荷物もレイクに持たせたままである。取り敢えず彼は少女が岩に背を預けられるように下ろした。
「あの……」
地面に素直に降ろされながら、少女がスティーゴを見る。あまり喋らないように、まだ掠れた声ではあるが意識は戻っているようだ。とはいえ、顔が赤い。熱があるのだろうとスティーゴは思い至る。
「重く、無かったですか……?」
「まさか。それよりも、さっきも言ったけどまだあまり話さない方がいい。喉を痛めるから。俺はちょっと連れを呼んでくるから、大人しくしてるんだよ」
そう言い聞かせて、スティーゴは小走りに日差しの素へと行った。突然自分が飛んで行った事で、レイク達が自分を見失ってしまったかもしれないと思い、少し急いで。
十分もせずに、スティーゴは少女の元へと戻り、彼女をニィネの乗っていた橇に横にさせた。荷物も乗せられるように大きめに作ってある橇は、少女とニィネを乗せても余裕がある。スティーゴとレイクには騎士団で習った様々な応急処置程度の知識はある。必要なのは補液と冷却措置である。荷物の中にはまだ塩水の貯蔵があるが、有限である。一先ず、水の確保はレイクに頼んだ。湧き水の一つでもあれば、もしくは洞窟の一つでもあればマシになる。最悪、地面に孔を開けて地下水脈へと行くしかないが、出来れば避けたいところだ。もう一つの冷却措置はスティーゴが準備中である。荷物の中から呪術書を取り出し、冷風の呪印を見様見真似で地面へ書いてみている。加減が難しく、あまりに冷たいと今度はその温度差で風邪を引かせる事になりかねない。ああでもないこうでもないと唸りながら、岩の岸壁に手斧で呪印を刻む傍ら、ニィネは横たわる少女に団扇で風を送っていた。どれほど意味があるかはわからないが、顔に当たる微風に少女は気持ちよさそうにしていた。
「ありがとう。えっと……ニィネちゃん?」
スティーゴらの会話から名前をなんとなく聞き覚えた少女が、両手で団扇を仰ぐ童女にそう告げる、が、ニィネはむと口を尖らせた。
「おしゃべりだめ……って、スティーゴが言ってた。つかれる……からって」
少女が喋るようであればそう注意するように言われていたのだろう。自分より年下の少女に指摘されてしまっては仕方ない、と少女の顔に気の抜けた笑みが浮かぶ。
「よし。これでいいな」
と、スティーゴが術式の構築をものにしたらしく、少女の方へと向かい、ちょうど彼女の真横の低い位置に手斧で印を刻み始めた。練習のかいあってか程なくそれは完成し、柔らかな冷風を放ちはじめる。
「どう? 冷たくないかい」
問いに、首肯だけで答える少女。その隣に座っていたニィネも身を乗り出してその冷風に当たり、心地よさそうに目を瞑った。
それから一時間程がすぎ、大分日が傾いてきた頃、ようやくレイクが戻ってきた。なんでも、西方に小さなオアシスがあるらしく、十分に飲める水を発見したとの事だ。これで飲用水の心配はない。キャンラと名乗った少女の体調も大分回復し、体を起こしても大丈夫な程にはなったが、大事を取ってこの場にテントを貼り野営をする事にスティーゴは決めた。行程にそこそこの遅れは出るが仕方ない。
テントの準備や焚き火を起こしているうちに日が暮れはじめ、四人は火を囲み、スティーゴとレイクが食事の準備をはじめていた。夕飯には少し早い時間なのだが、キャンラの腹の虫がきゅるるきゅるるるとしつこくなっていた為である。なんでも彼女には同行者達が居たのだそうだが、ちょっと食糧を食べ過ぎてしまい喧嘩をして一人何か獲物を取ってくると出てきてしまった結果、やはり空腹で倒れてしまったらしい。スティーゴらにはそう恥ずかしそうに語る少女がそこまで食べるような体型には到底見えなかったので、少し驚いていた。
「んー! この缶詰美味しいです! やっぱり美味しいものは幸せですねぇー」
とろけるような顔で既にデザートの筈の梨の缶詰を頬張っているキャンラ。隣ではニィネがそれと自分に渡された未開封の缶詰とを交互に見ながら、どうやら今食べるか後に食べるかを真剣に悩んでいるようだ。歳も少ししか離れて居ないように見える二人の、その方向の違う性格が姉妹のようにも見えて、スティーゴは笑みを浮かべながらカレーの鍋を持ってきた。
「キャンラは本当に美味しそうに食べるね」
「美味しいので当然です! いつもは周りの人たちがマナーにうるさいからデザートから食べるなんてはじめてですから」
良家の出なのだろうか、とその発言から察せられる。が、スティーゴには彼女が着ている鎧の事もあり、だというのに剣など武器の類を持っているようにも見えず、一概に答えは出せなかった。それと共に、初対面の人間の素性を根堀り葉堀り聞き出すのも気が引けた。
「でも、全部食べちゃったら食事の後寂しくならないかい?」
「ひ、一切れくらいは残します」
それでも半分とかではなく一切れなのか、と苦笑しながら、スティーゴはレイクが持ってきた飯盒から米を、鍋からカレーを盛り、キャンラ、ニィネ、レイクの順に渡して自分の分をとって座った。四人の中心には灯りと暖用に小さな焚き火があり、それを囲むようにそれぞれが座っている。砂漠は昼は暑いが夜は夜で冷え込むのだ。日が完全に落ちてしまえば、焚き火があっても少し厳しいかもしれない。
「それじゃあ食べようか。いただきます」
「いただきます!」
「いただき……ます」
スティーゴの言葉と共に他が続き、それぞれがカレーに舌鼓を打ち始めた。尚、ニィネは缶詰の誘惑に勝った模様である。
「ニィネも食べられるように甘口だけど、辛さが足りなかったら一応足せるから言ってくれ」
「あ、自分もらってもいいでしょうか。あまり甘口のものは慣れてなくて」
スティーゴのその言葉には早速レイクが飛びついた。マイラで生活している彼には甘いカレーはあまり馴染みがない、というか辛い方に慣れてしまって馴染まないのだろう。マイラは香辛料を特産の一つとしているところでもあるのだ。
「少し辛いのも良いですけど、甘口も食材の風味が口の中に広がる感じがたまらないと思いますけどね」
相変わらず幸福感を満タンにしたような笑顔でスプーンを加えながら、キャンラが語る。
「好みは別にいいですけれど、それよりもあなたはこちらの食糧をまた食べ尽くさないでくださいね」
そのキャンラの指摘に言い返すような形で、レイクが苦言を呈した。話を聞いていればその懸念もおかしくはないが、割りと失礼な発言には違いない。
「命の恩人相手にそんな事するほど私は卑しくないですー!」
何を言うのかとむっとするキャンラがそう反論したが、次の一口にはまたカレーの味に破顔してしまう。暖簾に腕押しだ、とレイクはもう何も言わなかった。苦笑しつつ、スティーゴが話題を変える。
「そういえば、キャンラは戦いの心得があるのかな? さっきの話だと狩りでもするみたいだけど」
食糧のつまみ食いの末に喧嘩して飛び出してきた、とは誉められた事ではないが、彼女自身砂漠のど真ん中で倒れてしまっていたのだ。十分に反省しているだろうからその点には触れず、その先の彼女自身が考えていた事の方へ話を振った。小さく舌を出して、困ったように笑いながらキャンラは答えた。
「刀には少し自信があるんです。でも、ええと……野営地を急いで飛び出してきてしまったのでついうっかり刀を持ってくるの忘れちゃって」
今となっては笑って話せる内容かもしれないが、それは運が良かっただけである。剣士が丸腰で何か凶暴な生物もしくはフェルなどに遭ってしまったらどうしようもないだろう。
「キャンラ……うっかりさん?」
「そうだねぇ、きっとニィネちゃんの方がしっかりしてると思うよ。私ニィネちゃんくらいの歳の頃にこんな旅なんて絶対出来なかったもん」
しかしそんなスティーゴの真剣など何処吹く風で、キャンラは笑顔でニィネの頭をよしよしと撫でている。この短時間で二人は随分と仲良くなったようである。ニィネがこんなにすぐに懐くのは珍しい、スティーゴの覚えでは一度もなかった事である。それが例えどんな出来た人間であってもだ。現に、朝の間から共に行動している筈のレイクとは数える程の、それも事務的な会話しかしていない筈だ。それはレイクの子供の扱いが下手というのもあるだろうが、それ以上にニィネの方が接触を避けている。スティーゴが思うにレイクも決して悪い人間ではないのだが、前述の通りニィネにそれは関係ない。年齢や性別だろうか、とスティーゴは少し考えてやめた。説明出来ない好意は人間誰しも持つものだからだ。
いつも通りの無表情ながら、キャンラの手の往復を目を閉じて気持ちよさそうに、それこそ子猫のように受け入れているニィネの姿に、スティーゴも自然と顔が綻ぶ。
「しかし、剣士が自分の剣を忘れるなんて。もしフェルか獣にあったらどうするつもりだったのですか」
「まあいいじゃないか。今無事なんだから」
「もー、レイクさんは口うるさい人ですねぇ。私のところの副隊長そっくりです。ねぇニィネちゃん」
「ふくたいちょー……? わたし、知らない」
談笑しながら、四人の夜は更けていく。結局、キャンラが鍋の中のカレーを一滴残さず平らげるまで、火を囲んでいた。途中、食前の葛藤に勝ったニィネがデザートの缶詰に頬張るのを、なんとか残しておいた梨の一切れをスルメでも食べているのかというくらいに噛み続けながらガン見するキャンラの姿があったり、そのキャンラにニィネが一切れ上げたりしていた。
二人の少女は先にテントの中に入り、就寝している。スティーゴとレイクは食事の後片付けをし、交代で見張りをする事にした。砂漠には多様な生物が潜んでおり、その上に過酷な生活環境の為また多くの死がある。死が多いところには常にフェルの影がつき纏うのだ。騎士である二人はそれをよく聞かされている。フェルを専門に狩る翳刃騎士であるスティーゴには常識とも呼べる事だろう。火が途切れる事のないよう番をしながら、片方は寝袋にくるまって仮眠を取る形だ。騎士の訓練にもあるので、二人には慣れたものだった。とはいえ、慣れがあっても他に人が居るならば話くらいはするのが普通である。寝袋から上半身を投げ出すような格好で寝転がっていたレイクが、口を開いた。
「そういえば、先代の従盾騎士は“魔狼”と呼ばれて居ましたね。それで、教会の方が従盾騎士の叛乱ではイメージが悪いから、魔狼の叛乱と呼ぶようになったのだと」
語られる内容に、スティーゴは頷きを返さない。ただ黙って、火に薪をくべる。
「……何故、あの男は魔狼と呼ばれていたのでしょうか」
夜空に浮かぶ無数の星々を眺めながら、レイクをそう呟いた。
「会ったことがあるのかい?」
レイクの口ぶりから察したスティーゴがそう問う。相変わらず、視線は火の中に向けられたままだが、空を見ているレイクがそれに気づく筈もない。
「ええ。一度だけですが。ちょうど二年前に」
淡々と語る声音に思われて、口惜しさのようなものを押し殺している声だとスティーゴには聴こえた。戦ったのかはわからないが、何かしらあったのだろう。その点を聞く気はスティーゴにはない。話題を振ったのは彼だが、語りづらそうなことまで聞く言われはないからだ。火をくべるのをやめ、両手を地面につき、顔を上げて一度夜空を眺めてから、スティーゴは目を閉じて言った。
「……確かに、あれは狼だった。獣のような姿に冷たい眼。全てを喰らう牙も切り裂く爪も持っているのに、遠吠えも出来ない、たった一匹の狼」
二年前の事を思い出しているのだろう。空を見上げたままのスティーゴをレイクを見上げるが、彼はそれ以上は言わなかった。レイクもまた、何が聞きたかったのかわからない。抽象的に思えるスティーゴの言葉が、よく噛み砕けなかった。と、そんな二人の耳に、一人の少女の声が届く。
「スティーゴさんは、魔狼と戦った事があるんですか?」
スティーゴが首を巡らせ、レイクが体を起こす。二人分の視線の先にはテント、その前に立つキャンラの姿があった。
「どうしたんだキャンラ。寝れないのかい?」
彼女の問いには答えず、スティーゴはそう話題を逸らす。
「少し、目が覚めてしまって……それよりも私も聞いた話なんですが、魔狼というのはとても強かったと、アヴェンシスでも最たる強さだったと聞いています。スティーゴさんは」
「まともに戦えてなんていないよ。俺は、何も出来なかった」
剣士の端くれだろうからか、魔狼の話題に真剣な眼差しで食いつこうとするキャンラを、まるで袖にするようにスティーゴはまた空を見上げ、素っ気なく答えた。まだ何か聞きたそうに胸の前で手を握り締めるキャンラだが、スティーゴの寂寞と無力感を思わせる背に口を噤む。レイクもまた、場を補う術を持たずただ押し黙っていた。
そうする事数分経ち、動いたのはスティーゴであった。徐ろに立ち上がり、振り返ってキャンラの方へ歩いて行く。下を向いていた彼女の視界にスティーゴの脚が写り、腕の持ち上げられる気配がして、反射的にキャンラは身を硬くした。
「……もう遅いから、寝た方が良いよ。それにニィネは近くに誰か居ないとすぐ目が覚めてしまうんだ。行って上げてくれるかな」
優しい声が聞こえてから、キャンラはスティーゴの手に撫でられている事に気づく。少しの間呆けてた顔をしていたキャンラだったが、やがて小さく微笑み目を瞑って頷くと、一歩下がり真っ直ぐにスティーゴの事を見つめた。何かを言いかけて止め、それから大きく一呼吸置いてから、彼女は言った。
「今日は……本当に、ありがとうございました。明日、私は仲間の人達を探しに行こうと思います。本当なら、何かお礼をしたいのですけれど……何もなくて言葉しか……」
礼をする物を持たない、と嘆く彼女にスティーゴは首を横に振った。
「気にしなくて良いよ。ニィネとも仲良くしてもらったし……ニィネは結構人見知りでね」
言葉は長くは続かない。先にある別れを惜しむからだろう。それでもやがてキャンラは踵を返しテントへと戻っていった。
その背をただスティーゴは静かに見つめ、おやすみと声をかけた。振り返らない少女から、短く、はいとだけ返事があった。
翌日。日が昇ると共にスティーゴ達は行動を開始した。まだ朝間の方が気温も低く動きやすい為だ。テントをたたみ朝食の用意を開始するのは、無論スティーゴとレイクの二人である。ニィネもキャンラも早起きは得意ではないようで、手を繋いだままもう片方の手で鏡のように同時に目を擦っている。スティーゴが準備の片手間タオルを渡し、二人はそれを受取る、がすぐに顔を拭き始めたのはキャンラだけでまだニィネはぼうっとしている。それに気づいたキャンラがニィネの顔を拭いてやった。
そんな朝の一幕を早々と終え、出発の時間となった。スティーゴ、ニィネ、レイクがキャンラと向かい合っている。キャンラの手には、スティーゴが上げた麻袋があった。
「それじゃあ、気をつけて。袋の中に地図とコンパスも入れておいたから、迷わないようにね。本当に一人で大丈夫かい?」
気をつけて、と見送るような挨拶をしたにも関わらず、やはり心配だと言うスティーゴにキャンラは苦笑する。
「大丈夫ですよ。お水もご飯も分けてもらいましたし。それに、私方向音痴なわけじゃありませんから」
そう言うキャンラの元へ、ニィネが駆け寄り、見上げる。キャンラもまた、ニィネの身長に合わせるように屈んだ。
「キャンラ……また、あえる?」
「うん! また会おうねニィネちゃん」
飛び切りの笑顔で答えるキャンラに、ニィネは黙って小指を突き出す。きょとんとするキャンラにニィネは言った。
「……ゆびきり。やくそく」
指切りを知らないのだろうか、よくわからないと言った困惑の表情をしながらも、キャンラはニィネと同じような手の形をつくり、小指を突き出す。ニィネがキャンラの指を捕まえた。それは、右手と左手の少しやりづらそうな指切りだったが、それでも二人はしっかりと再会の約束を交わした。
「これで、またあえる」
指が離れる間際、そう告げ、ニィネは小走りでスティーゴの元へ、その足元の橇に戻った。きっと、別れを惜しむが故のそれを振り切る為だったのだろう。
三つの背中が遠ざかって行くのを、キャンラはただ立ち尽くして見つめていた。やがてそれが点になっても、地平線と同一になっても尚、彼女は立ち尽くす。
「良い人達だったなぁ……」
砂漠の真ん中の岩場に独り、少女は誰に言うでもなく呟いた。相も変わらず笑顔ではあるが、それはつい今朝までスティーゴらに見せていた笑顔とは違い、影を感じさせるものだ。しゃがみ込み、スティーゴにもらった袋を持っていない方の手で、砂の地面を撫で始める。
「また、会えるかな……無理……だよね。ゆびきり、したのになぁ……」
ただ独り言を呟きながら土遊びをしているように見えて、キャンラは指先で砂上に小さな円と、その中に広げられた両翼に見えなくもない斜めの線を複数と、その下に左右に三つずつ、内側に向かう爪のような曲線を描いていた。そうして、手を翳したまま、片手に持っていた袋を置き、立ち上がる。
「おいで」
砂上に描いた印が暁に光り、そこから一つのものがせり上がってきた。印が放つのと同じ色の、刀の柄である。独りでに登ってくるそれは黄金の鍔を表し、銀の地に黄金の螺旋の紋様があしらわれた鞘が出てくる。柄の先はキャンラの身長を超えて尚伸び、柄尻がキャンラの腕を押し上げる。彼女の腕が柄に乗る限界となった頃に、キャンラは手を引いて刻印から呼び出した大太刀の鞘と柄を掴み、体を半回転させつつ引き抜いた。片刃の波紋が砂漠の太陽に照る。キャンラの動きに軽く舞った砂が刻印を見出し光りが消える。刃が鞘を滑った、鈴を鳴らすような音が、熱帯の空気の中を凛と流れ、溶けるように消えていく。
キャンラが大太刀を抜いたまま棒立ちになり、程なくして彼女の頭上を巨大な影が覆った。見上げる少女のオッドアイに映る、数十メートルはあろうかという巨鳥が象牙色の羽を広げ、キャンラ目掛けて落ちるように向かってくる。あまりの巨大さに、遠近感も掴めなさそうな程である。だがキャンラは身動ぎ一つせず、ただ眺めるようにその光景を見ていた。地表間際に来た巨鳥は体を転じると両翼の一羽ばたきで砂塵を巻き上げると共に減速し、人など握りつぶせそうな二本の脚で大地を掴むように着地する。
その頭上から、一つの人影がキャンラの目の前に飛び降りた。全身を無骨な、一切の装飾のない甲冑に身を包んだ兵士。鎧の所為もあるだろうが、かなり大柄な男。両肩からはためく巨鳥の瞳と同じ滅紫色のマントから、兵士の中でも上の格で有ることを匂わせる。男はキャンラの前に立つと、恭しく片膝を着き、フルフェイスの兜のバイザーを上げ、キャンラを見上げた。
「こちらに居られましたか。皆心配してますぞ。キャンラ皇女」
「ごめんなさい副隊長。心配かけて」
皺の寄った目元と渋い声音から壮年の男性と思われるその兵士に、キャンラは謝罪しつつ大太刀を鞘に収める。と、副隊長が立ち上がり、今度はキャンラを見下ろした。
「全く、あなたという方は……ここは敵国なのですぞ? それも砂漠という実に危険な場所だ。それをなんとお考えか」
「……うん。本当に……ごめんなさい」
小言を真摯に受け止め、謝罪するキャンラに面食らったのか、副隊長はバイザーを下ろし、背後の巨鳥に手振りをする。その動きを追うように、巨鳥の頭が地面すれすれまで降りてきた。
「反省なさっているようですし、一先ずは皆の元へ戻りましょう。近くのオアシスに野営しております故」
男の指示に従い、頷いたキャンラは一旦しゃがんで、足元においていたスティーゴから受け取った袋を抱えた。その様子を見て、男の眼光がバイザーの奥で光る。
「その袋は?」
冷たく響く問いにキャンラの肩が跳ねる。俯き、視線から逃れるが、副隊長はキャンラから目を話さない。無言に圧力に耐えかね、彼女はぼそりと言った。
「私、その……倒れてしまっていたらしくて……それを助けてくれた、教会の騎士の人に」
か細い声が並べる弁明のような台詞は最後まで言い切らせてはもらえなかった。大事そうに抱えていたその袋を、副団長の手が強引にひったくり投げ捨てたのだ。あっ、と反応するよりも早く、キャンラの頭上から怒鳴り声が降る。
「あなたはご自分の身をなんと心得ておられる! その上、教会の騎士に助けてもらっただのと! あまつさえ施しを受けるなど、あなたにはノラルの王族としての誇りはないのか!」
激しい叱責に呆然としながら、キャンラの目は投げ捨てられた袋を虚ろに追っていた。何故、とキャンラの頭の中にはそればかりだ。副隊長の言う事も理解はしている。勝手に部隊を抜け出しその結果倒れてしまったのは自分の責任である。だが、昨夜そして今朝と自分を救ってくれたスティーゴ達の優しさ、自分を抱え上げてくれた力強い腕も、心配の言葉と暖かい食事も、惜しまれた別れも再会の約束も、全てが否定されるような事ではないのではないか。そんな思いが巡る。それでも、キャンラにはどうする事も出来なかった。まだ叱咤の雨が降る中、キャンラの視界が揺れる。気づけば、副隊長が自失として動けない彼女の腕を引っ張り、巨鳥の上に誘っていた。
「ともかく、ここは隠れるに向かないので移動します。こんな砂漠のど真ん中ではこのルフの巨体では目立ち過ぎる……さあ、飛びますぞ」
ルフと呼んだ巨鳥の背にキャンラを座らせ、自信は後頭部の辺りに跨り、ルフの首を足で叩いて合図をする。砂塵を巻き起こしながら巨鳥が空へ飛び立つ最中、キャンラは黙ってルフの背の羽毛を握り締めていた。