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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第二章
7/88

巨大湖にて

 無事航海を終えたカルペディエム号から降り、ヴィノとマロナはようやくアヴェンシス教会傘下、港町ヘイズの地に立った。古くからアヴェンシスがあるギティア大陸以外の場所との交易の場として栄えてきたこの場所は、一言で言うなれば文化のるつぼだ。広く大きな港から覗く街並みを見るだけでも、まるで統一性のない建物がそれを実にわかりやすく教えてくれる。レンガ造りあり木造あり石造りあり。行き交う人々の装いも様々。本来ならばヘイズの気候に合わせた建物の造りや服装にするのが正しいのだが、地元の人間を見つけるのが難しいくらいのこの町で、何処かから辿り着き居着いた人々は、それぞれの文化を持ち寄りそれを主張する事を憚らない。恐らくは、そうすることで自身の出自を忘れないようにしているのと、誇りの問題だろう。しかし、そうして異文化の入り混じった場所は、小旅行目的の人々には非常に好評である。ここヘイズに一度来るだけで、多くの地域の文化を味わう事が出来、次の目的地を決める指標にも成り得る。


「はーぁあ。なんか久々の船旅だってのにあんまし楽しんでる暇はなかったなー。あれはあれで良かったけどよ。取り敢えず宿決めようぜ宿」


 数時間ぶりの地べたに立ち、軽く伸びをしながらマロナは自分の前に立つヴィノにそう言う。仕返ししてやるとの宣言は一体何処へやら、だがそれは当人の問題であるので、ヴィノはわざわざ言わない。首だけマロナに向け静かに返答した。


「僕は行くところがある。宿は必要ない」


 時は既に夕暮れ。てっきりヴィノも宿を取るものだと思い込んでいたマロナは、慌てて既に歩き始めていたヴィノの前に出て振り向き後ろ歩きのまま言う。


「ちょ、ちょっと待てよ。なんだよそれ聞いてねぇって」


「今言った」


「そーゆー問題じゃねぇえ!」


 あくまで平然とした様子で答えるヴィノにマロナが声を荒げて食い下がる。仕方なく、ヴィノはちゃんと話を聞く為に立ち止まった。そのままマロナに後ろ向きで歩かせるのは危険と判断したのだろう。


「何が問題なんだ」


 しっかりと対応される事は予想外だったのか、ヴィノへの返答に詰まるマロナ。両手を組み始め、意味もなく忙しなく指を動かし始める動作と右に左にと惑う視線に声を出そうとして閉じる口元は、何処か恥ずかしそうであり申し訳なさそうでもある。擦れた性格故か、真正面から真面目に応対されるのは慣れていないということなのだろうと、ヴィノは当たりをつけた頃、ようやくマロナは小さく零した。


「……宿、わかんねぇんだよ」


 そんな事かとヴィノは少し力が抜けたようで数秒だけ黙して目を瞑って首を下げた。呆れられたとマロナは思ったのか、だん、と地面を踏みつける。


「仕方ねぇだろ! アタシはバレシアナから出た事ねぇんだよ! 大体、行くところってなんだよ!」


 ひと通り捲し立てたところで、何かに気付き、今度は得意げな顔で腕を組んだ体勢で嫌らしくヴィノを見上げた。


「はっはーんわかったぞ。アンタそう言ってアタシから逃げる気だな? 行くところなんて口から出任せだろ? そうはさせねぇ、アタシもアンタのその用事についてってやるよ」


 どうあっても自分が上というスタンスは崩さないらしいマロナである。数瞬きょとんとしていたヴィノだが、あんまりな言い様の意味を理解して額に手を当てた。溜息は、船上で小言を言われたので我慢したのかもしれない。額に当てた手で両目を隠して思考する事僅か。そのままの体勢で、ヴィノはもはや決まり文句となりつつある台詞を言った。


「……ご勝手に」












 町の東側の出口から林内へと伸びている坂道を歩くこと十数分。沈みかけの夕焼けが映える頃になり、ようやくヴィノは歩みを止めた。照度の高い林内で、一際開けた草原。そこには巨大な湖面が広がっていた。その名をツバリ湖。その水岸に立っても水平線に反対側の岸は覗けない。これが湖であると知らなければ、海と勘違いしてもおかしくはない。よく見れば、町側の林道からの一角だけ木々がなく、観光地となっている事が伺える。よく見れば、湖の際に何組かの人も居た。湖の周囲を囲う木々は季節になると紅葉し、エメラルドグリーンの透き通った湖に加え、絶景となる事でも知られる場所である。だがそれでも、夕日に照らされる広大な湖面は鮮烈に美しく、見る者の心に優しく鼓を打つように感動を与えるだろう。マロナもまた、その一人だった。

 立ち止まるヴィノをゆっくりと追い越して、マロナは他人の入らぬ視界で今一度ツバリ湖を、広がる美麗な景色を瞳いっぱいに映す。夕焼けも相まって、幾度となくこの場に来たことのあるヴィノでさえ、マロナの我を忘れた様子は理解出来た。


「すげぇ……」


 たっぷりの時間を用い、マロナが言えたのはただその一言。それ以上の表現をする術を、彼女は持ちあわせていなかった。また数分景色を見つめ十二分に堪能してから、マロナはようやくヴィノの方へ振り返った。


「なんだよ、こんないい場所このアタシに隠すつもりだったのかよ。意地汚ねぇなぁ」


 嫌味な言葉とは裏腹に、マロナが浮かべているのはまだ感動の余韻が抜けきらぬ清々しい笑顔なので、ヴィノも毒気が抜かれてしまう。目を逸らし、帽子のツバを少し下げると、ヴィノは湖に向かって右の方へ歩きはじめた。


「用があるのはここじゃない」


「あっ、おい待てよ」


 すたすたと歩き出すヴィノに小走りで着いて行きながら、マロナはもう一度だけツバリ湖を振り返り、柔らかく笑った。


 切り開かれた広場のような草原から、人工的な手入れは一切されていない森の中へヴィノは踏み込んだ。その後ろを行くマロナは一瞬嫌そうに苦笑いしたが、一応獣道らしきものが形成されているようで歩き安そうな路になっていた為、特に文句も言わず後に続く。がらりと風景の変わる森の中は、一分もあるけば湖に居る人々からは見えなくなるだろうくらいに鬱蒼としていた。先程湖に至るまでの路は足場も丸太で出来ていた上に木々も適度に疎らであったのは、観光客ように手入れされている結果なのだろう、とマロナは推測する。そんな事を思っている内に、ヴィノが歩みを止め、マロナもまたその隣に立ち止まった。そこにあったのは一つの家。木造の小さな一階建ての可愛らしい家だ。ペンキ等で塗装はされておらず木材本来の色が味のある造りだが、防腐剤処理などもされていないのか、少し腐食や苔なども見える。じっとその家を見つめるヴィノに先んじてマロナがその家に近づき、こんこんと壁を叩いた。


「お洒落っちゃお洒落だけどよ、これ風化対策されてないじゃねーか。大丈夫かよ」


 少し呆れた顔でマロナが言うのを、ヴィノは少し驚いた目で見る。


「そうなのか?」


「物の目利きは商人の基本だ。大体、そうなのか、ってこれアンタのじゃねーのかよ」


 マロナの問いに、ヴィノは顎に手をあてて考えこむ。今の質問の何処に考える箇所があるのかと少し苛立ったマロナが腕を組み右足で地面を叩き始めるが、ヴィノは構わずに数秒たっぷり思考してから答えた。


「僕のものではないが、使用者は僕しかいない」


 ならアンタの物でいいんじゃないか、と言いたくなるマロナだったが、事情はよくわからないので口を噤む。

 ヴィノは黙ったマロナの横を通り、家の玄関の前へ行った。外出どころか数時間前までは別の国に居た筈だが、鍵はどうするのかとマロナは見ていたが、特に解錠する動作も見せず、ヴィノの開けた通りに扉が開いた。慌てて、マロナが半ば叫ぶように言う。


「おいおい鍵かけてねぇのかよ!」


 全く正当な事を行ったつもりだったが、ドアノブに手をかけたまま首だけ振り向いたその目は、何を言ってるのかと言外に伝えていた。


「かけていたさ……で、入るのか?」


 さも当たり前のように答えるが、マロナは納得がいかない。鍵を持っていたようには見えず、そもそも開ける動作も、というか鍵穴が扉には見当たらない。持ち主が触れれば自動的に扉のロックが解除される呪術なんてものもあるが、それは大抵ロックテール家のような豪邸の、それも当家の人間の部屋に使われるくらいだ。森の中のそれも長らく周囲の手入れもされていないような割りと雑な造りの家に、わざわざそんな術式を組み込んでいるとは思えない。疑問が湧いて当然であるが、ヴィノの事がよくわからないのは今更なので半ば諦めた。


「……入るよっ! いいだろ別に」


「……そう」


 とはいえ、得心しないのは変わらないので、マロナは少し声を荒げて答えていた。

 コテージのような家の外見と同じように、内装も木製であった。丸太を縦に切って作ったのだろう木の板を組み合わせて床を造り、家具なども木材の組み合わせだ。釘などは一切使われておら、全て組み木細工で出来ている。だが、やはり唯一の使用者たるヴィノもあまり立ち寄らないのか、あたたかみのある木造なのに嫌に生活感のない場所、というのがマロナの印象だった。ひと通りの家具はあり、どれも綺麗に整頓されているが、少し埃を被っている。くるりと玄関から室内を一望してから、マロナはキッチンの下の収納スペースを覗き込んでいるヴィノに声をかけた。


「なあ、ここアンタしか使ってないってことは、来るのはいつぶりなんだ?」


「……半年くらいだな」


 答えながら立ち上がるヴィノの手には、銀色の筒と二人分のティーセットがある。


「飲むか?」


 わざわざ二つ取り出したのだ。マロナを誘うのは当然と言えるが、それが意外に思えマロナは少々言葉に詰まる。一つ咳払いして、いつものように尊大に腰に両手を当てた。


「当然だろ。ってか大丈夫なのかそれ。半年も放っておいて」


「保存はしっかりしているつもりだから大丈夫だ」


 つもりという単語に一抹の不安を覚えるマロナだが、是と答えた以上後戻りは出来ないプライドが大人しく彼女を席に着かせる。そう時間はかからず、マロナの前に芳しいハーブの香りと湯気の立つカップが置かれた。


「ふーん、タイムティーか。匂いは悪くないな」


 ハーブティーの種類が香りだけでわかる当たりは流石はお嬢様と言ったところなのだろう。批評してから一口含む。その間に、ヴィノも席に付き自分の紅茶に口をつけた。


「つうか、よくこんなとこに水道通ってたな。もしかして半年前に貯めてた水とか言うなよ……?」


 ふとした疑問を口にするマロナだが、自分で言ってて恐ろしくなり、一旦カップを置く。


「あの蛇口からの水は呪術で出来たものだ。心配要らない」


 ヴィノの答えに、しげしげと台所の方を見つめるマロナ。しかし付けられているのは何処の家にでもありそうな普通の鈍色の蛇口だ。内部構造にそういった呪術がかけられているのだろうか。マロナの知っている呪術付きの蛇口というものの中には、内部に仕掛けられているものある。無論、高級品だが、森の中の目立たない小さなこの家、それも半年に一度の利用者が現れるだけの場所にそんなものをつけておく理由がわからなかった。ヴィノの持家でもないと言うこともあり、マロナの疑問は湧くばかりである。


「なあ、ここアンタのじゃないって事は持ち主は別に居るんだろ?」


 思い浮かんだ事をそのまま口にしたマロナの質問に、ヴィノは間を置いた。静かにカップをテーブルに置き直す動作には、少しだけアンニュイな雰囲気がある。基本的に短気なマロナは、普通よりも緩慢なその動作の間を急かしたくなったが、ジッと自分の目を見つめてくるヴィノに、何も言えなくなる。が、それで引き下がるマロナではない。グッと堪え、視線を返し続ける事数秒、ようやくヴィノは口を開いた。


「今は……もう居ない。親類の居場所も連絡先もわからない。ただ、僕がその最期を見た」


 居ない。最期。その言葉が人の死を表している事くらいは、マロナにもすぐにわかる。


「特に誰にも知られていないものだ。朽ちていくだけのものにして放置するには虚しいから、僕が勝手に管理して使ってる」


 淡々と言葉を並べるヴィノ。カップの取手に指はかかっているのものの、持ち上げる様子はなく、少し顎を引いた体勢では、帽子のツバに目が隠れて見えず、平坦な声音からは感情が読み取れない。それでも、意図的に隠したと思えるその行動が語っている。

 マロナにはもう追求する事など出来はしない。それが気遣いなのか、自分の気分まで落ち込むのを嫌がったのは、本人にも定かではない。カップの残りのタイムティーを一気に飲み干し、忘れていた予想外の熱さに顔をしかめて舌を出す。意味があるのかは知らないがパタパタと手で仰ぐマロナの前に、いつの間に動いたのか、ヴィノがガラスのコップに一杯水を汲んで置いていた。呆気にとられるマロナを置いて、ヴィノは二人分のカップを流しに持って行って洗いながら、言った。


「少ししたら町に降りて夕飯を買う。荒らさないなら居てもいいが」


 荒らさないなら、というところが嫌味なのかはたまたそのままの言葉なのか判断しかねるところである。そんなことよりも、正直に言えば町にもう一度降りるのは面倒だと思うマロナ。だが、彼女はふと船上での一件を思い出した。


「……行く」


「そうか」


 同行に拒否を示されなかった事をマロナは若干安堵した。

 夕飯と称して豆か何か買ってこられたらたまったものではなかったからだ。











――深夜。

 ヴィノとは違う部屋をあてがわれたマロナは、光一つない部屋の中で一人、ぼうっと見える筈のない天井を見上げていた。灯りが点いていればそこには素肌剥き出しの木の板が張られている。見えるはずのないそれをなんとなく頭の中で描き、見ている気になりながらマロナは、防腐処理くらい手伝ってやろうかと考えていた。とはいえ、ヴィノがどの程度この家に滞在するつもりなのかも知らない。夕方に着いた今日は自分たちの寝床とキッチン周りにテーブル周辺程度の掃除をして、買ってきた夕食に舌鼓を打ち、見事に冷水しか出ないシャワーを浴びて、今に至る。ちなみに、夕食はマロナの危惧したような非常食的なものは一切選ばれなかった。しつこくキュウリのピクルスを食わせてやろうとヴィノに迫ったら、額に一撃食らったりもしたが、それは良い。食事も取り、冷水とはいえ体も清めた。初の旅行という事に付随する疲れもある。どうにも遠い事に思えるが、今日マロナはフェルと戦った身でもある。だというのに、彼女には一向に眠気というものがやってこなかった。

 天井を見るふりも飽き、寝返りを打つ。動きとうつ伏せで近くなったベッドのシーツは少しカビ臭いというか、木材の何とも言えない臭いが染み付いている。少し眉をひそめるマロナだったが、余程の悪臭でない限り、人間の嗅覚はそれほど鋭くないので慣れが来る。一つ深呼吸する頃には、特に気にもならなくなった。

 寝れない。体は確かに疲れているのに瞼が異様に軽い。世の中には疲れすぎて眠れないという事があるというが、そこまで疲れているのかと聞かれると、マロナは素直に肯定する気にはなれなかった。もはや、待てど暮らせどこなさそうな睡魔に嫌気が差し、のそのそと彼女はベッドから這い出した。布団の衣擦れの音、床に足つく音が嫌にはっきりと聞こえ、マロナは僅かな恐怖を感じた。人間、元来暗がりを恐れる生き物である。布団を被っていればなんとなく守られているような気がするが、それを剥いでしまえば生身一つで暗闇に放り出される感覚に陥る。一瞬、恐れ戻ろかと思ったマロナだったが、いやいやと首を振り、そんな事をしたら余計眠気が遠ざかるだろうに勢い良く立ち上がった。拍子に、足元にあったスリッパを蹴飛ばしてしまい、壁に当たる。自分で出した音に肩をびくつかせるマロナ。と共に、かたり、とどこかからか音がした。続けざまに、それも後者は何かわからない音にさらに身を縮込める。見えもしないのに目線だけを動かしながら、マロナの口が小さく開く。


「お、おい……」


 床に着く前の感覚で、マロナは扉の方を見ながら掠れた小さな声で呟く。ヴィノかもしれないと思ったのだろう、しかしながら答えはなかった。少しの間返事を待ち続けるマロナだったが、全くの無音に今度は無性に腹が立ってきた。何に対してと問われれば恐らくは、この程度の事にいちいち怯えた自分になのだろうが、マロナはそれを自覚してはいない。自分で蹴飛ばしたスリッパを履いて、ズカズカと部屋を出て行く。勢い良く開けた扉を後ろでに閉める時はやけに優しかったのは余談である。

 

火垂留ホタル


 短い詠唱と共に、マロナの右手の中にぼんやりとした光の玉が生まれる。熱量を持たない、ただの灯りだ。マロナの周囲が見える程度の光量はある。あまり強い光だと目が疲れる上に霊力も余計に使ってしまう。マロナの使っていた部屋は出て右に行けばすぐにダイニングに繋がる扉に行き当たる。玄関、ダイニングキッチン、廊下から二部屋という一風変わった造りの家だ。手狭なのも手伝い、造りを忘れようがない。手に光を持ちながらも半ばこわごわマロナはダイニングへの扉をくぐった。

 キッチンの中に入り、適当なコップで水を一杯飲んだところで、マロナはあることに気がついた。窓が、ないのだ。それも一つも。思い返せば、自分が居た部屋にも廊下にもなかった気がした。人目に付かない森の中にひっそりと建つ、外界を遮断するように窓の一つもない小さな家。

 なんとなく、マロナは外の空気が吸いたくなった。コップを置き、そろりそろりと出口に近づいていく。時計を持っていないので正確な時間は知るよしもないが、夜は静かに、の常識ぐらいは持ち合わせている。火垂留を載せていない方の手でドアノブに触れ、止まった。違和感。指先、触れているドアノブ、繋がっている扉の向こう側に、気配を感じた。火垂留を生み出したまま触れた為か、その感覚は彼女がロックテール家特有の変質術を使う際の感覚、それも失敗の時に生じる異物感に似ていた。それがなんであるかの判断は彼女には出来ない。

 恐る恐る、ノブを捻り、投げるように開け放った。

 火垂留を手から離し体の中心当たりで浮かせながら、右に、左にと首を振りきれんばかりに振って当たりを見回す。だが、すぐに光を反射してくれるものがある室内とは勝手が違い、外では灯りは下手に拡散して遠くまでは見えない。むしろ、暗闇に慣れていればまだ見えたのかもしれないが。しかしそれをマロナは気づかず、自分の思い違いかと一息吐いた、その時。彼女の前に三つの人影が落ちた。マロナを等距離に捉えた位置に突如として上から現れた三人に、驚いたマロナは一歩後ずさり、拍子に火垂留の光量が上がる。それに照らし出される不審者をしげしげと見て、マロナは落ち着きを取り戻した。


「……なんであんたらがここに居るんだよ? あ? 親父の命令か?」


 突然現れた三人は全て、質素な革防具に身を包み、腰に細剣を差した者達。そう、ロックテール家お抱えの近衛兵達であった。見慣れたどころか見飽きたその風貌に溜息を吐きながら、マロナはじろりと三人を睨む。問には、扇状に並ぶ三人の内、真ん中の者が答えた。


「仰る通りですマロナ様。当主様から、家出娘を連れて帰るように仰せつかっています故、大人しく着いてきていただければと思います。ロックテール家の方でバレシアナ行きの船は用意してありますので」


 あくまでも事務的に要件を伝える男に、マロナはそっぽを向く。


「嫌だね。アタシはアタシの目的があって家を出たんだ。それを今更何もなしに戻れるかっての」


「しかしながらマロナ様、当主様もご心配なさっておりますので」


「しつこいな!」


 帰宅を断って尚食い下がる相手に業を煮やしたマロナが声を荒げた。だが、横暴な彼女の態度はロックテール家内の人間には日常茶飯事である。年端も行かない小娘に怒鳴られた事に苛立ったのか、相対していた男は大きく一息呼吸を整えた。


「あまりに拒否するようであれば多少ならば強引でも構わないと、当主様から命ぜられて居ます。マロナ様。大人しく我々と共にバレシアナに帰りましょう」


 言いながら、男の左手が細剣の柄に乗る。最後通告という事なのだろう。男の両隣の兵も、習って今にも剣を抜かんと構えた。大の武装した男が三人、少女に向かって無粋な光景ではあるが、マロナはロックテールの変質術の使い手である。基本的な纏霊や霊覚などの技術が一般兵より劣っていようと、それを埋めるだけのアドバンテージは十二分にあるのだ。小馬鹿にしたように、マロナはニッと口元を歪めた。


「力尽くね。荒っぽくて結構な事じゃねぇか」


 拳を叩いて鳴らし、両肘を体につけるようにして腕を開き、握りこぶしを上に向ける。素直に着いて行く気はさらさらないと、好戦的に光る目が告げていた。

 マロナの正面に立つ男もまた、柄に乗せていただけの手を、今にも抜き去らんと握る形に変える。本来ならばマロナと戦う意志を見せるだけで処罰を受けるような立場だが、今回ばかりは当主より太鼓判を貰っている。普段のマロナの態度も相まって、剣を握る手には一切の惑いも情けもないように思われた。

 きっかけなど何もない。硬直するかに思われた場を、マロナがいの一番に飛び出した。


瞬天足カソクツシタ


 足が光を纏う。光がマロナを運ぶ。靴や周囲の空気などを高速度で移動する物体に変質させ、それに乗るのがこの術の本質である。

 兵もまた、無言で剣を抜く。馬鹿正直に迫るマロナに対し、線の一撃で牽制する。瞬天足の光に照る刃と、その光がぶつかる、直前。マロナの後方から何かが飛来し、衝突点に先回りした。ぱりん、とガラスが割れる音がし、想定していたのと全く違う感触を得た二人の動きが止まる。と共に、二人に割れたガラスから零れ飛び散った水が降りかかった。


「ちべてっ!」


 足と顔にまでかかった冷水に思わず飛び退くマロナ。その背が、何かに当たった。それが何なのかを確認する前に、その頭ががしりと掴まれる。


「……騒がしいと思って出てくれば。こんな夜更けに何をしている」


 上から振りかかる声と、こちらを半ば怯えた目で見る兵達の反応で、マロナは自分の頭を鷲掴みにしている者の正体を理解した。


「ちっ……いいところだったのによ」


 頭を振ってヴィノの手から逃れ、舌打ちしながらマロナは背後のヴィノに振り返った見上げ睨んだ。不満は言いたりなかったが、それ以上のちょっとした驚きにマロナは二の句を次ぐのを忘れた。いつもはまとめている白髪の長髪が解かれている。いつものコートは着ているが、帽子も被らず背中まである髪を下ろしている姿はどう見ても美女だった。いつも無表情に思えていた顔も、物憂げな影が差しただけのように見える。しかしそんな印象を抱くのは、この場に置いて彼女くらいのものだ。兵達にとっては、ただの悪魔のような強さの傭兵、ただそれだけの認識だ。


「何故貴様がマロナ様と共に行動している。もうロックテール家と貴様は関係ない筈だ」


 怯まず、水を被った男が濡れた剣先をヴィノに突きつける。それと、左右二人の兵を見やり、ヴィノは小さく溜息を吐いた。それと共に下がった視線がマロナと合う。何か訴えようと真剣な眼差しで見つめるそれに、ヴィノはまた溜息を吐きそうになったが呑み込んだ。何故ロックテール家お抱えの騎士がこんなところまで来たのかの理由は考えずとも察しがつくものだ。

 ヴィノは考える。このまま家に返した方が後々の手間はかからないだろう。兵達に任せてマロナが取り押さえられるとも思わないが、彼女を気絶させる事くらいわけはない。しかし。

 数秒目を閉じ、改めて開いてからヴィノは言った。


「この子は僕の人質だ。ロックテール当主にさせた約束がきちんと守られているとすれば、返してやろう。約束の内容は僕からは教えない。知らなければ当主に聞くんだな」


 発言の内容に驚き目を見開くマロナを見ず、肩の辺りを引っ張って自分の後ろに隠すヴィノ。剣を突きつけていた男が声を荒げた。


「それでは誘拐ではないか! 馬鹿者め、そんな犯罪行為を我らがみすみす見逃すと思うな!」


 今一度強く剣を突きつけるが、ヴィノはそれになんら反応を示さず、ただ言葉だけを返す。


「戦うというのなら構わないが……僕は人質と言った筈だ」


 それ以上は言わなくてもわかる、と会話するのも面倒くさそうにヴィノは唇を結ぶ。しばしの間、正面の兵は剣の切っ先を向けたままだったが、やがてそれを鞘へ収めた。


「そのような蛮行がいつまでも続くと思うなよ傭兵。いずれ、マロナ様は返してもらう」


 両隣の二人の兵に手振りで撤収の合図をし、三人のロックテール兵は来た時を巻き戻したように上方へ飛び、木々に隠れて何処かへと去っていった。姿見えずとも音と気配により伝わる三人の去っていった方向を、少しの間ヴィノは見やり、溜息を吐いて、彼らが消えたのは別の方向、だが家とは反対の方向に歩きはじめた。

 家に戻るでもなく歩きはじめたヴィノに驚き、マロナが小走りで後を追う。


「お、おい。良かったのかよあんなこと言っちまって」


 勝手に着いてきただけの自分を突然人質呼ばわりしたヴィノに、マロナは混乱していた。今になって考えれば、追跡者である自分の事などあの兵達に突き返していた方がよっぽど楽であったことは明白である。それをわざわざ自分の手元に置いているような発言をしたヴィノの事が、マロナにはわからない。


「誰のせいだ」


 だが返答は簡素で冷淡だった。若干心配にも似た感情を抱いた事がどことなく恥ずかしくなり、マロナは顔を赤くして声を上げる。


「だっ、誰も頼んでねぇし! 余計な事言ってんじゃねぇよ!」


 ヴィノに関してはわからない事だらけである。まあわかるものならわざわざこうして着いてきてはいないわけだが、雲を掴むでもない、意図的に隠されているような、それこそ壁しか感じないヴィノに対する手応え。だというのに、ヴィノという女性は、時折優しさなのか情けなのか気まぐれなのかわからない言動をする。それが直情的なマロナには理解が遠かった。

 黙々と森の獣道を進んでいくヴィノ。その後ろに着いて行くマロナ。上を見あげれば木々の枝葉の隙間から月が覗けるが、その枝葉が邪魔で地面までは照らされず暗い。それでも全く足元の覚束なさがないヴィノに、マロナが問う。


「なあ、何処に向かってんだよこれ。てか寝ないのアンタ」


 先程寝れないとベッドを這い出した自分の事は何処へやら、マロナは少し欠伸をした。振り返らずにヴィノは答える。


「……少しな。帰ったほうがいいんじゃないか。もう夜も遅いぞ」


 遠回しに、でもないが帰れ、と言われた事にマロナの反骨精神に火がついた。ずんずんと大股で歩き始めると、ヴィノを追い越し前に躍り出て、腰に手を当てふんぞり返りながら後ろ向きに歩く。


「ガキ扱いすんなっての」


「着いてきても何も面白い事はない」


 あからさまに同行を拒否する姿勢を示すヴィノに、ますますマロナは頑なに着いて行く意志を固めた。


「そう言って今更逃げられたら困るからな。アタシは監視させてもらう」


 もう反論は聞かない、と進行方向に振り向き態度で示すマロナに、ヴィノはただ視線を落とすだけだった。












 巨大な鏡に浮かぶは揺らぐ月。

 海の如く広がる湖面、ツバリ湖。昼間は壮大だが優しい雰囲気を醸し出すその湖も、夜の今はまるで地上にぽっかりと開いた孔のようなもの恐ろしささえ感じさせる場所へと変貌していた。ほぼ無風で、音は湖の波音くらいだ。その際に、ヴィノは立つ。マロナはそれを数メートル離れた後方で見つめていた。

 ヴィノは湖面に映る月を静かに瞳に映す。いつもの無感動で無機質な硝子玉ではない。今彼女ははっきりと湖面に浮かぶ月を見ていた。背後に立つマロナがそれを知るよしもないが、どうしてかやけに小さく見えるヴィノの背をただ眺める。決して大きはない背丈、女性としては恐らく平均的だろう彼女の背は、マロナからすれば十分に大きいと思っていた。実際の身長の差もある。いまいち掴み取れない思考や何に対しても動じないような態度がそれを加速させているのだろう。だが、今この時ばかりはマロナは親近感に近い何かをヴィノから感じ取っていた。近づけば、そこに居るのは自分とそう歳も背丈も変わらないだろう少女が居る、そう錯覚する程に。

 そういえば、ヴィノの年齢を聞いていなかったなとマロナが思考が別に写ると共に、ヴィノはおもむろに履いていたブーツを脱ぎ始めた。白い素足が顕になり、躊躇う事なく湖へと足を踏み入れる。波紋が彼女の足元から走った。水面に乗る、足。ゆっくりとヴィノは進む。月明かりだけの深夜。銀白の長髪の美女が湖面を歩む姿は、それだけで何かの劇のワンシーンのよう。一足ごとに鍵盤が叩く音が、マロナの頭の中に反響していた。

 ヴィノの歩みがやがて止まる。マロナからは既に大分離れ、誰かも判別出来ない程遠くだ。


「開け」


 小さくヴィノの唇が音を発する。と、共に、ツバリの湖面がざわめき始めた。何かがはじまったとマロナが岸際に駆け寄る。まるで湖の水全てが震えてるかに見え、そして、湖が割れた。大瀑布の水音が静寂だった夜を塗り替える。数十メートル程に割れた湖はそこで止まり、丸見えの湖底へ端から水を流す。流れた水は底に溜まらずに湖の方へと流れこんでいた。自然には有り得ないその風景にマロナが目を奪われている最中、湖面に立っていたところから宙に浮かんでいたヴィノが静かに、その割れ目へと降りていく。気づいたマロナは瞬天足を発動して彼女の元へと飛んでいった。

 そこは、なんと表現したらいいのだろう。両脇は己の背丈よりも遥かに高い、数百メートルはあろう大瀑布の壁。前後は果てしない程に続く一本道のようで、荒野のような湖底がはっきりと見られる。

 ヴィノは数メートル後方に着地したマロナは、ゆっくりとしゃがむ彼女の背中に近づいていった。見ようとしなくても、その肩越しに細長い長方形の何かが、地べたから直立しているのがわかる。高さは人の三分の二といったところだろう。上端が丸みを帯びた楕円で、幅は30センチくらいだろう。黒っぽく光沢のある材質である。恐らくは石だろう。上端から数十センチ程下がったところに、何か文字が彫ってあった。直線の組み合わせで、くっきりと刻まれたそれを、マロナは静かにゆっくりと、呟いた。


「リ、シェー……ナ」


 聞いたこともない言葉だった為に、イントネーションがわからないマロナだったが、それはどうでもよかった。どれだけ鈍くとも、わかる。その石が、墓石である事は。


「あの家の元の持ち主の名前だ」


 しゃがんだ体勢のまま、ヴィノはマロナにそう告げた。いつもと変わらない平坦な口調も、今は何処か無理矢理に出しているような気さえする。


「綺麗な声で歌う、美しい人魚の少女だったよ」


「人魚だって?」


 思わぬ単語に、マロナの目が点になった。人魚。半人半魚の異種族。マロナも、その存在は耳にした事あれど、見たことはない。それもその筈だ。マロナも詳しい話は知らないが、人魚は千年ほど昔から人間との関わりを断っているという話なのだから。亜人自体があまり人間と関わらない為、まず街に住んでいれば見ることはない。よって、マロナもほぼ誰かの世迷言か想像の世界の話と思っていた節がある。とはいえ、今この状況でわざわざヴィノが嘘を言う筈がない。動揺を隠せないながらも、マロナはヴィノへ問う。


「なんでこんなところに人魚が。っていうかどういう経緯の知り合いだよアンタ」


「……たまたまここで会った。友人になれるかもしれなかった。それだけだ。詳しい事は……少女といったが本当の年齢も、知らない。知っているのはリシェーナという名前と、歌声。それだけだ」


 返答に、マロナは夕暮れにヴィノと話した事を思い出していた。家族の居場所も連絡先も、相手が人魚だったならば知らなくてもおかしくはない。調べようもないだろう。ただ、その最期を見たというのは。好奇心に半ば口が開きかけるが、音を発する事無く閉口した。マロナは、人の死を未だ知らない。目の前で誰かが死んだ記憶など彼女にはない。友人になれるかもしれなかった相手の死を看取った者の気持ちなど、推し量ることさえ出来なかった。ヴィノももはや語らず、名前しか刻まれていない墓の前で目を閉じている。

 二人分、もしかしたら三人分の沈黙に、落ちる水音だけがうるさく夜空に溶けていた。

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