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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第二章
6/88

動かぬ海

 数日後、バレシアナ港。

 真昼の太陽が柔らかい陽光を下ろす。人々は忙しなく、またゆったりと動いている。働く者、優雅に散策を楽しむ者、ただそこに居るだけの者。様々な人が行き交う、レンガ造りの海際に、ヴィノとハズナ、ヘネレ姉妹は居た。ヴィノの働きにより、商品という扱いから解放され、追われる事もなくなった二人は、今や俗に言う普通の生活というものに戻っていた。そうして、彼女らもまた今日実家のあるノラル本国へ戻る予定である。


「もう、行ってしまわれるのですか」


 寂しげに、ハズナが口を開く。その視線の先にはヴィノの姿。その背後には巨大な帆船が錨を下ろし停泊していた。あと数分で、ここバレシアナを出て、アヴェンシス領ヘイズへと向かう船だ。ヴィノはそれに乗るつもりである。

 名残惜しそうなハズナの言葉に、首肯を返すヴィノ。肩にかけた紐の先に、旅の荷物が詰めてあるのだろう、大きな布製の袋がある。数日の間、姉妹とヴィノは行動を共にし、ヴィノの旅支度や姉妹の生活用品の買物に、食事を共にしていたりしていた。元々、ヴィノは少しばかりは滞在するつもりだったが、今回姉妹と行動を共にしていたのには、護衛の意味も込められていた。いくら領主を直接恫喝したとはいえ、ヴィノ自身は一介の傭兵に過ぎない。一応、屋敷の去り際に何かあればすぐに飛んでくると言いはしたが、その効果の程はわからない。


「貴方達もでしょう。気をつけて」


 姉妹二人の実家には既に存命と帰還する旨を記した手紙を飛ばしている。出立日は今日だ。ヴィノもいなくなるのに合わせて出てしまった方が、まだ安全だろうとの考えである。


「ヴィノさんも、お元気で」


 ヘネレがそう言いながら、深々とお辞儀をした。救出されてから幾分か精神状態も落ち着き、ヴィノともまともに会話が出来るようにはなってきていた。と、同時、船の出発を知らせる汽笛が鳴り響く。静かに、ヴィノは踵を返し、船の方へ向かっていく。姉妹はその姿をただ静かに、寂しげに見つめていた。


 貨客船、カルペディエム号は最大三百人弱を運ぶ、バレシアナとヘイズ、ノラルとアヴェンシスを繋ぐ、数少ない船の一つである。直通で向かうその船は、渡航者よりも貨物の方にその積載の大半を裂いており、今回の乗客も百人を切っていた。そもそも、バレシアナとヘイズは、アヴェンシス、ノラルという敵国に分かれているのだ。先の騒乱で国王と王妃を失ったノラルとしては、いつアヴェンシス側の侵攻があるか気が気でない。今のところアヴェンシス側が侵攻の気配を見せる事はないが、王を失った先の戦いも気運が高まって、という事ではなく突発的に起きてしまったものであるが故に、民衆は二年経った今でも警戒の心を保っているのが現状だ。そんな経緯もあって、決して多いとは言えない旅客数だが、それでも運航されるのは一重にロックテールという大商人の影響と、その商人の一族が築き上げてきた手広い商業によるものだろう。

 船は大きく、その客室のスペースも大きく取られているが、搭乗者が少ない事もあり、三つ有る広間のような客室には余裕がある。それぞれの部屋に同じような人数が居るのは、人の習性というものだろうか。殆どの人間が壁際に寄っているのも同様だろう。ヴィノは、閉じ込められたようなその空間があまり好きではなく、甲板へと足を運んでいた。

 空は快晴。風もそれ程なく、聞こえるのは波の音だけと言ったところ。船は既に沖を離れ、周囲に海鳥の姿もない。ヴィノは何をするでもなく、柵の上に肘をついて呆けたように海を眺めていた。人と擦れ違わない為か、いつもは目深に被っている帽子のツバが斜め上を向いていて、その美人と呼べるだろう顔立ちが顕になっている。だが、艶やかな銀白の、簾のような前髪の奥に覗く藤色の眼は暗い。薄めでも三白眼でもないが、まるで硝子玉のように無機質だ。ふと、ヴィノは瞼を閉じ、薄い桃色の唇を小さく開いた。


「何の用?」


 がた、とヴィノの左側に合った大きめの木箱が揺れる。側面に浮き輪が括り付けられているそれは、恐らく中に救助用のロープでも入っているのだろう。人の半身より高い柵より少し低いくらいの大きさのその箱の後ろから、躑躅色の髪をした少女が現れた。

 憮然とした表情で、腰に両手を当てた尊大な格好で胸を張っている少女。口は不満そうに尖っている。先日、バレシアナでヴィノと戦った、マロナその人であった。


「何? アタシが船に乗ってちゃ悪いっての?」


 悪態を吐き、腕を組んで木箱の上に座るマロナ。ヴィノも決して背が高い方ではないが、マロナは一回り程年齢も幼く身長も低い。自尊心の強い彼女としては、同じ高さか上からの目線にしたかったのだろう。と、共に、そこに居座ったという事はヴィノに用がある事に他ならない。

 面倒事になるかもしれないと思ってか、小さく溜息を吐いてから、ヴィノはマロナに顔だけを向ける。お互いに憤然とした視線と無機質な目線が、無言のまま交差すること数秒。一瞬だけヴィノの眼がマロナの全身を見やり、言った。


「怪我の方は問題ないようで」


「おかげさまでね」


 先日の、ヴィノによるロックテール家への襲撃事件。人身売買の取りやめと所有している奴隷の解放を力尽くで了承させた後、ヴィノはマロナの怪我を霊術により治療してから屋敷を去っていた。右肩の欠損に左からに大穴、全身に打撲と大量の出血と命の危険も有るほどの重傷であったが、ヴィノはそれらの傷をまるでなかった事のように完治させていた。とはいえ、失われた血までは元に戻らず、マロナはすぐに気を失ってしまったのだが、怪我をした場所が屋敷の中であった事が幸いしたか、無事治療を終えたようである。ヴィノはその事を確認していた。それを皮切りに、今度はマロナがヴィノへ問いかける。


「あんた、次は何処に行くつもり?」


「答える義務も義理もない」


 素っ気ない返事にすぐにマロナは不満顔になるが、一息木箱から飛び降りると不遜な笑顔でヴィノを見上げた。


「ま、なんでもいいよ。アタシ、しばらくあんたにつき纏ってやるから」


 ヴィノの眼が点になる。何処の世界に好き好んで、殺されかけた相手について行くなどと堂々と宣言する人間が居るというのか。事実、ここに居るのだが、居るが故に、ヴィノの思考が止まる。その間も、マロナは喋る。


「アタシ、負けっぱなしって趣味じゃねーの。あんたにつき纏って弱み握ってやり返すのが一つ。それと、あんたに聞きたい事がたくさんあるってのが一つかな。ああ、心配しなくていーよ。ついてくのはアタシ一人だけ。大体、パパにも置き手紙だけで出てきちゃったしね」


 家出も同然の事をすらすらと言ってのけるマロナに、ヴィノは額に手を当ててどうしようもないと首を横に振った。とはいえ、今更追い返すのは、出来なくはないが面倒事になるだろう事は確実。ヴィノとて自身の予定というものがある。


「……ご勝手に。僕は関与しない」


 最終的に、疲れた声音でそう言うのが限界であった。つき纏われるのは本意ではないが、いざとなれば撒く事は容易だと考えていた。かなり派手な事態になったが一度逃げた経験もある。復讐するつもりでも、そう恨まれるくらいの事をしたのは自覚があった。同時に、なんとかなるという思いも。

 マロナは、素っ気ないが諦めたようなヴィノの言葉を同行の了承だと受け取ったのか、歯を見せてにっと笑う。


「で、アンタ飯は? 食ったの?」


 昼食の時間はとうに過ぎていたが、ヴィノは未だ食事を摂っていなかった事に気づいた。バレシアナを出た時が真昼であり昼食は摂っておらず、そういえば空腹である事を思い出す。と、コートの内側から小包を取り出し、言った。


「今から」


 ヴィノの返答に、マロナが小首をかしげながらその手にある包を訝しげに見る。


「なに、それ」


「豆」


 質問の答えに、律儀に包の中身を広げて見せるヴィノ。中には大小様々、地味な色とりどりの豆が入っていた。しかし、昼食というには侘しくどう贔屓目に見ても非常食にしか見えない。いやいや、とマロナは手を振った。


「豆、じゃねぇよあんたいつもそんなもん食ってんの? 貧乏臭いったらありゃしないな」


 言いながら、マロナは踵を返し首だけで振り向いて言う。


「食堂行こうぜ。アンタに聞きたいこと有るから、情報料として奢ってやる」


 情報、という見返りを求める割には尊大な態度である。ヴィノとしては豆でも摘んで目的地に着いてから食事でもと考えていたのだが、マロナがそんなところまで考えに至る筈もない。そもそも、ヴィノが聞かれた事に答えるなど言ってない時点で、料金の話などもってのほかだが、その当たりはやはり子供なのだろう。金銭的な余裕は大商人の娘という事を考えれば全く問題ない。

 少し考えた後、ヴィノは包の口を閉じて内ポケットに仕舞い込んだ。


 昼をもう過ぎた頃という事もあり、船内の食堂は殆ど人が居なかった。通常の店であれば休憩をとっている客がいくらか居てもいい時間帯だが、客室というスペースがあるのにわざわざ食堂に居る事もしないのだろう。

 マロナが先導して、入り口からも厨房からも離れた一角の席に座る。店内は木造の簡素な造りで、20メートルない奥行きに幅は10程度出入り口となる扉は両開きで、部屋の右側。左側の壁は出来た料理を置いて店員に配膳させるために厨房とつながった棚がある。二人が座ったのは、入り口から真っ直ぐ言ったところの角席だ。窓がないのは、ガラスが割れた時の安全性と、嵐になった時の為だろうと思われる。

 すぐにお冷を持ってきたウェイトレスに適当に注文をする二人。メニュー表がないのでヴィノの要望を聞き出したマロナがそれに合わせた物を言う。ひと通りの注文を終え、ウェイトレスが厨房へ下がると同時、マロナが詰め寄るように口を開いた。


「ヴィノ=ディロデクト。フリーランスの傭兵。特徴は黒の帽子に黒のコートの……少年」


 最後のフレーズに力が込められた台詞に、ヴィノは片眉を上げる程度の反応で済ます。が、マロナはそれで十分と言うように、腕を組んで不敵な笑みを浮かべながら、背もたれに寄りかかった。


「少年、って歳じゃねぇよなぁあんた。てか、なんで男のフリなんかしてんのさ」


 ヴィノが男装の麗人である事を調べたのか気づいたのか。男の格好はしていてもヴィノ自身男の演技を事細かにしているわけではないので、気づく人間は気づく。故にか、別段大した事のないように彼女は答えた。


「男の方が傭兵の仕事は取りやすい」


 様々な仕事があるだろう傭兵だが、その名の通り兵というだけあって荒事が多いのは当然だ。女性でも有名な傭兵は居るには居るが、それはごく一部の凄腕というものだ。総数も圧倒的に男性の方が多いだろう。確かに、納得出来ない理由ではない。どうしてそこまで傭兵でありたいのかという質問が浮かぶがマロナは聞かなかった。そんなことまで聞くのは無粋だと思ったか、もしくは彼女には不要な情報だったか。椅子に座り直し、別の事を問いかける。


「なるほどね。そんなもんか。で、出身はアヴェンシスなわけ?」


 前後のつながりのない問いに、少々ヴィノは面食らった。しかしすぐに元の無愛想な表情に戻り、小さく息を吐く。


「そこまで調べてるなら言う必要はないだろう」


 マロナとしてはないがしろな答えに不満を隠せない様子だったが、それを飲み込んでから言った。


「ま、あんたがアヴェンシスと関わりがあるのは掴んでっからそれでいい。で、本題だ」


 恐らくはロックテール家が調べた物をマロナが聞き及んだ情報だろう。一介の領主に留まらず大商人である家だ。情報には事欠かないのだろう。その力を完全にとはいえないだろうが割りと自由に扱えるだろうマロナが、わざわざ直接聴きたい本題。少しばかり、ヴィノはマロナに視線を合わせた。


「翳刃騎士って、聞いたことある?」


 翳刃騎士フューザー。アヴェンシス教会が保有する、戦闘集団である。各々が凡そ人をかけ離れた力を持った戦士達の集まりで、主に強大なフェルを相手にする任を負っているという。一応、名前だけは教会関係者なら知っているだろうが、そもそもフェルは強大になればなるほどその活動が沈静化する傾向に有るため、そのフェルを狩る彼らの事をよく知らない人間の方が多いくらいである。

 マロナの問に、ヴィノは首肯のみで返した。


「マロリ、って名前に聞き覚えは?」


 半ばヴィノの反応を食うように問いかけるマロナの瞳は、いやに真剣味を帯びていた。人を小馬鹿にしたようなものでも、激昂に力のこもったものでもないそれは、言葉よりも雄弁に意志を垣間見せる。


「二年前、アングァスト会戦で亡くなった、翳刃騎士の一人。そのくらいしか知らない」


 淡々とヴィノは答えた。それはあまりに簡素だったが、故に虚言の入り込む間もないものだった。商人としての血、幼少の頃からそういう世界で生きてきたマロナは嘘の臭いに敏感な方であり、ヴィノに虚偽はないことを理解する。

 そうして問答を繰り返しているうちに、ウェイトレスが二人の注文の昼食を運んできた。一旦話を中断し、並べられるサンドイッチやパスタといった食事が盛られた皿を受取る。配膳を終え、ご注文はと定型文を聞き流し立ち去ったところで、自分のパスタを一口頬張ってから、マロナは話を再開した。


「もうなんとなくわかってるとは思うけど、マロリ、マロリ=ラル=ロックテールはあたしの兄貴だ。もう何年も前に家を出て、翳刃騎士になったって聞いてる」


 マロリ=ラル=ロックテール。その名の通り、ロックテール家の子息である。

 マロナの話によると、彼はロックテール固有である変質の術の才覚は非常に秀でていたそうだが、商人には向いていない性格だったらしい。もう何年も前に、勘当同然で家を出てきり音信不通。そして風のうわさで死んだという話を聞いたのだとか。貿易を担っているとはいえロックテール家はノラル領である。敵であるアヴェンシスに属していた兄の生死の情報など早々手に入るものではない。それ故にか、マロナは兄の生存を信じていた。

 おぼろげに残る兄の記憶を、マロナは瞼の裏に思い描く。優しく陽気で大好きだった兄。別れたのは、まだ歳が二桁になるよりも前だったような気がしている。確固たる記憶としての映像が出てこないのは、それ程昔に別れてしまったからだろうと彼女は当てをつけ、だというのに霞に包まれた思い出は不愉快なくらいに暖かく、それがマロナをこうした突然の行動に駆り出した理由でもある。

 今回のヴィノの追跡の件は、父マリオが調べていたヴィノの素性を盗み見た上での行動である。何でも、その傭兵は依頼内容の理由に拘り、報酬額も定まらず、言ってしまえばいくら金をつもうとも理由に納得しなければ引き受けない事で知られているらしい。活動地域は安定せず、世界各地にふらりと出没するが、どうやら一応の拠点はアヴェンシスに持っているとの情報があった。ある一定の期間が経つと必ずアヴェンシスに向かうらしい。その理由は全くわからなかったが、マロナにしてみれば十分な情報である。アヴェンシスに行けば、翳刃騎士であった兄の情報を調べるに有効で有ることは間違いなく、よしんばヴィノが教会の関係者であったなら僥倖だ。その上、やられっぱなしでは気の済まない性格故であるマロナである。尾行の道中弱みの一つでも握れれば仕返しも出来る、と彼女は意気揚々にヴィノについてきたのである。マロナはびっ、とヴィノの鼻先に指を突きつけた。


「アンタ、そのうちアヴェンシスに行くんだろ。それまでアタシはアンタに着いて行く。別にアヴェンシスまで護衛しろって話じゃない。アンタの弱み探してつけ込んで仕返す心積りだからな」


「……ご勝手に」


 自信たっぷりといった口調と目つきでそう言い放つマロナを見て、ヴィノは深く溜息を吐いた。そもそも、復讐相手に弱点見つけるまで着いて行くと宣言するのはどうなのだろうと思ったが、言っても仕方がない事は察している。着いてこられるのは無論迷惑に他ならない。かといってここで拒否の意を示したとしてもどうせ後をつけてくるのは明白だ。そう考え、ヴィノは諦めたように呟いた。満足気な笑みを浮かべるマロナだが、別に同行を認められたわけではないというのはわかっているのかいないのか。と、ふとマロナが会話はじまって以来はじめて視線を下げた。


「あの……さ」


 声音にも何処か、常に纏っていた根拠のない自信のような雰囲気を感じない。途端に変わった雰囲気に、ヴィノは訝しむのを通りすぎて少し心配になる。

 何か言いたいことがあるのは言葉からわかるが、両手を組むように近づけながらも指を遊ばせる動作から、何か言いづらい事なのだろうと推測出来る。ヴィノは続きを催促はせずに静かに待つ。少しして、改めてマロナは一気に吐き出すようにいった。


「うちでやってたあの事、ありがとうな。いや、礼を言うのはおかしいと思うけど、アタシとしてもあれはないと思ったから……あんなんでご飯食ってたなんて嫌だからな」


 公共の場故に濁した言い方ではあったが、ヴィノにはマロナが何を言っているのかがわかった。人身売買の差止め。あまりに暴力的な止め方であった為、恨みを買いこそすれ礼など言われるとは思ってもみなかったヴィノは少しの間眼を見開いて驚いていたが、なれないことをしたと声を上げながら頭を掻きむしるマロナを見て、短く息を吐いた。


「勝手にやった事だ」


「えっと……だ、だからっつってアンタにボコられた事は忘れねぇからな! 治したのもアンタだけどこっちは死ぬかと思ったんだからな! 首洗ってまってやがれ!」


 ふん、と大きく鼻を鳴らしてから料理に食らいつくマロナ。どうやら話は終わりらしい。

 聞きたいこと有ると言われ連れてこられたはずだが、別段大した情報は提供していない。取り敢えず、ストーカー宣言と妙な礼を受け取っただけだ。果たしてこれで報酬としての食事を貰っていいのか黙っていたヴィノだったが、ん、とマロナがフォークを突き出しヴィノの前にあるサンドイッチとヴィノの顔を指し促すので、ヴィノは小さく首肯して食事に手をつけはじめた。

 白い三角形の二枚のパンの間から、レタスやトマトといった具が覗く。取り敢えず一口噛むと、レタスのしゃきしゃきとした食感とトマトの汁が溢れ口の中に流れ、さわやかな酸味とコクのサワークリームが感じられる。と、二口目へ進んだところで、カリと小気味の良い音がした。レタスでもトマトでもない、独特の固めの食感。広がる強い酸味と香辛料の辛味。ヴィノは顔をしかめてサンドイッチを口元から離し、空いていた左手でコップを掴むと中身を一気に口の中に注ぎ込んだ。仏頂面のヴィノを、不思議そうにマロナが見上げていた。


「どうしたんだ?」


「……ピクルスが」


 恨めしげに、ヴィノはサンドイッチの中のきゅうりのピクルスを睨んだ。サラダ系のサンドイッチなら入っている可能性も十分にある食材だが、ヴィノはそれが嫌いであった。それを察したマロナは意地悪げな笑みを浮かべ、言う。


「残すなよー。折角のアタシのおごりなんだ。それに、海の上で食料、特に野菜なんて貴重なんだぜ? まさか残したり捨てたりしねーよなー?」


 鬼の首でもとったかのように嫌らしく述べるマロナ。ピクルス抜きと頼むのを忘れてしまっていたことにも、復讐者に早速弱みを握られてしまったことも後悔したヴィノだったが、もう遅い。マロナの言っている事はどうしようもなく正論だからだ。

 泣く泣く、ヴィノは何も考えずにサンドイッチを頬張った。鼻をつまんだりはしないのはマナーか、それでも頑張って息を止めながら対抗しながら、ヴィノは港に到着したら即マロナの尾行を撒いてしまおうかと考えていた。












 苦手な食べ物との格闘という名の昼食を終えたヴィノは、甲板に出て適当な壁に寄りかかって海を眺めていた。足元には先程の食堂から持ちだした新聞がある。ヘイズ港到着まではおよそ一時間弱といったところで、昼寝をするには短く、何かするにしても足りない時間である。


「復讐に燃える王国の若き翼。ノラル=ドゥ=キャンラ皇女、幻獣部隊ペイントムズ隊長に就任ねぇ。誰が望んでんだかこんなこと」


 ぼうっとしているだけのヴィノの足元で、マロナがしゃがんだ体勢で落ちている新聞を眺めている。ノラル国首都ミヅガルヅから出されている新聞で、国の方で監修しているものだ。その為、書かれる情報は右に傾いてるが、外部の人間が少し深読みすればノラル国の情勢が実にわかりやすいものであり、ヴィノのように読む者も多い。無論、国外には発行していないが、船の上はギリギリでセーフという事だろう。

 ヴィノは足元のマロナを一瞥すると、視線を海の方に戻して小さく溜息を吐く。その理由は、マロナの語った記事の内容ではなく、読み上げた当人、マロナに対するものである。先程の食事の席で、マロナの同行に対し勝手にしろとの意を伝えたのだが、どうやらマロナはそれを純然たる許可と受け取ったようで、こうして平然と着いてくる有様だ。これでは追跡者というよりは旅のお供のようで、どう贔屓目にみても復讐宣言をしにきた風には見えない。そもそも、彼女の一番の目的は亡き兄の真実を知ることであり、ヴィノへの仕返しは二の次なのかついでなのか、ともすれば口実にも思える。マロナは十数歳の年端も行かない少女である。一人で旅をする事には不安もあって当然だ。そういった理由も起因していると察することができるが、それはそれでいつの間にやら保護者のような立ち位置になってしまったと、やはり嘆息するヴィノだった。だがそんな思いも当人たるマロナには察しようがない事らしい。


「あのさぁ、あんた溜息吐き過ぎじゃね。幸せが遠ざかってくぞってなー」


 何処かで聞いたような決まり文句を口にする彼女に、また溜息をしそうになるヴィノだったが、口を結んで堪えた。溜息の吐くその原因に言われては元も子もない上に何だか惨めになる。と、それまで壁に背を預けていたヴィノが体を起こした。何処かへ向かうわけではない。組んでいた腕も解き、その場に立ち尽くして海面を睨んでいる。それは普段の無関心なだけの無色の視線ではない。何かを探るように、警戒のこもった目だ。マロナもまたヴィノの様子を察知し、隣に立つ。


「なんだ、なんかあんのか?」


 マロナもまた、海を睨むがそこにあるのは自然の波と船のつくった白波だけ。それもそうだ。ヴィノの視線は海だが、その実察知は霊覚により行なっている。咄嗟の行動に出たその違いは、戦いの場に身を置いた者とそうではない者の差と言ったところだろう。


「船の下に何か居る……いや」


 爆発。マロナへの返答は、突如立ち上った水柱に遮られた。船の左側直近で起こったそれに、船体が大きく傾く。なんとか転覆はしないようだが、それでも揺れが続いている。ヴィノは纏霊し体勢を維持したが、マロナは壁の方へ転がり体を打ち付けた。


「ってて、なんだよ一体!」


 後頭部をさすりながら、マロナが叫び水柱の方向を睨めつける。

 豪雨の如く、瓦解し降り注ぐ水の柱の中から、現れる巨大な化物。青く透き通った体躯は鯨のようで、大きく開いた口からは鋭利な牙が並んでいる。背には三対のコウモリのものに似た翼のような背びれが広げられていた。鯨は、藍色の目を船に向けている。揺られながらも前進していた船が、一つの大きな揺れと共に止まった。周囲一体の海が静止している。鯨から感じられる強烈な霊力と同じものが、海面に行き渡っているのをヴィノは感知していた。どうにも船を狙っているのは間違いないらしい。先程の水柱による揺れと船の強制停止に船内が騒然となり、船員や客が半ばパニックに陥った様子で甲板に出てきてしまっている。


「あれ、フェルか? 随分とシースルーだな。内蔵は見えないってかないのか?」


 ヴィノの横に来たマロナが手すりに捕まって、空に浮かぶ化物を見上げた。青透明なその体は空を透過して見える。生物なら皮膚が透き通っているならば中身が覗けそうなものだが、そのようなものは影も形もない。フェルはその体が霊体に構成されているとヴィノは知っているが、フェルの解剖学などは知らない上に出回っているかもどうかしれたものではないので、内蔵の有無くらいはどうでもいい事である。

 

「フェル……」


 低く腰を落として戦闘態勢を取りながら、何か納得しないような声音でヴィノは呟いた。その様子にマロナも気付き、何かと視線を送るも一瞬の事。海竜の如き化物が動く。大顎を開け、船を噛み砕かんと迫った。合わせてヴィノが甲板を蹴る。相手側の敵意は明らか。ならば、容赦する必要はない。

 鯨の大顎にヴィノの姿が飲み込まれんとした瞬間、突き出した左手から不可視の障壁が一瞬の発光と共に、牙を弾き飛ばす。自身の体長とほぼ同じ距離弾かれた海竜は、逆さになった体躯を器用に捻って体勢を整えた。


「硬い……?」


 直接触れてはいないが、自身の業で弾き飛ばした相手の感触を確かめるようにヴィノは左手を握っては閉じるを繰り返す。先程の一撃は敵を遠ざけるだけでなくあわよくば砕くつもりで放ったものだった。しかし、相手の外傷の類は見えない。敵が生物であったなら出血等で具合がわかりそうなものだが、目の前の敵は純然たる生物ではないのだろう。霊気のその勢い、濃度、強さを感じ取る以外に敵の状態の判断材料はなく、海竜の激しい濁流のような霊気も、海面に重くのしかかるそれも健在だ。と、ヴィノは背後の船上で閃光が奔るのを、感じた。


瞬天足カソクツシタ!!」


 遅れて詠唱がヴィノの聴覚に届く。それより早く、光の靴を履いた少女が海竜の下顎を蹴りあげていた。大気を突き破った爆音と衝撃が空を叩く。大きく仰け反る竜の元から、一息でマロナがヴィノの横に浮かぶ。


「別に硬くなんかねぇじゃねぇか。こんにゃくみてぇに柔らかい方だろ。さっさと倒しちまおうぜ」


 得意げにヴィノを見上げるマロナ。パシッと小気味よく拳を叩き、標的を見据えるマロナだが、その額は軽くヴィノにはたかれた。困惑と怒りの形相を向けるマロナのその顎を掴み、ヴィノが背後下方にある船へと向けさせる。


「その意気や良し、だが、周りの事を少し鑑みたほうがいい」


 強制的に向けさせられた視線の先、そこにあるカルペディエム号側面の一角が砕けているのをマロナは確認した。言うまでもない。マロナが踏み台にした結果だった。船が大きめのものであったこと、海竜の影響下にあって海面が異様に静かで動かないことと偶然が重なり転覆には至っていないが、マロナの業の威力から見るに、下手をすれば船が転覆していた可能性も大いにあった。

 無言でヴィノの手を払いのけるマロナだが、言わんとした事が伝わったのか少しの間項垂れ、ヴィノ方は見ずに短く呟く。


「……悪かった」


 ひねた言い様ではあるが素直に反省はしているようで、ヴィノはそれ以上何も言わなかった。今はそんな事をしている場合ではない。

 ヴィノとマロナの視線と海竜の視線が交差する。海竜は二度の攻撃を受け二人の様子を伺っているのか、大顎の隙間から牙を剥き出しにしたまま、力を貯めるように体をくの字の折り曲げている。唸り声の一つでも聞こえそうな形相だが、その実一切の声を化物は発しない。恐らく、ヴィノかマロナどちらかが動けば、即座に襲い掛かってくるだろう気配だけがひしひしと感じられる。その海竜を刺激しないようにか、極めて小声で早口に、ヴィノはマロナへ案を伝えた。


「海には落とさずに仕留めたい。面倒な事になりそうだ」


「ふん。海に潜ったら海ごと変質させてやるっての!」


 ヴィノの案を一蹴するなり、マロナは再び海竜の方へと飛び出す。ロックテールの術が変化変質の術だとして、眼下に広がるその広大な海をどうにか出来るとはヴィノは思わなかった。だが、もはやマロナを制止する時間はない。マロナの突貫に反応した海竜もまた巨顎を開いた。

 海竜に向けて直進していたマロナが垂直下方に軌道を修正する。全くの減速なくその行動が出来るのは、恐らく術の特性だろう。相手が生物であれば、その急な方向転換はマロナが消えたように見える筈だ。しかし、海竜は違う。目で相手を捉えているわけではないようで、首を折りたたむようにして自身が逆さになりながらもマロナを呑み込まんと追いすがった。その、海面の方向へと向けられた背びれの端をヴィノの手が掴む。仄かに光を帯びたその手は、無造作に上方へと振り上げられ鯨の如き巨体をさらに宙へと投げ飛ばす。


「もらった」


 追ってきていた顎から逃れたマロナが嬉々として海竜の方へと向き直り、術を叫ぶ。


鳶剣エンケン!」


 左手で右の手首を掴み、右の手は軽く握り拳を作り、海竜の腹目掛け突き出されている。指二本分程開いていたその拳の間に、空気が集められ凝縮された。横一直線の棒状にそれは広がり、空間に揺らぎを垣間見せ、徐々に色づく。10メートル程伸びた頂点から、今度は扇を描く為に折れ曲がって伸びてぶつかる。それと共に、マロナの手に一つの武器が現出した。縦に長い半月状の鈍色の薄い刃。刀身の翼状の模様が、巨鳥が羽を広げた姿を彷彿とさせる。

 瞬天足に運ばれたままの速度で昇る鈍色の翼が、海竜の腹を真っ二つに切り裂いた。声もあげず落ちていく化物の上空で、鳶剣を解いたマロナが腕を組んで笑みを作る。ヴィノはそれをちらりとだけ見上げたが、すぐに視線を落ちていく二つになった海竜の方へと戻した。その目は訝しげだ。

 フェルは、倒されると消失する。光の粒子となって、霊子となって天へ還るのだ。フェルを倒す方法は二つ。フェルの持つ霊力を限界まで浪費させるか、体組織を構成している霊子を完全に分断してしまうかだ。前者は大概時間がかかるが確実性がある。後者は強者のみに赦される方法であり、個体によっては分かたれても再生する奴までいる。そうなると、フェルとの間に大きな力の差がついていない限りは消耗戦になる。それを知っているが故に、ヴィノは疑念を抱いた。体を真っ二つにされても天に還りもしなければ再生もしない。そもそも、海竜からは感じられないのだ。フェル特有の、混ざり合った魂の霊気が。

 海竜の二つの体が海へと落ちていく。その瞬間に、ヴィノは気づいた。海竜の体が今まさに触れようとしている海面が、それが出現した時と同様完全な静けさを保っている事に。それから導き出される可能性は二つ。海竜がまだ死んでは居ない、もしくは、海竜事態が海の表面を覆っている存在の、一部。落下して水しぶきを上げるかと思った体は、吸い込まれるように静かに海面に溶けた。答えは2つ目だ。

 静止していた水面が粟立つ。その範囲は先程の鯨の大きさの比ではない。半径は優に100メートルはあるだろう。不自然に小刻みに震える円形に区切られた海面。事態を認知したマロナが慌てた様子でヴィノの横を通り過ぎようと空を下るが、その腕をヴィノが掴んで止めた。


「何すんだ! 止まってる場合じゃねぇだろ!」


 焦燥に声を荒げるマロナ。だが、相手は海そのものと言っても過言ではない。瞬天足もしくは先程の業で突っ込んでいったとて、結果は想像に難くない。飲み込まれるのがオチだ。それこそ海ごと相手を変質させられるなら話は別だが、ヴィノはそこまでの霊力をマロナから感じてはいなかった。自分の後ろに追いやるようにマロナの腕を引いて離し、ヴィノは簡素に言う。


「動くなよ」


 と共に、ヴィノの右腕が上がり、空に掌と指先を向け、零すように唱えた。


「ディ……オフ……」


 ざわつく海面の中心から、先程よりも二回り以上巨大になった海竜の顔がせり上がってくる。それを、ヴィノは目を見開いて捉え、詠唱を紡いだ。


「ブレイロア」


 コートの袖に隠れている筈のヴィノの右腕が一瞬光りを放ち衣服を透過する。その光は束ねられ捩じれ、空へと衝いたヴィノの手の上へ収束し、伸びて紡錘状を形成した。間近でそれを見上げるマロナだが、それが何なのかわからない。ただ、圧倒的な威圧感がその光の収束にはあった。眩しく目を焼かれそうな光量をそれは持っているのに、金縛りにあったように体が動かない。単純に霊力が強い大きいと言った話ではない。何かが、違う。彼女が抱けた印象はそれだけであった。

 海面から伸びる海竜が、周囲の海面をも引き連れてせり出ると同時、ヴィノのその光の矢を投げた。間を置かず、海竜の腔内に叩きこまれた矢がその周囲の海面をも沈める。ただ一本のそれはまるで巨大な杭の如く。周囲の化物の支配下にない海水が、孔を塞ぐように満ちたと共に、海中から水平線までにも届く程の光が発され、海は元の正常な静けさを取り戻した。


 カルペディエム号の甲板に戻るヴィノとマロナを、歓声と拍手が迎えた。船員も乗客も、一様に称賛の意を示している。

 あまり注目されたくないという意思表示か、帽子を目深にかぶり直しながらも左手を上げて応対するヴィノの後ろで、マロナは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。最後のヴィノの止めによって海竜は葬られ、もしそうでなかったら、自身が今立っていたこの船も存在していなかっただろう事は、マロナはよくわかっていたからだ。彼女が海竜を真っ二つにした後、本体と呼ぶべきか、ともかく海面を覆っていたらしい化物の範囲は、この船にも及んでいた。そして、海竜はその本体も引き連れて上空へ、彼女らへ飛びかかろうとしていた。もし、あと一瞬でもヴィノの一撃が遅ければ船は海の藻屑と消えていただろう。その上、ヴィノは最初に言っていたのだ。海竜を海に落とさず仕留めたい、と。その意はわかっていた。だから蹴り上げ、ヴィノが投げた先の上空で真っ二つにして倒したのだ。その結果があれでは、笑えたものでもない。悔しくなったマロナはとにかくこの場から去ろうと踵を返し、その肩をヴィノに掴まれた。放せ、と言おうと口を開く間もなく、強引に向き直させられるだけでなく、乗組員の集団の前へと押し出される。何のつもりかと驚くマロナに耳元で、ヴィノは小さく言った。


「お疲れ様。御陰で、誰一人怪我もしてないそうだ。僕一人では、あれを翻弄は出来なかったからな」


 予想など欠片もしていなかった労いの言葉にマロナの体が硬直する。さらに、ヴィノは言葉を続けた。


「後、この場の収集を頼みたい。僕はあんまり衆目の前に居るのが得意じゃないんだ。疲れてしまってね……頼んだ」


 言うが早いか、掴んでいたマロナの肩をぽんと軽く叩くと共にヴィノは踵を返し、その場から離れていった。とはいえ、ここは船上である。疲れて集団から逃げたいとはいえ、何処に行くというのか。トイレの個室にでも篭るのかと思いいたって、マロナは少し噴きだした。

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