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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第二章
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偽善の暴脅

 大陸北西に位置する、小さな島。名をニグランド。商業が盛んな事で知られる商業都市バレシアナがあり、古くよりロックテール家と呼ばれる大商人の一族が、国から島と街の管理を任されているのだという。その国、とは武国ノラルと呼ばれる、北方の島国をまとめている武力に秀でた国で、古くより大陸の大半を領地としているアヴェンシスとの軋轢があるが、ここニグランドそしてバレシアナだけはその規制が緩い。それも一重に、商業の為である。

 街事態はそれほど広くはない港町で、山から抜けてすぐの緩やかな斜面を描く地に、多種多様な建物がところ狭しと置かれている。通りは曲がりくねり入り組んでいるようだが、全体が広いわけではないためか、街の中でも一番高いだろう山道の終点から海が臨めた。ヴィノと助けられた二人の姉妹は、村を去り一つ山を抜け、ようやくここに辿り着いていた。ヴィノは黒いコートに、一直線に継ぎ目の入ってしまったハットを目深に被っている。姉妹も、村にあった服を適当に見繕い、ボロボロであった姿も、外套を脱げば普通の町娘と呼べるようには戻っていた。


「やった……やった! やったよ!」


 目の前に広がる、久しく見ていなかったであろう文化的な世界を見て、姉の方が感極まってそう声を零す。妹の方はまだ精神的なショックから立ち直りきっていないのか無口だが、静かに一滴涙を流していた。

 ヴィノはただ静かにツバの奥の眼で無感動に街並みを、眼を動かすだけで見回していた。何かを探しているのか、ただ眺めているのかはあまりに無機質な視線からは読み取れない。と、坂の下から彼女らの居る方向へ歩いてくる人影を捉え、ヴィノが歩道の脇にある木の影に隠れるように背を預けた。不審にも取れるその行動に、姉妹の目線が向けられる。


「……どうか、したんですか?」


 歓喜に満ちていた顔から一変、怪訝な表情へと変わった。しかし、ヴィノはそれに取り合わず、コートの内ポケットから手に余るくらいの大きさの小包を投げ渡した。姉が慌ててそれを受け取るが、存外に重かったらしく、半ば抱きとめるようにしてそれをもらった。何ですか、と疑問を口にする前に、ヴィノの方が先に口を開いた。


「二人で普通に暮らすなら、一月二月は持つ筈。身柄は、今上がってきてるあの衛兵に保護してもらいなさい」


 目線を、先程ヴィノが見据えた、質素な革防具に身を包んだ男に向けるように横にしながら淡々と言う。台詞から、受け取ったものが大金であると知り、姉はとんでもないとでも言うようにそれを持った両腕をヴィノ方に突き出した。


「う、受け取れませんよ! ただでさえ、助けてもらったお礼も出来ないのに……こんな事まで」


「それは僕のものじゃない。あの塵屑の置いていった端金。被害者の貴方達に受取る権利がある。それに、多少は僕も貰っている。無報酬ってわけじゃない」


 言い切り、もう用は済んだとばかりに木から背を離し、姉妹に背を向けるヴィノ。すぐさま、声が追い縋る。


「それなら貴方も一緒に!」


「兵の人とは折り合いが悪い。何処のでも」


 振り返らず、ヴィノはただ片手だけで別れの挨拶を済ませ、木々の合間に消えた。

 ありがとうございました、と礼が向けられたが、当の人物はもう何も返さない。それに少しの侘しさを感じながらも、姉妹は坂を登ってきていた兵士の元へと駆け下りて行った。












 姉妹が兵に無事保護される様を、遠くの木陰から一瞬確かめた後、ヴィノは街中へと入っていった。

 勝手知ったる、とはまでは及ばないが何度か足を運んだ経験があり、多少の土地勘はあるのかあまり迷わずにまず小さな宿屋へと辿り着くヴィノ。部屋の空きには余裕があり、あまり人の寄り付かない場所を好んだのか、二階の奥の部屋を取った。代金は先程姉妹に渡してやったものよりも幾分か小さい布袋から小銭ばかりで出す。特に店の者とも余計な会話はせず、取った部屋に入り、小休止を取った。村を出て以降、衰弱していた女性を二人も引率していた事から、想定よりも日数が経ち、また疲労も大きかった。そんな事はおくびにも出さない無表情だが、部屋に着くや否や深く溜息を零したのも事実である。

 石造りの小さな空間に鉄の骨組みが用いられているベッドと、これまた鉄製の群青色の椅子テーブルが一組だけ。それ程良い部屋というわけではないが、簡易キッチンや低温固定の呪術がかけられた小さな冷蔵庫、シャワー室が各部屋に取り付けられており、設備は良い。一先ず、ヴィノは体を清める事にした。数度水浴び程度はしたのだが、ずっと森の中を歩いてきたせいで少し草木と土の臭いがついていた。

 タイル貼りの人一人が半畳程の狭い浴室。人の頭より高い場所に突き刺されただけのようなシャワー口から、湯気立つお湯が吹き出す。髪を解き、男物の衣服を脱ぎ捨て白の長髪を解いた姿は、一人の女性。相変わらずの無表情だが、少し緊張の解けたような雰囲気だ。しばらく、打ち付けるお湯に身を任せていたが、やがてヴィノはゆっくりと眼を開き、今尚身に着けている、満月を閉じ込めたような宝石のネックレスを握った。彼女の体が、淡く光る。いや、光っていたのは“烙印”だ。白い体の胸から下腹、背中、腰と及ぶ、赤黒い血が固まったような色の、刻印。焔か水か風か雷か、何を模しているのか判別は付かないが、流れるように、時に鋭く描かれているそれは、今静かにその縁は白い光を生んでいた。


 小一時間程の休息を取った後、ヴィノは再び街へ繰り出していた。まず向かったのは帽子屋。店の種類は豊富だ。応急処置として継接の帽子では決まりが悪いのだろう。コートは別のようだが。商業の街だけあって、狭くとも通りには活気があり、露店から忙しなく客引きの声がかかる。時折、客引きに話しかけられるが、全て無視を決め込んでいた。入り組んでいる道を当てもなく歩きながら、ヴィノは古ぼけた小さな店を選び入る。大きな店は人が多く、あまり騒がしいのは好ましくないようである。

 らっしゃい、と年老いた禿頭の店主が無愛想に言うのにも構わず、狭い店内の壁際と中央の棚に並べられた帽子を一つ一つ眺めていくヴィノ。無論、婦人用ではなく紳士用だ。時折手に取り、生地や創りなどをまじまじと見ては戻し、を繰り返して一周したところで、真っ直ぐに一つの帽子を手に店主の居るカウンターへと向かった。絹で出来た黒染めの、ツバの大きなキャスケット。黒が好きなのか、コートに合わしているのかは定かではないが、つば広のものを好んではいるようだ。卓に帽子を出し、懐から包を取り出す。その間に、店主は帽子を受け取り、状態の点検だろうか、全体を見やってからヴィノへ一秒程視線をやって、口を開いた。


「お前さんには少し大きいんじゃないか? 今被ってんのもそうだが」


 店構えは小さいが、自分の商品に対する気持ちは強いようである店主の言葉だったが、ヴィノは首を横に振る。変えるつもりはないという意思表示に、短く嘆息する店主だったが、当人がそう言うならと諦めた。


「5000だ。今被ってるのはどうする」


「処分を」


 値段と応急処置されただけのヴィノのハットの話を簡潔にして、ヴィノは小包から金貨を4枚と銀貨を10枚、卓に並べ、店主はハットを受け取り新しい帽子を渡す。ヴィノは受取るとすぐにそれを被った。目深に被れば正面からでは殆ど顔がわからない。それは当然自身の視界も悪くなるのだが、特に気にしないようだ。店主はまた何か言いたそうだが、呑み込み硬貨を数える。

 毎度、と金額を確認した店主が言うが、ヴィノは立ち去らず、聞いた。


「この島の地図が欲しい。出来れば、詳しいものを。何処に売っているか知りませんか」


「それならこの店出て5軒隣だ。シギニトの雑貨屋って小洒落た看板が出てる筈だ」


 帽子のツバを掴み、お礼の意図に頭を下げ、ヴィノは店内を後にした。

 店主の言葉通り、目当ての店は帽子屋の5つ隣にあった。ビリジアン色のペンキが塗られた、木を横に切ったままの形のプレートに、“シギニトの雑貨屋”と白い字が掘られている。シギニトは恐らく店の主の名前だろう。捻りも何もあったものではないが、帽子屋の言う通り看板は洒落ている。店はガラス張りでぴったりと据えられた三段程の大きな棚に、陶器のブタ貯金箱やら、金属製の花瓶やらが所狭しと並べられている。小物屋というよりは何でも屋と言ったところなのだろう。地図の一つや二つ置いてあって不思議はない。ともかく、ヴィノは店を認めると迷わずに足を踏み入れた。

 店内は実に乱雑だった。横よりも奥行きのある店内で、棚が幾つかあるが、全て狭しと並べられていて床にさえ転がっている。通路は狭くすれ違う事は大変だろう。運良く、ヴィノ以外の人影はなかったが、ヴィノの隣のカウンターにも人が居ない。奥の方に居るのかもしれないが、うっかり手が触れたりしてはすぐに何か落としてしまいそうなその通路を進んで行く気にはならない。すいません、と店の奥でも聞こえるだろう程度の声で誰かを呼ぶ。しばらくして、はいはいと三十代後半くらいの男性が、ヴィノの右手側のカウンター奥の扉から出てきた。


「シギニトの雑貨屋へようこそ! まあ、見ての通りなんやらかんやら一杯あるからさ、ゆっくり見て」


 景気よく声をかける男の台詞を、ヴィノが静かに遮る。


「この島全域の地図が欲しい。出来れば詳しいものを」


 高音気味だが冷たく事務的な言葉に、男の息が一瞬詰まるが、すぐににこやかな営業スマイルを浮かべカウンターの影にしゃがみ込んだ。


「ありますよー、最近じゃあ鉱山に観光するお客さんも増えてきたみたいでしてねぇ。フェルの減少で傭兵の値段も下がってるし、中には護衛なんて要らないとかいう強者も居るんだとか」


 カウンターの影に隠れて見えないが、何かやガサガサと物音はすることから、探してはいるのだろう。口ではなく手を動かせと言いたくなりそうな程に、男は話続けるが、ヴィノは全て聞き流すに留めていた。煩わしいとは思うが、わざわざ止める程の事でもなく、男の喋りはヴィノが返事しないだろうと見越しているのか、問いかけるものではなく興味を引きそうな話題を模索して捲し立てているだけのものだったからである。それは落ち着きがないと言い換える事も出来るわけで、乱雑な店内と妙なマッチングを見せていた。


「ほい、手なわけでお待ちの品はこちら!」


 そうしている内に男は立ち上がり、巻物を四つ程カウンターに並べた。パピルス紙で出来た短く小さなものが三点と羊皮紙で出来た大きなものが一つだ。


「こっちが島全域が乗ってる奴ね。こっちは三分割。どっちもちゃんとロックテール家監修だから、信用はおけますよ」


 言いながら、手際よく四つの巻物を器用に回して、端に押されたロックテール家の印である、5つの正方形の重なりの焼印を見せる。

 ロックテール家。それがここバレシアナを代々統治している大商人の一族である。元々はこのニグランド島自体がバレシアナという一つの少国家であり、その実質統治をしていたのが当時のロックテール家であった。歴史の流れの中で、幾度となく教会とノラル国の戦地となった事も幾度となくある場所であり、最終的にはノラルの領地となった。しかし当時のロックテール家当主はそれまでの自由貿易を頑なに掲げ、それを今まで守らせている。それを可能にするだけの力、とりわけ財力があるのだ。ニグランド島は面積は小さいものの、鉱物資源に恵まれており、また質もよく加工技術も世界トップクラスと評判が良い。対フェル、対人間問わず、武器の元となる鉱物の需要は留まる事を知らず、世界中の武具の五割の原材料はここバレシアナ産であるとまで言われている。

 その家紋が刻まれているという事は、信頼の置けるものという証だ。だが、ヴィノは数秒思考し、口を開く。


「広げて見せてもらっても?」


「もちろん!」


 ヴィノの要求に機嫌良さそうに応答する店主は、まず羊皮紙製の一番大きなものを紐解いた。広げるとそれは両腕を伸ばしてようやく両端を摘める程のもので、丁寧に、店主はカウンターにそれを置く。

 ニグランド島は縦長の、帽子を被った貴婦人のような形をした島だ。その地図には全形が描かれており、主要な都市から小さな村まで事細かに記されていた。領主監修の一品だけあって、中々に精巧なつくりのようだ。ヴィノはその全体を品定めるように一度見回してから、南端のここバレシアナを見、そこから少しずつ北方へと視線を動かす。


「どうだい素晴らしい出来でしょう。細部までのこだわりもさることながら、こちらのインクは全部蓄光性塗料が使われているから、夜間の確認も可能。防水加工もしてあるから、水霊術でもまともに当たらなければ問題なし!」


 よく喋る男の言葉には耳を傾けず、ヴィノは指先でバレシアナから北の方向に伸びている山道の一つをなぞっていた。ゆっくりと進むそれはすぐに止まる。理由は単純だ。道がそこで途切れている。その先に何かあっても良さそうなものだが、事実として書かれていない。小さく、話続ける男の息継ぎの合間に差すように、ヴィノは言った。


「この辺りに村はないか。以前立ち寄った」


 思わぬ台詞に、男の眼が点になり、ヴィノが差す小さな道の終点を見る。あー、と意図せず声を上げながら頭を抑え、何か思い出そうとしているようだが、すぐに止めた。


「すみませんねぇ。私あまりこの街から出ないもので。言われてみればあったような……小さな村が……なくなってしまったんでしょうかねぇ」


 少し言葉を詰まらせながら男は言う。

 通常の天災に加え、フェルという神出鬼没の災厄まであるのだ。小さな村がなくなる事はそう珍しい事ではない。フェルの大規模な減少が起こったのは二年前であり、それでも完全な消滅には至っていない。また発見される個体が協力な個体ばかりであることだから、ただ強さの純度が上がっただけの話なのではないかと言われている事もある。

 何にせよ、昔の地図でもあれば真偽の程もわかる。そう思い、ヴィノが他のはないかと尋ねるが男は首を横に振った。今出している四つしかないようである。ともかく小さいものも確かめなければならないと、ヴィノは購入することを決め、懐から財布として使っている包を取り出した。


「全部買います。おいくらで」


「毎度! えっとーセットで2000クレンチです」


 クレンチとはお金の単位である。ノラル領内で使われている単位であり、その他の国とは単位が違うが、ともかくこの国では金貨一枚が1000、銀貨が100、銅貨が10、鉄銭が1クレンチとなっている。金貨は単位が大きく便利だが、あまり流通量が少ない。ので、ヴィノは銀貨と銅貨で支払いをした。料金を受取、男は店の奥から細長の布袋を持ってきてそれに丁寧に詰め始めた。

 その光景を見るともなしに、目線だけを向けながらこれからの事を思索していた。昼過ぎというには時間が経ち、夕方というには早い時間帯である。傭兵を自称しているヴィノだが、今は何ら依頼がなく金に困っているわけでもない。山賊達はその狩場の小規模さに比べて、不釣り合いな程の金額を持っていた。元からヴィノの持っていた資金に、あの姉妹に渡した残りを足せば相当なものになっている。というか正直硬貨ばかりが懐に入っていて重いなとヴィノは思っていた。なら、何処かの店に入って少し細かいのを使ってしまおうか、とそんな事を考えはじめ、即決した。

 と同時、雑貨屋の扉が勢い良く開かれた。


「邪魔するわよシギニト」


 入ってきたのはセミロングの躑躅色の髪を両耳の上で結った、12,3歳程の少女。可愛らしい顔立ちなのだが何が気に食わないのか若干への字に曲げられた唇と眉間によった皺が、扱いづらそうな雰囲気を放っている。とはいえ、それはそれで背伸びしている子供のようで微笑ましいかもしれない。服装は赤黒のストライプシャツとジーンズ生地のホットパンツで、活動的な印象を与える。と、入ってすぐの場所に立っていたヴィノを見るや否や、少女は尊大に吐き捨てた。


「アンタ、邪魔」


 狭い店内なので確かにそうだが、その言い方はどうなのだろう。とはいえ、わざわざ少女に突っかかる事もないと思い、ヴィノは窓と棚の間のスペースに下がる。そこでガラス張りの窓の外に、数人の男たちが集まっているのが見えた。どれも、ロックテール家が保有する衛兵の格好である。それだけで何処か物々しい雰囲気があり、目の前の少女の素性が気になるところである。


「おやこれはマロナ嬢、こんな狭苦しい場所にようこそいらっしゃいました」


 深々と男が頭を下げる。店の名前にもなっていたが、彼の名前はどうやらシギニトでいいらしい。と、シギニトの視線がちらりとヴィノを見た。地図の梱包が終わったので取りに来て欲しいのだろう。仕方なく、ヴィノは棚を回りこんでマロナと呼ばれた少女の左に出て、包を取った。

 だが、入り口は少女が塞いでいるようなものである。まあ出て行くだけなのだからどいてもらおうと口を開く、が少女に先を越されてしまった。


「堅苦しいのはいいっての。地図の新しいのが出来たからってパパから頼まれたのよ。ほら」


 言って、マロナは布袋に詰められた巻物の束をシギニトに突き出す。地図、という言葉にシギニトがヴィノを見るが、ヴィノは見ない。地図の監修はロックテール家が担っているというのは、先程聞いた情報である。なら、マロナは恐らくロックテール家のものなのだろう。父から頼まれたという事から、ロックテール家に縁ある家の子女か、ロックテール家の愛娘かもしれない。ヴィノとしては、今関わりあいになりたくない関連のところに居る人物だった。仕方なく、避ける意味あいを込めてヴィノは先程通った道を戻る。取り敢えずいなくなってから行動した方がいい、と店内の商品を眺めるフリをはじめる、がそれは男の余計な一言に邪魔される。


「丁度良かったですよお嬢様! 今そちらのお客様が地図をお買い求めでして」


 にんまりと笑う男を、ツバの向こうから憎々しげに見るヴィノ。自然、少女の視線も向けられた。


「あっ、そう。良かったわね」


 そう述べるマロナには目もくれず、再びヴィノはシギニトの前に立つ。


「いくらで?」


 有るならば買ったほうが良い。量は増えるが仕方ない。とヴィノはいったが、男は手を振って否定の意を見せた。


「いえいえ、交換という形でいいですよ。お客さんも新しい方がいいでしょう」


 確かに、地図なら新しいに越した事はない。だが、ヴィノは首を横に振る。


「いえ。こちらも欲しいので。新たに買わせていただきます」


 予定外の出費だが、金銭には余裕がある。戸惑う男に構わず包を取り出すヴィノだったが、今度は少女の手がそれを遮った。


「ダメよ。古いものは回収って言われてるんだから。それに、地図なんて新しい方がいいに決まってるわ。寄越しなさい」


 相も変わらず尊大の様子で左手を突き出してくるマロナだが、ヴィノは返す素振りをしない。


「買う分にはいい筈。金を払わないと言ってるわけじゃない」


「だーかーらー、古いのは回収なんだっての。いいから寄越せ!」


 平行線の言い合いに、痺れを切らしたマロナが半ば飛びかかる。狭い店内である。下手に動けば店は大荒れになる。ヴィノに逃げ場はない、が当人は冷静だった。右手にあった包を斜め上に放り投げる。そうして開いた手で伸びてくるマロナの左手を取った。掴むというには優しく、舞踏の相手役のように。そのまま、下方に引き寄せる。前方へ踏み込んでいた少女の体は前のめりになり、足がもつれた。そこからもう一息、ヴィノは引き寄せてから手を離す。そして、跳んだ。身を屈め天井に触れるように、畳んだ片足を伸ばし、軽くマロナの後頭部を踏み台にして奥に押しやる。マロナはなんとか転けぬよう踏ん張っていたが、最後の一押しに完全にバランスを崩し、そのまま滑るように前方に倒れこんでしまった。通路にそって行ったため、棚に激突する事態は免れたものの、床に置いてあった商品を幾つか巻き込み、何かが割れる音までした。空中で、投げ捨てた包をキャッチする。


「さっきと同じでいいか」


「えっ!?」


 事態についていけず呆けていた店主へ、ヴィノは言うだけ言って先程と同じ金額に迷惑料をいくつか乗せてカウンターに投げた。それを確認もさせずに、半ば奪うように新しい地図を取る。そのまま出て行こうとしたが、それよりも先に店の奥から少女の怒号が響いた。


「そいつを捕まえろ!!」


 憤怒のあふれる声に外に居た兵士達がヴィノを捉えんと入ってくる。小さく、舌打ちをした。

 入り口から飛び込んできた一人がヴィノの肩に触れた、瞬間。刹那だけヴィノの体から白い光が溢れた。


「私に触るな!」


 嫌悪を顕にした叫び声ににも似た怒声と共に、慄いた兵士の腹部に蹴りがめり込む。瞬時に纏霊して叩きこまれた一撃は骨を砕き背中側の皮膚を衝撃で破って、そのまま通りの反対側の建物へと吹き飛ばす。壁や建物を壊した轟音と共に、周囲の一般人から悲鳴が上がる。

 いとも簡単に仲間が吹き飛ばされたのを見て、残りの兵が硬直する。その隙を縫い、ヴィノは駈け出した。通り過ぎるついでに、数人の兵士に足をかけて転ばせて。


「逃がすかってんだよぉおお!」


 ヴィノが店から出てから一秒と経たず、鬼の形相をしたマロナが飛び出してくる。頭を打ったのか左手で額を抑えつつ、右の拳を握りしめて振りかざした。

 その様子を見た地べたに転がっていた兵が、悲壮な顔で叫ぶ。


「お、おやめくださいマロナ様! それは!」


「うるせぇ! 化障匣ケショウバコ!!」


 制止も聞かず、マロナの拳が詠唱と共に地面に叩き込まれる。睨むは、既に数百メートル先を走るヴィノの背中。

 次の瞬間、マロナが拳を打ち付けた先の通路また建物が、歪んだ。地面が脇に立つ建物が波打つようにうねりヴィノを追いかける。足元を掬われバランスを崩した目標を、今度は無理矢理なうねりに砕けた地べたのレンガや建物の壁が人の数倍の大きさに集まって狙う。周囲の住民は、自分がそれに巻き込まれぬよう祈りながら、ただ蹲って祈るだけだ。

 足元のレンガと土が崩れ塊になって、ヴィノを進む方向と反対側に持って行こうとする。と共に、背後の地面と建物の瓦礫の塊が挟み撃ちにせんと襲いかかった。霊力の乗った攻撃は術者の霊気を纏う。視認せずともその到来を察知したヴィノはあえて飛び、風を突き飛ばして唸り襲いかかる巨塊に乗る。そこへ今度は前方から幾つもの瓦礫塊が、周囲から剥がされて形成された。殺到する意志を持ったような瓦礫を踏み台にしながら、ヴィノは逃げる。全身を捩り、次々に襲いかかる塊を避け、乗り、足蹴にしてどうにか潜り抜けていく。数分と経たず、遥か遠くへとヴィノの姿は消え去った。

 地べたに拳打ち付けたままのマロナの歯が噛み締められ、ぎり、と嫌な音を鳴らした。


「マロナ様、もう」


「うっさいわかってる!」


 標的が居なくなった事を告げようとした兵に当たりながらも、マロナは術を解いた。意志を持っていたかのような瓦礫はピタリと止まってその形を崩す。立ち上がったマロナは手を左右に振って、元あった形に瓦礫を押し留めた。なんとなく形にはなっているが、割れたものまでは元に戻っておらず、触ればまた壊れそうだ。


「おい! さっさとあいつ追いかけろ! ほら行けよ!!」


 逃げられた、という怒りが収まらず、彼女の後ろにまだ膝をついていた兵の腹や尻を蹴飛ばし、動かす。情けない返事をしながら数人がヴィノの居なくなった方へ走り始める中、最後の一人の襟首をマロナが掴んだ。そのまま自分の耳元にその顔を引っ張ってきて、音量を気にせずに怒鳴り散らす。


「全員で行ってどうすんだよボケ! お前はパパに報告してこい! 後ここの通路の修繕もだ! 早く行けウスノロ!!」


 鼓膜を破るつもりなのではと思われる程の声で捲し立て、投げ捨てるように兵士の襟首を放した。逃げるように、その兵は走っていく。


「あんの野郎……ぜってぇ許さねぇ。ボコボコにして顔面踏んづけてやる」


 怒り収まらぬマロナは、腕を組んでヴィノが去った方向を睨んでいた。


 ひと通りの距離を取ったヴィノは、一人少々深く溜息をついていた。場所はよくわからない。取り敢えず瓦礫を踏み台に移動している内に随分と高い位置まで上がってしまったので、そのまま霊翔して周囲で一番背丈の高い建物の上に寝転んでいたのだ。予想外の出来事に疲れてしまったので、まだ周囲は確認していないが、近づく霊気はない。

 ただ買物に出ただけの筈なのに、ちょっとした騒動に巻き込まれてしまったと、自分の運の悪さが少しだけ嫌になる。とはいえ、地図は渡すわけには行かなかった。羊皮紙の大きな方はともかく、小さな方は確認していない。

 ヴィノが確認したかったのは、先日寄った例の村だ。山賊のリーダーであった男の話は嘘。山賊らはあの村を根城に、通りかかる旅人を襲っては金品を奪い取り、その上で人身売買まで行なっていたという。だが、それ以前はわからない。あそこに村があったのは確か。しかしながら元から居た住民達がどうなったかまでは、あの姉妹でも知らなかった。最悪の場合は皆殺しか、もしくは何処かへ売られたか。だとすれば、おかしな点がある。何故、この島を統べるロックテール家が動かなかったのかという事だ。ただ村が襲われたのであれば、そこを統治する領主が率先して出兵させるべきだろう。知っていて見捨てたとなれば、民衆からの信用はガタ落ちになること請け合いである。村民達がある日を境に山賊と化したという説も考えられなくはないだろうが、だとしても兵が動かされないのはおかしい。ここバレシアナは大陸側へと開かれた港であるが、同時に国境沿いでもある。その為、ノラル本国との交易等は北東の港街で行なっているが、先程見た道のつくりからして、例の村を通るのが最も短い道のりだ。そういった交易の通路となる村を荒廃させるのは、領主側としても戴けない事ではないのだろうかと考えられる。だとすれば、残る答えは少ない。

 と、そこまで考えて、ヴィノの腹が小さく鳴った。先程の騒動が無ければ、今頃何処かの喫茶店か食事処で軽食でも摂っていた筈である。誰も聞いてはいないだろうが、なんとなく卑しい気がして、ヴィノは隠すように帽子を顔に被せた。こうなってしまっては下手に店に入る事も出来ない。購入した地図は確認しなくてはならないが、取り敢えずヴィノは、食べ物はおろか飲み物もない寂しい休憩を摂る事にした。











 時は過ぎ、夜空混じり始めた夕暮れ。

 ヴィノは地上の方からの悲鳴に眼を覚ました。顔に被せていた帽子をかぶり直し、ゆっくりと体を起こして中腰の体勢になり、下方の様子を見る。まだぼやけ気味の視界を纏霊して無理矢理覚醒させて。悲鳴の置所は、彼女の立っている建物の庭、ほぼ足元の所だった。


「いやっ! 離してよ!」


「大人しくしろ!」


 声は聞き覚えのあるものだった。ヴィノの記憶に間違いなければ、それは間違いなくバレシアナ到着と共に別れた姉妹の、姉の方の声であった。見れば、周囲を高い塀に囲まれた広い草原にも似た庭の真ん中に、両腕を衛兵に抑えられた女性の姿が見える。自分に縁があるのか、余程彼女の運が悪いのかわからないが、どちらにせよ不幸なとヴィノは嘆いた。自分に関わった為なのではないかとも思えてしまうが、今はそれを気にしている場合ではない。助けに、と一瞬右手に力が篭るが、不意に彼女の妹の事を思い出し、飛び出すのをやめた。


「やめてっ! いやぁっ!!」


 バレシアナ到着から数時間が経っているが、彼女の妹がわざわざ離れるとは思えない。数日村からの旅路を共にしたヴィノでも、会話した覚えはない。それが一人で活動する事が出来るとは到底思えない。故に、ヴィノは一旦周囲の様子を霊覚で探る事にした。姉妹の霊気は辛うじて覚えている。すぐに見つける事は出来た。居場所は、今足場にしている家の正門と思しき場所の影。恐らくは連れ去られた姉を追ってきたのだろう。何にせよ、今のままでは見つかってしまう。同時に、姉の方も抵抗虚しく屋敷の中へ連れ込まれてしまいそうだ。思考を巡らせる猶予などない。半ば急ぎ、ヴィノは胸元の宝石を取り出しつつ軽く握った。そして、小さく呟く。


「……お願い」


 一秒に満たぬ発光が握った手の内から生まれ、指の隙間から白光に形成され、黄色の文様を持つ鳳蝶が飛び出した。音もなくそれは屋敷の屋根の下へ飛来し、女性の後髪へ止まる。女性が激しく抵抗するのを抑えるのに手一杯の為か、衛兵達はそれに気づかぬようだ。

 その隙にヴィノもまた飛び立ち、正門しがみつき今にも飛び出しそうな妹の元へと降り立ちその肩を掴んだ。


「ひっ――!」


 悲鳴を上げそうになるその口を素早く手で塞ぎ、そのまま軽く塀の壁に押し付けて、自分の口元に人差し指を立てた。今騒がれては元も子もない。恐怖に眼が見開かれて震えていたが、自分を抑えているのがヴィノで有ることを認識すると、ようやくそれも収まった。静かにしろとのヴィノを意図を理解したのか、小刻みに首肯を繰り返す。それを見て、ヴィノはまた小声で言った。


「一緒に来て」












 場所を変え、ヴィノが借りていた宿屋。念の為窓の方から少女を抱え入ったが、既に部屋は荒らされた後である。どうやら本格的に捜索はされていると当たりは付けられる。ヴィノはボソボソと何か呟いて、部屋の内側全域に一瞬光りを走らせる。すぐにそれは見えなくなった。少女が、何をしたのかと訴える視線をする。簡潔に、ヴィノは答えた。


「結界。これでこの部屋には誰も来れない。音も聞こえない」


 取り敢えず地図を広げながら、ヴィノは少女に事情を聞くことにした。

 少女の名前はヘネレ。姉はハズナ。姉妹はヴィノと別れた後、衛兵に「山賊に襲われて逃げてきた」と告げたらしい。二人はノラル本国の出で、乗っていた馬車が道中襲われたのだと。ヴィノに助けられたの下りは二人の精神的苦痛が大きい為、どちらも口には出来なかったという。これは、ヴィノにとっては好都合であった事だ。衛兵に簡単な事情聴取をされた後は、ロックテール家の親類が管理しているという部屋をあてがわられると共に自由の身となり、二人はヴィノにもらった金で身なりを整えるのと食事を摂ったらしい。そうして、手洗いにヘネレが立ったところ、ハズナの元へ衛兵が殺到し拘束していったのだという。

 辿々しいながらも全ての顛末を告げ、ヘネレは息に詰まってしまった。姉を身代わりにしたかのような自分の立場が、呵責を生んでいるのだろう。

 姉妹が衛兵に狙われているという事はわかったが、その理由は見えない。ヴィノ自身が衛兵に負われているのは事実で、姉妹も助けた張本人であるが、姉妹はヴィノの事を話しておらず、バレシアナに到着してすぐ別れてから会うのはこれがはじめてだ。つながりを疑われるとは思わない。ならば、狙われたのはハズナ、ヘネレ両姉妹自身だという事だ。

 椅子に腰掛けていたヴィノが、立ち上がる。ヘネレはそれを怖ず怖ずと見上げた。まだ何か思索しているように見えるヴィノだったが、ヘネレは震えに固めていた手を開き、意を決してヴィノのコートの裾にしがみついた。


「お、お姉ちゃんを……! ハズナを助けて下さい!」


 床に座り込む、少女の悲痛な訴え。まだ、他人に対する恐怖はあるのだろう。掴む手も見ていて音がなりそうな程に震えているが、決して放そうとはしない。裾を掴んでいない手で、小包を差し出した。


「こ、これ……あなたに、もらったもので、使っちゃって、少ししかないけど……でも! いつか、お金は何とかしますから! お願いします! あなた、しか……頼れないんです……」


 数秒、ヴィノは己に縋り付く少女の姿を見つめていた。感情を垣間見せもしない藤色の瞳が何を思うのかは、当人にしかわからないだろう。だがやがて、ヴィノはしゃがみつつ静かにコートを掴む手を外し、包を差し出していた手も合わせて両手で包んで押しやった。


「ここに居なさい。夜が明けるまでには帰るから」


 かけた言葉はそれだけ。涙流す少女の顔に、仄かに白く光る掌を振る。と、ヘネレは糸が切れた人形のように、ヴィノの方に倒れかかった。受け止めた少女からは、穏やかな寝息が聞こえる。静かにベッドに横たえ、ヴィノは窓を開け放った。

 空には既に、下弦の月が静かに漂っていた。













 再び、ヴィノはハズナが連れ込まれた屋敷の前へと着ていた。先程は、突飛な事態の中にあったので、場所くらいは覚えていたが、その全容を改めてみれば、それがかなりの大きさであった事に気付かされる。

 人の身の丈の二倍はあるだろう石積みの塀に囲まれた、古めかしい屋敷。塀の上にはさらに鉄柵が組まれており、十人程が横列しても通れそうな正門は、塀と同じくらいの高さの、分厚い鉄扉が閉ざしている。外に衛兵の姿はない。門前に兵を配置するのは常識だと思われるが、今は姿が無かった。運良く交代の時間なのか。しかしながら、ヴィノは屋敷の中に用が有るのである。人が居ないのでは、訪問したい旨を伝える事も出来ない。

 仕方なく、ヴィノは軽く右の拳を握った。別に扉を吹き飛ばそうと言うのではない。ただ、気づいてもらうのに少々強めに叩くだけだ。軽い動作で振るわれた手の甲が鉄扉に叩きつけられ、地鳴りのような音と共に少しだけ門扉を奥に動かす。

 少し力加減を誤っただろうか、とヴィノが思っている内に、左の扉の内側の小扉が開き、中から衛兵が出てきた。やはり、門の内側には配備されていたらしい。


「何者だ!」


 ヴィノとしては、大きめなノックをしただけのつもりだが、衛兵の態度は横柄だ。それだけ、今この屋敷は厳戒態勢なのかもしれない。ヴィノは兵の方へ歩み寄りながら、口を開いた。


「失礼。ここの当主はいらっしゃるか。少し話がある」


「ロックテール卿は約束のない者と会うことはせん。今日はもうその連絡もない。どうしてもというのなら明日出直せ」


「僕でもか?」


 高圧的な態度の兵に対し、数歩歩み寄るってそんな事を言う。何を言っているのかと兵は怪訝な顔をしたが、ヴィノの姿を改めて認識すると、驚いたように剣を抜き放った。


「貴様! よくも堂々と!」


 ようやく気づいたのかと呆れながら、眼前に突きつけられる切っ先を指先で横にずらし、ヴィノは淡々と告げた。


「ロックテール卿に会わせてもらいたい」


 だが早々通るわけもない。今一度力強く、兵は剣先を突きつける。


「ならぬ! この犯罪者めが! 今ここで成敗して――」


 兵は凛として、拒否の意志を示すが、その台詞は甲高い金属音にかき消された。

 からん、と寂しい音を鳴らして地面に落ちる、中央から二つに割れた剣身。それまで下げられていたヴィノの腕が、顔面の前に浮かされていた。ヴィノは呆ける兵士に冷たく言い放つ。


「勘違いするな。僕は頼んでいるのではない」


 冷然とした眼で、暗に強制力を持たせた言葉に兵士が意図せず一歩後退る。さらにヴィノは追い打ちを加えた。


「無駄に騒ぎたいなら勝手にしろ。こちらも勝手にさせてもらう」


 その後、睨み合う事数分。やがてその他の数人の兵が集まった所で、衛兵側が折れ、当主へ話をつけに屋敷へと走っていった。


――ロックテール邸。応接間。巨大な五階建ての建物の一階に設置されていながら、その建物の限界の高さまで突き抜けられた作りで、異様なまでの高さがある。壁全体には絵画のような模様が描かれ、所々の線というべきか縁というべきか悩ましい箇所は、黄金のパーツが組み込まれている。入り口は、屋敷の正面玄関を背にすると考えたら、前方と右側に一つずつ。そこは、流石にその奥の部屋なり廊下なりとの兼ね合いがあるのか、大きさは普通だ。部屋の中央には鈍色に光る無骨な長方形の大きな卓と、真紅の十人はかけれるだろう豪奢な装飾がなされたソファが二つ、卓を挟んで対面に置かれている。そして何より眼を引くのが、扉を避けた壁際前面に立たせられている騎士の全身甲冑の列だ。中身はないが、どれも抜き身の剣を下に、両手で持っている。今にも動き出しそうな程、その鎧は鎧として創られていた。恐らく、着用しようと思えば出来るだろう程に。

 その応接間に今、ヴィノは一人で待たされていた。衛兵がついてくるものだと思っていたが、通された部屋右側の扉の外で待機しているだけのようだ。霊気ははっきりと伝わる故、気は張っているようだが。ともかく、ヴィノは呼び出したロックテール家当主が現れるその時までを、じっとソファの上で待つ。その手には、昼間購入した新旧合わせて8つの地図が入れられた袋が握られている。

 と、数分の後、ヴィノの正面の方にある扉から、ふくよかな男性が一人、ワイングラスと瓶を手に入ってきた。就寝前だったのか、その身に金箔があしらわれたベージュのバスローブ姿である。約束を取り付けずに乗り込んできたこちらにも非があるが、あまりの対応にヴィノは不機嫌になるどころか呆れた。


「我輩の兵どもを脅して入ってくるとは。こんなふてぶてしい客は久々だよ。ヴィノ=ディロデクト殿?」


 皮肉を述べながらも何処か楽しげな笑みを浮かべながら、ロックテール家当主、マリオ=ラル=ロックテールは、ヴィノの正面のソファに深く腰掛けた。と共に手にしていたワインと二つのグラスを置き、注いだ。自分の正体がバレている事には、特に疑問を抱かない。この期に及んで何者だなどと言われた方がおかしい。


「ここバレシアナ産のワインだよ。生産量は少ないが、その分品質は保証する。良ければ一杯」


 片方のグラスをヴィノの方へ押しやり、自分はもう既に一息に飲み干すところだ。あまり気乗りしないヴィノだったが、一口だけ口に含んだ。満足そうに、マリオが笑う。


「して、何の用かな? 傭兵として、仕事の斡旋を受けに来たわけでもあるまい」


 要件を促され、ヴィノは持ってきた地図を広げた。小さなものの内、新旧二つ、ここバレシアナ周辺が区切られて大きく描かれているものだ。そうして両手で、地図で表記される同じ点を指さす。


「ここには、小さいながらも村があった筈だ。それが何故、不自然に通りの先だけ消され、今日更新して出されたというこちらでは山道ごとなかった事にされているのか。答えて頂きたい」


 ヴィノの行動と言葉に、マリオが身を乗り出す。臭いのきついオリエンタル系の香水でも使っているのか、あまり好まない臭気に、少しヴィノは顔を顰めた。

 指が埋まりそうな顎を撫で、たっぷりと間を取った後、マリオは答える。


「……エブンの村、か。これを旅人のお主に言っていいものかは困るが……」


 一旦言葉を区切り、再びソファに重そうな体を沈め、ワインを煽るマリオ。

 しかし、その視線がへばりつくように自分に向けられている事にヴィノは気づいていた。値踏みされている。そう感じた。故にヴィノは言葉を畳み掛ける。


「賊ならば僕が殺した。依頼があったからな。賊が人身売買をしていた事も知っている。問題は……あの

村からどこにその人間を流していたか、だ」


 マリオの眼が細められた。それを、射抜くようにヴィノが見つめながら、立ち上がる。


「わざわざそんな事を聞ききたのか? プロではない、が優しい御仁だなディロデクト殿。残念ながら、我輩もそれに関しては情報が薄くてなぁ、力になれず申し訳ない」


 片手で額を抑えながらがマリオは言った。数秒の間を置いて、ヴィノが少しだけ長い瞬きをする。その後に開いた眼は、異様な冷たさを放っていた。


「僕の前で虚言は通らない。今、聴こえたぞ。そうか……捉えた人々は、この真下、か」


 足元を叩くヴィノの動作、言葉と共に、マリオの額に冷や汗が一筋流れた。

 ヴィノの言葉が真実で有ることを、マリオは知っていた。だが、それが何故バレたのかわからない。口にしたつもりも表情に出したつもりもなかった。地下牢には、霊覚の及ばぬよう、ロックテール家の血筋にのみ発現する特異な術で防護している筈であった。地下に至る路も、厳重に管理している。それが何故。

 そう内心で焦るマリオは、その姿を見下しているヴィノの視線に気づかなかった。


「あの術はロックテールの血族の物か」


 ハッと、マリオが顔を上げる。ヴィノはもはやマリオの方など見ていない。と、彼の背後の扉が勢い良く開かれた。音に驚き、座りながらマリオが首を捻って背後を見る。そこには躑躅色の髪の、少女が暗紅色の瞳を見開いて立っていた。昼に、ヴィノと一悶着起こした張本人、マロナである。その姿を認めたマリオが、半ばソファの背から身を乗り出して叫んだ。


「マロナ! 何故お前がここに! 来るなと言っただろう!」


 だが、マロナはもはや彼の言葉など聞いてはいなかった。


「自分からやってくるなんてなぁ……大した奴だよてめぇは!」


 ヴィノの姿を認め、瞬時に沸騰したマロナが右の拳を握り、思い切り横の壁を殴りつける。響き渡る震動と共に、室内全体にマロナの霊気が迸った。マリオはソファの上に縮こまり、ヴィノが軽く身構える。マロナが吠えた。


化障匣ケショウバコ毛尖モウセン!」


 昼の時と同様に、床や壁が一波うねる。そして、広い室内の全域から、人間大の棘が突き出した。今度は剥がれるのではなく、変質した、壁や床。剣山の如く、部屋の隅々から真っ直ぐに伸びてマリオをヴィノをマロナを囲う、棘、棘、棘。マロナの叫び声にも思える術の発動が続く。


「動くなよ親父! 瞬天足カソクツシタ!!」


 赤白い光に包まれる、マロナの両足。まるで光の靴のようになったそれで、彼女は翔び立った。音を置き去りにする速度で飛び上がり、棘に囲まれたヴィノの姿を認める。空を、蹴った。

 流星の如く肉薄するマロナ。一回転し、突き出された右足が、その姿を見上げたヴィノの顔面に突き刺さる。激突の衝撃が、遅れて周囲を揺るがした。

 狂喜じみた笑みが口元を歪ませる。だが、彼女は気づくべきであった。この広い部屋を、巨大な建物を揺るがす程の一撃をまともに喰らって、一歩足りとも動いていない、足元の存在に。静止していたような時間が、動き出す。白い手が、何の前触れもなくマロナの右足首を掴んだ。


「う――」


 嘘、とでも言いたかったのだろうか。その言葉が声になるよりも早く、マロナの視界が揺さぶられた。衝撃と轟音と回る世界が彼女を支配する。

 棒切れのように振り回され、少女の小さな体は、自らが生み出した棘に叩きつけられた。ヴィノはそれを掴んだまま一回転し、周囲の棘をマロナの体でひと通り砕き、最後に振りかぶって正面の床に投げ下ろす。鮮血が舞った。


「っあああああああああああああ!」


 落下の衝撃音に一拍遅れて、少女の苦悶が木霊する。その左肩は、運悪くか狙われてか、棘の一本に串刺しになっていた。非道にも、その左肩付近を、ヴィノが片足を振り下ろすように踏む。


「気は済んだか? お嬢さん」


 まるで路傍の石でも見るような眼で、ヴィノはマロナを見下していた。一撃を入れた筈の顔にも、靴跡の影すらない。

 一方、全身を棘に、それが砕ける程に打ち付けられたマロナの体は既に満身創痍。しかし、眼はまだ牙を剥いた獣のように爛々と敵意を剥き出しにしていた。


「いちいちムカツクんだよお前は! スカした面しやがってぇえ!!」


 痛みに歯を食いしばりながら、まだ動く右手で、自分を踏みつけている足を握る。しかし、杭のように動かない。そう知ると否や、再び、マロナの放つ霊気の濃度が上がった。


千鳥スネア!」


 マロナの顔が、体が服が、無数にひび割れる。物質を変化させるのがロックテールの術ならば、その対象が己であっても可能ということなのだろう。次の瞬間、千羽の赤い小鳥がヴィノの足元から飛びたった。

 室内を飛び交う、赤い鳥の全てから、重なったマロナの声が発せられる。


『許さねぇ、全身バラバラに、その清ました顔面ズタズタにしてやらぁ!!』


 内数羽が、上空から急降下し、ヴィノ向けて殺到した。ヴィノは無造作に、足元の棘の欠片を広い、その鳥へ投げつける。欠片が、鳥の翼に触れた、途端。その欠片は上下に分断された。よく見れば、小鳥の翼はまるで刃の如く薄い。僅かに時間をずらして飛来する数羽を、右に左にと揺れるような動きで、避ける。

 通り過ぎた鳥達は急上昇し、再び上空へと戻ったかと思いきや、軍勢を引き連れてヴィノの直上から降り注いだ。鋭利な翼持つそれは、刃の雨の如く。その直下に立つヴィノの姿が、消えた。落ちる赤鳥の豪雨が床を切り裂き潜り込む。無残にもズタズタになっていく床が、崩落した。切り刻まれ瓦礫の窪みとなったその場にヴィノが現れる。と共に、彼女の周囲の床の中から赤い小鳥の軍勢が円柱を象るように飛び出した。そのままヴィノの周囲を覆い尽くすように、竜巻にも似た速度で群鳥は回遊する。


「……いい加減、鬱陶しいよ」


 渦の中に起こる強風がヴィノの帽子を吹き飛ばし、呟いた言葉さえも掻き消す。


『死ねぇぇぇえ!』


 反響するかの鳥の声が収束した。微かな隙間すらなく、触れる全てを切り飛ばす刃の嵐。金属の弾かれる音が鳴り響いた。

 完全には集えぬ鳥は一定の距離から進めない。鳥が描くドームの内側に、平然と立つヴィノの周囲を不可視の壁が覆っている。時折光を反射するように輝くそれが、鳥の侵入を完全に防いでいた。徐ろに、ヴィノの片手が伸びる。指先が、壁に触れそして目にも留まらぬ速さで、渦描く小鳥の1羽を掴み引き摺り出した。淡く光を帯びた手は、刃物そのものの筈の鳥を握っても、薄皮の一つ傷つけさせない。ばたばたと、赤白の小鳥がヴィノの手の中で藻掻く。


『何すんだ! 放せこの』


 千羽のマロナが声を上げる。言葉の後半は肉が潰れ骨の砕ける音に途切れさせられた。


『ぎゃぁぁぁぁああああああああああ!!』


 苦痛に抑えられぬ声が重唱する。ヴィノの手の内から大量の血が流れ落ちた。取り囲んでいた鳥達がヴィノより数メートル離れた場所で集合し、元の少女の形を取った。だが、右肩が円状にくっきりと削られ、そこから夥しい量の血が滴っている。その肉片は、ヴィノの手の中にあった。


「ロックテールの術は変化の術。自分を変化させたそれを壊されれば、必然とこうなる。良かったな、肩で」


 落ちてくる帽子を左手でかぶり直しながら、右手に握っていたマロナの肉片を捨てる。べチャリと重苦しい液体が、荒れた床にへばりついた。体が欠損し、また左肩も貫通しているマロナの呼吸は荒く、膝立ちのまま動けない。瞳は佇むヴィノの姿を映してはいるが、先程までの獣の如き様相はもはやない。両肩からの大量の失血は、マロナが意識を保つ限界まで追い込んでいた。その前へ、それまで縮こまっていたマリオが、転がるようにマロナの前へ出てくる。ゆっくりとした足取りでマロナに近づく恐怖と焦燥に塗れた顔で、叫んだ。


「ま、待つんだ! もう止せ! お前の望みはなんだ!」


 ヴィノの歩みが止まる。淡々とした言葉が続いた。


「今現在保有している奴隷の解放。そして人身売買の禁止を徹底しろ」


 ヴィノの要求は実に単純明快なものだ。だがそれは、ロックテール家が行ってる事業の一つを完全に破綻させる事と同義。マリオの顔が、引き攣る。


「馬鹿を言うな! 家は需要があるからその事業を行なっているに過ぎん! その全面取締など」


 反論の言葉を終える前に、ヴィノは再び歩を進めはじめた。反射的に、マリオは飛び退くように立ち上がる。


「ともかく、今日の夕方捉えた女性が居るだろう。その身柄を寄越せ」


「だ、誰かに依頼されたのか? なら我輩がその倍、いや三倍出そう! それで文句はあるまい!」


 虚勢なのか本気でそう思ってなのか、自信満々な表情でマリオは声を大にするが、ヴィノからの返答は、高められた霊気の発散が周囲を吹き飛ばす爆発の音だった。

 慄くマリオだったが、その背後から掠れたか細い声が溢れる。


「パパ……奴隷って、人身売買って……なに」


「こ、子供は知らなくて良い事だ!」


「アタシ、聞いてない……」


 親子の問答を聞いている内に、ヴィノはマリオの直前まで辿り着いていた。ただ見下ろすだけの視線は相変わらずで、何を思うのかは伺えない。少なくとも温情等は欠片も見えないが。


「奴隷解放か、否か。答えは決まったか」


 冷たくヴィノは言い放つ。娘との会話に板挟みになったマリオが、状況処理を越えたのか、声を荒げた。


「ふざけるな! この偽善者が! 傭兵風情が我輩に逆らうなどっ」


 彼もまた、ロックテールの血筋を持つ人間である。故に、マロナと同じ術を使う事は可能だ。彼から放たれた霊力が室内の壁際にずらりと並べられていた甲冑に宿り、動き出した。元々彼の霊力に反応するよう創られて居たのか、詠唱はない。完全なる奇襲。だが、その甲冑騎士がヴィノの元に辿り着く事はなかった。深く叩きこまれたボディーブローがマリオの腹部に突き刺さる。それが甲冑へのマリオの霊力の伝達を断ったのだ。


「う、ぐ……がぁ」


「偽善など、わかった上だ」


 そのまま、ヴィノは拳を引かずに振り上げてマリオの体を吹き飛ばす。ちょうど、立てぬマロナの後ろに落ちるように。そうしてまた一歩踏み出すと、今度はマロナの首を掴みそのまま持ち上げた。


「取引をしようか。ロックテール卿」


 自分の斜め上に腕を伸ばしてマロナの体を掲げ、視線は床に転がったマリオに合わせる。取引、との言葉に、マリオの顔が少しばかり引き締まったのは、この期に及んでも染み付いている商人故の性か。


「奴隷解放とその後の生活、身の安全の確保に尽力しろ。でなければ、この娘の首は千切れ飛ぶ」


「な! 何が取引だ! そんなものただの脅迫ではないか!」


「そうだな。脅迫だな」


 糾弾するつもりではなった台詞をあっさりと肯定され、マリオは項垂れた。彼とて人の子であり親である。既に大量の出血をしている娘の姿を見るのでさえ苦痛なのは確かだった。

 僅か、ヴィノから視線を外し奥に見える扉を睨むマリオ。逡巡する。例えば、今ここに屋敷の全衛兵を呼び寄せたところで、勝算はあるのか。今のこの状況を打破し自分たちに優位に持っていく条件はないか。そう全力で思考を巡らせた果てに、マリオは簡単な答えを導き出し、思わず笑みを零した。


「なら……我輩も脅迫には脅迫を返そうではないか……」


 勿体ぶった言い方だが、ヴィノは特に反応を示さない。マリオは心内で舌打ちしたが、痛む腹を無視して立ち上がり大仰に両腕を広げた。


「お前の返せ、と言った娘が、今誰の手の中にあるか忘れるなよ? 我輩の声一つであの娘は死ぬのだぞ」


 抑えきれぬ、と言った様子で高笑いをはじめるマリオ。そう、ヴィノが助けにきたハズナは今、この荒廃した応接間の真下の地下室に囚われている。無論、後日売り出す為の商品として、丁重に管理はしてあるが、何にせよマリオに取ってはモノである。殺す事に躊躇いはない。相手の依頼物の生殺与奪を握っている。これ以上の交渉物はない。

 その筈だった。マリオの中では。


「良くもまあ出来もしない事を堂々と述べられるな。そういうのは実行可能な事をしっかりと確認した上で言うんだな」


 吐き捨てるように述べながら、ヴィノはマリオの返事を待たずに左手の指を軽く鳴らした。小気味良い音が空気に浸透すると、不意にヴィノの左後方に光が生まれた。拳大程の光の玉はやがて一匹の白い蝶となると、次の瞬間には弾け部屋全体を包み込んだ。思わぬ光量に眼を瞑るマリオ。次に眼を開けた彼の視界、ヴィノの後ろに一人の女性が倒れていた。眠っているのか、身動きはしない。だがそれがヴィノの要求した女性で有ることを理解するに、時間はかからなかった。


「ど、どういう事だ。何故そいつが」


 狼狽するマリオの独白は、怜悧な声で切り捨てられる。


「そんな事はどうでもいい。さて、答えをもらおうか」


 答えなど一つしか残されていない事を知りながらの問いにしか思えない。


「パ、パ……」


 首に手をかけられ持ち上げられたマロナが、どうにか声を絞り出す。

 そう時を待たずして、マリオは全てを諦めたように項垂れた。

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