目醒
有史以来、人はフェルという災厄の化身にその生命を脅かされて生きてきた。フェルだけではない。人より強大な力を獣、毒を持つ生物。様々な病を引き起こす細菌やウイルス。世界の気まぐれによって起きる、地震や落雷、竜巻、津波や日照りなどの天災や異常気象。頑丈な肉体も鋭利な牙も爪もない人は、知恵という唯一の武器を使ってそれらを凌ぎ、今日まで生を繋げてきた。今でこそ、都市を築き社会を形成して、あるものは日々の糧を生産し、あるものは身を守る為の武器や術を創りだし、あるものは己を磨き力を得て、集合体として人は反映している。
だがそれは、果たして進化なのだろうか。生物を研究する者は、今現在存在している全ての生物は、長い時をかけて環境に最適化するよう進化していると語る。環境に適応する、そういっただけの話であれば、過去外敵に対しこれほどないまでに無防備だった人は、確かに今、世界で最も安全な集団を形成していると言っても過言ではなく、進化していると言えるのかもしれない。しかして、人は何も変わってなどいないと、ゼムケードは思う。ただ、出来ることが増えただけなのだと。人という種ではなく、個体に見てみるとしよう。この世界において最も特異な人と言えば、鍵乙女に相違ない。魂の循環装置たる門を製造し、その制御可能な唯一の存在。その身に刻まれし世鍵という名の烙印は、ただの霊呪術に思えて全く違う。素養がない人間に儀式を施しても、それはただの刺青にしかならず、何の効力も発揮しないのだ。即ち、世鍵を刻める者それ自体が、人の進化系と呼べる存在なのかもしれない。ただし、それはあまりに限定的で理屈も解明されていない。千年の昔に現れた女神とその従盾騎士そして巫女が創りだしたという儀式も、詳細は不明だ。世界に鍵乙女が一人しか存在出来ないというのも、おかしな話である。何にせよ、鍵乙女は人の知の及ばない人の業により生み出されている存在と言える。唯一、儀式も何もない筈なのに突如として生まれ落ちた初代鍵乙女だけが特異な存在だが、それは進化ではなく変異、もしくは全く別種の存在だ。
とどのつまり、人という存在は何も変わってなどいない。ただ、長い時をかけて生きて行く知恵を身につけたに過ぎない。進化ではなく、成長。それも、鍵乙女という特異点を得ての、だ。
古びた、小さな城。幾年月もまともに人など住み着かなかっただろうその城の一角、小さな塔の頂上にある部屋に、一つの棺が安置されていた。細長い五角形の黒塗りされた木製のもので、天盤には巨大な十字架の刻印。両側面には数々の文字、多くの名前が刻まれている。ガラスの割れた高い位置にある窓枠から差し込む満月の白い光だけが、室内とその棺を照らしだしている。室内は石造りで、床の一部から苔や草本の類が広がりつつあり、退廃的な雰囲気だ。一つしか存在しない出入口も、今残るのは錆びついた蝶番のみ。
そんな、暗がりの穴のような入り口から、仄かに蝋燭の辺りが登ってきた。階段を、一段一段丁寧に登ってくる足音が途切れ、入り口にゼムケードが姿を現す。手には燭台と、大きく古びた鍵を一本手にしていた。
ゼムケードは棺の横に跪き、燭台を脇において、棺に取り付けられていた南京錠を手に取る。被っている埃を丁寧に拭き取り、彼は持っていた鍵をそこに差し込み、開いた。かしゃり、と音を立てて錠は床に落ち、ゼムケードは棺に触れず燭台を持って再度立ち上がった。
彼が離れたのを確認するように一拍置いてから、棺は独りでに動き始めた。天盤が、置くの方に重たい音を響かせながらずれていく。ずっと閉ざされていたのだろう、真っ白な美しい内装が徐々に顕わになり、そして、棺の蓋が完全に滑り落ちた。
中に居たのは、一人の半裸の男。20代と思しき容姿で、長い金色の髪は彼の腰の辺りまで伸びている。美しい、と通常男に向けて使う言葉ではない筈の単語が、異様なまでに似合う美丈夫だ。埃を被った棺の中に居たというのに、身体に一切の腐敗は見えない。それどころか、男は死んでなどいなかった。呼吸と共に微かに上下する胸がそれを知らしめる。そして。次の瞬間、男の半身が突如として起き上がった。
簾のように顔の全面に落ちる前髪の隙間から、白濁の瞳が覗く。
「おはよう、アール」
ゼムケードは、笑みを湛えながらそう挨拶をする。アールと呼ばれた男は、自身の前髪を両手で後ろに撫で付けながら、血色の悪い唇を開いた。
「短いが、良い眠りであった……おはよう、ゼム」
低く響く声が、少し寝起きの微睡みを混ぜて返される。目線が、ゼムケードの方を向いた。
「私を起こしたという事は、時期が来たのかな。大分、君は年を取ったように見えるが」
アールの物言いに、ゼムケードは苦笑いを浮かべながら答える。
「そりゃ、君達と違って私は寿命が短いからね。十年も経てば、仕方ないさ」
おどけた言い方をするゼムケードを見、アールの口元が微かに微笑んだ。
「友だけが老いていく姿というのは、なんとも侘しいものだよ。そちらは……あまり変わらないように見えるが」
言いながら、アールの視線がゼムケードを外れてその奥を見る。釣られたようにそれを追ったゼムケードの視界に、エメラルドの長髪をした美女が佇んでいたのが入り込んだ。
「おはよう、ラジュアンヌ」
女性は言葉を返さない。虚ろな瞳は何処を見ているのかわからず、ただそこに置かれているだけの人形のようだ。一瞬、アールはそれを訝しんだが、視線を映したゼムケードが無言で頭を振るのを見て、納得はしない様子だったが理解はしたように眼を閉じて首肯した。
アールの座る棺の横を、ゼムケードが通り過ぎる。砕けた窓枠から差し込む月光を、彼のモノクルが反射した。その月に、ゼムケードは手を伸ばす。
「あと少しだ。あと少しなんだよアール。もう少しで、ただの人に過ぎない私の手が、あの月に届く」
声は、まるで無邪気の少年のようでもあり、それでいて大人の男が発するには少しばかり狂気が混ざった、そんな響きを伴っていた。
「協力してくれ、アール。君の力が必要なんだ」
腕を下ろし、ゼムケードはアールに向き直る。彼は、声を出さずに笑っていた。
「何を今更。友の頼みだ。聞き入れよう」
言って、男は棺の中から起き上がった。




