ヴィノ=ディロデクト
からん、と乾いた鈴の音がした。来客を知らせる音に、カウンターに半身を投げていた店主らしき壮年の男性が顔を上げる。店内は三人がけのテーブルが三つと七人程度の席があるカウンターだけの、すべて木を組み合わせて出来た質素な構え。昼にもまだ遠いということもあってか、客は居ない。光源は入口から見て左手にある木枠の窓だけで薄暗く、店主は寝ぼけ眼を擦って店の入り口の方を見た。黒いコートのボタンを全て貴重面に止め、黒いハットを目深に被った少年が、何も言わずに突っ立っている。広めのつばに隠れて目線は見えないが、少年はこの店がやっているのかやっていないのかを見定めているようだ。まだぼやける視界をこすりながら、店主は野太い声でつまらなげに言った。
「お客さんたぁ珍しいな」
いらっしゃいませでもなく、店主は丸椅子に深く腰掛け直し、卓に両手を組んで置く。歓迎されている様子はないが、気にせず、少年はカウンター席の右端に座った。
「……ミルクとトーストを一つ」
店主が思い描いていたよりも幾分か高いトーンで少年は呟くように、もし他に数名でも客が居たなら恐らくは全く耳に届かなかっただろう小さな声で注文をする。少しだけ男は驚いたが、多少声が高いなど、もしくは声変わりが遅い事など幾らでもあることなので、特に気にせず重い腰を上げた。歓迎していた雰囲気はまるでないが、一応仕事はするらしい。
「トーストは何つける? ジャムか? 今ならバターもあるけどよ。割増だがな」
少年の座るのと反対側のカウンターの向こうに調理場へ続く扉がある。そこに後ろ歩きで向かいながら聞く店主。すぐに少年は答えた。
「バターと、アンコ」
調理場へのドアノブに手をかけていた店主の動きが止まった。バターはまだわかるがその後によくわからない単語が飛び出してきたからだ。
「あー? アンコってのはあれか。黒くて甘い」
店主の言葉に少年はコクリと頷く。はぁ、と小さく男はため息を吐いた。
「んな保存の効かねぇもんがこんな寂れた村にあっかよ。他のにしな」
冷たい物言いに少し少年は落ち込んだのか、他のを考えているのか黙ったが、すぐに口を開く。
「なら……トマトジャムを」
「はいよ。良かったならそれなら昨日作ったばっかだ」
「ミルクに、砂糖も」
「へいへい」
なんだかんだと注文の多い客に適当に返事をしながら、店主は調理場へと入っていった。十秒もせずに彼は出てきて、カウンター席にしゃがむとコップとミルク瓶を片手に立ち上がり、注いで背後の酒瓶ばかりがならんだ棚の引き出しから砂糖の入った袋を取り出して、中に入っていたらしいスプーンで適当に一杯入れ、かき混ぜもせずにスプーンごと少年の前に置く。何も言わず、刺されたスプーンで静かにかき混ぜ始める。そうこうしている内に店主は皿に載せた二枚のトーストと透明な瓶に入った色鮮やかなトマトジャムを少年の前に置いた。スプーンは瓶の中だ。好きに乗せていいという事だろう。サービスがいいのか、雑なのかは判断に困るが。少年は別段気にする様子もなく、皿とジャムを自分の近くに寄せて、片手でジャムの蓋を開け、中か八割方ジャムに塗れたスプーンを摘むように取り出す。その持ち手を、コートのポケットから取り出したハンカチで綺麗に拭ってからパンに塗り始めた。几帳面なのか育ちが良いのか、そんな少年の所作を先程の席について頬杖をつきながら眺めていた店主が、暇つぶしにと口を開く。
「あんちゃんよお、何だってこんな村に来てんだ?」
杖にした手の親指で少し長い無精髭をじゃりじゃりといじりながらの男の問に、少年は口の中にあったパンをミルクで流しこんでから答えた。
「……傭兵」
ただの単語で答えられた言葉に、男の眼が点になってから、訝しんで体を起こす。若い身空で傭兵稼業など、そう珍しい事ではないのだが、男は興味が沸いたようで、椅子を少年の近くまで持ってきて座り直した。
「そいつぁ大変だな。じゃあ何か? ここには何か依頼を受けて来たのか?」
こんな廃れた場所に用のある人間など居まいと思いながらの男のセリフは事実その通りだったようで、少年は首を横に振ってパンに齧り付く。店主は、残り半分になっていたコップにミルクを継ぎ足してやり、その代償とばかりにさらに聞いた。
「その依頼ってのは、幾らぐらいのもんだ。今の飯代なら、どのくらいまでやる?」
少しだけ鋭く光る男の眼に、少年ははじめてハットの下の藤色の眼を合わせた。一瞬、男の背筋が凍る。その眼は、年若いとはいえ男としては異様に可愛らしいくりっとした瞳だったのだが、綺麗な藤の色の奥はあまりの昏さ内包していた。同時に今更ながらに気づいた少年の髪の色に驚く。その色は、白。年老い、しらがとなったものではなく、冷然とした白銀。そんな色の頭髪の人間など、男は未だ見たことはなかった。少年の淡い桃色の唇が僅か開く。
「内容と理由による」
答えはごく普通のないように見えて少しおかしいところに店主は気づいた。内容によって料金が変わるのは勿論当然の事だろう。だが、理由とは一体どういった事か。傭兵とは本来ただ仕事を契約するのに、難易度と報酬しか気にしないものだ。わざわざ依頼の背景などを気にするようでは一流とは言えない。しかしながら、そう断定するには反する箇所が多かった。贔屓目にみても少年の身なりは良かった。黒いコートは年季が入っていてところどころに補修の後が見えるが、その袖は少年の小さな手の指の根本辺りまで来ている事から、貰い物だろうというのが伺える。しかし被っているハットは、決して華美な装飾などない黒一色のシックなものだが、造りはしっかりとしていて旅をしている身だろうに形に崩れは一切ない。新品かと思いきやこれまた目立たないが多少の補修の跡が見て取れた。その手も、首などの肌が非常に白い為気付き辛かったが、薄手の革製の白い手袋をしている。コートの中に来ているのは白いワイシャツだろうか、襟はピンと立っていてくたびれた様子はない。先程の育ちの良さを垣間見せた事もある。金持ちの息子の道楽傭兵、というにはこの村はいくらなんでもそぐわない事は、男が一番よく知っている。つまりは、身なりを綺麗に保つ程度の稼ぎはあるという事だ。
その上で、さらに店主が何かを言おうと身を乗り出したところで、からんと乾いた鈴の音が店内に響いた。店主と少年が同時に入口の方を見る。そこに居たのは、ボロ布のような灰色のワンピースを見に巻いた一人の女性だった。髪はボサボサで服装も汚れている。綺麗なのは顔立ちだけで、その美貌も疲れ果てたような表情にかき消されてしまっているようだった。
「あ、あの……」
掠れたような震えた声を出す女性が何かを言いかけたが、その台詞を食って、店主が穏やかながらも強い語気で話す。
「昼に出てくるなと言っただろう。大体、ネベの奴はどうした」
その声に怯え身を縮こまらせながらも、女性はおずおずと話始めた。
「その……今日は来なくて、あの、妹が風邪を引いたみたいで、その、今日は……」
怖がり過ぎてしまってなかなか声が出ないのか、辿々しいその喋り方に店主は苛ついたように短い焦茶色の髪を掻きむしって言い放つ。
「あー、わかったっての。そもそも今夜は中止だ。わかったらさっさと行け!」
厄介者を払うかのように手振りをする男だが、女性は尚も口を開いた。
「あの、お、お薬を、わけて欲しくて……」
行けと言ったのに業を煮やしたらしく、片手でカウンターを叩く。音に、女性が縮こまり、言葉をしまい込む。顎で帰れと示しそのまま勢い良く座り込んだ。そうしてから、少年という来客中であった事を思い出し、はっとした表情でカウンターの端の見たが、既に少年の姿はそこに無かった。狭い店内である。見回せばすぐに姿は見つかる。少年は、縮こまる女性のすぐ傍に居た。
「良ければ、どうぞ」
穏やかな声で言いながら、少年はコートの内ポケットから中身の見えぬ小さな茶色の包を取り出し、女性の手を取って握らせる。為すがままになっていた女性だが、数秒してようやくその手の中にあるものが薬だとわかり、深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。で、でも私、何もお支払い出来るものが」
礼を述べるが、今度は支払いの事を気にし始めて突っ返そうとする女性。しかし、少年はその手を握り返し、押し戻して言った。
「何も要らないので。早く妹さんに」
戸惑う女性だったが、押し返された手の中を見て、再度深々と礼をして店を出て行った。それを見送り、何事もなかったかのように席に戻り、はじめて少年の方から店主に向けて言葉を発する。
「あれは?」
率直で単純な問い。故に、店主は口篭った。先程の彼の様子から、あの女性があまり知られたくない存在なのは確かだろう。しばし、店主はあらぬ方向に視線を泳がしていたが、深く溜息を吐き、観念したように語りはじめた。
「……さっきあんたに依頼しようとしてたことに被るんだがな」
今日三度目の、乾いた鈴の音が鳴る。それは、軽く立て付けの悪い木の扉の音に邪魔され、閉じる音にかき消された。店から出てきた少年の目の前にあるのは、寂れた人気のない小さな村。聞いていないので、名前も知らない。そもそも名前もないのかもしれなかった。ポツリポツリと点在する建物はどれも背が低く、高くても二階建て。そのどれもが木の板で出来た壁に藁の屋根という低コスト仕様で、年数経過と共に補修がされていないのか古びている。家々の合間を縫うような乱雑な通りには人の姿は影もなく、聞こえる音は近くの森からの鳥の囀りくらいだ。今にも雨が降り出しそうな曇天を、少年は見上げた。
「盗賊……」
それは先程店主に頼まれた依頼であった。ここ二年前から近隣の森の中に住み着いたらしい盗賊の一味を討伐して欲しいとのこと。それ故に、以前は首都までの道路も整備されていて、そこそこの活気はあった筈のこの村も、今や見る影もなくなってしまった。先程の女性はこの村の“元”村長の娘で、男の話によれば、その村長は度々村に現れては金品や食料果ては牛馬までもを奪う盗賊と結託し、国の方にはその存在を隠蔽して見返りとして盗品を譲り受けていたのだとか。それがばれて村長は村人に殺され、妻は家にあるものを根こそぎ持って逃げ出した。国への通報がされないという後ろ盾を失った盗賊達が村を激しく襲い、結成されていた自警団を皆殺しにするなどの大惨事となり、今も常に村を監視しているという。結果、そこまでの事態を引き起こした村長の娘、との事で村人からは冷遇され、かといって盗賊のせいでこの村からも出れぬのがあの女性とその妹なのだとか。
小さく、少年は溜息を吐いた。ともかく、少年は店主の願いを聞き入れ、先程の代金と仕事後の食事の提供を報酬で手を打ち、村の出口へ向かう。盗賊は昼夜問わず村を監視しているとの事。なら、外に出ていればそのうち襲ってくるだろうとの算段だ。小さいとはいえ一つの村を武力だけで抑えるだけの盗賊団に、その采配は明らかに見通しの甘い策と言わざるを得ないが、考えなおさずに、少年は村を出て森の中へと足を踏み入れた。
村から幾分か歩き、鬱蒼とした森に周囲の景色を完全に閉ざされる辺りで、少年は足を止めた。そうして、周囲を散策しはじめる。コートの内側に折りたたんでしまっていた布製の小袋を二つ広げ、その中へ食料となりそうな木の実や茸と、薬草だろう野草を摘んで入れていく。旅をしながらの傭兵という稼業上、野宿する事もよくあるのだろう。辺りを見回してはしゃがみ、または枝を手折り、ゆっくりと採取を続ける。見たところ、少年は武器を携えているようには見えない。コートの内側にナイフくらいはあるかもしれないが、一見したところはまさに無防備、ともすれば、何処かの小金持ちの息子の森林浴程度に見える事だろう。
そして待ち人待つこと数時間。場所を転々としながら採取活動を続けていた少年の小袋は既に一杯になっていた。場所も大分村から離れてしまっている。辺りは既に薄暗く、元々暗い林内はかなり視界も悪くなってきた。足元がなんとか見えるくらいだ。袋も一杯になってしまい、歩きまわるのも疲れたのか、少年は近くの木の根元に腰をおろし背を預けた。食料を入れていた方の袋から小さな赤い木の実をい取り出し、少しハンカチで拭って口の中に放り込む。すぐに、う、と少年は渋い声で呻いた。
「……苦い」
どうやら口に合わなかったらしい。それでも吐き出したりはせず、無理矢理に喉を鳴らして飲み込む。コートの裾から手を入れて、腰の辺りにつけてあったのだろう、銀に光るスキットルを取り出し、一口流し込んだ。少し慌てて飲んだ為か、口の端から一筋流れる液体は無色透明で、どうやら飲用水らしい事が伺ええた。ハンカチで口元を拭い、スキットルをコートの内に戻して徐ろに立ち上がる少年。ハットの先を掴み、目深に被り直した次の瞬間、彼の周囲に幾つもの影が降り立った。周囲を囲む木の上に潜んでいたのだろう、影の正体は幾人もの男達。狩った動物の毛皮を加工し衣服にしている様と、手にした無骨な山刀が野蛮さを際立たせる。顔は誰もが布や木の仮面を身につけていて、隠れている。自分の視界に映る範囲の彼らをひと通り眺め、少年は口を開いた。
「貴方がたが山賊ですか?」
焦る様子も驚く様子もなく、身も蓋もない少年の問いに、彼の正面に立っていた山賊の一人が後ろの者に向けて、顎で合図をする。やってきたのは三人。両脇の男二人が真ん中の男を引き摺っている。それは、先程少年に依頼を持ちかけた店主であった。顔が泥や赤くべとつく何かで汚れている事から、どうやら傭兵である少年に討伐依頼をだした事が山賊にばれてしまったらしい。少年もそれはすぐに察するが、眉一つ動かず、地べたに足元に投げ出され無様に転がる店主を見ていた。
「こっちは全部承知済だ。傭兵さんよ」
先程、顎で仲間に指令を出したリーダー各らしき男がそう告げる。少年は、目線を店主から上げ、そのハットの奥の眼でジッとリーダーらしき男を見つめていた。またその男は少年を取り囲む山賊達に顎で指図する。少年を取り囲む人の輪が狭まった。
「この人数じゃいくら腕利きの傭兵だとしても勝算はあるめぇ。ついてきてもらおうか」
自信満々といった様子でリーダーはそう告げるが、少年の返答は早い。
「お断りします」
空気が、一段と冷たくなり、張り詰める。少年は先程からまるで態度を変えず、ただ自然体で突っ立っているだけだが、小鳥の囀りすら聞こえなくなった静かな林内で、山賊達が山刀を握る締める音が鳴った。リーダーの目線が一瞬動くと同時、少年の背後に居た山賊が刃を振るった。真っ二つになる、少年の、“影”。黒いハットが、そよ風に揺れてかさりと小さな音を立てて落ちた。少年は、居ない。何も残さず、その場から消えた。予想していなかった空虚な感触に、山刀を振るった男の体が前のめりになり、前方にたたらを踏み、そのまま背後からの衝撃に地べたの押し倒された。男の上に立つ、白銀の頭髪を顕にした人物は、その藤色の冷たい眼で足場にした男を見下していた。
「な……」
地べたに投げ出されていた店主が驚きの声を上げ、視界に映る少年と思っていた人物を注視した。ハットに隠れていた白銀の髪は、後頭部の辺りで縛られまとめられている。解けば恐らく腰には届くだろう長髪だ。少年は、軽く溜息を吐きながら二つに分断されてしまった帽子を拾った。そして、呟く。
「いつまでそうしている?」
それは眼前の地面の店主に向けられて言い放たれた。汗が一筋、男の頬を滑る。淡々と、少年は続けた。
「泥と混ぜたくらいでジャムが血に見えるわけがない。動揺している人間ならいざ知らず」
言いながら、ゆっくりと、片足を持ち上げる。
「取り囲むのも甘い。ただの一般人と違い、傭兵は霊覚くらい使える」
なんでもないことのように、少年はその足を勢い良く振り下ろした。足場にしていた山賊の男の、首が飛ぶ。鮮血と共に転がるそれは、地面に転がっていた店主、いや山賊の一味の男の目の前に来る。人間の脚力では決して有り得ないその一撃に、山賊達は一歩後退る。それは、霊覚という少年が言っていた言葉に関連している。人に限らず、命あるもの全ては霊力という魂の力を持っている。人は修練を重ねる事によってその力を引き出し、行使する事が出来る。霊力を全身に満たし、身体能力を向上させる事を纏霊、そうして五感を超えた知覚を霊覚と呼び、それはいわゆる気配だとか言うものを漠然的なものでなく捉える事が出来るものだ。それで存在がばればれだったという事だ。遺体となった首なしの死体を蹴り飛ばし、少年は宙に浮いた。全身が淡い白光に包まれている。霊翔。纏った霊気によって自身を飛ばせる基本的な業。しかし、山賊は慄いた。その少年の眼はあまりに冷酷だったから。
「なんだよてめぇは余裕見せやがって!」
優位な状況に立っていた筈なのに相手がそれを歯牙にも掛けない素振りだからか、仲間の一人を惨殺されたせいか、山賊の一人が激昂し山刀で切りつける、がそれはピタリと少年の指先に止められた。そして答える。なんなのかという問いに。
「ヴィノ=ディロデクト。傭兵。先程の依頼に従って、貴方達を討伐します」
宣言が終わると共に、指先で掴んだ刀を体ごと引き寄せ、手刀を振るう。刃を隠しているわけではない。だが目にも留まらぬ速度で振るわれた手は、小指側から肉にめり込み無理矢理に裂いて骨を断つ。山刀を振りかざしていた男の首が飛んだ。
「答えろ。先程の女性は何だ」
そのまま攻めこむでもなく、少年――ヴィノは問う。だが、返答は彼の望むものではなかった。声は、地べたに寝転んだ店主から。音としても聞こえづらいぼそぼそとしたものと、一つの宣言のような声が。
「プロア・ボー」
言語としてよくわからぬ言葉の紡ぎは、詠唱と呼ばれるもの。内なる己の霊力に事象を起こす力を与えるもの。人はそれを霊術、と呼ぶ。人間大の直径を誇る火の玉が男の掌の先から生まれ、そのまま眼前の少年に激突した。火球はそのまま少年の体躯に絡みつき、燃やし尽くそうと盛る。その様子に笑みを浮かべながら、店主であった男は立ち上がった。
「教えてやるよ坊主。あの女はな、俺達の奴隷さ。俺達はここを通る馬鹿な旅人を捉え、物品を頂き人は売る。あの姉妹は結構な別嬪だったからなぁ、渡すのも惜しくて手元に残してたんだよ」
術の直撃に勝利を確信した男がそうネタばらしを終えると共に、火はその内側から巻い起こった霊気の圧力に吹き飛んだ。中からは、少年が無傷のまま、現れる。しかしきつく結んでいた長髪は解け、腰に届く美しさを露呈していた。それだけで、印象が変わる。今のその姿は、白銀の長髪を持った女性にしか見えなかった。そもそも、つばの広いハットを目深に被っていたせいであまり顔立ちが見えず、出で立ちだけで店主が男だと思っていただけの話である。顕になった顔を見れば、女性的な少年というよりは、まさに美女。変に高いと思った声も、小さいように見えた手も体も、最初から男装の麗人であったならば話は変わる。
「てめぇ、女だったのか」
ニタリ、と店主が嫌らしく笑った。女で、それも美人であるとすればいい値がつく。そういう算段であった。だがそれは、捕らぬ狸の皮算用でしかない。ヴィノは胸元、コートとシャツの内側から小さな満月のような宝玉を取り出した。それはうねり球を描く銀細工の中に檻の中に閉じ込められ、その飾りに細い鎖が繋がってヴィノの首にかかり、ネックレスとなっていた。ヴィノはその宝玉を片手で握った。途端、高まる霊気。揺らめくヴィノの周辺の大気。その唇が微かに動いた。
「護り給え」
雷鳴が轟く。その震動は豪雨を呼び起こし、地面を叩きつける。その中で、ヴィノの姿は一瞬月光のごとき光に包まれ、そして顕現した。足首までに達しそうな程に伸びた髪は烏の濡羽色。藤色だった眼は、左はそのままだが右が満月のように仄かな光を放ち、肌は白い。人のもつ、有機物の持つ白さではなく、無機質な白磁そのもの。まだ藤色の眼の下の頬には真っ黒な十字架が刻まれ、両手の指先からは淀んだ血のごとき紅き鉤爪。時の経過に既に薄暗い空の下で、静かに、満月が揺らめいた。
狭く汚い石造りの小屋の中で、二人の女性が震えていた。嫌に生臭い室内にあるのは仕掛けられた印により、効力を発する呪術が仕掛けられた小さなランプが吊り下げられているのみ。その灯りは六畳程の大きさしかない室内を照らすにも足らず、薄暗い。扉は木製で向かいあった位置に二つで、端にはひどく汚れへたり傷んだベッドが一つあるだけだ。そこに、一人の女性が寝かされ布団を被っており、もう一人の女性が覆い被さるようにしている。ベッドと反対側に窓はあるが、人の目線程度の位置に鉄格子が嵌められた小さなものが一つで、そこからは豪雨の為雨が侵入し、窓際を水浸しにしていた。
「お姉ちゃん……そこに居たら、雨に当たっちゃうよ?」
弱々しい声で、ベッドの上に寝かされていた女性が、自分に覆い被さる姉と呼んだ人物に言う。しかし、姉は首を横に振った。
「まだ治りかけだから、少しでも暖かくしないと」
顔を上げ、にっこりと妹に微笑みかける姉。二人の姉妹の衣装はボロ布を巻きつけているのとそう変わらない灰色のワンピースで、姿も相応に乱れていた。いつからここに居たのかは、二人とももう覚えていなかった。いつかの旅路の途中、乗っていた馬車が山賊に襲われて、この狭く汚い牢獄に閉じ込められた。食料だけは与えられるが、衣服は替えもなく、自由などなくこの狭い部屋の中に閉じ込められたまま、風邪を引いても薬の一つ貰えず、一日に何人もの賊に嬲られるだけの毎日を送っていた。何度逃げ出そうとしたかもわからないが、そのうちに捕まえられ、時には絶食させられ時には不眠不休で犯され、時には殴る蹴るの暴行を受ける。今日、山賊のリーダーである表向きは酒場の店主の男に薬を願いに言ったのも、決死の覚悟あってだった。無論、貰えはしなかったが、丁度よく居た人に良い薬をもらい、妹の容態を安定させる事が出来た。
と、そこまで思い出して姉はその昼間にあった人物の事を思い出す。親切にも薬をくれたその人も、今頃殺されているか。もしくはこの場所に投げ込まれてしまうのだろうと。何人もの人がこの狭い部屋に投げ捨てられてはまた連れて行かれていった。賊達の会話を聞くに、どうやら首都の方へ連れ行かれ売りに出されているらしい。それを思えば、ここに閉じ込められるのと連れて行かれるの、どちらがマシなのかはわからない。その他諸々の事を思い出して恐怖しながら、女性は外への入り口である方の、ベッドの足の方向にある扉を見る。今日は、賊の誰も入ってこなかった。そういう日は、獲物が居る日だと、女性は覚えていた。もう夜だ。そろそろ、来るはずだ、と意識せずにベッドのシーツを握りしめてしまう。予想通り、扉は開けられた。勢い良く、蹴破られるように。
「きゃっ!」
ベッドの上の妹が悲鳴を上げ、姉はそれを覆い隠すようにしがみついた。その背の方でがらん、がたん、と無機質な大きな音がなる。何が投げ込まれたのかと、恐る恐る覗いた姉の眼に写ったのは、雑に荒く砕けた木の扉だった。
「妹さんの様子は?」
頭上から降る、聞き慣れないが聞き覚えのある声に、女性はゆっくりと顔を上げた。そこに居たのは、黒いコートに身を包んだ銀髪の女性だった。