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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第三章
18/88

招待状

 ロロハルロント帝国ウァルヘイヤ王宮内、参謀室。いつもは書類の山に埋もれているその部屋だが、珍しくそれが少なくなっていた。というのも、先日が月に一度の大掃除の日で、古い書類の方は全てイラ他、暗部の面々が持ちだして倉庫にしまったからだ。故に、いつもは殆ど見えない大理石の床の模様も見え、書類の山もシュウの机に一つしかない。が、彼はその本来大きな机の端に寄って、足元に書類を置いていた。いつもの宝石を入れる籠は背後に置いている。というのも、彼の右隣にもう一人、ペルネッテが机についているからである。シュウが書類を処理している間、件の人物は分解した状態の恐らくは金属製のライターと、オイルやグロスや綿棒、小さな鋏といったものを広げていた。鼻歌を混じりに、ライターのケースの中、着火機構のあるインサイドユニットの、チムニーと呼ばれる部分をオイルを染み込ませた綿棒で擦り、汚れをとっている。普段からよくシュウの執務室に入り浸っているペルネッテだが、この部屋で二人並んで座るという事は滅多にない。前述の書類の山脈の所為で人二人が並んで座るスペースもないのだ。故に、二人こうして並んでいる状況は実に珍しく、月に一度あるかないかだ。


「ふふっ……こうして居ると、少々昔の事を思い出しますね」


 そんな稀な一時に顔をほころばせたペルネッテが、作業を続けながらそう言った。ちらり、とその嬉しそうな横顔を一目見てから、シュウは書類に目を戻しながら口を開いた。


「授業の事か?」


「ええ」


 まだ二人が幼かった頃。二人は毎日のように机を並べ、家庭教師に勉強を教わっていた。オニキオス家は古くから王家との親交が深く、二人はまだお互いの物心が付く前から許婚とされており、それならば育つ環境で同じ場に居たほうが良いとの判断が親からされていたからである。

 ペルネッテは皇女だ。その立場故、そうそう自由には動けない。城内であれば問題ないが、外となると話は別だ。そういった事もあって、彼女は何気ない日々というものをしっかりと記憶していた。ふと、少しの共通点から昔日の日を思い出すのも、そんな理由からだった。


「そういう所、シュウ君は昔からずっと変わりませんね」


「何がだ」


「私の言いたい事を先回りして喋ってしまう事ですよ」


「わかりやすいだけだ」


「ここでもう少し気の利いた台詞を期待してしまうのは、私がまだ未熟だからでしょうか」


「歯の浮くような台詞を御所望なら、役者が違うな」


「あら、私に対して限定でしたら、そうでもないですのに。恥ずかしがり屋なところも、ずっと変わりません」


 ふう、とシュウは溜息を吐くとともにぱさりと書類を机に投げ、黒い羽ペンをペン立てに戻した。同じくして、ペルネッテもまた磨いていたライターのケースを置いた。木であしらわれた四角い面の中央、それを覆うように時計の文字盤を模した金属の部分が綺麗な光沢を放っている。中心が別の材質で有るため、周囲のみを綺麗に磨くのは気を使う。が、それは磨いた者の器用さを表すように一部の隙もなく磨き上げられていた。


「休憩にしよう」


 そう言うと、シュウは腰を重たそうに上げると、背後の窓を大きく開いた。ジャケットの内ポケットから、白い紙巻煙草を取り出し口に咥えた。同じくして彼の隣で何かをする音と共にぽっと火が灯る。横に立っていたペルネッテがマッチの火を差し出していた。


「ライターはまだ組んでいないので、これで」


「悪いな」


 深呼吸をするように大きく吐き出された煙が青空へゆらゆらと昇っていく。煙が隣のペルネッテへ行かないように窓の端に寄っているのは最低限の気遣いか。


「珍しいですね。お部屋で吸うなんて」


 普段は部屋に匂いがつくと室内では喫煙しないシュウ。それを覚えていたペルネッテの問いに、シュウは溜息混じりに煙を吐き出してから答える。


「今日はこれから少し遠出しなきゃならなくてな。それを思うと面倒で」


 それは、たまにしかない自分と並んでいられる時間を偲んでか、とペルネッテは聞きたかったが、口はつぐんだ。言ってしまえば、それが彼の負担になる。お互い、自由という名の我儘を通すには成長し過ぎた。

 小さく溜息と悟られないような息を一つ吐いてから、ペルネッテは目を細める。


「お戻りはいつ頃に?」


「そうだな。夕方には帰る」


 言って、シュウはもう吸うところのなくなってきた煙草を口から離し、おもむろに握りつぶした。端からみれば熱そうだが、なんでもないことのようにそうする彼の握った指の間から、ほんの少し光を漏れ、次に彼が手を開くと灰とも思えない黒い砂のようなものが風に攫われていった。


「でしたら……お帰りになりましたら、少しばかり私にお付き合い頂いてよろしいでしょうか」


 遠慮がちに、ペルネッテがそう聞いた。要望があれば割りとはっきりと言う彼女にしては珍しい、とシュウはペルネッテを見つめ返して言葉の続きを促す。


「最近、街で話題の屋台とやらあるそうで、一度食べてみたいな……と」


「誰かに買わせに行くんじゃ駄目なのか?」


「可能なら、そういったものはお店の先で出来立てを頂きたいと思います。駄目でしょうか?」


 ペルネッテの食に対する拘りは結構なものだ。それは自身の趣味が料理という所にも起因しているのだろう。日常的に出来るわけではないが、月に一度手料理をシュウに振る舞う日を必ず作っている事からも傾ける思いは確かなものだ。少し逡巡するような顔したシュウだったが、ペルネッテが想像していたよりも早く、彼は返答した。


「いいんじゃないか。たまには」


 意外にあっさりと降りた認可にペルネッテの顔が綻ぶ。花開いたような邪気のない笑顔に、釣られてシュウの口角もわずかに上がる。イラか誰か居れば、珍しい事もあると誰か茶化したかもしれないが、幸か不幸かこの場には二人以外に誰も居ない。一秒後までは。


「じゃーん! ミッツァたんのお迎えだよーん、ってありゃ何かミッツァお邪魔しちゃった感じ? やばーい」


 無駄に勢いよく開かれた入り口から、桃色の髪を踊らせ、見た目だけは愛らしい少女のロロハルロント技術長ミッツァが現れた。先程までの静けさは何処へやら、一人で騒がしい人物である。


「ミッツァ、お前ノックぐらいしろ。何度言ったら覚えるんだ」


「ごめーん。てへぺろー」


 呆れた様子でシュウがそう注意はしたが、言われた当人は上辺だけで反省の色は到底見えない。毎度の事であり、このやりとりも何度目かわからないのが事実だ。


「んで、すぐゴーイング?」


「ああ。さっさと済ませたいんでな」


 机の上の書類を軽くまとめつつ、シュウは答えた。ジャケットのポケットにメモ帳とペンが入っているのを確認する。持ち物は特に必要ないらしい。と、準備を終えたシュウが顔をあげようとする寸前に、ペルネッテは分解していたライターを組み上げ、差し出していた。


「すまんな、いつも」


「いいえ。お仕事、お気をつけて」


 扉を開けて待つミッツァの方へ行くシュウ。部屋を出る直前、首だけでペルネッテの方を振り向く。


「夕方には戻る」


「はい。でも、あまり急がないでくださいね」


 わざわざ言ったのは、ペルネッテとの約束の為だろう。ぶっきらぼうなのか素直ではないのか、そんな言い方しかしない彼だが、婚約者には伝わったようで彼女は柔らかい笑みでシュウを見送った。












 ギティア大陸ロロハルロント領北方区、B-フォレスト。ギティアの最北東を占めるその地区の中でも北の方にある山の中に、それはある。背の高い針葉樹の森を登っていけば見える、広く開けた台地の山頂。灰色の火山灰土壌の上にある、木造の巨大な平屋。周辺のものと同じ木で造られたそれは、全体が青く塗られ、大きな城壁のような塀に囲まれ、林道から望む正面に一つだけ、二つの青い巨柱が特徴的な大きな門が唯一の入り口だ。


「……空拳術・伍青ゴセイ


 その門の上に掲げられた右読みの看板を、シュウは呟くように読み上げた。彼の周囲には、平服に身を包んだ壮年から老齢の男達が数人見える。ロロハルロント国の政に関わる、三役ともう一つの組織、議会の人間だ。そしてここは、現ロロハルロント軍団長エルリーン=ラインブルーの出身地にして出身の道場。今日は、議会の者と共に、軍団長率いる古流空拳術部隊の訓練の様子を査察に来たのだった。

 視線を下げつつ少し深く息をしてから、シュウはゆっくりと背後の議会の方々へ振り向く。


「本日はお忙しい中ご参集頂き、ありがとうございます」


「いやいや、良いのだよ参謀長。こういう出張でもないと、ポーター・レントから出るのも大変だからね、我々は」


「左様。それに、かの英雄エルリーン殿の視察だ。こちらとしても気が楽というものだ」


 一礼をするシュウに、議員らからは比較的好意的な言葉が返ってくる。査察という話だが、対象は国内でも指折りの評判を得ている軍団長エルリーン=ラインブルーである。議員の方も大きな信頼を寄せており、彼らの中では今回のこの出張は頭を悩ませるような事になりえないのだろう。


「快い御言葉、痛み入ります。では時間も惜しいので早速行きましょう。先方に話はしてありますので」


 言って、シュウは門の方へ向き直り、議員を連れてその歩を進めた。青い柱の門を通ると共に、それまで静寂であった彼らの耳に突然男たちの雄叫びが響いた。


「うおっ」

「なんだこれは!?」


 慌てふためき思わず耳を塞ぐ議員らに、シュウは首だけを向けて言う。


「ご心配なく。こちらの道場は塀に防音防衝の呪印が刻んであるだけです。恐らくは、周辺をこの音で乱さない為の配慮といったところでしょう」


 耳をつんざくような声や衝撃音が聞こえる中、シュウは顔色一つ変えずに真っ直ぐ進んでいく。

 青塗りの横に広く段数の少ない階段を登り、木造の縁側へと上がると、目の前の襖を無遠慮に開いた。

 50m四方はあろうという広い空間に、幾人もの白い道着に身を包んだ人間がそれぞれ一対一で向かい合いながら組手をしている。建物の中だというのに、彼らが立っているのは外同じ灰色の土壌の上だ。部屋の外周を一蹴するように、今まさにシュウらが立っている縁側と同じように木の板が据えられ通り道のようになっている。彼らがつい先程昇ってきたような階段は何処にもない。

 襖を開いた瞬間から襲い掛かってくる汗臭い熱気にシュウが眉を顰めながら、その土の上の道場に視線を走らせる。件の人物であるエルリーンを探すが、師範代である彼が部屋の手前に居るわけもない。通路を進んで奥に行くかとシュウが思うと共に、半ば人垣と化している門下生達を押しのけながら、一人の人物が肩を怒らせながら彼の方へと歩いてきた。


「おうおう何の用だ陰謀屋ぁ? 人の道場に礼もなく入ってきやがって。ここはてめぇみたいなのが来る場所じゃねぇんだよ」


 相も変わらず何処かのチンピラのようにシュウを睨み上げる青年、タウロス。水と油であるケイゼンが居れば、それこそ一触即発の事態になりかねないが、シュウは彼を一瞥しただけで言葉すら返さず、タウロスの肩越しに目線を向けた。


「寄せよタウロス。朝も言っただろ? 今日はお客が来るってよ」


 タウロスの肩を掴み後ろに下げながら、代わるようにエルリーンが前に出てきた。タウロス他門下生と同じ泥汚れが染み付いた白い道着だが、腰に巻いている帯は、ざっと見ても他に居ない、青い帯をしている。それが、彼のここでの格を表しているのだろう。


「ようシュウ。それに、議員の皆様方。遠路遥々ようこそ、空拳術、伍青の道場へ」


 礼もせず、腕を組んで胸を張り堂々とした様子でそう応対するエルリーン。シュウは特に挨拶を返さず、通路を横に逸れた。と共に、後ろに控えていた議員らがエルリーンと各々挨拶と握手を交わす。その様子を横目に見ながら、彼は外周の通路の右側を一人進んでいく。

 しばらく進んだところで、道が途切れていた。道場の残りの奥行きはざっと四分の一程か。途切れ階段になっている道をたどるように見れば、そこに残りの面積一杯を使った舞台が据えられている。土埃の舞う道場の中で、不自然な清潔さを保っているその中心に、一人の老人が座っていた。深い青色の和服に身を包んだ彼の名は、ヨーザ=ストレングス。英雄、エルリーンの師範であり、自身も若かりし頃、ロロハルロント軍団長として幾多の武勇を打ち立てた男だ。背は低く、しらがの多い頭髪で顔には深く皺が刻まれている程だが、ピンと張った背筋で泰然として正座をし、瞳を閉じた姿からは、一抹の衰えも感じさせない。


「……こちらへ来ると良いのです。参謀長よ」


 瞳を閉じたまま、シュウが近くまで来ていたのを察知していたのだろう。雄叫びの絶えないこの空間にあって、あまりに静かに届く少し嗄れた声でそう呼んだ。呼ばれたなら、と階段を降りて舞台の前まで行くと、ゆっくりとヨーザの瞼が開き、穏やかだが底の見えない眼がシュウを見つめた。


「オニキオスの息子……あー……十数年ぶりなのです」


「その節はどうも。元軍団長」


 ヨーザはエルリーンの先々代にあたる。その頃は、このような道場も存在せず、軍団内でも己の体一つのみで戦うのは彼だけであった。軍を退役した後、彼はこの道場を建て門下生を集い自らが師に教わった古き戦いの術を後世へ伝え、現軍団長エルリーンや彼の率いる古流空拳術部隊の基礎を築いたのだ。とはいっても、この道場は国営でやっているわけではなく、軍には軍の歴史ある養成所がちゃんと存在している。また、ヨーザの言う十数年前とは、シュウの両親に関する話だ。


「君だけ立たせているのも悪い……靴を脱いで上がってくるのです。抹茶は飲めるか?」


 愛想のない表情とは裏腹に柔らかい態度でヨーザは舞台上にシュウを呼び寄せる。由緒ある武術道場の舞台となれば、そう上がって良い場所でもないだろう事は、想像に難くない。シュウとしてはその辺りを重んじる気質は皆無の為、遠慮なくと応えたかったが、後ろから近づいてくる気配に振り向かざるを得なかった。


「ほらよシュウ。お前の分だ」


 何やらニヤニヤと笑いながら何かを押し付けるように片手で差し出してるのは、エルリーンだ。ニヤついたその表情が不快で眉を顰めたシュウがエルリーンの手に視線を落とすと、そこには白い帯に巻かれた彼ら門下生が着ているのとお揃いの道着があった。エルリーンの肩越しに後ろを眺めてみれば、同じものを渡された議員の方々の姿が見える。


「視察って事だったけどよ。どうせなら少しぐらいやってみた方がわかってもらえると思ってな。お前も普段城の中に篭りっぱなしなんだからよ、たまには運動した方がいいぜ?」


 自己顕示欲の強いエルリーンの考えそうな事だ、とシュウは盛大に溜息を吐きたい気持ちを取り敢えず抑える。それと共に、どう言い逃れをするかを考える。が、彼が妙案を弾き出す前に、背後からヨーザの声が届いた。


「あー……彼は良いのです。私と、少しばかり話があるのです。議員の方々の方はエルリーン、お前に任せるのです。くれぐれも、やり過ぎないように」


 そう言われるのは予想外だったのだろう、エルリーンは不満気な顔をしたが、そこは師弟の関係である。


「先生がそう言うんじゃ仕方ねぇなぁ。わかりましたよ」


 シュウが知る限りでは珍しく、大人しくエルリーンは引き下がり、門下生らに指示を出しはじめた。彼が離れるのを確認してから、シュウはヨーザへと向き直り小さく溜息を吐いた。


「助かった。礼を言おう」


「客人を汗塗れにするわけにはいかないのです」


 そんなヨーザの言葉にシュウは僅かに口角を上げながら、靴を脱ぎ舞台へ上がりつつ、右手の親指で後方を指しながら言う。


「あっちは良いのか?」


「あちらの方々はただの見学者。君は旧知の友の忘れ形見なのです」


「ふん……父親にほんの僅かでも感謝する日が来るとは思ってなかった」


 二人とも少々底意地の悪そうな笑みを小さく浮かべつつ、シュウが右へ向き直ったヨーザの向かいへと膝を折って座った。

 舞台の下に広がる土上からは、相も変わらず門下生達の活気のある声が響く。時折、濁った普段運動をしないような方々が無理をしている声も混じって。シュウとヨーザは互いに濃い緑の抹茶をすすりながら、たまに声の方へと横目を向ける。査察団の先頭に来ていた筈のシュウだったが、そこまで真剣に見るつもりはないように思われた。長い沈黙の後、ヨーザが不意に言葉を落とした。


「要件を言うと良いのです」


 端から聞いていれば要件を得ないような言葉に、シュウは薄く笑みを浮かべる。


「察しはついているだろう。この場で言って良い事か?」


 返答に、ヨーザはゆっくりと瞼を閉じつつ湯のみを傾けた。表情筋の動きは極わずかだが、少し満足そうだ。


「その答えを期待していたのです」


 言って、湯のみを置くと彼は服の内側に手を突っ込み、そこから綺麗に縦長に畳まれた文書を一つ取り出し、床に置いて滑らせるようにシュウの前へ差し出す。「これは?」と問うシュウに、ヨーザは皺を深くして笑って言った。


「招待状、なのです」











 時は過ぎ、査察を終えたシュウは昼食をB-フォレストで済まししばしの休憩をした後、首都へと戻ってきていた。

 とは言っても、自室でもなければウァルヘイヤ宮ですらない。首都内でほぼ唯一の、舗装されていない路。そこかしこに散りばめられているゴミ、漂う腐敗臭と僅かな鉄の匂い。彼は、貧困地区シェルモルドへと一人、足を踏み入れていた。この場にはあまりにも不釣り合いな小奇麗な出で立ちの彼に、周辺のボロ小屋とそう変わりのない建物の内外から幾多の視線が向けられている。シュウが居るのは既にシェルモルドの中心部近く、普通であればそこへ至るまでに数度襲われていてもおかしくないが、彼には傷ひとつどころか服装に汚れ一つついていなかった。

 左手に持った開いた紙、ヨーザからもらった文書を開きつつ、シュウは目の前の建物、いや建造物を見つめた。それは、古びたレンガで造られた、長方形の何か。一応、重たそうな鉄の扉はついており、大きさも人が入る分には申し分ないだろう。が、家にしても倉庫にしても、それはいくらなんでも奥行きがなさ過ぎる。だが、シュウの持つ紙に描かれている地図には、そこが「入り口」だと示されていた。

 数秒、訝しげに扉を、その奥をシュウは見つめたのち、冷たいドアノブへと手をかけた。鍵は、かかっていない。


「はっ」


 据え方が雑なのかずれてしまったのか、ずずずと地面と擦れる重たい扉を開き、シュウはつまならそうに笑った。床、いや下に落とした彼の視線には、地下へと通じる階段が写る。

 持っていた紙を放り投げ、ズボンのポケットに手を突っ込みながら、彼はその階段を下っていく。

 文書にはこうかかれていた。


『下記の場所へ来られたし。暗部総括殿。  ベルペレン頭領より』


 ここシェルモルドには、その無法地帯の秩序を強引に創り上げている者達が居る。先日、シュウら暗部が乗り込み組織ごと乗っ取った「ヅドナァバ・ファミリー」の他にも、代表的な強者が二つ。そのうちの一つが、ベルペレンだ。本来ならば、シュウ一人で、そんな相手のこんな詳細のわからない誘いに乗るべきではない。彼は参謀長であり、暗部の総括、人を束ねる立場にある。長というのは人を動かしてこそだ。全てを自分で請け負うような人間は、人の上に立つべきではない。それは彼自身も重々承知だが、今日はあえてそうしていた。人を集め、話をし、策を練るには時間がかかる。その時間を彼は惜しんでいた。なぜなら、今日は夕方に予定があったからだ。

 灯のない階段を下っていく。入り口からの光が唯一の光源だが、それは数段下っただけで自分の体に遮られて足元どころか目の前も照らせなくなってしまう。この場所を行くのに慣れているのならば話は別だが、シュウがここに来るのは無論はじめてである。だというのに、彼は全く淀みなくその足を進めていた。

 階段は、数分程で終わりを見せた。終着点に、人一人分ぎりぎりといったところの縦に長い四角い光。出口である。そこをくぐり抜けた、その瞬間。シュウの眼前に一つの影と、鈍く光る分厚く短い刃が迫っていた。暗がりに慣れた眼に痛い照明、暗中を抜けた安堵。どうしようもなく生まれるその隙をついた、奇襲。だが、シュウは迫り来るそれの詳細を確認するよりも早く、今にも突き立てんと迫る刃から伸びる影を蹴りあげていた。

 鈍く何かが砕ける音がする。ほぼ真っ直ぐに伸びていた筈の影、右腕は有らぬ方向へと曲がりその動きを止める。上へと高く上げられたシュウの右足、その踵が、眼前の襲いかかってきた男の首と肩の間に乗せられた。そこではじめて、シュウは目の前の人物と目を合わせる。鼻から下を白い布で覆った若い男の、血走った眼がそこにはあった。不愉快だ、とでも言わんばかりにシュウは舌打ちすると、男に乗せた足を強引に床へ向けて振り下ろした。石床と骨の破砕音と共に、彼の顔近くまで石片と鮮血が飛ぶ。男の頭ごと床にめり込んだ足を、ゆっくりと引き上げながら、シュウは溜息と共に前を向いた。視界に入る、午前に見た道場よりも広い空間。床は石のタイルだが、壁と天井は、四角く削っただけの空間に無理矢理貼り付けたような鉄板張り。そして、部屋を埋め尽くす程の人間。それぞれが、先程の男のように血走った眼をしていたり、変に首を傾けて奇妙な笑みを浮かべていたり、手遊びをしながらブツブツと何事が呟いていたりする。一目でわかる。それが狂人の群れだと。老若男女様々居るが、容姿問わずして雰囲気がまず醜く、一様にして正気ではなさそうだ。ついでに何やら血生臭い。


「動物園かよ……ここは」


 吐き捨てるようにシュウが悪態をつき、煙草を取り出して火を点けた。ライターと両手をポケットへと戻すと共に、獲物を見つけた肉食動物の群れが、彼目掛けて殺到した。それは皆常人の速さではない。広いとは言っても室内では、端から端までの移動に刹那でも余すだろう速度。だが、シュウの姿は彼らが一歩を踏み切るよりも疾く、集団の先頭の頭頂を踏みつけていた。何が起こったのかをそれが理解するよりも先に、人の頭を踏み台にして天井ぎりぎりに舞うシュウ。眼下に広がる動物の群れはざっと数百匹。面倒と言わんばかりに紫煙を吐き出し、彼は再び姿を消した。

 直下の人垣が、轟音と共に円形に割れる。空洞となった中心に、屈んだ体勢で一人の体を踏み抜いているシュウの姿。それを認められるよりも先に、彼は前方の集団へと突っ込んでいった。右足が、先程の衝撃に倒れた内の一人の顎を射抜く。若干下方に蹴りだしたその足をそのまま左斜め上に鋭く放ち、もう一人を狩る。無駄のない、流麗かつ鋭敏な足技が、次々に獣の数を減らしていく。彼らの動きは間違いなく速い。そして躊躇いがない。次々に飛びかかるようにシュウへと襲いかかっていく。だがシュウの動きは、それを手玉に取るようだ。決して過剰な速度は出していない。しかし確実に、己の全周囲の敵の状態を把握しているように、自身へと攻撃が届きそうな者から順序をつけて刈り取っていく。

 ものの一分も経たず、数百の人間は血溜まりに沈んだ。


「ちっ……飼育員は何処だよ」


 苛立ちを顕にぼやきながら、もう吸う所のない煙草を捨てる。血の海に沈んだそれが、じゅっと音を立てた。

 ざっと周囲を見回し、自分が降りてきたのと別の出入口を探す。だが、そこには扉の一つも存在しない。すす汚れた剥き出しの鉄板だけが張られている。どう見ても、向かえるのは先程シュウが通ってきた階段だけ。にも関わらず、彼は真っ直ぐ歩を進めた。眼には見えずとも、彼には進む方向に空間があるとわかったのだ。霊覚によって。


「こういうのはケイゼンの仕事なんだがな」


 彼の部下、ケイゼンは正確無比の霊覚を持つという特技がある。よって、普段は彼のそれに索敵探索等諸々を任せているシュウだが、彼とて出来ないわけではない。面倒なだけで。

 と、その研ぎ澄まされた霊覚が、小さな、本当に小さな音を拾った。一滴にも満たない水音が、彼の背後から。振り返らずに、首だけを後ろに巡らせる。その視界に写ったのは、今しがた打ち倒した狂人達。動けない程度には顎を砕き、内蔵へ衝撃を叩き込んだ筈の彼らが、動き出していた。ぼたぼたと血を流しながら立ち上がる一人の男。それは、最初にシュウに地面へ頭を打ち込まれた男だった。顔面の至るところから血を流し、頭蓋も陥没して本来の人の頭の形をしていない。何処からどう見ても惨殺された死体だが、男は立ち上がっていた。

 シュウの視線が、その男の、初撃で彼が打ち砕いた右腕へと向かう。肘が完全に砕け骨まで突き出ているそれに、こがね色の何かが付着している――否、にじみ出ていた。皮膚と肉と骨とを繋ぐようにあるそれは、まるで水飴のような粘性で、男の腕を繋ぎ止めていた。よく顔面を見れば、傷口にも同じようにこがねの色が見て取れた。

 次々と、先程倒した筈の狂人達が立ち上がっていく。皆一様に、負った傷口にこがねの水飴を覗かせて。


「……面倒だ」


 低く、シュウが呟く。それと共に、ずっとポケットの中に突っ込んでいた両手を抜き、右手が上着の下、腰のホルスターから短銃を引き抜いた。左手の掌を軽く上に向ける。その中心から紅い光が一瞬生まれそして消えた。


「ルビー。ロード」


 シュウの右手に持つ短銃の口が仄かに紅い光を帯びる。彼はそれをゆっくりと、ゾンビのように立ち上がりつつあるけだものの集団へと向け、静かに引き金を引いた。

 紅い爆光が、室内全体を覆い尽くした。

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