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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第三章
17/88

旅、再び。

 始祖教会前庭。広く設けられたそこは、正午前のこの時間、アヴェンシスの民の憩いの場となる。基本的に石造りの建物や舗装に囲まれたこの清廉な都市で、そこは唯一と言って良いほどの自然が溢れている場所だからだ。始祖教会の門扉に至るまでの道と門前の空間の石畳以外は、全て芝生で覆われ、円形の花壇が大小様々幾つも拵えられている。ベンチこそないものの、花壇の縁は大きく作られていて十分に座れるスペースだ。アヴェンシスの住民は基本的に物静かで穏やかな事を好む。花壇の傍に座り、談笑をするのを日課としている人も少なくない。始祖教会への入り口前という事もあって、普段から人の多いこの場所だが、今日はその比ではなかった。前庭いっぱいに、庭への入る唯一の道となる階段にもその先にも人々がごった返している。犇めきあって立っている優に万を越えるだろう人々は、蟻の這う隙間のなさそうな程に密集しているのに、正門前の舗装された円形の空間には侵入せず、皆一様に始祖教会の方向を向き、顔を上げていた。

 その集団の中、丁度前庭の真ん中程にマロナは居た。不機嫌そうにしかめられた顔は、周囲の人々の密度故か。彼女は鬱陶しそうに周囲を一瞥してから、その彼らが皆同じように向けている視線を追った。その先にあるのは、巨大な正門の上に位置するように、後から建造されたらしいバルコニー。というのも、そのバルコニーを支える足が少々不格好にも教会の壁に二本突き刺さるようになっており、見る人間が見ればわかる。マロナも昨日目の前の門を通った筈なのだが、別件で頭がいっぱいであった上に正門の大きさと門兵に気を取られていたたため気付かなかった。


「――我々は、あの無慚な出来事を忘れてはならない。友を、家族を、愛する人々を失くした者も多いだろう。二年の月日が去った今でも、彼の人を過ぎて生きる事の赦免を願って、祈りを捧げる者も居る」


 意識が別の方面に過ぎつつあったマロナを、バルコニーから響く低いが頼もしい力のこもった声に目線を持っていかれる。急造のバルコニーの上に居るのは四人の男女。今、両手で広げた一枚の紙を読み上げているのは、白髪混じりの茶髪の、司祭服の似合わない険しい顔つきの壮年の男。彼を挟むように両隣、数歩後ろに鮮烈な赤い髪と燃えるような紅の瞳をした野性的な風貌の青年と、獅子の鬣のごとく風に静かに揺蕩う金の長髪の成熟した美女。青年は騎士らしいが簡素な胴当てと膝当てに銀色の外套を左肩にかけ、美女の方は白地に金の文様が入った衣装だ。

 そして、その二人の中央の少し奥を、マロナは見つめた。真っ白なドレスに身を包み、純白のフード付ケープを着たもう一人の美女。フードを目深に被り顔か目線を隠しているのは、癖なのだろうかと、マロナはぼんやりと思う。高さもあり、集まっている民衆からはその顔はまず見えないだろう。纏霊している者が居るなら話は別だが、この場においてそんな者が居るとすれば、そこかしこに見える警備の騎士達がすぐに動く筈だ。見ることの出来ない鍵乙女と呼ばれるその存在がどんな眼をしているか、今この前庭に集まっている人間の中では、マロナしか知らない。それは、アメジストのようなのに月のない夜よりも深い昏さを内包したもの。思い出すだけで、心臓が鷲掴みにされるような、そんな眼だ。


「鍵乙女様!」「戦乙女様!」


 湧き上がる歓声が、再び思考が違う方へと向いていたマロナの肩を跳ねさせる。驚いてしまったのが気恥ずかしく、それとなく周囲に目線を配るマロナだったが、すぐに理由はわかった。首が痛くならないのだろうかと心配になるほど、相変わらず斜め上を見ている人々の視線がより熱のこもったものになっていたからだ。それを追わずとも、先に何があるのかわかる。バルコニーの端に、フードを取り去った銀髪の乙女と呼ばれるそれが来ていた。顔を隠すものが無くとも、長く伸びた白銀の前髪が陽光を反射して表情も瞳もわからなくしている。それに写る景色は一体どんな風に見えているのだろうかと、マロナはまた思う。視界を覆い尽くす程の人に敬われ、慕われるのは気分の良い事だろうか。この街の何処に彼女が居たとしても、人々はきっと頭を垂れ、膝を付き、崇め、奉るのかもしれない。それを是と、喜びとするのだろうか。ギティア大陸へと渡る船の上で、何十人程度の人垣からも「衆目の前に居るのが得意じゃない」と言って足早に何処かへと去った彼女が。

 不意に、それまで口々に彼女を讃えていた声が止み、不自然なまでの静けさに包まれた。見れば、鍵乙女がその両腕を真横へ広げている。十字架でも模したかのようなその姿は、まるで生贄のようで。乙女の十指が胸の前で組まれる。人々がそれを真似ながら膝をつき、祈る。

 マロナだけが一人、目をそらしてその場に立ち尽くしていた。












 鍵乙女の顔見せも終わり、一時間程経った。時間が正午前だったという事もあり、人々は昼食を取りにかすぐに居なくなっていった。それでも人口故に疎らながら見えるそれを眺めながら、マロナは花壇の縁に座って、ぼうっと、青い空を静かに流れていく雲を眺めていた。まだ昼食も摂っていない。昨夜行った食堂に行けばくれると、スティーゴから聞いてはいたが、食指が動かなかった。スティーゴはスティーゴで、アヴェンシスの街をニィネに見せると、顔見せが終わると共に人垣と一緒に街の方へと降りて行っている。一緒にどうかとも誘われたが、マロナはなんとなく断っていた。

 だが、彼女に何かやることかやりたいことがあるわけでもなく、ただ無為に時間を過ごしているだけである。初めて来た街だ。散策するもの悪くないのかもしれないが、どういうわけかそんな気も沸いてこない。そんな折。


「おい、マロナ=ラル=ロックテール」


 不意に背後から声を掛けられ、少し肩を跳ねさせながら、マロナは振り向いた。振り向いてから、背に花壇があるのに人が居る筈もない、と一瞬思ったが、声の主はそこにいた。ぶかぶかのローブがギリギリ花に付かない程度の高さに浮かぶ、金髪の童女。


「ええっと……ああ、巫女さんか。なんだよ」


 巫女メルシア。マロナとしては目の前の童女がそうだとは未だに得心が行かないが、先程の式典の時、騎士の男の反対側に居た美女とよく見れば服装が一緒である。本人の丈が全然違うのでいまいち合点がいかないところもあるが、教会の前庭に居て、彼女と似たような服は居ても、あしらわれた金の装飾や胸元の大きなこれまた黄金色のタウ十字も、身につけている者は居なかった。

 そんなマロナの考えに気づく筈もなく、メルシアは言葉を続けた。


「アーノイスから伝言だ。『帰りは送ってあげられないから、まだ着いてきている私兵に頼みなさい』との事だ。お前、スティーゴじゃなくアーノイスについてきていたのか」


 ああ、とマロナは思う。自分はアーノイスと共にこのアヴェンシスに来ていたのだと、再度認識するように。正確にはアーノイスではなくヴィノなのだが。と、そこまで思い浮かんでから、彼女はむっと唇を尖らせた。


「アタシはついてきたんじゃねぇよ。つけてきたんだ」


 そう、マロナはヴィノに一方的にやられた仕返しという事で彼女を尾行していたのだ。尾行というには些か大胆に過ぎるというか、尾行対象公認、いや黙認といったところだったが、マロナにその自覚はあまりない。と、不意に彼女はきょろきょろと首をあちらこちらに巡らせ始めた。


「どうしたんだ?」


「いや……うちの兵がついてきてるって事だったけど、本当に居んのかと思って」


「ああ、それなら」


 おもむろにメルシアが片手を持ち上げ、マロナの後ろの茂みを指さす。


「その灌木の後ろと」


 ガサリ、と指差された丸い木が揺れる。


「向こうの花壇の端と」


 指の向きが変わり、その方向に一人だけ立っていた灰色のコートの男があからさまに背を向ける。


「あっちの階段。ギリギリ頭だけ見えてるやつだな」


 よくよく見れば絶妙に首から上だけ見えていた帽子の人物。メルシアに指され、後退るように階下に消えていった。一連の指摘を見終えたマロナが、盛大に息を吐く。


「……うちの兵、もしかしなくても駄目かもしんないな」


「まあそう言ってやるな。お前は気づいてなかったんだ。良しとしようではないか」


 落胆するマロナに対し、メルシアは少し意地悪く笑いながら、慰めにもならなそうな言葉をかけ、そのまま続けた。


「で、どうするんだお前? あいつらに帰ると伝えれば喜んで連れていってくれると思うが?」


「うーん」


 問いかけられ、唸る事数秒。親切にも待ってくれていたメルシアに、マロナはこれまでの経緯を話はじめる。バレシアナでの一件と、アヴェンシスまで来た自分の目的。別段長くはならない話を聞き、メルシアは少しだけ眉を顰めて言った。


「お前、案外変な奴だな……普通、そこまでされてついてくる奴なんざいないぞ。マゾヒストか?」


「っちっげーよ! すんげー痛かったし怖かったけど、悪いことしてたのはうちの馬鹿親父だったし、治したのもあいつだし、ぶっちゃけやられ方も一方的な上に殆ど瞬殺だったから実感も薄いし。つーかあんたそのナリでそんな言葉使うなよ」


 ふむ、と息を吐くと、メルシアがふわりと動き、マロナの隣に座った。マロナもまた、腰を捻って後ろを見ていた無理な体勢を元に戻し、胡座をかいて自分の右膝に頬杖を立てた。チラリ、とその姿を見てから、メルシアが再び口を開く。


「お前は、あいつをどう見る?」


「どうって……」


 あいつ、とはヴィノひいてはアーノイスの事だろう。教会の関係者がそんな事を聞いていいものかと思わないでもないが、このメルシアというのも結構な曲者のようなのでマロナは良しとした。


「よくわかんねぇけど……そういや、アタシあいつが笑ってんの見たことねぇや。っつーか、嬉しそうなとこも楽しそうなとこも見たことねぇ。ああ、ピクルスが嫌いなのは知ってんぞ。たまに嫌がらせに飯に混ぜてた。昔からああなのか? アンタは知ってんだろ」


 マロナの問いに、メルシアは少しだけ目を伏せる。


「……いいや。二年前までは、よく笑顔も見せていたし、声を出して笑う事もあった。ピクルスは、ずっと嫌いみたいだがな」


「想像出来ないんですけど」


 意外過ぎる事実らしい事につい真顔になり口調も不安定になるマロナ。少々の混乱をしながらも、彼女は「なら、今はどうして」と疑問を抱いた。それと共に、ある事に気づく。全てが、二年前だということに。彼女の変調も、行方不明だったというスティーゴも、そして兄の死も。全てが二年前を発端にしている。


「聞かれても、これ以上私に答えられるものはない」


 先んじるように、メルシアはそう言って飛び上がった。マロナは一瞬どきりとしたが、言葉には出さなかった。


「で、どうするんだお前。私としては、家に帰った方がお前の為になると思うのだがな」


 ふん、とマロナは鼻で笑う。


「んなわけねぇだろ。アタシはまだあいつに仕返ししてないんだよ」


 返答に、メルシアは一瞬笑みを浮かべてから、す、とマロナの頭上に手を翳した。警戒し、身構える少女に、メルシアは言った。


「これから先もあいつについていくというなら、もうあの私兵とは別れないといけない。となれば、家に帰りたいと泣き言を言ってもすぐには出来ないだろう。それでも良いのか?」


 真剣な眼差しでそう問うメルシアに、一瞬怖気づくも、マロナは大仰に腕を組み直し、強く金の瞳を見上げる。


「上等!」


「なら……行くと良い。こいつは私からの餞別だ」


 マロナへ翳して居ない方の手で、メルシアは器用に服の袖から何色とも取れない色合いの硝子玉のようなものを投げて寄越した。なんとか、マロナも両手で掴んで受取る。


「なんだ、これ?」


「後であいつに聞いておけ。では、また会おう。マロナ=ラル=ロックテール。あまり……あいつをいじめてやらないでくれよ」


 硝子玉を弄んでいたマロナの視線が上がる。それと共に、彼女の視界は黄金の光に包まれた。












 アヴェンシス入り口南門より数百m先。背の低い木々が立ち並ぶ森の中。突如としてそこに、縦長の光の円盤が現れた。そこから、一つの影が染み出すように歩み出てきた。肩には紐付きの布袋を一つ下げている。黒いコートに同じ色のキャスケット帽。帽子から覗く銀白の髪。袖から覗く肌の色は白磁の彫刻のよう。ヴィノ=ディロデクト、その人だ。

 光の中から完全にその姿を現すと同時、光の円が消え、彼女は一人軽く息を吐いた。


「よう。遅かったじゃねぇか」


 不意に、その背に声がかかる。ゆっくりとヴィノが振り返ると、視界に、樹の根元で胡座をかいて座り込むマロナの姿が映った。


「……何故ここに居る」


 別段驚いたわけでもなさそうな声で、ヴィノが問う。マロナは一息に立ち上がり、ずいと彼女との距離を詰めて言った。


「あんたんとこの巫女さんがここに飛ばしてくれたんだよ。いきなり何かと思ったけどな、もしかしてと思ってまってみたら、見事ビンゴだ」


 ぱんぱんとおしりの辺りの土埃を叩き、マロナはニッと口角を上げた。対してヴィノは帽子のツバを持って深く被り直し、一つ溜息を吐く。


「僕は遠回しに帰れと言ったんだがな……」


「それはアーノイスの伝言だろ? アンタはヴィノ=ディロデクトじゃねぇか。ん?」


 勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、もう殆どくっつくほどの距離まで詰め寄るマロナ。


「……ここから先は、教会の機密にも抵触する。あまり勝手をすると、無事では居られなくなる可能性も出てくる。場合によっては記憶をいじられる事も、僕自身がお前を殺す事も有り得る」


 帽子を少しだけ上げ、マロナと殆ど鼻先がくっつくほどまで顔を屈めながら、彼女の顎に手を添え、ヴィノは言う。


「それでも来るのか」


 ごくり、とマロナの喉が勝手に鳴る。本当に直近にある、凍てつくような藤色の瞳。あの、修練場で見た狂気の色が、いつか自分に向く瞬間が来るのかもしれない。そう思い至ってしまえば、自然と恐怖で足が震えてくる。しかし、マロナは顎に添えられた手を退けるように首を横に振った。それは、否定の意志ではない。


「アタシは行くって決めたんだ。最初から言ってんだろ。アタシはアンタに仕返しする為に後をつけて行ってるってんだよ」


 あくまで、自身が尾行しているというスタンスは貫くらしい。だが、今回はそれで通らない。無言のままのヴィノに、マロナはどうにか言葉を繋いだ。


「……わーったよ。なるべく、あんたの言うことは聞くようにする。それでいいんだろ」


 半ば拗ねたような物言いだったが、ヴィノは帽子を被り直しながら姿勢を元に戻した。


「言う事を聞いてくれるなら、さっきの時点で帰ってもらえるのが一番だったんだが」


「そうは問屋が下ろさねぇ。ってもんだろ」


 残念そうなヴィノの呟きに、マロナはチッチッと立てた人差し指を左右に動かして笑う。

 ヴィノは、深い溜息だけを返して、歩き始めた。その数歩後をマロナは頭の後で手を組んで行く。


「…………そういえば」


 ふと、何かを思い出したようにヴィノが立ち止まった。


「なんだよ」


「お前の荷物、持ってきてないぞ」


「……………………あ」

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