涙の役割
「こ、こんばんはー」
「……おう」
夜。始祖教会内の廊下に、マロナは座っていた。目の前には縦よりは横に広い大きな扉。両方を開けば一度に五人は通れるだろうその前で、マロナは憮然とした表情であぐらをかき、両腕を組んでいる。時折前を通る修道女らが挨拶をするも、一言ぶっきらぼうに返すだけである。見るからに不審だが、彼女の居るその扉の奥の部屋がさらに問題である。そこは、始祖教会が誇る大浴場への入り口だからだ。よくよく見れば、マロナの髪もまだ生乾きで、ツインテールも下ろしている。座り込むその脇には洗面器に乱雑に突っ込まれた風呂道具と着替えを包むバスタオルが置かれていた。風呂に入りに来た修道女達も扉からでてくる湯に上気した顔の者達も、一瞬ギョッとしてマロナを見るが、彼女は意に介さない。ただ廊下に居るだけなら誰か待っていると思えない事もないだろうが、それにしてはしっかりと座り込んでいて、尚且つ通る人間一人一人を睨みつけている。明らかに不審者のそれだが、彼女がそんな行動に出ているのにも理由があった。
事は数時間前。食堂で偶然会ったメルシアにアーノイスとの面会を申し込んだマロナだったが、その時のメルシアの言葉通り、二時間経とうとも会うとの連絡は無かった。苛立ちを募らせるマロナに、スティーゴが取り敢えずお風呂でも、との提案をしそれに乗ったのだが、彼女はそこで気づいたのだ。共同の大浴場があるなら、鍵乙女であるアーノイスもここを使うのではないか、と。一月の旅の中でも、ヴィノは宿を取る時はちゃんと最低限シャワーのある部屋を取り、野宿の際でも水浴びに出ていたくらいには綺麗好きだったと把握していた。思い立ったが吉日、それがマロナである。風呂からあがると共に出口のところで張り込みを始めたのだ。
が、待てど暮らせど目的の人物は現れない。時間も時間であり、尚且つ風呂あがりの体温が上がっている状態だ。時折うつらうつらと眠くなり船を漕ぎながら、寝ぼけ眼を擦って彼女は眠気と戦いながら唯一人の目標を待ち続ける。やがて、続々と出入りをしていた修道女達の姿も疎らになり、多少は眠気覚ましになっていただろう足音も話し声も物音も希薄になっていった。廊下の灯も足元を照らす程度に消され、薄暗くなる。それが止めになり、マロナの瞼は重く降りていった。
さらに一時間程経ち。
時刻はすっかり深夜となり、アヴェンシス全体が眠りについたかのような静けさの中、マロナの座り込んでいた廊下に足音が一つ響き始める。コツ、コツという軽めの足音から、具足を履いている見回りの兵士のものではない事がわかる。廊下の壁についている証明は全て消え、灯は絨毯に仕込まれた呪術によるものだけだ。人影が、浴場の入り口に差し掛かり、マロナに気付き歩みを止めた。胡座をかき、腕を組んで頭も下がりきっているその状態かつ薄暗い。そんな状況でそれが誰か、などわかりそうにもないことだが、そもそもこの教会内の廊下で寝られる人間などまず居ないだろう。その辺りから、人影の人物はそれを誰か理解した。
マロナの方へ向いたまましゃがみ込む。呪印のい仄かな光が白い頬と長い髪を照らす。藤色の瞳は相も変わらず一切の光を見出だせない程、何の感情も乗っていないように見える。鍵乙女アーノイスがそこにいた。もう夜中だというのに、正装である純白のローブに身を包んだままだが、その片手には風呂セットが持たれている。鍵乙女、と周囲から崇められる存在としても、彼女もまた一人の人間であり、当然風呂にも入る。が、立場故に他の修道女が入るような時間に入浴する事など不可能だ。お互いに落ち着かないだろうし、鍵乙女の体には烙印があり、それを衆目に晒すわけにはいかないのだ。よって、アーノイスは皆が寝静まる深夜に浴場を使う事にしている。
「……風邪、引くわよ」
道具を持っていない方の手でマロナの肩を揺らしながら、静かに声をかける、が声が静か過ぎるのか余程熟睡しているのか、マロナは呻き声すら上げず穏やかな寝息を立てている。はぁ、と小さく溜息を吐き、アーノイスは早々に諦めて立ち上がると、ローブを脱いでマロナの頭上からぱさりとかけた。頭まで覆われては呼吸もしづらいだろうが、殆ど腕に抱え込んでいるような状態なので、無理に動かしようもない。これまた白いドレスの格好になり、アーノイスは踵を返して浴場の扉の奥へと消えていった。
――それは朧気な、心地良い温もりの記憶。マロナは夢を見ていた。
大きなロックテール邸の広い前庭。綺麗に刈り揃えられた青い芝生の上、雲ひとつない晴天の下で、幼いマロナは年離れた一人の少年と相対していた。黄色のストライプシャツという派手な服に包まれる体は縦よりも横に大きく見え、ふくよかな感じだ。名前はマロリ。彼女の兄だ。
「いいかいマロナ! 大切なのはお前のイメージだ」
少年にしても少し高音気味な声で、数メートル程離れた場所に居るマロナへと声をかける。マロナは芝生の上に胡座をかいて座って、目を見開いて兄の方を見ていた。
「例えばそう、自分を運んでくれる靴。地面を滑るように動いて、空も飛べる。それも鳥よりも疾く!」
右足をマロナに見せるようにして上げ、マロリはそう言う。自分を運んでくれる靴。鳥よりも疾く空を飛べる靴。そんな空想を思い描いたマロナの瞳が無邪気に輝く。
「瞬天足!」
そしてそれは、彼女の目の前で現実となった。いつの間にか、光る靴を履いた兄が1メートル程宙に浮き、次の瞬間、空を駆けた。マロナの頭上を飛び去り、空をくるくると駈ける。
「わぁ……! すごい! 兄ちゃん飛んでる!」
立ち上がり、兄へと両手を伸ばしながら、マロナは感嘆の声を上げた。その手を、高空から急降下してきたマロリが掴み、再び空へと上がる。
「どうだいマロナ。空は広いだろ?」
「うん!」
バレシアナの街並みと、太陽に照らされてきらきらと宝石のような輝きを返す海とを兄妹は眺めていた。互いの腕をしっかりと両手で掴み、マロナに至っては宙ぶらりんな格好だが、自分を掴んでくれている兄への信頼から、不安そうな様子は一切見せない。
「兄ちゃん! アタシもそれ、出来るようになる?」
「勿論さ! お前は僕の妹なんだから。ちょっと頑張ればすぐに出来るよ」
「アタシ、がんばる!」
頭上で満面の笑みで笑いかける兄へ、マロナもまた負けじと明るい笑顔でそう宣言するのだった。
「ん……あー」
寝ぼけ眼をこすり、マロナは大きく欠伸をした。体面を気にしない大口でのそれが、盛大に脳へと酸素を送り込み、すぐにマロナの頭をはっきりさせていく。元来、寝覚めは良いマロナだが、寝て起きたにしては辺りはオレンジのぼんやりとした光に包まれていて、違和感を感じていた。宿に泊まってもベッドは窓際を選ぶし、野宿ならほぼダイレクトに朝日を浴びる事になる。と、そこまで考えて、マロナは昨日――寝ておきたので彼女の中では昨日――の内にアヴェンシスに着き、なんだかんだあってスティーゴという青年の部屋に厄介になるはずだった事と、自分が大浴場入口の前で張り込みをしていた事を思い出した。
ソファに蹲りシーツのようなものに包まれていたような格好から、自分にかけらていた布を剥ぎ取り、目を見開いて首を巡らせる。それほど広くはない部屋で、オレンジの灯の正体は部屋の四隅にある間接照明だ。マロナの前には楕円のテーブル、奥にも正方形の白木のテーブルが置いてあり、彼女から見て右奥に出入り口と思われるドア。反対側に簡易キッチンと小さな食器棚がある。どうやら談話室か何かのようで、マロナの座っているソファは壁際に据えらていた。
「どこだよここ……」
「起きたか」
誰にとも無しに呟いたマロナの言葉に、隣から声がかかる。人が居るとは思ってなかったマロナの肩が大きく跳ね、ギョッとして右を向く。そこには、髪を下ろしたアーノイスがドレス姿のまま座っていた。片手に持つ本が開いている事から、マロナが起きるまで読書をしていたらしい。
「あ、ああっ! てめぇ!」
ソファの上に飛び乗り、指を突きつけ大声を上げるマロナ。先程まで一時間以上も張りこんで待っていた人物が、気がついたら隣で優雅に読書と洒落こんでいるのだ。驚きもさる事ながら、自分の努力はなんだったのかと苛立ちも混ざる。
「大声を出さない。まだ夜中だ」
だが、アーノイスは努めて冷淡にそう返し本を閉じた。
「部屋に戻りなさい」
「ちょ、ちょっと待てよ」
言って立ち上がるアーノイスの袖を、マロナはソファから降りつつ掴み引き止める。間接照明の薄暗さもあってより無機質に見える瞳が、次の言葉を促すようにジッとマロナを見つめた。
「まずここは何処だよ。それとアタシ、アンタに話があったから風呂場の前で探してたんだけどよ。っつーかアンタ呼んだのに来ねぇってなんだよ!」
矢継ぎ早に話すマロナに、アーノイスは小さく溜息を零すと、掴まれていた手を軽く振り解き、仕方なくといった様子で向き直った。
「ここは談話室。浴場のある廊下の突き当りだ。貴女が廊下で寝ていたから運ばせてもらった。どの部屋に案内されたのかわからないからな。メルシアさんからの伝言は聞いたが、立場上あまり自由に動けるものでもない……これで良いか?」
マロナの言った問いに淡々と並べるように答えるアーノイス。
「お、おう」
事務的で簡潔に素早い返答に、気圧され少々詰まりながら返事をするのがやっとのマロナ。と、いやいやとマロナは首を横に振った。
「いやいやいや。聞きたい事あったんだっつーの」
ギッとアーノイスを上目遣いににらみ、言葉を続ける。
「あんた、ヴィノ=ディロデクトなんだよな」
それは、昼間騎士団長の部屋で彼女を見てから、マロナがずっと突きつけたかった台詞だった。見たことがある、くらいの認識では服装や雰囲気と立場の違いからヴィノとアーノイスをイコールで繋ぐことは難しいかもしれないが、ヴィノと一月の間を一緒に過ごし、また彼女が髪を解いた姿も見たことがあるマロナからすれば、二人は似過ぎているなどというレベルではない。何より、その藤色の眼だ。何を見ようともただのガラス玉のように写すだけの無機質な眼。時折どこまでも落ちていきそうな影を覗かせるそれを、見間違える事はないだろう。
「……今はアーノイスよ」
否定ではない台詞に、マロナは一応の満足をする事にした。鍵乙女なるものが如何なものなのかどのような扱いや認識の元にあるのか、彼女にはよくわからない。だが、先程アーノイスが言っていたように、立場というものがつきまとう存在だという事ぐらいの理解はしている。故に、否定しないその答えで十分と判断したのだ。
「ったくよ。街の近く来た途端逃げ始めるから何事かと思ったけどな。まあいいさ」
先程までの問い詰めるようなきつい雰囲気とは一変、マロナは何処か機嫌良さそうに頭の後に手を組みながらアーノイスの横を通り過ぎる。
「用は……済んだのか?」
欠伸混じりに談話室の出口に近づいたマロナへ、今度はアーノイスがそう問いかけた。アヴェンシス教会に属していた兄の死を確かめる事。それとヴィノへ復讐する為とマロナが語っていたのをアーノイスは覚えている。後者に至っては既にマロナ自身にやる気があるのかどうかも定かではない為何とも言えず、言外にアーノイスは前者の事について聞いたのだった。マロナが振り向き、扉に背を預け視線を天井へと向ける。
「一応。ま、元々死んじまったって聞いてたから……な」
気の抜けたような声音でマロナはそう答えた。死を確かめる、それは一縷でも生存の希望を持っていなければする事ではないだろう。だが、それはやはり見果てぬ夢であったのだ。「そう」とアーノイスは一言だけ返す。冷たいようにも思え、必要以上に気の利かない言葉を重ねない配慮故にとも思える。どちらにせよ、マロナには判断のしようがないのだが。
「そういえばさ……あんた、夕方くらいに騎士の一人ぼっこぼこにしてたけどさ。あんた……すっげぇ眼してたぜ。なんだよあれ。見てるだけのこっちが死ぬかと思った」
「忘れろ。その方が良い」
「へっ、なんだよ……冷てぇなぁ」
出口の扉の寸前まで行っていながら、そこを開ける気がないようなマロナを見て、アーノイスは小さく嘆息すると共に簡易キッチンで何やら作り始めた。マロナがその様子を見るともなしに眺める事数分も経たずに、アーノイスはマロナに一番近いテーブルへカップを一つ置いた。立ち上る白い湯気と共に甘みのある匂いがマロナの鼻孔を擽る。
「それ飲んで早く寝るといい……私は明日、いやもう今日か。ともかく早いんだ」
アーノイスはそれだけ言って、席の一つに腰掛けて持っていた本を開いた。マロナは何も言わず、ミルクの置かれた席に静かに座る。
「あ、あり……ありがと、な」
か細い声で言い慣れていない礼を言うマロナだったが、アーノイスは言葉を返さず本のページを一枚めくった。
ミルクを啜る音と、紙の擦れる音だけが長い感覚を置いて連なる。二人は、同じ部屋同じテーブルを使っていながら、お互いを見ない。マロナは、カップの中の白い表面に写る自分を見ており、アーノイスはいつもと変わらない様子で手の中の本に視線を落としている。
そうして過ぎる沈黙は、一つの水音に破られた。一粒、水面に落ちた雨のように、それは白い表面を波立たせる。雨に呼ばれた風のように、すすり泣く音が薄暗い談話室の中で木霊する。
「なんで、死んじまってんだよ……兄ちゃん……」
涙声。恐らくは、二度目の、突きつけられた大切な人の死。ポタポタと机とカップの中へと落ちる涙を必死に抑えようと、歯を食いしばり両手を膝の上で握り締める。悔しいのか、悲しいのか。胸がつかえて呼吸もしづらそうに、何度も唾を飲み込む。
「泣きたければ、泣けばいい」
いつの間にか本を閉じていたアーノイスが、マロナの方は見ずにそう言った。まだぽろぽろと落ちる涙を拭いもせず、マロナがアーノイスの方を見る。
「それだけ大事なものを失くしたんだ。どれだけ辛くとも、みっともないと思っても、まだ涙が出るならその方が良い。涙で絶望を流す事が出来なくなれば、心が枯れて、壊れる」
席から立ち上がり、何処か独り言のようにアーノイスは呟きながら歩き、最初にマロナが寝ていたソファの置いたままだったローブを手に取った。
「だから、泣いておきなさい」
音もなく、白いローブがマロナの上からかけられて彼女を隠すように覆う。震える小さな両手がローブを掴み、巻き込むように、隠れるように、マロナは縮こまって、声を上げた。
幼子のように泣き叫ぶその声も姿も、何処にも届く事はない。ただ一人、アーノイスだけが、少女の嘆きが終わるまでそこに居た。