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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第三章
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うるさい

 始祖教会地下の広大な面積に広がる、掲剣騎士団の施設。作戦会議室や騎士用の寮、そして全部で十一ある修練場が主な場所を取っている。修練場にそれだけの数があるのは、ここ始祖教会に、掲剣騎士を養成する為の養成所なるものがある為だ。殆どの騎士はその養成所を卒業し各地に派遣されるようになっているため、必要な施設も大きくなるのは必然と言える。

 そんな修練場の中でも、一つだけ普段では使用されない、通称特別修練場と呼ばれる場所がある。それが、今彼女らが目指している第拾壱修練場だ。


「ここに足を踏み入れるのは二度目ですかね。養成所に居た頃、見学に来たことはありますよ」


 屋外の、広い円形の場に出ると共に、アーノイスの後をついていっていたレイクが、周囲を見回しながらそう言った。

 他の修練場との違いは、まず他の修練場が地下に有ることに対し、唯一屋外に造られている事。普通は正方形にタイルが敷き詰められているのに対し、円形である事。そしてその円形の場を囲うように造られている観客席が有ることだ。また、目には見えないが舞台にかけられている修復と維持の呪術の質も違う。そうまでされているのには理由がある。一つは、時折開かれる騎士団内の闘技大会に使われる場で有ること。もう一つの理由は、かつてはあったが今はない。

 アーノイスは、周囲に人が居ない事を霊覚で瞬時に察知すると共に、淀みなく舞台の上にあがった。そのまま歩を進め、上がってきたのとは反対側の端まで行ってようやく止まる。振り返らず、少し顎を引いて目を閉じた。

 その後ろ姿を認めてから、一呼吸置いてレイクもまた舞台の上へと上がる。ちょうどアーノイスと舞台中央から等距離になるよう、すぐに止まった。


「……試す、と仰っていましたが一体何をするおつもりですか? 騎士団長と戦えば良いのでしょうか?」


 言いながら、レイクは横目で後ろの観客席の壁に寄りかかるグリムに視線を送る。名を上げられた当人は聞いていないように大きな欠伸をしていた。

 前従盾騎士を決める際も、この第拾壱修練場は使用された。当時、アーノイスは従盾騎士を決める事は教会側任せであった。特に推薦するような人物も居なかったからだ。そんな折、このままでは彼女の旅にも教会の運営にも支障が出るとした教会側が、掲剣騎士外からも募集して大闘技大会を開いたのだった。その優勝者を従盾騎士とする。そう決めていた。だが、結果は違う。当時の大会の優勝者は、圧倒的な実力でグリムに決定した。しかし、その優勝が決まると共に乱入者が現れたのだ。その人物こそ、後に魔狼と呼ばれる事になる二年前までの従盾騎士。彼は闘技大会のその場で優勝者であるグリムと戦い、勝利し、アーノイスがそれを認めた。

 その経緯はレイクも知っている。故に、そう聞いたのだが、アーノイスは何ら返答を寄越さず、ただじっと佇む。その沈黙に耐えかねたのか、レイクはそれを埋めるように言葉を並べはじめた。


「私は、先代の鍵乙女様の儀式を見、それに感動し従盾騎士になると志し、努力し続けてきました。しかし、数年前貴方の従盾騎士を決める闘技大会の時には私はまだ訓練兵であった為、参加する事が出来ず無念でした。その口惜しさをバネに、私は今この時まで研鑽を積んできたつもりです。二年前のかの魔狼のような事にはなりません。私は、命を賭して、鍵乙女様を守り通す所存です!」


「……うるさい」


 いつの間にか振り返っていたアーノイスが、仄暗い声でそう告げる。あまりに低くつぶやかれるようだった言葉は、レイクには聞こえなかった。幽鬼のように項垂れる彼女の姿勢では、前髪に隠れて表情も伺えない。それでも、はじめるようだと察したレイクは居住まいを正した。


「御託は良い。貴方が剣を抜くと同時にはじめとしましょう。私に一撃でも当てられたら、それで合格にするわ」


 酷く事務的な声で下される言葉に、レイクは一瞬固まった。アーノイスが何を言っているのか、理解に及ばなかったからだ。アーノイスは振り返ったままの姿で動かない。

 硬直していたレイクが、数秒をかけて言葉の意味を噛み砕き、苛立ちを顕にした顔で、静かに左手を腰の剣の柄に当てた。真一文字に結ばれていた口元が重く開かれる。


「貴方が二年前の騒乱の際、戦乙女ヴァルキュリアとまで呼ばれていた事は自分も知っています。しかしながらそれは暗に、これまでの鍵乙女様方と比べ、という注釈のついたものではないですか? それを、一撃当てればなど」


 爆発音。それは、つらつらと続けるつもりだったのだろうレイクの言葉を完膚無きまでに閉ざされる程大きくそして突然のものだった。場所は、アーノイスの足元その周囲。完全に破砕された地面の上に、彼女はただ立っているように浮いていた。ダダ漏れる霊気が彼女の周囲の空気を波立たせ、その流れが白銀の髪を静かに重く躍らせる。霊気の圧が空間を歪め、アーノイスをまるで陽炎の中に居るかのように錯覚させる。


「もう喋るな。二度は言わない。私に一太刀でも掠めてみせろ。お前が、動かなくなる前に」


 空間のゆらぎと共に、彼女は静かに左腕を持ち上げた。












「ああ……? どこだよここ」


 中央に黄色のカーペットがしかれた石造りの廊下を、マロナは一人歩いていた。というのも、スティーゴに兄の話を聞く心積りだった彼女だが、ようやく話に入れると少しの安堵を覚えたところでトイレに行きたくなったのだ。それで、断りを入れ場所を教えて貰ってスティーゴの部屋を出て行ったのだが、如何せん一度も来たことのない広い建物の中。ついでにいやに整頓された造りの為、通路の景色は殆ど同じであり、自分が何処をどう通って出てきたのか、どの部屋から出てきたのかわからない。まずスティーゴの部屋は騎士の寮で廊下にカーペットなどない、もっと質素なつくりの筈だったのだが、寮の共同手洗いが故障中だった為別棟のものを使うしかなかったのだ。そうして、迷子になった。

 今いる彼女の場所は一般人はおろか修道女といった教会関係者の姿も見えない。入り口で入場者規制もしていた事もある。取り敢えず、立ち止まっていても人に道を聞くことさえ望み薄と考え、マロナは建物内を歩き回っていた。霊覚の一つでも使えれば、人の居る場所などすぐにわかるのだが、彼女は得意の術は使えてもそれ以外はからっきしだ。普通に術の修練を積んだ者ならそれはほぼ有り得ない話なのだが、マロナは自身の家の秘術のみに傾向している為、そうなってしまっているのだ。

 どの程度歩いただろうか。一人でさまよっていると時間の感覚もよくわからず、時計も彼女は持っていない。


「くっそ……疲れた……」


 大きく溜息をつきながら、マロナは窓の方に歩き桟に腰を乗せた。休憩を挟むと共に、彼女は今日の事をつらつらと考える。

 アヴェンシス入り口と共に、それまで尾行と称し同行していたヴィノに逃げられた。その後、苛立ちと共に足を運んだ店で、仮面の紳士と眼帯のメイドの妙な二人組に、翳刃騎士唯一の生き残りであるというスティーゴの情報を得た。そうして向かった教会の入り口で、門番と言い争いにはなったもののスティーゴと会う事が出来た。そうして。


「……あの野郎」


 零れた言葉の端を噛み砕くように、ぎりとマロナの歯が鳴った。鍵乙女アーノイス。白銀の長髪と冷淡な藤色の瞳と彫刻のような美貌を持ったその女の顔を、マロナは知っていた。見間違えようがない。その女の顔は、ここ一月、毎日見てきた顔だったのだから。兄の話をスティーゴから聞くのもそうだが、それに関しても本人から聞き出さなければならない。そう彼女は固く決意し、一息ついて少し勢いをつけ腰を上げた、瞬間。破砕音が彼女の足を前方にもつれさせた。


「な、なんだ?」


 体勢を立て直し、先程まで腰掛けていた窓に額をくっつけるマロナ。そこから覗く闘技場のような場所に、四人の人影を彼女は認識した。騎士団長と呼ばれていた赤髪の青年。何故か場を取り仕切っていた金髪の童女。スティーゴと共に居た騎士。そして、件の鍵乙女。考えるよりも早く、マロナは駆け出した。

 直近の曲がり角を折れて階段を駆け下る。すぐに、外へ通じる両開きの扉につき、そこから飛び出すように彼女は外へ出た。ちょうど、騎士団長と童女が居る場所。目の前に見える舞台の反対側に、アーノイスの姿を確認する。

 それを、なんと形容していいのかマロナにはわからなかった。実家にヴィノが襲撃に来た時、その後、海上でフェルと戦闘した時。特に、前者のヴィノに関しては、マロナはただ畏怖を覚えた。だが、今目の前にしているそれは、これまでの比ではない。髪を解き、衣装も白のドレスという、より戦闘には向いていなさそうな姿なのに、その全身から放たれる霊気は霊覚もまともに使えないマロナでも視認出来る程に濃く、そしてかすりもしていないのに冷たい。


「お前、こんなところで何をしている?」


 メルシアが、いつの間にかマロナの前に立ち、声をかけていた。だが、マロナはそれに返事を返せない。アーノイスにうずまく霊気が、自分に向けられているものではないとわかっているのに、既に喉がからからで、声をだそうにも全身が怯えて力が入らない。出会った当初、圧倒的な力で瀕死に追い込まれた記憶も関連しているのかもしれない。そう考え至ったところで、何の解決にもならないのだが。


「おいメルシア。結界張っとけ。はじまんぞ」


 彼女らの前方で、グリムが振り返らずにそう告げる。硬直するマロナの事も気にかかるメルシアだったが、仕方なく、彼女は踵を返しグリムの横に立つと、何事が呟き、片手を伸ばした。舞台の円周が一瞬の発光し、そこから光の膜が遥か上空へ向けて伸びた。それと共に、彼女はグリムに声をかける。


「後ろの子、下げた方が良いと思うが」


「悪ぃけど、そんな余裕ねぇよ」


 そう即答しながら、グリムは右手を背に負った大剣の柄に持っていった。

 静寂が辺りを包む。いや、正確には完全な静けさではない。アーノイスの霊気に当てられ、最初の爆発に舞い、宙に浮かされた舞台の破片が時折破裂するように割れた音が響いている。一つ、石が圧に耐えかねて砕け散ると共に、一つ糸が張り詰めたようになる。一つ、二つ、三つ。段々と割れていくスパンが短くなっていき、彼女と相対していたレイクが動いた。


「……掲剣騎士マイラ支部所属、レイク=K=D=ケルビン。行きます」


 腰を低く落とし、体を左に捻り、左手で剣の鞘を、右手で柄を握る。顎を引いて口を強く結び、両の目は標的である鍵乙女へ向けて。踏み出す為の右足に力を込める。

 左手の親指が、剣の鍔元を弾く。弾いた音がした――気がした。


 轟音が空間を揺るがした。結界が緩衝と防音も果たしている筈なのに、それからはみ出た衝撃が周囲を襲う。ギリギリ、建造物を破壊しない程度には抑えられてはいるが。


「……ひゅー…………ひゅー」


 残響が収まる頃、隙間風のような声が舞台の中央から上がった。否、舞台などもはやなかった。巨大な竜巻でもそこを通ったのか、結界の描く円の内側が完全に破砕している。その中心に浮かされているレイク。地面から人一人分程離れ、足を腕を胴を首を頭を、光る極細の糸に締め付けられている。彼が抜き去った筈の剣は鞘ごと幾つにも分断され足元に転がり、糸に締め上げられている箇所から血が滴っている。隙間風のような声は、気管をほぼ締め潰されているのだろう彼の口から漏れていた。

 血が伝う五本の糸の先は、つい一瞬前にレイクが立っていた筈の場所に向かっていた。右膝を折り、地面に半ば突き刺すように体の動きを止めたのだろう。後ろに大きく伸ばした左腕、手その指先から伸びる、紅滴る光る糸。前を見据えた彼女の眼光は、見る者を凍りつかせる程の冷徹さと、震え上がらせるだろう激情が入り混じった色をしていた。その下の、酷薄な口元がゆっくりと動く。


「……何故、邪魔をする。グリム」


 ギロリ、と藤色の硝子玉が左に向く。そこに、大剣を手にしたグリムの姿が写った。剣は抜き去られ、切っ先がアーノイスの手首に向けられている。触れるまで凡そ一ミリといった極僅かな距離で、それは止まっていた。彼もまた、飛び出し足を打ち込むようにブレーキをかけたのか、アーノイスが作った舞台の亀裂とは逆方向に、彼の進んできた痕が残っている。

 はあ、と息を吐き出し、グリムは視線を、未だ中空で締めあげられているレイクに向けたままで答えた。


「あんたの気持ちもわかる、とは口が裂けても言えねぇ。俺には想像する事しか出来ねぇからよ。でもよ、騎士団長として、騎士の一人が殺されるのを黙って見ているわけにはいかねぇんだ。あんたにゃ悪いとは思うけどな」


 アーノイスの目線が自分の足元へと逸れる。数秒して、光糸は何事もなかったかのように消え、血塗れになった青年の体と、糸を伝っていた血が落ち、血溜まりと血の軌跡が舞台上に出来上がった。アーノイスが腕を下げゆっくりと立ち上がり、グリムもそれを確認すると膝を伸ばして剣を背の鞘に閉まった。


「今回の事はあいつの無知と、俺の周知徹底ってやつが甘かったせいだ。悪かったな」


「いいや……」


 その否定にどういった意味が含まれていたのか、推し測れはしないだろう。アーノイスはすたすたと、舞台を降りた。


「部屋……戻るわ。修練場、壊してごめんなさいね、メルシア」


 舞台の傍に立っているメルシアに歩きながら告げ、横を通り過ぎていく。


「気にするな。ゆっくり休め」


 振り返らず、背と背で話すように一言だけ交わす。言ったメルシアの言葉は穏やかだったが、その目は苦渋を顕にしていた。

 アーノイスはそのまま、メルシアの後方に居たマロリを一瞥もせず、扉をくぐる。一言も発せず、ただ立ち尽くす少女の背に、扉の閉まる音だけが響いた。


「メルシア。これ、医務室にそのまま飛ばした方がいいんじゃねぇか?」


 アーノイスが去り、グリムが血溜まりに沈んだまま動かないレイクの傍へ立つ。


「そうだな。少し待て。連絡を取ろう」


 答え、メルシアはその場から動かずに目を閉じ、短く呟いた。


共鳴リゾネイン


 霊術の一種で、念話をするものである。簡単に言えば霊力を用いた糸電話のようなものだ。“回線”はすぐに繋がったようで、メルシアは目を開いた。言葉を発さずとも声は送れるので、彼女の唇は閉ざされたままだ。

 急に静まり返る修練場。今にも死にそうな、血塗れの怪我人を前にして、誰も動く気配を見せない。そんな状況に、マロナはいたたまれなくなった。少しの興味本位で来たこの場所で起きた壮絶な事態の処理もまだ済んではいないのだろう。半ば慌てたように、少し足をもつれさせながら、彼女は崩壊した舞台の端に行き、声を上げる。


「あ、あたしも何か手伝ってやろうか!」


 事この場に置いて、そんな尊大な台詞が言えるのはある種勇気があると言えるだろう。実際は、言葉を選ぶ余裕もなかっただけなのだが。

 焦ったようなマロナの言葉とは反対に、グリムは少しぽかんとした様子で目を見開き、数秒目線を交差させた後、白い歯をこぼした。


「気持ちだけで十分だ嬢ちゃん。大体、んな足震えてる奴に何も頼みゃしねぇよ」


 言われ、マロナは自分の足元を見てはじめて気づく。自分で見てもわかる程、膝がガクガクと小刻みに動いている。笑っているように、力も入らない。

 彼女は怖かったのだ。目の前で人が惨たらしく傷つけられたからではない。鍵乙女アーノイス。そう呼ばれていた女の、その目が怖かったのだ。1ミリも動かない表情にはめ込まれていた、いつも無に見えていた硝子玉のような藤色の中に宿るどす黒さ。それは燃え盛る炎のような激情を感じさせながらも、氷のように冷たく、底なし沼のように濁っていた。そこに一切の光はない。憤怒と絶望と悲哀の入り混じった渾沌の水晶。これまで見たことがない、感じた事がない、人にそんな目が出来るのかと、マロナは戦慄していた。思い出すだけで、彼女は全身の力が抜け落ちるような感覚に襲われた。まるで、死に向かうように。

 ぽん、と大きな手が一瞬マロナの頭を跳ねるように叩いた。思い出した恐怖に駆られ意識の飛びかけていたマロナが、はっと顔上げる。視界の端を、銀色の外套が過ぎて行った。


「取り敢えずスティーゴんとこ戻んな。あー、それとこの件はあんまり言いふらすなよ嬢ちゃん」


 雑な物言いで取り敢えずと言った忠告をしながら、ひらひらと背を向けたまま出口へ向かうグリムの後ろ姿を、マロナは声をかける事も出来ずに見送る。気づけば、メルシアも、血塗れの騎士の姿もない。

 崩壊した修練場の片隅で、スティーゴが迎えにくるまで彼女はただ呆然と立っていた。











 教会内の廊下を、スティーゴとマロナは並んで歩く。メルシアに共鳴で呼び出され、スティーゴは急ぎ第拾壱修練場へ向かったのだ。そこは修練場舞台が修復の呪印ごと完全に抉られており、かなりの量の血痕が残っていた。マロナが怪我をしていないか、と彼は心配して声をかけたのだが、返事は「大丈夫」とただそれだけであった。それ以降、もう数分は歩いているのだが、会話はない。何があったのか、スティーゴとしては聞かなくてはならないのだが、隣を歩くマロナはずっと俯いたままだ。元々あまり押しが強い気性ではないため、どうしても気遅れてしまうのがスティーゴの利点でもあり欠点でもある。


「ごめんね。俺もあっちの棟のトイレが壊れてるとは思わなかったからさ。はじめてここにきたなら迷うのも仕方ないよ」


 取り敢えず、当たり障りのないような話題を振るスティーゴだったが、空振り、独り言となってしまう。どうしたものか、と少し考えこむスティーゴの耳に、ずっと隣で鳴っていた足音が止まった。振り向けば、ずっと下を向いていた少女がじっと、スティーゴと目を合わしていた。睨むでもない真剣な眼差しに、彼も自然居住まいを正すが、こっちまで固くなってしまっては止まってしまうだろうと少しだけ柔らかく微笑む。マロナは、それに促されるように、小さく唇を開いた。


「なあ、あんたは……どうしようもない程誰かを恨んだことってあるか?」


 自分でも、唐突に何を言っているのか、と思っているのだろう。言葉に詰まらずそう言い切ったものの、バツが悪そうにマロナは視線を逸らす。

 それと共に、スティーゴの表情に影が差した。少女が何故突然そんな問いをしてきたのかはわからない。部屋で別れた時には、そんな思いつめた問いをしたそうには見えなかった。何かが胸に突っかかっていて、それをどうにかしたくて苦し紛れに出した質問。今の彼女の言葉をスティーゴはそう受け取った。それ以前は、とにかく何かを知ろうとしていた筈なのに。スティーゴは、唇が乾くのに一度唾飲み込んでから、答えた。


「あるよ。もしかしたら、今もそうなのかもしれない」


 今度はスティーゴが目を逸らす番だった。マロナの瞳が少し驚いたように、その意を確かめるべくかスティーゴを注視している。一秒程そうしていたが、やがてマロナは瞳の力を緩めた。


「とても、そうは見えねぇけど……」


 それは誰と比較してなのだろう、とスティーゴは思う。彼の脳裏に一番に浮かんだのは、一人の白い女性。力なく笑って顔を上げながら、彼は語る。


「君は翳刃騎士の事を聞きたがっていたね。知っているとは思うけど、翳刃騎士は二年前に壊滅した。皆死んでしまった。俺を一人残して皆」


 マロナは思わず息を呑んだ。スティーゴに言われた通り、彼女は翳刃騎士の事を、とりわけ戦死したと聞いていた兄の事を調べる為にここまできたのだ。もしかしたら生きているのかもしれない、そう何処かで思っていたのも確かだ。だが、それは今完全に否定された。突然に、思わぬ形で。無論、元々死んでいると聞いていたのだ、覚悟がなかったわけではない。それでも震える手を握りしめながら、彼女は悟られまいと言う。


「仲間を、殺されたんだろ。なら、奪ったそいつを恨んで当然じゃないのか?」


 兄を殺した人物が今もまだ生きているとしたら、間違いなく自分はそいつを狙うだろう。そうマロナは思った。だが、スティーゴは視線を落として答える。


「……でもね、その時先に奪おうとしたのは俺たちだったんだ。彼は、いや。彼らはただ静かに生きていたかっただけだろうに」


 スティーゴは翳刃騎士、そう、騎士なのだ。戦いの渦中に身を置き、日々をその準備に過ごす生き物だ。それはどうしようもなく、死と隣り合わせに生きている事になる。だが、だからと言ってそう簡単に感情を割り切れるなら、苦労はしない。


「それを思ったら、俺はわからなくなった。誰が悪かったのか。何が正しかったのか。本当はそんな正悪なんてなかったんじゃないのか。だからじゃないかな、俺がそう見えないのは」


 最後に彼は自嘲気味に笑い、踵を返した。ゆっくりと歩く、少しだけ暗いその背中をマロナは追う。

 スティーゴの語った“彼ら”が兄を殺したのか、そうではなかったのか。その時、が一体何を、どんな事を表しているのか。彼女にはわからない事だらけだったが、マロナは聞くことをしなかった。ふと、つい数時間前まで共にいた黒コートの麗人を思い出す。まるで己に関わる全てを拒絶しているかのようなそいつと、目前を歩く騎士の背は全然違うのに、纏う哀しみの影だけは似ている気がした。

 

 

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