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黒月に涙哭を  作者: 弐村 葉月
第三章
13/88

鍵乙女アーノイス

 鍵乙女デヒューナー。世界で唯一人、“門”を開きまた閉じる事の出来る乙女。その鍵たる烙印“世鍵アヴェンシス”をその身に持つとされ、世界を安寧へと導く運命を負う。はじまりは千年前。一人の少女が、命疎い命喰らう魔物、フェルから人々を守る為立ち上がったのがはじまりと伝えられている。その少女は自ら烙印をその身に刻み、鍵乙女となって門を創り、その果てに女神へと天化した。彼女を守る盾と誓った騎士の少年と共に、永遠の存在となって、この世界を見守っている。


 始祖教会最上階、突き出た塔のような一番高い場所にある一つの部屋。内装も家具もほぼ全てが白く、清潔感と律された空気に満たされた印象を与え、少し非人間的な空間とも思わされる。14畳程の広さの部屋にあるのは、セミダブルと行った所の、天蓋のある気品漂うベ純白のべッドが1つ。入り口は片開きの小さな扉が一つで、その反対側には両開きだが小さな窓がある。扉から窓を見て右手にベッド、左手側の壁際にクローゼットとタンスがある。一応部屋ではあるのだろうが、あまりに整頓されており、まるでショールームか何かのようですらある。あまりに、人に使われているという印象が持てないのだ。

 そんな無機質さに包まれた部屋に、たった一人女性が居た。銀白のハーフアップの長髪に白磁の肌、純白のローブ。ただベッドに腰掛けて俯いており、身動ぎもしないせいで室内の色に沈んでしまいそうである。ともすれば、存在していないのではないかと思わせる程の希薄さ、儚さにも思える色と美しさがその女性にはあった。年は20歳を過ぎた頃に思える。

 当代鍵乙女。アーノイス。それが彼女の名前だ。

 簾のような白銀の前髪の隙間から覗く藤色の瞳が、扉の方へゆっくりと向けられた。その向こうに誰かの気配を感じ取ったのだろうか。しかし、アーノイスの視線もドアノブも、それ以上動く気配はない。ただじっと、女性は動かない。眉の一つも動かさず、無機質な瞳はまるで誰かが扉を叩くのを待っているかのようにも見える。やがて、目が乾いたのだろうか。少しばかり頭を下げると共に長めの瞬きをして、彼女はゆっくりと腰を上げた。真っ直ぐに向かった扉を開ける。自分自身で。

 

 短い螺旋階段を、アーノイスはゆっくりと下がっていく。部屋と同様白に染められた壁には赤黒い、焔とも水流とも風を模したとも思えぬ、流動かつ鋭敏な何かの紋様が描かれていた。手すりなどはない螺旋を数度描いた所で、階段は終わる。その終点に、二人の人間が彼女を出迎えるように待っていた。左肩に銀の外套を下げ、背に巨大な大剣を背負う、赤髪の青年。その青年に肩車をされるような形で頭にしがみついている、ぶかぶかのローブに身を包んだ金髪の童女。ここアヴェンシス教会が保有する、掲剣騎士団長、グリム=ティレドと、巫女メルシアだ。


「半年ぶりね。メルシア。グリム騎士団長」


 無機質ながら若干の柔らかさも感じさせる声音で、アーノイスは口を開いた。グリムは少し口元を緩めながら軽く鼻を鳴らし、頭上のメルシアは少々呆れ顔ながら、優しげに微笑みを返す。


「だから、騎士団長って呼ぶのはやめろって言ってるだろ。まだむず痒いんだよ」


「全く、またお前は路を開いて帰ってきおって。グリムじゃないんだから、きちんと正面から入ってくれば良い物を」


「おいそりゃどーゆー事だ」


 まるで自分がきちんと建物に入って来ていないと言われていると感じたグリムが、見えはしないのだが視線を上に上げて睨む。メルシアはそれを意に介さず、グリムの頭頂に肘をついて頬杖をしながら問いに答える。


「今週、お前が執務室の窓から逃げたのが4回。逃げて自室に窓から入ろうとしたのもまた4回。その後ティレドに見つかって連れ戻され窓から執務室に投げ込まれる事2回。私が見つけて強制転移させる事2回だ。どうだ? お前今週執務室のドア一度でもくぐったか?」


「だーってよー、一日中事務仕事なんかやってられっかっての。鈍るっつーの」


「だっても何も、今週はちゃんと二日もこもってやれば何とか終わる量だろうに」 


「いや、そら無理だわ。椅子に座って机に向かってるなんざ一日十分で限界」


 頭上に乗っている童女に不真面目を諭される青年、という図は実にシュールだが、アーノイスは別段おかしい光景とは見ていなかった。彼女にしてみれば、二人のこの痴話喧嘩にもならない言い合いは実に慣れ親しんだ光景であるからだ。止めるでも、その様子を眺めるでもなく。少し息を吐いて顎を引いて目を閉じる。今の二人に他方からの声など届かず、何か言うだけ無駄なのだ。

 しばらく、目を閉じてただ立っている女性の前で、青年とその頭の上の童女が言い合いをするという珍妙な光景が続いていたが、やがて会話が一瞬途切れを見せたところで、二人が状況を改めて把握した。


「……終わったかしら」


「……すまん」


 非難するような声音ではないが、いかんせん淡々とした声に、メルシアは罰が悪くなり謝罪をする。静まりかえりそうな中、グリムが声を上げた。


「あー、まあなんだ。明日の午前に民衆への顔見せくらいしてもらうからよ。そう時間はとらせねぇから、あっち行くまでは休んでてくんな。飯どうすんだ? 部屋なら運ばせるけどよ」


「いつもの通り、部屋でいただくわ」


「あいよ」


「ま、夕飯までは時間がある。部屋で茶でもどうだ」


 何事もないかのように応対するアーノイスに、グリムとメルシアも調子を崩されながらも影響されて普段通りになる。アーノイスが鍵乙女となってからいくつもの年月が過ぎている。その頃からの知り合いなのだ。お互いの事もよく知っている。

 メルシアの誘いに、アーノイスは「そうね」とあっさりと乗った。












 始祖教会前庭、正門前。スティーゴ、ニィネ、レイクの三人は砂漠を抜け、ここアヴェンシスへと到着していた。流石に着こむ程でなく外套は袖を通しただけで前を開き、フードも上げているが、大きなズタ袋とニィネの乗っていた橇を担いでいるその姿は、何処からどう見ても旅の人である。無論、レイクは外套の下に掲剣騎士団の鎧を身に着けており、一目で教会の人間だとわかる。

 スティーゴとレイクは、何処か懐かしそうな目で、眼前の巨大な正門を見上げていた。二年程音信不通であったスティーゴはもちろん、レイクもここ始祖教会内にある掲剣騎士の養成学校を卒業してからは、くるのは初めてである。ニィネだけが、目の前の自分の十倍以上はあるように見える巨門を、いつもの無表情から少しだけ目を見開いている。門の前には二人の騎士がそれぞれ両端に立っており、入場者を検閲している。始祖教会への立ち入りは時間で制限されていて、門が閉じている時は特別な許可のある者しか出入り出来ないようになっている。以前は、夜中以外は門も開けっ放しで入場者の検査もおざなりだったのだが、二年前の例の事件により、始祖教会では外部からの攻撃に警戒を高めているのだ。二年前の事件では、アヴェンシス内に住む一般人に死者が及ぶ程の事態にもなったため、そうせざるを得ないのだ。そういった経緯で、前とは違いまだ空も明るいというのに固く閉ざされている門扉を、スティーゴは若干の切なさか侘しさを込めた目で一瞥してから、手を繋いでいるニィネを見下ろして言った。


「そろそろ中に入ろうか。ケルビンさん、文書の方を――」


 マイラの騎士長に受け取った始祖教会の騎士団長宛の手紙。許可証を持つレイクだけでも中に入るには十分だが、もしもの為に、とマイラの騎士長がスティーゴの身分証明として書いてくれたもの。言われ、レイクが懐からそれを取り出しかけたと同時、大声が彼らの隣から聴こえた。


「だーかーら! 別に中に入れてくれなくて良いって言ってんだろ! ただ、スティーゴ=トゥルーガって奴を呼んでくれってんだよ! 翳刃騎士の!」


 ニィネらが居るのとは反対側の騎士に、まるで噛み付くような勢いで詰め寄っているのは、12,3歳程度の躑躅色の髪をツインテールにした、小柄な少女。少女とはいうがその眉間には既に青筋が立っていて、憤怒を微塵も隠そうともしない態度は、若さ故かはたまたそういう性格なのか。何にせよ、見ず知らずの少女が突然自分のフルネームを叫んだ事に驚き目を見開くスティーゴだったが、知らんふりをするわけにもいかない、と一つ咳払いをしてその少女の元へ歩み寄る。


「ええと……一体どう」


「あんだよあんた」


 問いかけも半ばにギロリ、と下から睨みつけられるスティーゴ。思わず言葉に詰まったが、一応少女はスティーゴの存在を認知し返答を待っているようで、再度彼はこほんと喉を鳴らした。


「ええと、俺の聞き間違いでなければ、君は翳刃騎士のスティーゴ=トゥルーガを探してる……って事で良いんだよね」


 物腰柔らかな対応に少女の苛立ちも少しだけ払拭されたのか、彼女はふんと鼻を鳴らして居住まいを正し、大仰に腕を組んで目の前の門番を睨み上げた。


「ああそうだよ。中には入れないっていうから、なら少しでいいから呼んでくれって頼んだのに、こいつ、そんな奴は居ないっていうんだ。んなわけねーだろ。アタシはついさっきここに来ればそいつに会えるって教えてもらったんだからよ」


「いやだから、本当に居ないと言ってるじゃないか。大体、その教えてくれた人は何処だい。もしその話が本当ならその人を連れてきて欲しいんだが」


「ああ!? てめぇ人の頼みは聞けねぇのに人には物頼むつもりか!? そんなもん何処の誰が聞くかってんだよバーカ!」


 落ち着いたと思いきや門兵の言葉に怒りが再燃する少女。端から見ても、このまま続けていては話が平行線になってしまうのは、今の一幕でも明らかである。苦笑いを浮かべながら、スティーゴは半ば食って掛かりそうな両者の肩を手を置き、優しく退かせた。邪魔するな、とでも言いたげな視線を向ける少女の方に、スティーゴは膝を折って向き直る。


「まあ落ち着いて。今、始祖教会の中に居ないのは本当だ。だって、俺がスティーゴ=トゥルーガだから」


 ぽかん、と少女が口を開けた。スティーゴは困ったように笑っている。彼らの横では、レイクが門兵に文書を手渡し説明している。ニィネもまたスティーゴの後ろに来ているが、頭上をひらひらと舞う蝶々を視線で追っている。そんな静寂が続く事数秒。マロナは、叫んだ。


「はぁあ!?」


 突然の大声に怯むスティーゴにお構いなしに、マロナはその両肩をむんずと掴んで引き寄せる。


「お前、適当言ってんだったらただじゃおかねぇぞ。こちとら一応真剣なんだからよ」


 額を突き合わせる程の距離でガンを飛ばすマロナに、スティーゴは少々怖気づきながらも答えた。


「ほ、本当だよ。ほら、ちゃんと文書もあるし」


 内容を確認した門兵がご丁寧にマロナへそれを開いて見せる。が、いくらマイラ掲剣騎士団長の公印が押されていたとしても、マロナにそれを判断する知識はない。訝しげな目でそれを睨みながら、彼女は渋々スティーゴから離れた。解放された安堵で、少し重たげに息を吐きながらスティーゴは立ち上がり、未だ睨み上げるように腕を組んでいる不遜な少女に柔らかく微笑みかけた。


「何か俺に話があるなら中で聞くよ。でも、俺もちょっと騎士団長とかに報告に行かないといけないから、少しだけ時間もらっていいかな」


「…………ああ。別に良いよ。ちゃんと後で時間くれるならな」


 少しの沈黙を挟んだ後で、苦々しくマロナは言った。念を押すような最後の言葉に、スティーゴは首をかしげる。あれほど切迫したように詰め寄ってきた少女が割りとあっさり妥協してくれたのも意外に思ったが、まだ子どもだというのに何処か疲れたような表情を覗かせた事が一番気にかかっていた。だが、今いきなりそれを問うのも失礼にあたるだろう。そもそも、勘違いかもしれない。そうスティーゴは割りきって、よしと重たい音を立てて少しだけ開かれる巨門に向かって歩きはじめた。




 


 

 





 始祖教会中層上階、全掲権騎士団長の執務室。大きな年季の入った長机を部屋の奥に据え、両脇には高めの天井の際まである本棚。書類の山と化している机にグリムはかじりついて気怠そうに頬杖をつきながら執務仕事をしていた。その机の前に置かれた応接セットに、メルシアとアーノイスは対面で座って紅茶とクッキーを嗜んでいる。因みに、グリムの背後にある大きな窓が、彼が普段逃亡に使っている唯一の出口にしてたまに入り口となる場所である。

 グリム=ティレド。全掲剣騎士の頂点に立つ、騎士団長だ。20手前という年の若さながら、あまりに圧倒的過ぎる強さの為に現在の位置についている青年である。父は大司祭アバン=ティレド。母は彼が幼い頃に翳刃騎士の任務にて殉死している。前述の通り、戦いに関しては今現在世界でも右に出る者は居ないと言われる程の力を持つが、反面というか反動といおうか、どうにも頭を使う事やじっとしているのが苦手な傾向があり、こうして大人しく机に向かっているだけでも数分で苛々してしまう程である。故に逃亡を図るのだが。それはメルシアと実父アバンによって毎度毎度妨害されていた。


「グリム、後10枚終わらせたらお茶いれてやるぞ」


 至極つまらなそうな表情で書類を睨んでいるグリムに向かい、メルシアは少し意地悪い笑みを浮かべてそう言った。巫女メルシア。見た目はぶかぶかのローブを着込んだ金髪の童女だが、その本質は違う。千年の時を生きてきたとも伝えられる、またの名を時紡ぎの魔女。この世のありとあらゆる術を知り尽くし、自らもそれを創り上げる叡智の塊のような存在なのだ。姿が年端も行かない少女なのは、本人曰く「エネルギー効率が良い」のだそうだ。彼女が何故千年もの時間を生きてきたのか、知る人間は殆ど居ない。それは人によってはくだらなく、人によっては確固たる理由として成り立つものだ。普段は地下のいずこかにある彼女の自室で術関連の研究に埋没しているのだが、気晴らしや気分転換の時にはよくこうしてグリムの執務室に入り浸っている。巫女として、鍵乙女の体調管理や相談役といった役目はあるものの、現鍵乙女であるアーノイスは普段アヴェンシスには居ないため、日常的にする事はないのだ。とはいえ、彼女の開発した術は教会そのものの発展にも繋がる為、決して道楽して生きているわけではない。頻繁に壊れる騎士団の修練場を自動で維持修繕する呪術や、目にも見えず匂いもしないが、ここアヴェンシスの街に張ってある結界も彼女の手によるものだ。


「10枚とか絶妙に遠いんですけど……ちくしょう、こんなことばっかやってたら体鈍るっつーの」


「昨日、養成学校の新期生をいいだけしごいたばかりだろう。「団長との模擬戦は命の危険しか感じない」ってボヤいていたらしいぞ」


「ったく……あんなんじゃ準備体操にもなりゃしねぇよ」


 ぼやきながらも、目先の休憩を目指してかグリムは一応目線は書類に釘付けである。

 そんなやりとりをアーノイスはたまにちらりと横目で見ながら、静かに紅茶を味わっていた。会話は聞いているようだが、口を挟むつもりはないらしい。一旦カップを置き、平皿に並べられたクッキーに手を伸ばし――ふと止めた。

 こんこん、と執務室の扉がノックされる。


「ティレド騎士団長は居られますか!」


 扉越しに騎士と思しき若い男の声が響く。グリムが手を止め、顔を上げて返答した。


「ああ。いいぞ。入れ」


 失礼します、との言葉と共に扉が開けられ、外套に身を包んだ青年、それと手を繋いだ童女、後ろから先程の声の主だろう騎士、躑躅色の髪をした少女が入ってきた。


「――鍵乙女様っ!?」


 騎士の青年がソファに座っているアーノイスを見て思わず驚きの声を上げる。それはそうだろう。教会関係者の誰もその動向を知らない、最重要人物が何食わぬ顔でお茶を嗜んでいるのだから。突然の大声に彼女は眉を顰めるが、その視線は騎士ではなく、先頭の外套の青年に向けられていた。


「…………お久しぶりね。とでも言えばいいかしら」


「……お久しぶりです。鍵乙女アーノイス」


 冷ややかな、張り詰めた糸のような危うさを秘めたような声で短い挨拶が交わされる。青年の隣や後ろの者達には事態が読み込めない。二人は既に目線を逸らし、メルシアとグリムもまた神妙な顔していたが、グリムが一つ息を吐きながら、場を取り仕切るように立ち上がった。


「よう。生きてたんだな、スティーゴ。なかなか、強くなったみてぇじゃねぇか。どうだ? 一戦」


 傍らの大剣を持ち上げながら、嬉しそうな笑みを浮かべてグリムがそう誘うが、スティーゴは嫌々と手と首を横に振った。


「遠慮しておくよ。砂漠を越えてこれでも疲れてますし」


 断りの言葉に、グリムは不満気に唇を尖らせながら、渋々剣と腰を下ろした。割りとあっさり彼が引き下がった事に安堵し、スティーゴの溜飲が下がる。と、彼の脇を小柄な影が追い抜いた。躑躅色の髪をした少女、マロナだ。

 マロナは真っ直ぐに、ソファに座り、我関せずと言った様子で紅茶に口をつけているアーノイスの横まで進み、その横顔を睨んで、一言。


「……そういう事かよ。くそったれ」


 それだけ言って、くるりと踵を返す。


「君! 失礼だろう! その方をどなたと――」


 列に戻ってくるマロナに向かい、騎士――レイクが咎めるように口を開いたが、スティーゴがそれを手振りで諌めた。彼とて事情がわかるわけではないが、今この場所で言うべき事ではないと判断したのだろう。言われた張本人たるアーノイスは、何ら表情も変えないどころかマロナを方を見向きもせずに再度カップを傾けている。

 気まずい沈黙に支配されそうになったところで、それを振り払うかのように、メルシアが二度手を叩いた。グリムとスティーゴそしてレイクの視線がそちらへ向けられたところで、彼女は口を開いた。


「取り敢えず、スティーゴ。無事の帰還を祝おう。君の報告は明日でも構うまい。マイラからの文書で大体は把握している。部屋は以前使っていた部屋を用意してあるから、そちらを使ってくれ。寝具が足りなかったら修道女辺りに頼むといい」


「助かります。正直、空腹も限界にきておりまして」


 気の抜けた柔らかい笑みを浮かべながらスティーゴはそう返答し、一礼をすると早々に背を向け、ニィネの手を軽く引っ張る。童女は、何か後ろ髪を引かれるようにアーノイスらの方を向いていたが、やがてそれをやめた。


「ちっ」


 小さく舌打ちをして、マロナもスティーゴの後に続く。その視線はずっとアーノイスの方を睨んでいた。扉を開けたまま部屋の外に待つスティーゴらの元にマロナが追いついたところで、今度はレイクが彼らに背を向けたまま言う。


「……先に行っていてくれますか。少し、お話がありますので」


 聞いていない、とスティーゴは思ったが、わかった、と一言だけ返して扉を閉めた。部屋には、レイク一人だけが残る。


「何だ? なんか報告でもあんのかよ……えーっと」


 残ったレイクにグリムがそう問いかけるが、如何せんマイラの一騎士の名前など彼が覚えている筈もなく言い淀む。自分が覚えられていない事、認識されていないような扱いにレイクは不満を覚えながら、少し低い声で言った。


「マイラ掲剣騎士、レイク=K=D=ケルビンです。三年前よりマイラに配属されたここの養成所出身の者です」


「当時の首席卒業者だ。そのくらい覚えておけグリム」


 レイクの不満感を悟ったか、メルシアがそう苦言を呈する。しかしながら、グリムもアヴェンシス出身の騎士ながら彼自身は養成所の出ではない為、知らなくとも無理はない。それでも、騎士を束ねる立場にある今は覚えておいた方が良い情報なのは確かである。特に反論もせず、彼はすまんと一言謝罪し、言葉を続けた。


「で、何の用だ?」


 だらけながら仕事をしているものの、決してグリムとて暇なわけではない。首席卒業者だからと、そうゆったりと相手をするつもりはなかった。レイクもまたそれを悟り唇を尖らせながらも、一度深呼吸をして言う。


「二年前より不在である従盾騎士に、立候補の旨を伝えに参りました」


 淀みなく伝えられた台詞に、それまでほぼ無関心であったアーノイスが僅かに反応を示した。証拠に、手に持っていたカップをテーブルに置き直す。


「何言ってんだお前。掲剣騎士なら知ってんだろ。今従盾騎士を補充する予定はねぇよ」


 突如、それも一騎士に過ぎない男からそう告げられ、グリムの目に呆れと憤りが混在する。メルシアに至っては肩を落としやれやれと首を降っている。だがそれを押し切るように、レイクは一歩前へと出た。


「ですが! 従盾騎士は古来より受け継がれてきた伝統であります。確かに、二年前の叛乱の件はありましたが、その誇りある使命の栄華まで失われたわけではないと私は思っています。従盾騎士を目指し、憧れ、騎士になる路を選んだ者も居るのです! かくいう私もその一人……いえ。その想いは誰よりも強いと確信しています!」


「その件はお前ががならなくても方々から言われてるっつーの。話それだけならとっと帰んな」


 熱く声を強くするレイクに比べ、グリムの反応は実に雑なものである。声音の端々に苛立ちが見え隠れする程に。しかし、長年の願望、その好機と見た男の目に耳にそれは入らない。


「ですが!」


「しつけぇぞ」


 また一歩前へと出るレイクに応対するように、グリムは机に手をつき立ち上がりかける。燃えるような紅い目は既に苛立ちから怒りへと色を変えようとしている、がその紅い目の前を、白い衣装が遮った。アーノイスは静かに腰を上げると、首だけでレイクの方を見ていた。まるで氷のような藤色の丸い鏡にその姿だけ映し出して。


「……そこまで言うなら、試しましょう」


 そう静かに告げた。感情の波が一切感じられないその声で。

 レイクの背筋が伸びる。怖気づいたのではない。一筋の希望を捉え、昂揚を抑えられないといった表情をしていた。


「アーノイス……」


「メルシア。悪いけれど、手伝ってもらえるかしら。グリム、第拾壱修練場、使わせてもらうわ」


 重々しく名を呼ぶメルシアと、苦虫を噛み潰したような顔のグリムにそれぞれ淡々と彼女は告げる。その後ろでグリムは頭は振り、言った。


「おいおい、何言ってんだよあんたは。こっちの方でも決めるつもりはねぇってさっき言ったろ」


「従盾騎士の決定権は鍵乙女のみが持つ。そうでしょう?」


 有無を言わせない声音で、アーノイスはグリムの苦言をばっさりと切り捨てた。教会の重役らの方で従盾騎士の査定等は行なっても、最終的に決定権を持つのは鍵乙女のみである。単純に強いだけでは駄目なのだ。だがそれ故に、従盾騎士は選ばれた者、という印象を人々に抱かせる。それが、レイクの語る憧れにも繋がるのだろう。仕方ないとグリムは大きく溜息を付き、大剣を担ぎながら立ち上がった。


「じゃあ、いきましょうか」


 レイクの横を過ぎ、アーノイスは扉を開けて部屋を出る。その背に、レイクは深々と一礼した。


「よろしくお願いします!」


 そう言った後、小走りにその背を追い、彼女が開け放ったままの扉を抑える。そこを、渋面のままのグリムと視線を閉ざしたままのメルシアが通り過ぎた。

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