黒闇浮かぶ隻月
――夜。
分厚い雨雲に月を奪われた闇空の下、叩きつけるような豪雨と鬱屈とした森の中を、転げるように一人の男が走っていた。ただでさえ光なき空の下、深き森の中では一寸先も見えやしない。雨に濡れた草に滑り、地面から突き出た木の根に足を取られて倒れそうになっても、男は上がり切った息を気にする余裕すらなく走り続ける。何処へ向かいわけではない。ただ、逃げていた。その顔はどうしようもない焦燥と恐怖に醜く歪み、とても正常とは思えぬ形相。と、突如男の右側の空間が吹き飛んだ。何か巨大な、幾つもの刃に切り崩されたように裁断された地面や木々。視界の端に光の線のようなものが見えた気もしたが、そんなもの気にしている余裕はなく、足は止めずに男は首を捻るだけで背後を見た。
そこには、小さな月が一つ、浮かんでいた。それは走る男から距離を全く離さずについてくる。上下左右問わず多少の揺れ動きは見られるが、その黄金の珠の高さは殆ど変わらない。それが余計に不気味だ。月明かりくらいあれば、また一つではなく二つだったなら、それが何かの動物の瞳であると理解はできるだろう。だが、そうではない。たった一つの月は自ら仄かに光放っている。
再び男が前に視界を戻す。時間にして一秒もない行動だったが、彼の全身に絶望を打ち込むには十分な時間だった。これだけ必死に走っているというのに、詰めるでも離れるでもない距離が、彼の恐怖を加速させる。再び、男の周囲の空間が寸断され吹き飛ぶ。左、後ろ、そして前方。目の前で起きた爆発のような破壊に、男の足が止まろうとして滑り、ずたずたになった地べたに足を取られて派手に転がる。さらに不幸な事に、その切り崩された地面の先は下りの坂になっていた。しかし、それに男は気付けない。泥に塗れながら這って行ったその先で、彼は転がり落ちた。数十メートルある傾斜のきつい坂を、木や石に全身を打ちつけながら落ちていく。そのまま数秒転がり続け、平地に差し掛かったところで大木の幹にその体を強く打ち付け、ようやく彼は止まった。
「うぐ、かはっ!」
空気を吐き出すとともに、口元にもついていた泥が飛ぶ。全身の至るところに痛烈な打撲を受けながらも、男は生きていた。泥濘む土に手を付き、体を起こす。腕もかなり痛めたらしく、呻きを上げるが、耐えて彼は上半身だけを何とか起こして木にその体を預け、自分が転げ落ちてきた坂の頂上を見上げる。見えるわけではない。だが、暗闇で何も見えない。それだけで、男のひどく汚れた顔は笑みを象った。
「へ……へへっ……やったぜ、生きてやがる」
くたびれた声を漏らしながらも、男は安堵の表情を浮かべている。見えない、という事は、あの満月を持った何かが居なくなっているという事だ。男を死んだと思ったか、見失ったか。どちらにせよ、しばらくの間男は動けそうもなかった。あまりに必死に逃げて来たために、既に足は棒のようで、その上何処にいるかもわからないときた。動きようがなかった。死に至るような怪我を負っていないのが、さらに救いである。沛然たる雨は一向に止む気配を見せないが、この悪天候では相手も探す事を諦めるだろうと楽観し、男は大きく息をついた。自分がぶつかった木が大きいらしく、雨粒も彼の体にはそんなに当たらない。このまま、朝まで眠ってしまおう。そう男が眼を瞑った、その時だった。突如として、先程よりも大きな雨粒が彼の全身に落ちた。少し痛いと思えるくらいに激しく落ちるそれに眼を開いた彼のその眼前で、何か巨大なものが落ちた轟音がする。続き、ばきばきと何かが折れる音が次々として、さらに地響きを起こした。雨が、降り注ぐ。恐る恐る、錆びついた金属のようにぎこちなく、男は振り向いた。
「ひっ――!」
情けない悲鳴と共に、男はそれから離れた。見上げる、小さな月。彼が背にしていた筈の木は、既に無かった。雷光が一瞬、辺りを照らし、その満月の持ち主の姿を刹那浮かび上がらせる。雨に濡れ艶めく黒い長髪。黒いコートに身を包んだ姿は小柄だが、着込んだそれから出て覗ける手や首から上の肌は白い。だがそれは、人間の持てる白さではなかった。白磁の如く、とよく表現されるが、如くなどというものではなく、まさにそのものだ。動くのかと、思わせてしまう程の白さ。その左頬には、漆黒の十字架が刻まれていた。
光が消え、雷鳴が地面を震わせ轟くと共に、男は一目散に逃げ出した。這い蹲り、四肢を慌てふためき、その絶対的な畏怖から逃れようと藻掻く。いつの間に、だとかどうしてあの大木が、など疑念は浮かぶがそれは恐れを助長しかしない。そして男は、走る為に立ち上がろうとして、うつ伏せに崩れた。男の両足の、膝から下が暗闇の中で宙に舞う。
「ぎゃぁぁぁぁあああああ!」
遅れてやってきた激痛に、苦悶の叫びがあがる。はっ、と背後に向ける顔が、蹴飛ばされた。一瞬宙に浮き、無理矢理仰向けにされる男。
「くそがっ! 何なんだよてめぇは! 俺になんか恨みでもあんのか!!」
理不尽な痛みに狂乱して男は怒りの声を上げた。応えずに、暗闇の中に五本の光る白糸が現れ、男の体の上に張った。先程の、地面を木々を切り飛ばしてものの、それが正体だった。月の持ち主が、口を開く。
「呪え。恨め。私を」
仄暗い響き纏った、少し高い女声。共に、音もなく、光の糸が荒れ狂った。男が転がっていた下の地面ごと、一秒も必要とせずに細切れに裁断する。断末魔すら上げられず、その形すら保てず、男はただの肉塊となって、泥の大地に散らばった。