国歌と国旗
国歌斉唱ができない国民ほど悲しい人間はいないだろう。
日本にいれば感じないかも知れないが、外にでるとよくわかるのだ。
日本人とはなんと哀れな国民であろうか。
11月11日は英国では第一次世界大戦終戦日として、大切な日である。
人々は何日も前からポピーの花を服に飾り、多くの場所で、戦没者を痛むセレモニーが行われる。
もちろん私も学校で出席した。
日ごろから、聖歌は歌っている。
確かに普通の日でも、日本の中学で歌った聖歌との差には驚く。
しかしあの日のセレモニーで歌った英国国歌ほど華々しく、威厳にあふれた歌に
私は出会ったことがない。
なんとあらわせばそれが伝わるか、私にはわからないが、
とにかく華やかで、美しいのだ。
何故そう感じるのだろう。
間違いなく、歌のメロディに原因の一部があるに違いない。
パイプオルガンによって作り出されるその主旋律は、
日本の重々しく、低音のそれとはかなり違う。
確かに、英国国歌のほうが華やかだ。
しかし、実際のところの原因は他にある。
その場にいるすべての人間が起立している。
すべての人間が(たとえば、いつもは前に立って聖歌隊の指揮をして歌は歌わない先生が)他のどの歌よりも大きな声で歌っている。
兵隊に抱えられた英国旗の威厳があったこと。
当たり前のことに驚く自分も悲しいとは思うが、とにかく私は驚いた。
その当たり前の光景ほど私は美しいと思ったことはない。
誰一人として、歌わない、起立しない、起立はしているけれどおしゃべりをはじめる。
そんな無礼な人間を見つけることができなかったのである。
英国人はなんと誇り高いのであろうかと半ば尊敬の念を抱きつつ、
それと同時に、日本の運動会を一気にいくつも思い出して腹が立った。
しゃべる、動く、しゃべる、というか、旗すらみない。
あなた方本当に日本人ですか。
と、心の底から何度思ったことか。
私の出身は田舎の方で、その時代は割かし先生方がしっかりしていたというか、
地域の方々がしっかりしていたというか、
小学校の国旗掲揚でそんな無礼を働くものはあまりいなかったように思う。
むしろその頃は、「保護者、ご来賓の方も国旗に向かって御起立ください。」
というアナウンスどうり、起立する大人を見ながら、
「わー、大人ってまじめー。」
という感想を抱いていた気がする。
そんな、自分も駄目な方だが、それでもしゃべったりはしなかったし、
国旗が揚がっていくのをきちんと見ていたのは言うまでもない。
そんなことしたら、先生に怒られるからだ。
私はあの小学校の先生方に感謝している、私は国歌が流れているときや、斉唱のときに
立たない、歌わないなどありえないことを初めて教わったのはあの小学校だ。
ここまで聞くと私が怒る理由などどこにもないように思える。
では何に私がセレモニーで腹が立っていたのか。
もちろん東京で通った小学校と中学校、高校の運動会および体育祭およびその他のさまざまな行事に対してだ。
それなりに長い期間、東京に住んでいた訳で、友達も多くいるし、尊敬する先生方ももちろんいるが、しかしこれだけは言いたい。東京在住の中学生、高校生あと大人。日本人、それも「首都」に住む資格あるんですか。日本に誇りがないなら、さっさと日本人なんてやめてしまえばいいのに。
実際、田舎の中学、高校には通っていない、田舎も同じかもしれない。
しかし、あれはひどすぎるのではないか。
妹の付き添いで行った小学校の運動会、「保護者の皆さんも後起立ください」と流れているのに、
座ったままおしゃべりをしたり、動き回る。
自分の中学校の運動会、隣のクラスの男子生徒が「国歌斉唱とかめんど、は、国旗とかなんで揚げんの。」
高校、おしゃべりしたまま。
世界からレベルが高いといわれる日本人だが、私はそうは思えない。
レベルが低すぎる。
自国に対して敬意を払うことが出来ない人間が、他国に敬意を払えるわけがないではないか。
私はインターネットでしか情報を得ることが出来ないが、大阪ではなにやら「国歌国旗条例」
というものが出来たそうだ。
大いに結構。
私も一高校生である。高校生は子供とまだ言えるはずだ。
子供抜きの議論であるだとか、論点がずれているだとか
それこそ子供抜きで話が進んでいるように子供として思える。
この先を生きる子供として言いたい。
日本が好きで、国歌と国旗に誇りを持って何が悪い。
私は日本人だ。
誇り高き、日本人だ。
とある有名大学のそれも法学部の入試問題で「国歌斉唱時の起立強制はふさわしくない」とする問題文を出題していたらしい。このニュースは産経ニュースで読むことが出来るので記述は省略するが、はっきり言っておかしいと思う。
出来ない子供に、大人は罰を与える。
簡単なことでは宿題だ。たった1つ宿題を忘れただけで、怒られる、成績は下げられる。
教師に口答えをすれば停学になったり、場合によっては退学させられる。
当たり前のことだ。
生徒は校則を守る義務がある、
その学校で生きるために、その学校に敬意を払う義務がある。
だから校歌があるし、校旗がある。
校歌を歌ったり、校旗を掲揚するのが罪だろうか。
罪なわけがない。
論点がそれていると大人は言うが、そうではない。
それを子供に守らせるのは教師であり、保護者も含めた大人である。
そして、学校は学校だけで成り立っているのではない。
公立学校なら間違いなく国に、私立学校でも私立学校助成金を受け取っているのであれば、
その学校は国に助けられているではないか。
校歌を歌う、校旗は掲揚するのに、国歌は歌わない、国旗は掲揚しない。
これは矛盾しているだろう。
先ほどの大学入試問題に戻るが、記事によると、
「出題されたのは選択科目の「政治・経済」で、問題文は「日の丸・君が代が戦前の日本の軍国主義下でのシンボルと考える人々にとっては、君が代に敬意を払えという命令は自己の思想に反すると感じられる」と指摘。「教育には強制はふさわしくないのではなかろうか」と結論づけた。」
いったい何が問題なのか私には理解できない。
戦争はするべきではなかった。
それは間違いない。きれいごとかもしれないが、争いが生むのは憎しみだけだ。
何年も何十年も続く、憎しみだけだ。
しかしその一方で、私にはひとつ言える事がある。
勝った方が正しい。
私が在籍するクラスにいる外国人は中国人、ドイツ人それから私日本人の3人である。
英国と日本は直接的に戦っている部分がすくないが、ドイツとはたくさん戦っている。
そのため11月のセレモニーの前など、クラスで第1、2次世界大戦の話になると
ドイツの話がたくさんになった。
「ドイツ人があーした」「こーした」「でもぼくたちの国はあーした」
「この戦争が私達にとってはベストなのよね」
私も気まずかったが、そのドイツ人の友人はもっと辛かったに違いない。
自分の国がずっと悪く言われ続けるのだ、あることもないことも、
しかし負けているから、本人も「ドイツにとってこの歴史は毒なんだ」そういわざるえないから、
ただ耐えるしかないのである。
しかし、そのドイツ人の友人が何をしたのであろうか。
彼が人を殺したわけではない。
彼がロンドンを空襲したわけではない。
彼が何か悪いことをしたわけではない。
違うだろうか。
戦争は戦争である。
それはもう終わったことだ。
たとえ日本国旗が、君が代が、戦争の時代に日本の軍国主義を示していたとしても、
それはもう70年近い昔のことだ。
そうやって軍国主義を思い出すと言うことの方が間違っている。
そこに軍国主義はない。
第一私は国旗を見てそんな軍国主義を思い出すことなどない。
国歌を歌わなくていい、国旗掲揚中に好き勝手していい、立たなくてよいと
子供に教えるのは子供にとって不利益である。
この先国際社会の一員として生きていくことが多くなるであろう人間ほど、
自国に対する誇りを持っていなければいけない。
そうでなければ他の国に漬け込まれて、日本という国の威厳が損なわれていく一方である。