第1話
「天才。ひまりちゃん、本当に天才」
「すごいよ、今の。鳥肌立った」
「この子、絶対にスターになるぞ」
天才。
その言葉は、柴山ひまりの頭の上から何度も降ってきた。金色の紙吹雪みたいに、きらきらしていた。拾い集めると手のひらがいっぱいになって、ひまりは自分が特別な子どもなのだと信じていた。
母は、誇らしそうに言った。
「ひまりはすごいのよ。ママの自慢」
事務所の社長は、ひまりの頭を撫でて言った。
「お前はうちの宝だ。みんな、お前の笑顔に金を払うんだぞ」
ひまりは意味がよくわからなかった。
ただ、褒められるのがうれしかった。
愛されているのだと思った。
そう信じていた。
――十二歳になるまでは。
***
「ひまり、ちょっと顔が変わったよね」
最初にそれを言ったのは、メイク室で隣に座っていた若いタレントだった。
彼女は悪気のない顔で、鏡越しにひまりを見た。
「大人っぽくなったっていうか。前の、ほっぺぷくぷくの感じ、なくなったね」
メイクさんが慌てたように笑った。
「成長期だもんねえ。女の子は変わるよ」
ひまりも笑った。
「そうですね」
でも、その日のオーディションには落ちた。
理由は教えてもらえなかった。
次も落ちた。
その次も落ちた。
十二歳のひまりは、どこにも収まりが悪かった。
子どもにしては背が高い。
少女にしては幼い。
泣き顔は、昔ほど無垢ではない。
笑顔は、昔ほど無防備ではない。
「柴山さんって、あの子役の?」
「へえ、今こんな感じなんだ」
「うーん、もうちょっと子供らしさが欲しいんですよね」
子供らしさ。
(子供らしさを失った子役は、どこへ行けばいいの?)
十三歳の冬、長く続いていた教育番組のレギュラーを降ろされた。
十四歳の春、ひまりの名前は、事務所のホームページのトップから二段目に移動した。
そして、十五歳の夏、事務所がスポンサーに差し出すための、「元天才子役」という名の枕営業要員になった。
***
十六歳の春、ひまりは事務所の社長室に呼ばれた。
窓の大きい部屋だった。都心のビル群が見下ろせる。革張りのソファは柔らかすぎて、座ると体が沈んだ。
社長の黒川は、ひまりの宣材写真をテーブルに並べていた。
六歳。七歳。九歳。十一歳。
幼いひまりが、何人も笑っている。
黒川はその一枚を指で叩いた。
「この顔なんだよ」
写真の中のひまりは、白いワンピースを着ていた。ふわふわの髪。まるい頬。まだ何も知らない目。
「世間がイメージしているひまりは、この子だ」
「……もう、その顔には戻れません」
「だから変えるんだよ」
ひまりは顔を上げた。
「整形、ですか」
黒川は灰皿に煙草を押しつけた。
「投資だよ。今の年齢で稼げる顔にする。それだけの話だ」
マネージャーの真崎が、当然のように口を挟んだ。
「ひまり、お前のためでもあるんだ。今のままじゃ、スポンサー接待を続けても案件に繋がらない」
「スポンサー接待」
ひまりは小さく笑った。
自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。
「便利な言葉ですね」
「ひまり」
「枕営業って言わないんですか?」
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
真崎の顔から表情が消えた。
黒川が静かに言った。
「そういう下品な言葉を使うな」
ひまりは、テーブルの上の写真を見た。
六歳の自分がこちらを見ている。
その子は何も知らない。
ライトの熱を愛だと思っている。
「やらなかったら、どうなりますか? 整形」
声が少し震えた。
黒川は優しく笑った。
その優しさが、ひまりは怖かった。
「契約を見直すことになるな。お母さんにも話はしてある」
「母に?」
「ああ。理解してくれたよ。ひまりにもう一度チャンスをあげたいって」
喉の奥が冷たくなった。
母は最近、ひまりの現場に来なくなっていた。けれど、通帳の管理だけは続けていた。家賃も、母の服も、弟の塾代も、全部ひまりの口座から出ていく。
――そして、ひまりは新しい顔になった。けれど、その顔に合わせるように大人びた笑い方を覚えても、それで戻ってくる仕事はひとつもなかった。
***
「……誰なの」
鏡の中の女に、ひまりは小さく尋ねた。
返事はない。
ただ、綺麗に整えられた女が、同じように唇を動かした。
そのとき、スマホが震えた。
「……もしもし」
『ひまり? 今月の振り込み、少なくない?』
母の最初の一言がそれだった。
ひまりは目を閉じた。
「仕事、減ってるから」
『減ってるからって、困るのよ。家賃もあるし、祐樹の冬期講習も申し込んじゃったし』
「私も困ってる」
『あなたは事務所が面倒見てくれてるでしょ』
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
ひまりがどんな顔で会食に行っているのかも。
どんな言葉を飲み込んでいるのかも。
帰ってきてから何度もシャワーを浴びていることも。
新しい顔が腫れて痛む夜に、声を殺して泣いたことも。
母は知らない。
いや、知らないふりをしている。
「お母さん」
『なに?』
「私、つらい」
言った瞬間、喉の奥が震えた。
それは、あまりにも久しぶりに口にした本音だった。もう限界だった。
つらい。
たった三文字なのに、ずっと言えなかった。
「お母さん、私、もうつらいの」
電話の向こうで、母がため息をついた。
『ひまり。みんなつらいのよ』
その一言で、ひまりの中の何かが切れた。
「みんなって誰?」
『え?』
「みんなって誰のこと? お母さん? 弟の祐樹? 事務所の人? スポンサー?」
『ひまり、落ち着いて』
「落ち着けないよ!」
声が跳ねた。
自分の声なのに、ひまりは一瞬、誰か知らない女が叫んだのかと思った。
「私、顔を変えたんだよ!」
鏡の中の女が、歪んだ。
「痛かった。怖かった。鏡を見るたびに。それでも、仕事が戻るって言われたから、我慢した。お母さんも賛成したって聞いたから、私、逃げられなかった」
『あなたのためを思って――』
「ねえ、知ってるよね? 枕営業させられていることも』
母はすぐには答えなかった。
ひまりは続けた。
「自分が少しずつ自分じゃなくなるみたいで気持ち悪いのよ? そんな思いまでしてるのに……」
ひまりはスマホを握りしめた。
(ああ、そうか。私は、つらいと言うことすら許されていないんだ)
――そして、十七歳の夏、ひまりは月城レナに出会った。




