第八章「境界線」
夜だった。
気づけば、またあの道を走っていた。
行き先を決めたわけじゃない。
ナビも使っていない。
それなのに。
ハンドルは、迷いなく動いていた。
――こっちだ。
そんな感覚だけが、はっきりとあった。
街灯が、ひとつずつ減っていく。
住宅も、人気も、音も。
すべてが、遠ざかっていく。
代わりに。
静けさだけが、濃くなる。
やがて。
見覚えのない道に入った。
それでも、不思議と焦りはなかった。
むしろ――
“知っている”ような感覚があった。
「……ここか」
車を止める。
エンジンを切ると、音が消える。
完全な静寂。
耳鳴りのようなものだけが、かすかに残る。
ドアを開ける。
外の空気が、肌に触れる。
――冷たい。
季節の問題じゃない。
もっと、内側に入り込んでくるような冷たさ。
一歩、踏み出す。
その瞬間。
“何か”を越えた。
はっきりと分かった。
空気が、変わる。
さっきまでとは、明らかに違う。
重い。
濁っている。
息が、少しだけしづらい。
「……境界か」
誰に教えられたわけでもないのに、そう思った。
振り返る。
さっきまで通ってきた道。
――ぼやけている。
輪郭が、曖昧になっている。
まるで、現実から切り離されたみたいに。
「……戻れなくなる、ってやつか」
小さく呟く。
それでも。
足は止まらなかった。
進む。
一歩ずつ。
確かめるように。
奥へ、奥へ。
やがて。
見えてきた。
古い建物。
あの家に似ている。
けれど、どこか違う。
色が、薄い。
存在が、曖昧。
現実と、少しだけズレている。
近づく。
ドアは、半開きだった。
――誘われている。
そんな感覚。
躊躇いはなかった。
そのまま、中へ入る。
瞬間。
空気が、さらに重くなる。
圧。
押し潰されるような、見えない力。
「……っ」
思わず、歯を食いしばる。
それでも。
立っていられないほどじゃない。
むしろ。
“慣れてきている”。
その事実に、自分でも驚く。
「……いるんだろ」
声に出す。
返事はない。
けれど。
“気配”だけは、はっきりとある。
見られている。
無数に。
あらゆる方向から。
視線。
視線。
視線。
息を吐く。
ゆっくりと、奥へ進む。
そして。
その先で――
止まった。
「……おい」
思わず、声が漏れる。
そこに、いた。
彼女が。
静かに、座っている。
動かない。
まるで、人形みたいに。
「……おい!」
近づく。
肩に手をかける。
冷たい。
体温が、ほとんど感じられない。
「……しっかりしろ」
揺する。
反応がない。
そのとき。
彼女のまぶたが、ゆっくりと開いた。
――目が合う。
けれど。
違う。
あのときの目じゃない。
感情が、薄い。
どこか、遠くを見ているような目。
「……来ちゃったんだ」
小さく、呟く。
その声も、少しだけ違っていた。
「……迎えに来た」
即答だった。
迷いはない。
彼女は、少しだけ首を傾けた。
「……遅いよ」
その言葉に、胸が刺さる。
「もうね」
ゆっくりと、立ち上がる。
足元が、少しだけ揺れる。
「こっちに、慣れてきちゃった」
空気が、さらに冷たくなる。
「……ふざけんな」
思わず、手を掴む。
強く。
「帰るぞ」
その瞬間。
彼女の表情が、わずかに歪む。
苦しそうに。
「……ダメ」
小さく、首を振る。
「離して」
その声に。
別の何かが、混じっていた。
低く、重い。
“重なっている”。
誰かと。
背後で、何かが動く。
気配が、一斉に強まる。
圧が、増す。
囲まれている。
完全に。
それでも。
手は、離さなかった。
「……帰るって言ってんだろ」
低く、言い切る。
その瞬間。
空気が、震えた。
“怒り”のようなものが、伝わってくる。
目に見えないのに。
はっきりと、感じる。
拒絶。
排除。
侵入者への敵意。
それでも。
一歩も引かなかった。
「……連れて帰る」
はっきりと、言う。
「何があっても」
その言葉に呼応するように。
空気が、歪んだ。
境界が、揺れる。
――始まる。
そう、分かった。
もう、戻れない。
ここから先は。
完全に、“向こう側”だ。




