第十八章「すれ違い」
春は、ゆっくりと終わっていった。
桜の花びらは消え、
街には少しだけ、夏の気配が混じり始めている。
「……暑くなってきたね」
彼女が、そう言って笑う。
「……そうだな」
答える。
何も変わらない会話。
何も変わらない日常。
――のはずなのに。
「……」
ふと、違和感がよぎる。
“今の会話、さっきもした気がする”。
でも。
思い出せない。
「……陽菜?」
彼女が、少しだけ不思議そうに見る。
「どうしたの?」
「……いや」
首を振る。
「なんでもない」
その違和感は、小さかった。
気にするほどでもない。
そう思っていた。
数日後。
部屋の中。
テーブルに、二つのカップ。
コーヒーの湯気が、ゆらゆらと揺れている。
「……ねぇ」
彼女が、ぽつりと呟く。
「最近さ」
少しだけ、間を置いて。
「ちゃんと、私のこと見てる?」
ドキッとする。
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味」
彼女は、真っ直ぐこちらを見る。
「一緒にいるのにさ」
少しだけ、声が揺れる。
「……どこか、いない感じがするの」
言葉が、出ない。
図星だった。
「……そんなことない」
否定する。
でも。
“確信がない”。
「……そっか」
彼女が、小さく笑う。
その笑顔が、少しだけ寂しい。
その日の夜。
一人で、窓の外を見ていた。
街の灯り。
遠くの車の音。
「……」
ふと、考える。
“俺、今日何してた?”
思い出そうとする。
でも。
一部が、抜けている。
ぽっかりと。
「……またかよ……」
小さく呟く。
記憶が、繋がらない。
時間が、途切れている。
その時。
後ろから、声。
「……陽菜」
振り返る。
彼女が立っている。
「……ねぇ」
ゆっくりと近づいてくる。
「今日、どこ行ってたか覚えてる?」
その問い。
一瞬、答えに詰まる。
「……家にいた」
そう答える。
でも。
彼女の表情が、固まった。
「……違うよ」
静かな声。
「一緒に出かけたじゃん」
心臓が、強く打つ。
「……カフェ行って」
「服見て」
「……そのあと、アイス食べた」
全部。
聞いたことのない話。
「……そんなの……」
言葉が止まる。
“覚えてない”。
「……覚えてないの?」
彼女の声が、震える。
答えられない。
「……陽菜」
一歩、近づく。
その瞬間。
彼女の輪郭が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……っ……!」
反射的に、後ずさる。
「……え……?」
彼女の顔が、歪む。
「……なんで……」
「……ズレたんだよ」
思わず、口に出る。
「……今、ズレた」
「……何言ってるの……?」
理解できない、という顔。
でも。
俺には、はっきり見えた。
“同じ場所に、いない”。
「……ごめん……」
声が、震える。
「……分からないんだ」
「……何が本当で」
「……何がズレてるのか」
沈黙。
長い。
そして。
彼女が、ゆっくりと口を開く。
「……ねぇ」
その声。
泣きそうで。
「……少しだけ」
「距離、置こう?」
胸が、締め付けられる。
でも。
否定できない。
「……このままだと」
「……壊れちゃいそう」
その言葉が。
すべてだった。
「……ああ」
小さく、頷く。
「……そうだな」
本当は。
止めたかった。
手を、離したくなかった。
でも。
“何かが足りない”。
「……ごめんね」
彼女が、呟く。
「……俺の方こそ」
その日。
二人は、離れた。
理由も。
答えも。
分からないまま。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
“取り戻したはずの未来は、まだ完成していなかった”。
そして――
この別れが。
10年後の再会へと、繋がっていく。




