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第十二章「観測者」

眠れるわけがなかった。


あの夜から、ずっと。


「……侵食は始まっている」


あの言葉が、頭から離れない。


 


――カチ、カチ……


 


時計の音だけが、やけに響く。


静かすぎる部屋。


隣には、彼女が眠っている。


穏やかな顔。


何も知らないような、いつもの寝顔。


「……ほんとに……」


小さく呟く。


 


その時。


 


――ズレた。


 


「……っ……?」


視界の端。


彼女の“影”が、一瞬だけ遅れた。


 


さっき見たばかりの現象。


 


「……やっぱり……」


喉が乾く。


 


ゆっくりと、視線を落とす。


 


自分の足元。


 


影。


 


「……っ……」


 


――遅れて、動いた。


 


完全に。


確実に。


 


「……俺も……?」


 


心臓が、強く打つ。


 


侵食されているのは、彼女だけじゃない。


 


“俺もだ”。


 


その瞬間。


 


――ピン、と。


 


何かが“繋がった”。


 


空気が、変わる。


 


さっきまでの“部屋”じゃない。


 


重い。


沈む。


 


あの時と同じ。


 


“向こう側の気配”。


 


「……来たか」


 


声が、響く。


 


振り返る。


 


部屋の隅。


 


暗がりの中に、“それ”はいた。


 


見えない。


でも、分かる。


 


確実に“いる”。


 


「……お前……」


声が震える。


でも、目は逸らせない。


 


「……観測者、か」


 


沈黙。


 


ほんの一瞬。


 


「理解が早いな」


 


その言葉で、確信に変わる。


 


「……何なんだよ、お前ら」


 


恐怖よりも、苛立ちが勝っていた。


 


「勝手に人の中に入って、壊して……」


 


拳を握る。


 


「ふざけんなよ」


 


空気が、わずかに揺れる。


 


「我らは“観測者”」


 


ゆっくりと、言葉が落ちる。


 


「境界に触れた存在を、記録し、監視し――」


 


一瞬の間。


 


「必要に応じて“修正”する」


 


「……修正……?」


 


その単語が、妙に重く響く。


 


「逸脱は許されない」


 


感情のない声。


 


だからこそ、怖い。


 


「お前たちは、本来交わらないはずの領域を越えた」


 


その言葉で、すべてが繋がる。


 


「……あの時か」


 


奪還。


 


境界を越えた瞬間。


 


「そうだ」


 


短く、肯定される。


 


「本来、あの女は“向こう側”へ帰属する存在だった」


 


「……人間だろ、あいつは」


 


「違う」


 


即答。


 


「“人間であったもの”だ」


 


空気が、凍る。


 


「長い時間をかけ、“器”として最適化された存在」


 


頭が、拒絶する。


 


でも。


 


理解してしまう。


 


あの闇。


 


あの手。


 


あの“引き戻され方”。


 


「……だから、奪い返したらダメだったってのか?」


 


低く、吐き出す。


 


「均衡は崩れた」


 


静かに。


確実に。


 


「本来ならば、“修正”が行われる」


 


「……ふざけんな」


 


一歩、踏み出す。


 


「返さねぇぞ」


 


空気が、わずかに歪む。


 


観測者の“気配”が揺れる。


 


「……だが」


 


初めて、言葉が止まる。


 


「今回は例外が発生している」


 


「……例外?」


 


「お前だ」


 


その一言で、背筋が凍る。


 


「境界を越え、生還した存在」


 


「……それが、なんだ」


 


「本来、あり得ない」


 


ゆっくりと。


 


確実に。


 


「お前は既に、“観測対象”ではない」


 


「……は?」


 


意味が分からない。


 


いや。


 


理解したくない。


 


「お前は――」


 


一瞬の沈黙。


 


そして。


 


「“干渉可能個体”へと変質している」


 


 


その瞬間。


 


世界が、裂けた。


 


 


床が、黒く滲む。


 


壁が、波打つ。


 


空間のあちこちに、“裂け目”が見える。


 


「……見える……?」


 


口から、勝手に言葉が出る。


 


違う。


 


“理解している”。


 


「境界が……見えてる……」


 


現実の中に、“向こう側”が混ざっている。


 


「そうだ」


 


観測者の声。


 


「お前は、触れた」


 


「……じゃあ俺は……」


 


息が浅くなる。


 


「何なんだよ……」


 


「“観測される側”ではない」


 


静かに。


 


「“干渉する側”だ」


 


 


その時。


 


背後で、ドアが開いた。


 


「……ねぇ……」


 


振り返る。


 


彼女が立っている。


 


眠そうな目。


 


でも。


 


「……誰と話してるの?」


 


その声に、違和感。


 


わずかに、重い。


 


「……いや……」


 


言葉が詰まる。


 


観測者の気配が、すっと消える。


 


でも。


 


消えたんじゃない。


 


“見えなくなっただけ”だと分かる。


 


「……ねぇ」


 


彼女が、ゆっくり近づく。


 


視線がズレている。


 


俺じゃない。


 


その“向こう”を見ている。


 


「そこに、いるよね?」


 


心臓が、止まりかける。


 


「……何が……」


 


震える声。


 


彼女が、笑う。


 


優しく。


 


でも。


 


「見えてるんでしょ?」


 


その目は。


 


完全に、“こちら側”じゃなかった。


 


 


静寂。


 


 


そして。


 


彼女の影が、大きく歪む。


 


 


「……観測者」


 


その言葉を。


 


今度は、彼女が口にした。


 


 


「あなたたちも、“まだそこにいる”んだ」


 


 


空気が、凍る。


 


 


観測者は、消えていない。


 


 


見えていないだけで。


 


 


ずっと――そこにいる。


 


 


そして。


 


 


“俺たちも、もう向こうに触れている”。

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