第9話「夜の対話」
東京の夜は、思っているより静かだ。
昼間は人の波に埋もれている街も、深夜になると急に輪郭が見えてくる。六本木の路地裏も同じだった。大通りから一本入るだけで、ネオンの光は急に弱くなり、代わりに店の看板の赤い灯りだけが地面をぼんやり照らしている。
その通りの奥に、小さなバーがあった。
店名は「カサブランカ」。
古い映画のタイトルから取ったのだろうが、店内の雰囲気は映画のロマンチックさとは少し違っていた。薄暗い照明、磨かれた木のカウンター、棚に並ぶウイスキーの瓶。そして、どこか事情を抱えた人間が好みそうな空気。
カウンターの一番奥に、男が座っていた。
黒川真也。
週刊誌記者。
七年前、神崎修司のスキャンダル記事を書いた男だ。
黒川はグラスの氷をゆっくり回していた。ウイスキーの琥珀色が揺れる。手元のスマートフォンにはニュースアプリが開いていた。
そこに並ぶ見出し。
神崎修司
パパラッチ・パパラッチ
芸能界の闇暴露
黒川は小さく舌打ちをした。
「調子に乗りやがって」
そのときだった。
店のドアが開く。
冷たい夜の空気が少し流れ込んだ。
黒川は振り返らなかった。
誰が来たか、分かっていたからだ。
足音がカウンターへ近づく。
そして、隣の席に腰掛ける音。
黒川はグラスを持ったまま言った。
「取材か?」
男は答えた。
「逆だよ」
黒川はゆっくり顔を上げた。
神崎修司が、そこにいた。
黒いコート。ネクタイは外している。会見のときとは違う、どこかラフな格好だった。
神崎はバーテンダーに言った。
「同じもの」
黒川のグラスを指す。
バーテンダーは何も聞かずに頷いた。
この店は、そういう店だった。
黒川は神崎を見た。
「度胸あるな」
神崎は少し笑った。
「取材だよ」
黒川は鼻で笑う。
「俺を?」
神崎は頷く。
「うん」
バーテンダーがグラスを置く。
氷の音が静かに鳴った。
神崎は一口飲んだ。
少し顔をしかめる。
「強いな」
黒川は言った。
「記者ってのは」
グラスを揺らす。
「酒と噂でできてる」
神崎は笑った。
「いい言葉だ」
黒川は神崎を見た。
その目には敵意があった。
当然だろう。
昨日の会見で、神崎は黒川の人生を半分壊した。少なくとも、この業界ではもう以前と同じ立場ではいられない。
黒川は言った。
「で?」
「何を聞きたい」
神崎は少し考えた。
そして言った。
「七年前」
黒川の手が止まる。
神崎は続けた。
「俺の記事」
「書いててどう思った?」
黒川は笑った。
短い、乾いた笑いだった。
「どうも思わねえよ」
神崎は黙って聞いている。
黒川は言った。
「仕事だ」
グラスを一口飲む。
「情報が来る」
「裏を取る」
「書く」
肩をすくめる。
「それだけ」
神崎は聞いた。
「事実じゃなかった」
黒川は答えた。
「知ってた」
神崎は少し驚いた顔をした。
黒川は言う。
「でもな」
カウンターに肘をつく。
「売れる記事だった」
神崎は黙っている。
黒川は続けた。
「お前、スターだったからな」
少し笑う。
「スターが落ちる話は」
グラスを回す。
「最高に売れる」
神崎は静かに言った。
「知ってる」
黒川は神崎を見た。
「じゃあ何で怒らない?」
神崎は少し考えた。
それから言った。
「怒ってるよ」
黒川は眉を上げる。
神崎はグラスの氷を見ていた。
「でも」
言葉を探すように言う。
「怒る相手が分からなかった」
黒川は黙る。
神崎は言った。
「記者?」
首を振る。
「違う」
「編集部?」
首を振る。
「違う」
少し間を置く。
「世間?」
小さく笑う。
「それも違う」
黒川は聞いた。
「じゃあ誰だ」
神崎は言った。
「構造」
黒川は少し黙った。
神崎はグラスを飲み干した。
「だから会社を作った」
黒川は鼻で笑った。
「世界変える気か」
神崎は答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
店のスピーカーから、古いジャズが流れている。
黒川は言った。
「一つ教えてやる」
神崎が見る。
黒川は言った。
「お前」
「今ヒーローになってる」
神崎は笑った。
「そう?」
黒川は言う。
「世間は好きなんだよ」
「こういう話」
グラスを置く。
「権力と戦う男」
神崎は静かに聞いている。
黒川は言った。
「でもな」
その声が少し低くなる。
「ヒーローは」
少し間を置く。
「必ず堕ちる」
神崎は笑った。
その笑いは、どこか寂しかった。
「知ってる」
黒川は言った。
「じゃあ何でやる」
神崎は、しばらく答えなかった。
そして、静かに言った。
「止まれない」
黒川はその顔を見た。
そのとき、初めて少しだけ理解した。
この男は。
復讐で動いているわけではない。
もっと面倒なものだ。
神崎は言った。
「俺さ」
グラスを見つめる。
「この世界」
少し笑う。
「嫌いなんだよ」
黒川は黙る。
神崎は続けた。
「でも」
窓の外を見る。
「この世界でしか」
言葉を探す。
「戦えない」
黒川は何も言わなかった。
店の時計が、深夜一時を指した。
神崎は立ち上がる。
コートを羽織る。
黒川は言った。
「神崎」
神崎が振り返る。
黒川は言った。
「気をつけろ」
神崎は笑った。
「誰に?」
黒川は言った。
「相良宗一?」
首を振る。
「違う」
黒川は静かに言った。
「もっと上だ」
神崎の目が、ほんの少しだけ細くなった。
黒川は言った。
「お前」
グラスを回す。
「まだ」
「この世界の天井を見てない」
神崎は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
そして店を出た。
夜の空気は冷たかった。
だが、その冷たさは。
神崎修司にとって、少しだけ心地よかった。




