第16話「記憶の温度」
午前九時を過ぎるころには、「元恋人の告白」は完全にニュースの中心になっていた。
ワイドショーはすべて同じ構成だった。画面の左には神崎修司の写真、右にはぼかしの入った女性の顔写真。そしてテロップが流れる。
「元恋人が語る“あの頃の神崎修司”」
コメンテーターが眉をひそめて言う。
「やはり当時から精神的に不安定だったという証言が出ていますね」
別のコメンテーターが慎重な口調で続ける。
「ただ断定はできませんが……周囲が異変を感じていた可能性はあります」
その横で司会者がまとめる。
「つまり、疑惑が完全なデマだったとは言い切れない、ということですね」
神崎修司はテレビを消した。
音が消えた瞬間、部屋の静けさが戻る。
会議室の窓から入る朝の光が、机の上の書類を白く照らしていた。
真壁葵が椅子に腰掛けた。
「典型的」
神崎が視線を向ける。
真壁は言った。
「断定しない」
「でも疑わせる」
神崎は小さく頷いた。
「うん」
これは古い手法だった。
「証言」
「関係者」
「当時を知る人物」
そういう曖昧な言葉で構成された記事は、責任を回避しながら印象を作る。
真実かどうかは関係ない。
読者がどう感じるか。
それだけが重要だ。
神崎は机の上のスマートフォンを見た。
通知は百件以上。
SNSのメッセージ。
取材依頼。
知らない番号。
そして。
「有里」
名前を見た瞬間、指が止まる。
真壁が気づいた。
「本人?」
神崎は画面を見たままだった。
メッセージは短かった。
「話したい」
それだけだった。
真壁はしばらく黙っていた。
それから言った。
「罠」
神崎は笑った。
「だろうな」
真壁は聞いた。
「行きますか」
神崎は答えなかった。
七年前の記憶が、頭の奥からゆっくり浮かんでくる。
有里と初めて会ったのは、ドラマの打ち上げだった。
彼女は女優ではなく、制作会社のスタッフだった。カメラの後ろにいるタイプの人間。派手な芸能界の空気の中で、少し浮いているような存在だった。
それが、神崎には心地よかった。
打ち上げのあと、二人で外に出た。
夜風が涼しかった。
有里が言った。
「芸能界って」
神崎が聞いた。
「どうした」
有里は少し笑った。
「みんな演技してる」
神崎は笑った。
「俳優だからな」
有里は首を振った。
「違う」
少し真面目な顔で言う。
「本当の自分」
「誰も出してない」
その言葉を、神崎は今でも覚えていた。
真壁が言った。
「社長」
神崎が現実に戻る。
真壁は言った。
「もし」
少し間を置く。
「彼女が利用されてるなら」
神崎は言った。
「分かってる」
真壁は続ける。
「でも」
「違う可能性もある」
神崎は少し笑った。
「つまり」
真壁は言った。
「本当に裏切った」
神崎は答えなかった。
窓の外を見る。
東京の朝はもう完全に動いている。
人が歩く。
車が走る。
ニュースが流れる。
そして。
誰かがまた物語を書く。
神崎はスマートフォンを手に取った。
有里のメッセージを開く。
そして返信する。
「今日」
「会おう」
真壁が聞く。
「場所」
神崎は少し考えた。
それから言った。
「カサブランカ」
真壁が少し驚いた。
あのバーだった。
黒川と会った場所。
神崎は立ち上がる。
コートを羽織る。
真壁が聞いた。
「社長」
神崎が振り返る。
真壁は言った。
「これは」
言葉を探す。
「仕事ですか」
神崎は少し笑った。
そして答えた。
「分からない」
その頃。
都内の高層ビル。
城戸正宗は、静かに新聞を読んでいた。
そこには見出しがある。
「神崎修司 元恋人が語る」
城戸はページをめくった。
秘書が言う。
「予定通りです」
城戸は言った。
「人は」
少し笑う。
「過去に弱い」
秘書が聞く。
「次は?」
城戸は窓の外の東京を見た。
「まだ」
静かに言う。
「第一幕だ」
そして。
その日の夜。
神崎修司は。
七年ぶりに。
有里と会うことになる。




