第10話「天井」
黒川の店を出たあと、神崎修司はしばらく歩いた。
六本木の夜はまだ終わっていない。タクシーが通り過ぎ、どこかのクラブから低い音の音楽が漏れてくる。酔った人間の笑い声も遠くに聞こえる。
それでも、神崎の周りだけは妙に静かだった。
黒川の最後の言葉が、頭の中に残っていた。
「この世界の天井」
神崎は空を見上げた。
ビルの隙間から、わずかに星が見える。
七年前、自分はこの街から逃げるように消えた。そのとき、芸能界が世界のすべてだと思っていた。テレビ、映画、雑誌。そこに出ている人間たちが、この社会の中心だと信じていた。
今なら分かる。
あれは、ただの舞台だった。
舞台の上で騒いでいるのは俳優やタレントや記者だが、その舞台を作っている人間は別にいる。
照明を当てる人間。
脚本を書く人間。
スポンサーを決める人間。
そして。
その全員を動かしている人間。
神崎はポケットからスマートフォンを取り出した。
メッセージが一件届いている。
差出人は真壁葵。
「例の件、動きました」
神崎は少し笑った。
「早いな」
タクシーを拾う。
「六本木ヒルズ」
運転手が頷く。
車が静かに走り出した。
パパラッチ・パパラッチのオフィスは、まだ明るかった。
夜中の二時を過ぎているのに、フロアの半分以上の席に人がいる。大きなモニターにはSNSの分析画面が表示され、別のスクリーンではニュース番組がミュートで流れている。
神崎が入ると、数人が顔を上げた。
真壁葵が近づいてくる。
「思ったより早かった」
神崎が言う。
真壁はタブレットを差し出した。
「会見から二十四時間」
画面にはグラフが表示されている。
ニュース記事数
SNS投稿数
テレビ放送時間
すべてが急激に上昇していた。
神崎はグラフを見ながら言った。
「火はついたな」
真壁は頷いた。
「でも」
タブレットをスワイプする。
別の画面が表示される。
そこには、政治家の名前が並んでいた。
国会議員。
総務省。
放送倫理機構。
神崎は少し笑った。
「早いな」
真壁は言った。
「テレビ局が動いてる」
神崎は椅子に座った。
「スポンサー?」
真壁は首を振る。
「もっと上」
神崎は少し黙った。
「総務省か」
真壁は頷いた。
「放送免許」
神崎は小さく笑った。
「なるほど」
テレビ局はスポンサーで動くが、スポンサーを動かすのはまた別の力だ。そして、そのさらに上にあるのが免許だ。
テレビ局にとって、それは命綱だ。
神崎は言った。
「つまり」
真壁は答えた。
「相良宗一じゃない」
神崎は天井を見上げた。
黒川の言葉が浮かぶ。
「もっと上だ」
真壁は言った。
「社長」
神崎が見る。
真壁は少し声を落とした。
「この案件」
「思ったより大きい」
神崎は笑った。
「いいじゃん」
真壁は真剣な顔をしている。
「相手」
「テレビ局」
「政治」
「広告」
指を折る。
「全部つながってる」
神崎は立ち上がった。
窓の外を見る。
東京の夜景が広がっている。
無数のビル。無数の光。
その中にテレビ局もある。
新聞社もある。
広告代理店もある。
神崎は静かに言った。
「知ってる」
真壁は黙る。
神崎は振り返った。
「でもさ」
少し笑う。
「面白くなってきた」
真壁はため息をついた。
「社長」
「普通の人は」
神崎は言った。
「普通じゃないから」
真壁は言葉を飲み込んだ。
神崎は机の上の資料を開いた。
そこには、ある企業の名前が書かれている。
電通。
そして、その横にもう一つの名前。
総務省。
神崎は言った。
「この国のニュース」
資料を指で叩く。
「半分はここで作られる」
真壁は言った。
「つまり」
神崎は頷く。
「脚本家」
真壁は少し黙った。
それから言った。
「社長」
「この先」
神崎が見る。
真壁は言った。
「戻れませんよ」
神崎は少し考えた。
それから笑った。
「戻る場所」
窓の外を見る。
「もうない」
その頃。
都内のある高層ビル。
最上階の部屋で、相良宗一はウイスキーを飲んでいた。
秘書が言う。
「神崎修司」
相良はグラスを回す。
「どう思います?」
相良は少し考えた。
それから笑った。
「いい役者だ」
秘書が聞く。
「潰しますか?」
相良は首を振った。
「まだ早い」
窓の外を見る。
「舞台が小さい」
秘書は黙る。
相良は静かに言った。
「もう少し」
グラスを飲み干す。
「物語を大きくしよう」
その目は、静かに光っていた。
そして。
神崎修司はまだ知らなかった。
この物語の本当の敵が。
相良宗一ではないことを。
この戦いは。
まだ。
天井にすら届いていない。




