第六章:過去という名の未来
崇が逮捕されたのは、十二月の寒い朝だった。
ニュース速報のテロップが、テレビ画面を横切る。
「暴行容疑で男逮捕 被害者男性死亡 傷害致死で送検へ」
名前を見た瞬間、背中を氷で撫でられたような寒気が走った――崇。
翌日、俺は迷わず日本司法支援センターへ向かった。崇の国選弁護人として選任してほしいと申し出た。職員は眉をひそめた。
「国選弁護は、基本的に法テラスからの指名となります。弁護士が自ら名乗り出るのは異例です」
俺は、まっすぐ職員の目を見つめた。
「彼の事件の背景には、社会から孤立し、更生の機会を奪われた少年期の苦しみがあります。この事件の被害者と加害者、どちらの痛みも知っている弁護士は、そう多くはありません」
俺は、少年院で学んだ知識を今この場で使っていた。人を罰するためでも、自分を正当化するためでもない。ただ、目の前の男を救うためだ。
「彼を罰するだけでは何も解決しません。立ち直らせる支援をすることが、真の社会復帰に繋がるはずです」
職員は一度奥の部屋へ戻り、数分後、深く頷いて現れた。
「分かりました」
留置所の面会室で、ガラス越しに現れた崇は、かつての傲慢な面影はどこにもなかった。やつれた顔、荒れた髭、目には怯えがあった。しかし、俺の姿を見た途端、眉をしかめ、目を逸らした。
「…お前にだけは、弁護されたくねえ」
言葉が刃物のように突き刺さった。だが俺は、動じなかった。もう、あの頃のただの被害者じゃない。
「それでも、俺はお前を助けに来た」
崇は鼻で笑った。
「偽善者が。何が助けにだよ。復讐したいのか?」
「違う。俺は…この社会の中で、お前が生き直す手伝いをしたい」
沈黙が流れた。崇はしばらく無言で俺を睨んでいたが、やがて声を震わせながら言った。
「…俺、父親が怖かったんだ。いつも殴られてた。学校では誰もそんなこと知らねえ。俺は、アイツらの前では怖いヤツって思われたかった。あいつらよりヤバいことして、『こいつには手を出せない』って思わせたかったんだよ」
涙が滲んでいた。
「あのとき、ほんとは…止めて欲しかったんだ…」
その瞬間、俺の胸に鋭い痛みが走った。崇の言葉が俺自身の過去と共鳴したからだ。あの夜、孤独の檻の中で必死にもがいていたのは、俺だけじゃなかった。崇もまた、助けを求めていたのだ。
「…ごめん」
俺は崇に対し謝罪を口にした。しかし、その言葉は同時に、声を上げられなかった過去の自分自身に対する「赦し」の言葉でもあった。
数日後、重く閉ざされた法廷の扉が、軋むような音を立てて開いた。
被告人席に座る崇の頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれていた。視線を合わせることもなく、両手を膝の上に揃えて縮こまるように座っている。
開廷の声が響いた。
「それでは、これより被告人に対する傷害致死事件についての審理を行います」
検察官が起立し、淡々と起訴状を朗読した。
「被告人は、港区の路上において、被害者A氏と口論になり、強く突き飛ばした結果、A氏を転倒させ、頭部の打撲により死亡させたものである…」
起訴状に書かれているのは、事実の一部だ。
崇は暴力を振るった。だが、そこには彼なりの理由があった。俺は、それを明らかにしなければならない。
弁護人陳述の番が来た。俺は立ち上がり、裁判官と裁判員の目を真正面から見据えた。
「本件には、表面からは見えにくい背景が存在します。被告人は幼少期から家庭内暴力を受け、少年時代に適切な更生機会を失いました。そして私は、かつて彼に苦しめられた側の人間。だからこそ、彼の痛みに目を背けることはできません」
傍聴席からどよめきが起きた。
「少年法や刑事訴訟法といった法律の条文一つ一つには、『人は変われる』という社会の、そして人間の、かすかな希望が込められていると私は信じています」
俺は語気を強めた。
「この法廷において、私は"過去の復讐"ではなく、"再生の可能性"を証明するために立っています。被告人は確かに過ちを犯しました。しかし今は、その過ちと向き合おうとしています。どうか、この法廷が"罰するだけの場"ではなく、"赦され立ち直る機会を与える場"であってほしいと願っています」
傍聴席がざわついた。崇の目が、ゆっくりとこちらを見る。震えるような視線だった。そこにはただ、過去を悔いる男の目があった。
続いて証言台に立った崇に、検察官が尋問した。
「あなたは暴力の常習犯ですね?なぜ、また同じような事件を起こしたのですか?」
崇は苦しげに言葉を吐き出す。
「もう暴力はしないって決めてました。でも、あのとき、道でホームレスの男を苛めてる若者を見て、昔の俺みたいで…止めに入ったら揉み合いになって…」
検察官が冷たく言う。
「被害者を突き飛ばしたのは事実ですか?」
「はい…でも、殺すつもりなんて絶対になかったです」
今度は俺が立ち上がった。
「あなたは、過去に他人を傷つけてきましたね。後悔していますか?」
崇は静かに頷いた。
「一生後悔してます。…俺がやったことで、悠が少年院に入った。全部、俺のせいだった。…でも、こんな俺の弁護を、悠は…引き受けてくれた。あのとき止められなかった俺を、今度は…止めたいって…」
証言台で、崇の肩が震えた。大人になった彼が流した涙に、嘘はなかった。
判決は、執行猶予付きの有罪だった。崇が示した反省と、事件の背景が考慮された結果だった。
傍聴席の最後尾で、崇と俺の母親が、ハンカチで目元を拭っていた。
法廷を出た後、崇と俺は裁判所の裏手にある公園のベンチに並んで座っていた。
「本当にいいのか?お前に、あんなことした俺が…」
俺はゆっくりと首を振った。
「許したわけじゃない。けど、俺はもう排除する側にはなりたくないんだ」
崇はうつむいたまま、小さく呟いた。
「…ありがとう。…もう一度、人生やり直してみる」
「それができるかどうかは、お前次第だよ」
あの夜の男の顔が、一瞬脳裏をよぎった。
「けど…痛みを知ってる人間にしか、救えないものもある」
俺が立ち上がると、背中越しに崇の声が届いた。
「…なあ、またどっかで、会えるかな」
「そのときは、依頼人じゃなくて…一緒に誰かを守る側で会おう」
振り返ると、崇が初めて少年のような笑顔を見せた。俺は自販機で温かい缶コーヒーを二本買い、崇に一本差し出した。
「じゃあ、未来の同志と一杯な」
缶の温もりが、冷え切った手にじんわりと広がる。
空は夕焼け色に染まっていたが、どこか遠くで朝が近づいている気がした。




