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六法と、僕らの隙間  作者: 金城絢


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第五章:声なき声

弁護士登録を終えたのは、桜の蕾がほころび始めた頃だった。

名簿に名前が載っただけで、世界が劇的に変わるわけではない。けれど、「自分の力で、ようやくここまで来た」―その事実だけは、胸に強く刻まれた。

俺は迷わず、困窮者支援に特化した小さなNPO法人の門を叩いた。

「社会の片隅で声を失った人の力になりたい」

面接でそう話すと、代表は静かに頷き、「ようこそ」と微笑んでくれた。

ここに来る人たちの多くは、社会の構造的な問題の犠牲者だった。

「制度があっても、使えなければ意味がない。制度を使うことを恥だと思わせる社会の空気こそが、問題なんです」

代表の会議での発言が強く心に響いた。

「貧困も犯罪も、多くは個人の問題じゃない。社会全体の問題だ。でも、この国は『自己責任』という言葉で、すべてを個人に押し付けようとする」

少年犯罪も同じだ。確かに俺は罪を犯した。だが、その背景には、いじめを放置した学校、家庭に問題をすべて押し付ける地域、格差を生み出す社会構造があった。

「被害者も加害者も、実は同じ社会の矛盾の中で苦しんでいる。その根本を変えなければ、悲劇は繰り返される」

俺は、代表の言葉を胸に刻んだ。

最初の仕事は、生活保護の申請同行だった。ホームレス状態の高齢者、DVから逃れてきた若い母親、借金に追われた日雇い労働者―皆、制度の扉の前で立ちすくんでいた。

理由は共通している―「どうせ、自分なんか助けてもらえない」。

俺は一人ひとりに向き合い、ひたすら話を聞いた。法律は確かに中立だ。だが、その冷たさが人を黙らせることもある。

「わたしの声は、届いていますか?」

ある高齢女性が呟いた言葉が、胸に刺さった。届いている。あなたと同じように、ずっと声を上げられなかった俺には、その声は痛いほど届いていた。

「あなたみたいな若い人が、なぜこんな仕事を?」

そう聞かれるたび、過去を言いかけては飲み込んだ。真実を告げたとき、相手がどう思うか怖かった。この偽りの自分は、いつか必ず壊れる―猜疑心を抱えながらも、俺は誰にも何も言えなかった。

それでも、働き続けた。弁護士として、そして、かつての加害者として。

ある日、突然だった。

匿名掲示板に、俺の過去が暴露された。

『あいつは人殺しだ』『偽善者が正義ヅラしてる』『殺人犯が弁護士?笑わせるな』

一晩で事務所の電話が鳴り止まなくなった。「信用できない」「契約を打ち切ってほしい」と言うクライアント。対応に追われる事務員の目が、日に日に冷たくなった。

間もなく、俺は代表に呼び出された。

「ここを辞めた方が、君のためにもなるかもしれない」

代表の表情は苦渋に満ちていた。責めているわけじゃない。むしろ、俺を心配してくれているのだろう。

それでも、胸の奥に悔しさが広がった。すべて終わった。この場所も、俺の居場所じゃなかったんだ。

社会から一度烙印を押された人間は、何度やり直そうとしても、結局はそこに引き戻されるのか。この数年間の努力―全てが一瞬で瓦解していくような絶望感に襲われた。

その夜、憲司から再び連絡が来た。

「なあ、お前、今どこにいる?」

「…公園。例の、最初の事件の公園」

「やっぱりな。行くわ」

憲司は、あの頃と変わらず乱暴な言葉で近づいてきて、俺の隣に腰を下ろした。

「お前、ほんとバカだよな。逃げりゃいいのに」

「逃げたくない」

「知ってるよ」

風が強く、落ち葉が舞う音が耳に響いた。俺は俯き、何も言えなかった。

「あの日、お前が拳を下ろしたとき、俺はすげーなって思ったんだ。俺には、そんなことできねーから」

憲司は続けた。

「お前はさ、いつだって人の痛みを自分の痛みみたいに受け止める。だから、きっとこの先も傷つくだろうな。でもよ―お前が逃げないってのは、俺が一番よく知ってる」

彼なりのエールが込められていた。俺は黙って頷いた。憲司の隣にいると、あの頃の自分が蘇る。何も言わなくても俺を認めてくれる人間がいる―それだけで、また立ち上がれる気がした。

数日後、ある支援対象者の老人が事務所に訪ねてきた。

「先生、最近来てくれないから心配でな…。あんたのおかげで、やっと眠れるようになったんだ」

老いたその手が俺の手をぎゅっと握ったとき、俺の中の何かが音を立てて崩れた。

俺は誰かの声なき声と向き合ってきた。だが、俺自身の声は、ずっと過去の罪に縛られたままだった。

赦される資格があるかどうか、もう考えるのはやめた。俺はここにいる。この場所にいて、誰かのために何かを成す―その事実だけが、俺を支えてくれる。

その夜、事務所の掲示板に新しいレビューが投稿された。

『過去に囚われず、今を見てほしい。彼の言葉に、何度も救われました。彼がいたから、私はもう一度生きようと思えた』

その一文を見た瞬間、涙が止まらなかった。

俺が信じようとしたものが、ようやく誰かに届いた。誰かの声なき声が、回り回って、ようやく自分の心に返ってきた気がした。

そして、その直後だった。

スマートフォンの画面が鈍く光った。「非通知」の文字。指先が震え、胸が締め付けられるような予感がした。だが、俺は逃げないと決めた。どんな声が聞こえてこようとも、この手で受け止めると心に強く言い聞かせた。

「…あの、悠先生ですか?」

震える声だった。

「はい、そうですが…」

「やはり…!先生、私、崇の母です」

息を呑んだ。かつて一度だけ、警察署で顔を目にしたことがある。

「どうして私に…?」

彼女は嗚咽しながら、必死に言葉を絞り出した。

「息子が…傷害致死で逮捕されて…。弁護士を探そうにも、お金がなくて…。でも、何かしなくちゃと思って、スマホで『加害者 裁判 支援』って検索したら、先生のNPOのサイトに辿り着いて…」

彼女は言葉を詰まらせた。

「先生のことを知って、最初はとても悩みました。あの子のせいで、先生の人生が滅茶苦茶になったのに…。でも、どこからも支援を断られ、頼れる人もいなくて…。どうか…あの子を助けてください」

その言葉が心を大きく揺さぶり、かつて俺の母が流した涙と重なって見えた。だが、それは俺の時間が過去に戻ったのではない。今度こそ、あの日の過ちを、法という手段で終わらせる時が来たのだ。


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