第四章:六法の片隅で
上京したのは、桜の散り始めた四月だった。
「ここでは生きられない」―そう思ったからだ。
母との別れは辛かった。近隣からの嫌がらせは止まず、彼女はついに体調を崩していた。
「もう、あんたのことで潰れたくない」
母の言葉を何度も反芻した。それは絶望であり、俺に対する最後の愛の叫びだったのかもしれない。
誰も俺を知らない街で、夜間大学の法学部に入学した。
昼は工事現場、夜は講義。くたくたの身体で教室にたどり着くと、机の上には六法全書が分厚く鎮座していた。
大学で学ぶ法律は、少年院で感じた温かさとはかけ離れていた。条文は無機質で冷たく、まるで過去の俺を責め立てるようだった。講義で「刑法第二百五条」という言葉を聞くたびに、心臓が握りつぶされるような痛みに襲われた。
「法律なんて、俺を守ってくれなかったじゃないか―」
だが、ある日教授がこう言った。
「法は神の言葉じゃありません。人間が試行錯誤の中で作った、共生のルールなんです」
胸に残る言葉だった。
法律は完璧ではない。欠陥もあるし、間違うこともある。だが、それは人間が人間を信じて、より良い社会を築こうと足掻いた証なのだと、教授は教えてくれた。
俺は法律の向こうに、人の温もりや社会の希望を見出そうと、本を貪るように読んだ。
「共生のルール」がどう作られ、機能するのか。そのルールから外れた人は、どうすれば再びその輪の中に戻れるのか―その答えを探したかった。
少年犯罪の講義があった日のことは、今でも鮮明に覚えている。
加害者と被害者という線引きの危うさ、更生と社会復帰の困難、そして加害者支援に対する社会の無理解―。
「加害者に未来はありますか?」
ある女子学生が尋ねると、教室は静まり返った。
教授は静かに答えた。
「あります。加害者にも被害者にも、未来は等しくあるはずなんです。ただし、それを信じ、行動しようとする人が周囲にいれば、の話ですが」
心が突き動かされる言葉だった。
自分は、その「周囲」になれるのだろうか。俺を突き離した冷たい法を、誰かを温めるために使いたい―そう強く思った。
講義後、教授が声をかけてきた。
「君、今日の話をどう思った?」
俺は一瞬迷ったが、正直に答えた。
「自分は…少年院に入ったことがあります」
教授は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「そうか。なら君は誰よりも『法の隙間』を知っているんだろうね。悩み、考え、迷う者にしか、本当の意味で法は見えない。君が法律に向いているのは、悩み続けるからなんだよ」
心に深く根を張る言葉だった。
大学生活は決して楽ではなかった。
生活費に追われ、バイトを掛け持ちしながら授業を受け、試験前には寝る時間もなかった。
時には、膨大な知識の海に溺れそうになり、自分の無力さを痛感した。
なぜ自分だけこんな苦労を―再び自分を被害者だと錯覚しそうになった。
「こんな俺に、法律を学ぶ資格があるのだろうか」
それでも、教授の言葉が支えだった。
そして忘れられないもう一人―佐々木保護司。
出院時にくれた手紙には、こう書かれていた。
『もし、どこかで人生に迷ったら、俺のことを思い出せ。そして今度は、お前が誰かを支える番だ』
何度、俺の背中を押してくれた言葉か。
やがて俺は、弁護士を目指す決意を固めた。
六法全書の片隅に、俺の赦しがある。この道の先に、誰かの絶望を救える術がある。誰かを守るために。そしてかつての自分のように、声を上げられずに苦しむ人を救うために。
佐々木にメールを送った。
『今から司法試験を目指します。もし、どこかで迷ったら、そのときはまた会いに行かせてください』
返事は短かった。
『なら、突き進め。俺はここで待ってる』
その夜、俺は涙が止まらなかった。
この世に、自分を信じてくれる人が一人でもいる―それだけで、こんなにも強くなれるのだと知った。




