第三章:冷たい町、壊れた机
出院した日の空は異様に明るかった。だが、その光は俺の心には届かなかった。
母が迎えに来ていた。笑おうとしたが、目は真っ赤に腫れ、頬はこけ、憔悴しきっていた。母は何も言わず、俺の手をぎゅっと握った。
その温もりがあまりに優しくて、俺は居たたまれなくなった。この温かさは、俺が奪った温かさだ。
現実は想像以上に厳しかった。
玄関には赤いスプレーで「人殺し」。郵便受けには汚物。夜中にはインターホンが執拗に鳴る。母は毎日泣きながら、消えない落書きを拭い続けた。
「私が、もっと早く気づいていれば…」
母の呟きがすべて、「俺のせい」としか聞こえなかった。
転校先の高校でも状況は変わらなかった。
教室に入ると、クラスメイトが一斉に視線を向け、すぐに逸らした。「見ない方がいいもの」を見る目。教室の隅、ひびの入った古い机―それが俺の席だった。
机の引き出しには連日、腐った食べ物や嘲笑のメモ。『よう、少年院帰り』『人殺し、何しに学校来たの?』
先生たちも見て見ぬふり。「問題行動を起こすな」とだけ言われた。
怒りがこみ上げないわけではない。だが、ここで反論すれば「怖い奴」になり、黙っていれば「図に乗ってる」と言われる。どうすればいいのか、わからなかった。
俺にできるのは、ただ耐えることだけだった。心は薄い膜に包まれたような虚無感に満たされていった。
ある日の昼休み、俺は屋上で一人本を読んでいた。休み時間はいつも、誰にも見つからない場所で時間を潰していた。
突然、ドアが勢いよく開いた。
「おーい、そこにいんの、悠か?」
クラスでひときわ目立つ男―憲司が立っていた。髪は茶色く、目つきは鋭いが、どこか人懐っこい。
「お前さ、いつもトイレで飯食ってんだろ。やべーな。俺、トイレ飯とか都市伝説だと思ってたわ」
憲司は勝手に隣に座り、菓子パンを差し出した。
「ほら、半分やる。てか、お前―アホ面してんぞ」
最初馬鹿にされてると思った。だが、彼の言葉に悪意はなかった。見下しではなく、純粋な好奇心と茶化すような軽さがあった。
俺のことを知っていて、それでも隣に座ってくれる初めての人間だった。
「お前さ、過去は消せねえけど、これからだろ。俺も完璧じゃねーし。中学ん時、俺、悪だったぜ。お前と似たり寄ったりかもな。人間、失敗すんだよ」
その軽さが救いだった。説教でも同情でもない、ただの隣人の声。長い闇の中に差し込んだ一筋の光のような温かさがあった。
それから俺は、時折憲司と話すようになった。彼と会話する数分だけ、俺は人間に戻れた気がした。
ある日の下校途中、上級生数人が薄笑いを浮かべながら俺を取り囲んだ。
「よう、あの事件のお兄さんじゃん。サインくれよ。木刀での殴り方、教えてくんね?」
嘲笑と暴力の匂い。俺は反射的に拳を握りしめた。脳裏にはあの日の光景が鮮明に蘇った。
ホームレスの男を、俺が木刀で殴りつけた、あの夜。
しかし、ここで殴り返したら、俺はあいつらと同じ、いや、それ以下の人間になってしまう。
俺は、ゆっくりと握りしめた拳を下ろした。
「…やらない。誰かを傷つけるのは、もうたくさんだ」
上級生らは拍子抜けしたように去っていった。
この言葉は俺自身の心に響いた。
それは人生で初めて、自分で選んだ抵抗だった。誰に強制されるでもなく、誰かの顔色を窺うでもなく、俺は自分自身のために、この行動を選んだのだ。
あのときの俺には、これが精一杯の贖罪だった。
しかし今ならわかる。本当に大切なのは、ただ耐えることじゃない。自分の過ちと向き合い、同じような過ちを二度と繰り返さない。この痛みを知っている俺だからこそ、できることがあるのだと。




