第二章:名のない生活
金属製の扉が重たい音を立てて閉まるたび、俺の中の何かが削られていった。
少年院に「名前」はなかった。俺は番号で呼ばれた。誰かの息子でも友達でもない、ただの"少年〇号"。過去も未来も、ここでは意味を持たなかった。
同じ制服、無表情な日課、はみだし者たちとの共同生活。
最初は恐ろしくて、無言で日々をやり過ごした。笑い声のない朝食。誰も目を合わせない掃除。「おはよう」も「お疲れさま」もない。言葉すら不要だった。
そんな俺に、担当保護司の佐々木が、最初に話しかけてきた。五十代半ば、小柄で眼鏡をかけた男。優しげな眼差しの奥に、何か鋭いものを隠している。
「悠、だな。話せるか?」
俺は黙って視線をそらした。どうせ「君にも未来がある」だの「反省すれば大丈夫」だの、綺麗事を並べるだけだ。
だが、佐々木は違った。
「反省しろとは言わん。お前が何を抱えてるか、知りたいだけだ」
静かだが刃物のような声。俺の醜い感情を白日の下に晒そうとする冷徹さがあった。誰にも何も期待していなかった俺は、つい気を許してしまった。
「…わからないんです。なんで、俺だけが…」
言葉がこぼれた。誰かが俺の話に耳を傾けてくれることが、久しぶりだった。
佐々木は最後まで聞いていた。そして、俺の目を見つめて静かに言った。
「お前はな、まだ始まってすらいないんだよ」
「…え?」
「後悔も、怒りも、苦しみも―それは全部、まだ生きてるから起こる感情なんだ。人間はな、もう終わりだと思ってからが、本当の始まりなんだよ」
胸の奥まで響いた。
ずっと俺は「終わった人間」だと思っていた。だが、この胸の痛みや苦しみが「生きている証」だというのか。絶望で凍りついた心に、小さなひびが入った。
もしかしたら、また始められるかもしれない―。冷え切った心の一部が、ゆっくり溶け始めた。
その日から、俺は佐々木と話すようになり、少しずつ言葉を取り戻した。自分の考えが初めて輪郭を持った。「苦しい」「つらい」としか思えなかった日々が、徐々に意味を持ち始めた。
「人は変われる、とは言わない。だが、変わろうとする努力は続けられる」
佐々木は窓の外を見つめながら続けた。
「この国の司法制度は、まだまだ不完全だ。加害者への処罰ばかりに目が向いて、本当の更生支援が足りない。被害者への配慮も不十分だ」
俺は黙って聞いていた。
「お前みたいな子供が生まれる背景には、必ず社会の歪みがある。貧困、家庭の機能不全、学校でのいじめ、地域の無関心...。それらが重なり合って、子供たちを追い詰めていく」
佐々木の声には怒りがにじんでいた。
「崇という少年も、きっと誰かに助けを求めていたはずだ。でも、その声を聞く大人はいなかった。お前も同じだ。孤立し、居場所を失った子供たちが、最後にすがるのが『強さ』という幻想なんだ」
俺の胸に、鋭い痛みが走った。
「だが、本当の強さは違う。自分の弱さを認め、助けを求められることこそが強さだ。そして、かつて助けを求められなかった人間が、今度は誰かの声を聞く側に回る。それが真の償いなんじゃないか」
佐々木の言葉は、俺の人生の指針となった。
夕食後の自由時間、俺は図書室に通うようになった。手に取ったのは偶然―いや、必然だったのかもしれない。
『刑法概論』
無機質な文字が並ぶ分厚い本。最初は頭に入らなかった。ただ、ページをめくるうちに、ある事実に気づいた。
この条文は、誰かを罰するためだけにあるのではない。誰かを守るため、過ちを犯した人間が再び社会で生きるための道しるべでもある。
冷たい条文の向こう側に、誰かの人生と涙があると知ったとき、俺の胸に熱いものが湧いた。
「俺は…もう一度、人として生きたい」
たぶん、その夜だった。
「出たら勉強する。法律を学んで、俺みたいな奴をこれ以上生み出さないように」
佐々木にそれを話すと、彼はにやりと笑った。
「なら、挑戦してみろ。お前の始まりは、きっとそこにある」
俺は頷いた。
出院の日、佐々木がくれた言葉が、ずっと心の中で灯っていた。
「お前なら大丈夫だ。お前は、終わってない」




