第一章:世界が崩壊した音
あの夜の記憶は、今でも鮮明すぎるほどに蘇る。
十一月の夕暮れ。公園の片隅で、錆びた鉄の匂いをまとい、風に揺れるブランコが、ギィ、ギィと甲高い悲鳴を上げていた。遠くで、枯れた落ち葉が風に弄ばれ、カサカサと乾いた音を立てている。
腐食したフェンスに寄り掛かる段ボールの小屋。湿った紙とカビ、人間の生臭さが、夜気に混じる。
その中で男が身を起こし、こちらを見つめていた。手に握られていたのは汚れた写真。街灯の薄明かりに照らされ、若い女性と小さな子供の笑顔が見えた。男は、痩せた腕で体を支えながら、何かを言おうとした。
だが、その瞬間、背中を激しく押された。
「おい、悠。やれよ」
背後から崇の声。振り返ると、同級生たちが半円を描いて俺を囲んでいる。見世物を待つ目だった。
心臓が耳元で鳴り響く。手の中の木刀が異様に重い。乾いた木の匂いが鼻を刺した。
男の目には恐怖が滲んでいた。それ以上に、諦めに似た静けさがあった。深い絶望の底で、もう何も期待していない目だった。
あのとき、俺は何を考えていたのか。
恐怖―それは確かにあった。次は自分の番だという恐怖。仲間外れにされる恐怖。だが本当に恐ろしかったのは別のことだった。孤独の檻の中で、もがいていた自分自身の姿だった。
「こいつ、マジでビビってる」
嘲笑が響く。崇の顔を見ると、傲慢な笑みの奥に一瞬、別のものが見えた。怯え、助けを求める切迫した何か。だが、すぐに冷たい笑顔に戻った。
「やれよ!」
一度、二度、三度…。罵声に追い立てられ、俺は無我夢中で男を殴り続けた。肉を打つ鈍い音。木刀から伝わる衝撃。「ごめんなさい…」俺は何度も心の中で謝った。やがて男の呻き声が途切れた。身体が崩れ落ち、動かなくなった。
「やべえ…死んでる」
叫び声が遠くから聞こえる。慌ただしく足音が遠ざかっていく。一人、また一人と闇に消えていった。気がつくと俺は一人だった。
握っていた木刀だけが、やけに重く、現実的だった。
遠くでカラスが鳴いていた。甲高く、鋭く。まるで死者の魂を呼んでいるかのように。
翌朝、取調室の冷たい椅子に座りながら、俺は扉の向こうで震える母の嗚咽を聞いていた。
「うちの子は違う!うちの子は違うんです!」
母の叫びが廊下に吸い込まれていく。俺は俯いたまま、何も言えなかった。国選弁護人は黙って頷くだけ。刑事の表情は変わらない。
「脅された?主犯は別にいる?それも調べる。だがな、少年―被害者は死んだんだよ」
鈍器で殴られたような衝撃。全てがその一言で終わった。
少年院送致―。
宣告を受けたとき、俺が感じたのは後悔ではない。理解できない怒りだった。なぜ俺だけが。なぜ崇たちは軽い処分で済んで、俺だけが罰を受けるのか。自分を被害者だと思い込んでいた。
愚かなことだった。
本当に苦しんでいたのは、全てを失ったあの男だった。そして、俺を救おうと声を枯らした母だった。
俺の目の前で、世界が音を立てて崩れていった。




