02 芥の勘
芥は、日常を維持することに重きを置いている。
特別な出来事は、日常があってこそ特別なのであって、それを維持しなければ、それは特別ではなくなる-彼の自論だが、彼はそれを信念に、日常というものを壊さぬように生きている。
しかし、何気ない日常とは、些細なことで崩れてしまうものだ。
事の始まりは、芥が下校中に、彼女を見つけたことである。
天女というあだ名を持つ、美少女-九鬼一夏に。
1日の授業を終え、特に部活等にも所属していない芥。家に居ようが特にすることもなく、せいぜい今日の夕飯の準備くらいで、それも時間のかかるものでは無いので、時間潰しがてら図書室に寄っていた。特に目当てがある訳では無いが、こうして本棚を眺めていると、ふと興味を引く物もある。
「…たまには、物語文でも読むか」
芥は基本、随筆文や論理的文を好んで読む。というか、物語文があまり得意では無い。
物語の中に出てくる様な世界はない、と虚しくなるからだ。
そして、やはり物語文を読んでみたものの、その虚しさに苛まれ、芥は本を戻して帰路に着いた。
そこで、一夏を見つけた。いや、正確には見かけた、かもしれない。
下校時間からかなり経っているため、通学路と言えど、人の姿はほとんどない。道中にある公園に、まだ無邪気に遊ぶ子供たちがいる程度だ。
そこの公園のベンチで、一夏は、どこか寂しげな、悲しげな顔で黄昏時の空を見上げていた。
彼女にも事情があるのは分かるし、普段なら特段気にせず、そのまま帰るであろう。…だが、今日の彼女は、何故か放っておけない気がして仕方なかった。ただの勘でしかないが、芥の勘は昔からよく当たる。それに、芥の、人を見る目は人一倍鋭い。
「天女様が、こんなところで何してるんだ」
若干の冗談を混ぜつつ、一夏に話しかける。
「…獅堂さん、私に何か御用で?」
「へぇ、名前覚えてたのか」
「クラスメイトですよ。当然覚えています」
「他人に興味のないお前が、か。意外だな」
その発言に、一夏は体を硬直させる。
「…何故そう思うのですか」
「表情や話し方を見てれば分かる。九鬼の表情や言葉には、感情がこもっていない。それに、他者との接触は極力避けている。特に異性にはな。さしずめ、世渡り術として表面上だけの交流をしている-違うか」
「…人をよく見ているのですね、貴方は」
「そういう生き方をしてきたんでな」
芥は人の行動や表情をよく見ている。コミニュケーションが不得意な彼にとって、相手の意思を尊重する上で、それは大事な要素なのだ。
「実際、今俺に向けている表情は、いつもとは違う、本当の表情なのだろう。敢えて率直に言うが、他者にどこか嫌悪感を抱いているような、そんな表情だ」
「…それは―」
「気にするな。俺はそういうのに慣れているし、九鬼には九鬼なりの事情があるんだろ。そこを知らずにやれ失礼だの、やれ社交性がないだのとは言うつもりにはならん」
「それはどうも」
「…んで、何をしていたんだ」
元々、そのことについて話しかけていたのだ。その回答は貰っていない。無論、強要するつもりはないが、只事では無いような気がしてならない。
「…別に、貴方には関係ないことです」
「まぁ、そう言うわな。他者にプライベートを探られるのは、善意だろうが悪意だろうが、良い気はしない」
「じゃあなぜ、聞いたのですか」
「…勘だな。小さな悩みじゃないことは、九鬼の表情が語ってる。それに、俺の勘はよく当たる」
「その勘にかけて、よく話しかけようと思いましたね。貴方も、他者との関わりは嫌いでしょう?」
「嫌い、と言われれば少し違うな。俺のは、あくまで苦手に留まっている。他人から話し掛ければ応えるし、それに、今にも消えてしまいそうな少女を放っておくほど、非情じゃない」
「少女…」
「別に背丈のこと言ってる訳じゃないぞ」
芥は170cm後半はある。それに比べれば一夏は小さく、150cmほどしかない。芥から見れば少女なのは確かだが、そういうことを言いたい訳では無い。
あのような表情を見れば、彼女がとても小さな存在だと感じるのは無理もない。
「それは分かりますが…。消えてしまいそうな、とは…」
「例えだ。気にするな」
「…気にしない方が難しいですが」
「今にも自殺しそうな、とでも言えばいいか?」
「…本当に、よく見ているのですね」
「自慢できることでもないがな。何をしていたのか聞いたが、察するに、家出だろ」
その言葉に、一夏は再び、驚いたように体を硬直させた。
「普段通り振舞ってるつもりだろうが、その座り方にも若干の疲労が見える。それに、僅かに崩れた髪や制服、そして目が少し腫れている。…泣いて走ってきたんだろ」
「…家出、ではありませんがね。追い出されただけです」
「……追い出された?」
「…」
それ以上は語るつもりはないらしく、一夏は黙り込んだ。
「…どうするんだ」
「どうしようもないから、こうやって途方に暮れていた訳ですよ」
「…それが答えか」
結果として芥の質問に対する回答は得られたものの、余計に一夏を放っておくことは出来なくなった。ここで彼女を置いていくのは、流石に出来ない。余計なお世話と言われればそれまでだが、彼女自身、困り果てている。
暫くして、芥は自分なりの答えを出した。
「…俺は九鬼の家族でもなんでもないから、口を出すことはできないし、それはお前も望まないだろ。だが、今のお前に助け舟を出すことはできる」
「…別に助けてとは―」
「じゃあ、このまま一晩過ごすつもりか?この季節は夜でも気温が高い。過ごせないことはないだろう。…だが、飯はどうする。それにお前みたいな美人が寝ていたら、襲われる可能性だってあるんだぞ」
その言葉に、一夏はビクッと体を震わせる。やはりと言うべきか、彼女は、特に異性に対してかなり警戒している。告白を断り続けているのも、それが理由だろう。
「…どうするつもりなのですか」
「生憎、俺はお前に興味が無いんでな。襲うことなんてまずありえない」
「そうではなくて―」
「俺の家に来い。当たり前だが、これはお前を助けるための提案であって、断るのならそれでいいさ」
「し、獅堂さんの家に…?」
「それが最善だろう。ここらにホテルはないし、そもそも、その様子から暫くは戻れないし戻るつもりもないんだろ?そんな何日もホテルに泊まれるほどの金は俺にも九鬼にもないだろ。かといって、お前は友人に頼れる性格でもない。まぁ、頼れるならそもそもこんなところで途方に暮れているわけもないが」
「それは余計です」
「はいはい。…安心しろ、さっきも言ったけど俺に下心は全くないし、俺は一人暮らしだ。俺以外家にいないし、俺も普段は部屋に篭っている。部屋に関しては2部屋ほど空いているから、好きに使ってくれればいいし、冷蔵庫にはある程度の食材も揃ってるから作りたいなら作ればいい。無論、買ってもいいがな。俺は俺で生活する。あくまで、同じ家にいる人間であって、最低限のこと以外では干渉しない」
「…何故そこまで……」
「結局は俺の自己満足だな。全くの他人ならともかく、クラスメイトのひとりが困ってるんだ。協力しないのは、俺の信条に反する。…で、どうする。俺はどちらでも構わない」
「………」
いくら芥が言おうが、やはり男性の家に行くというのは、当たり前であるが抵抗がある。それは芥も同じだ。それゆえ、あまり強くは言えないし、はなから強要するつもりもない。身の危険を理解した上で彼女が選択するのであれば、それ以降は芥の介入の余地は無い。
「…1つ、条件があります」
「なんだ?できることなら了承する」
「せめて、家の家事くらいはさせてください。貴方は自己満足と言いますが、流石にここまでしてもらって、私は何もしないというのは気が引けます」
「なんだ、そんなことなら構わないさ。やらせるのはこちらもこちらで気が引けるが、九鬼が望むなら拒みはしない。なんなら、俺としては有難いな。出来なくないとはいえ、やはり家事とは、どうにもやる気が出ない」
「……ありがとうございます」
「ん」
傍から見れば、というか当の本人であっても、なんとも異様な出来事だ。事実、冷静を装っている芥ではあるが、流石に女子を家に呼ぶことには若干の抵抗となんとも言えぬ恥ずかしさがある。
感情の起伏が小さい彼にとって、その差恥ですら大したことでは無いが、それでも気になるのは気になる。とはいえ、やはり、あの状況の彼女を放っておくことは出来なかった。
例えとして出したが、あんなところでこんな美女が入れば、絶対に絡まれる。防ぎようのないものならともかく、自分が提案すれば防げることを防げず、彼女を見捨てることは無理な話だ。
こうして、芥の日常は崩れ去った。
だが、後悔はしていない。学校一の美少女、九鬼一夏を救えるのであれば、安いものだろう。