第3章:自分じゃない
夜はあっという間にやってきた。
朝のほとんどを使って、あの箱の中を探っていたけれど、唯一目に留まったのは日記の内容だった。
深刻なことが書かれていると思ったが、3月26日の日記はまるで子供の遊びのようだった。
マリエは想像力豊かで元気な女の子だったらしい。以前の俺は、ただそれに付き合っていただけみたいだ。
まあ、時間潰しにはなったし、今の身体の状態でもなんとか家の掃除や整理整頓をした。
ついでに叔母さんの部屋まで掃除してしまったけど、怒られないといいな。
「ただいま…」
叔母さんが帰ってきたようだ。リビングへ向かう。少し疲れているが、疑問を抱いたままでいるわけにはいかない。少なくともマリエという人物が誰だったのか、知る必要がある。
「おかえりなさい…」
「リョウ、無理しないで。そんなに動いちゃダメって言ったでしょ…」
彼女は少し怒っているようだった。部屋の掃除具合を見てそう言ったのだろう。
「ご、ごめんなさい…でも、他にやることがなくて…」
「はぁ…リョウ、何度も言ってるけど、無理しなくていいの。私は自分の意思であなたを世話してるのよ。それについては前にも話したでしょ…」
数ヶ月前、俺たちは真剣に将来のことについて話し合った。
あのバーで働くようになって、自分の生活は自分で何とかしたいと思ったし、叔母さんの負担にもなりたくなかった。
でもこの数週間で全てが狂った。今では体も思うように動かない。
それでも、あの時はなんとか説得して、独り立ちを約束したはずだった。
けど今は…もう一度頼らざるを得ない状況だ。
「う、うん…」
なんとも気まずい空気。けど、聞かなきゃいけないことがある。
「ねぇ、叔母さん…」
「なに?リョウ?」
「母さんの事件の前、俺ってどんな人だった?」
今まで一度も聞いたことのない質問だった。
必要ないと思ってた。でも今は違う。
本当は怖い、けど、知りたい。心の奥ではもう分かっているけど、確認したい。
「前って…?」
叔母さんは目をそらし、少し落ち込んだように見えた。
「うん…」
俺の問いに、彼女は少し悲しそうにため息をついた。
「そうね…もうこんな話はしないと思ってた。でも…」
――しまった、罪悪感が込み上げてくる。
彼女はずっと俺の世話をしてくれていた。
早く仕事から帰ろうとしてくれたり、恋人を作る時間も削って…
それが理由で、俺は一人暮らしをして自由にさせてあげたかった。
でも、まだ言えない。気持ちはあっても、うまく表現できない。
「さっき、あの箱の中を見て、いろいろ思い出したんだ。あの日記と古い携帯、たぶん…以前の俺のものだと思う」
「そう…その表現、まさにぴったりね」
「え?」
「うん、リョウ。あなたはあの事件の前とまったく違う人になってしまったのよ。以前はすごく明るくて、エネルギッシュで、人懐っこい子だった。でもあれからは…どこか影のある子になってしまった。最初は学校の友達の件が理由だと思ってたけど…今では、本当に別人になったんだと感じるわ。だから、“以前の自分”って言い方、間違ってないのよ」
やっぱり、そうだったのか…。
けど、心のどこかで分かっていた。
「じゃあ…やっぱり俺は、俺じゃないんだ…」
「そんなこと言わないで。たぶん記憶が戻ってないせいよ」
――嘘だ。
医者は脳に異常は見られないと言っていた。
理屈の上では、とっくに記憶が戻っていてもおかしくない。
でも、思い出せるのはここ2年のことだけだ。
「気にしなくていいわよ。さあ、もう休みましょ」
「うん、おやすみ…」
「おやすみなさい」
これ以上話すのはやめた。
彼女も疲れてるだろうし、睡眠の邪魔はしたくない。
「…ん?」
一瞬だけ、叔母さんの胸元から光が見えた気がした。
目をこすってもう一度見ると、何もなかった。
…ただの疲れか。
「…あのテロ事件で爆発があった大学にいたとされるが、失踪した少女の手がかりは未だ見つかっていない…」
「……」
彼女は粉のように消えた。見つかるはずがない。
そう言いたいけど、誰も信じてくれないだろうな。
「はぁ、疲れた…」
今日は朝からずっとリハビリをしていた。
つま先立ちやウォーキングマシンで1時間。
でも、すぐに疲れてしまう。数分歩くだけでも息が上がる。
面倒だけど、早く回復しなければ。
これ以上、叔母さんの負担になりたくない。
だから、彼女の忠告を無視して、
それからも毎日掃除や整理、読書やラノベを読みながら過ごしていた。
そんな日々が続いて一週間。
今日は叔母さんの休みの日。
普段は朝から起きて世話をしてくれるのに、
今日はずっと寝ている。まあ、それも仕方ない。
以前、医者に処方された睡眠薬があった。
彼女はそれを飲んでみたが、効果が強すぎて使わなくなっていた。
昨夜、こっそりその薬を料理に混ぜて出した。
せめて一度くらい、ゆっくり眠ってほしかったから。
どうして、いつも自分より俺を優先してくれるんだろう?
何度もその疑問が浮かんだけど、直接聞く勇気はなかった。
「コンコン…」
……誰だ?ドアのほうへ歩いた。
「カサキさんは今いません…」
と、声をかけた。
「いえ、ヒト・リョウさんを探しています」
「……?」
俺を?誰だ?まさか警察か?
「私はカタムラ警部です。ご協力いただきたい」
やっぱり…。ドアを少しだけ開けて、様子をうかがう。
黒いジャケットにゆったりとしたズボンの男。
たしかに警察のようだったので、ドアを開けた。
「どうぞ、お入りください」
感情を抑えた声で迎えた。
リビングに案内し、事前に用意していたお茶を出した。
叔母さんが起きる時間も近かったから、ついさっき淹れておいたものだ。
「事件の進展ですか?」
尋ねると、警部は軽く頷いた。
「察しがいいな。話が早くて助かる」
そう言って彼はお茶を置いた。
「まぁ、他に理由はないですし」
「監視カメラの映像から、いくつか不審な点が見つかった。
君の証言と一致している部分も多い。
あの爆発は、君が話していた男によって引き起こされた可能性が高い。
問題は……失踪した少女について、何か知っているか?」
彼はジャケットの中から写真を取り出した。マリエの写真だった。
「そうですね…。
今なら、ようやく証言が信じられる状況になったので話します」
警部は鋭い目で俺を見つめた。
「つまり、何か知っているということだな」
「はい。ですが…彼女の遺体は見つからないでしょう」
「ほう?詳しく話してくれ」
「爆発の後、再び建物に入ったんです。
彼女はそこに倒れていて、もう息はなかったと思います。
近づいた瞬間、突然彼女の体が粉になって、俺の口に吸い込まれて…。
その後、手に奇妙なピラミッド型の金属が現れました。
そして、またあの男が現れて襲ってきた。
気づいた時には、もう病院にいました」
「……」
彼は無言でメモを取りながら、眉をひそめていた。
まぁ、信じられない話だよな。
「現場で、その特徴に似たアーティファクトは確かに見つかった」
「たぶん、それが爆発の原因と見なされたんでしょう。
でも、俺が言ったように、それは爆発後に現れたんです」
彼は何も言わず、次に俺の名前が書かれたファイルを取り出した。
「ちなみに、君についても調べさせてもらった。
数年前、君の故郷でも似た事件があったようだな」
――あの日、あの強盗たちを殴り殺した…記憶はないけど。
「素手で加害者を殺した証拠が残っていた。
今回の件と同じく、常識を超えた力が使われていた。
そして、君はその両方に関わっている…」
その視線――まるで、俺を容疑者として見ているようだった。
「俺もそう思いました。ですが…2年前以前の記憶がないんです」
「記憶については聞いていない。
だが、この2件が偶然とは思えない。何か繋がりがある気がする」
「……たしかに、偶然にしては出来すぎてるかもしれません」
「これが事実だとすると、あの男は人間ではない可能性がある。
ミュータントか、アンドロイドか…。
常識の範囲で考えていたら、真実にたどり着けない気がする」
――なに…?
「でも俺は、あの時“自分は悪魔だ”って名乗ったと証言しましたよ」
「聞いている。だが、その証言だけでは何も証明できない。
おそらくこれは、未知の脅威だ」
「そ、そうですか…」
「とにかく、また連絡する。引っ越す予定があるなら知らせてくれ」
――まあ、引っ越す余裕なんて、今はないけどな。
警官が帰った後、しばらくして叔母さんが目を覚ました。
彼女は食事を作ってくれて、スマホを手に取り何かを見ていた。
こんな時間に、家に二人ともいるのは珍しい。
だからか、どこか気まずい雰囲気が漂っていた。
「ちょっと外に出てみない?」
彼女がその沈黙を破って言った。
「うん、いいよ」
そう答えた後、服を着替えて一緒に近くの公園へ出かけた。
久しぶりに外へ出ると気持ちがいい。
社交的な性格ではないけど、家に閉じこもりっぱなしも性に合わない。
散歩して、アイスを食べて、ベンチに座った。
だけど、この間、一言も会話はなかった。
「ねえ、彼女とか作る気ないの?」
いきなりそんなことを聞かれて、俺はため息をついた。
なんて答えればいいのか迷ったが、自分のことを話すわけにもいかない。
「正直、そういうことを聞かれると居心地が悪いんだ…
別に、嫌いってわけじゃないんだけど…」
「え?あまりこういう話はしないから…
でも、そう言われるとちょっと気になるかも」
……ああ、なるほど。
「叔母さん、ずっと俺のことばかり気にしてるけど、
自分の幸せは考えたことあるの?
なんで、そんなに俺を優先してくれるの?
もし誰かと恋愛したいって思っても、俺は止めないし、
むしろ…幸せになってほしいんだ」
すると、彼女はクスッと笑いだした。
その笑い声が次第に大きくなっていく。
「アハハハハ…」
びっくりした。
こんな風に笑う彼女を見るのは初めてだ。
「何か変なこと言った?」
真剣な話をしてるのに、なんで笑うんだ?
「ふふ…違うのよ。
ただ、まさかそれがあなたの悩みだったなんて、想像もしてなかったの。
ああ、なるほど、って思っちゃって…アハハハ」
……わからない。
でも、彼女が笑っている姿を見るのは嫌じゃない。
「なんだよ…俺、バカみたいじゃん…」
そうつぶやくと、彼女の笑い声がまた響いた。
「フフ、ごめんごめん…
でも、嬉しいよ。そんな風に思ってくれてるなんて」
しばらくそのまま黙っていた。
さっきの話をしたことが、なんだか恥ずかしくなってしまったからだ。
「……」
本当は、どう受け止めればいいのかわからない。
でも、思ってることはちゃんと伝えた。
「俺、本気で自立したいと思ってる。
なんで、そんなに俺に尽くしてくれるのか…よくわからないんだ」
「あなたがそう言ってくれるのは嬉しいよ。
でもね、私はあなたのお母さんに恩があるの。
だからこそ、こうして面倒を見てるのよ。
心配しないで」
「でも、もうすぐ俺も成人するんだよ?」
「ふふ、わかってるわ。
でも、あなたが卒業するまでは、ちゃんと面倒を見るつもりよ」
その笑顔――まるで青春を謳歌する少女のようだった。
「そっか……」
自然と笑みがこぼれた。
「じゃあ、頑張らなきゃな…」
そうして、俺たちはしばらくベンチで話をしていた。
気づけば、昼になっていた。
それから家に戻り、叔母さんは電話を受けて、
すぐに秘書の制服を着て外出していった。
おいおい、今日は休みだったはずなのに…。
まったく、ブラック企業め――。