プロローグ:逃げることしかできない。
俺の名前はリョウ。苗字なんてどうでもいい。
今、俺はバーでバイトしてる。大学が始まるまであと二日。
俺は韓国人だが、今は京都にいる。故郷で起きたことを思い出さないためにここまで来た。
「おいウェイター!ウォッカ持ってこい、ボトルでな…」
ちょっと今忙しいんだけど!でもまあ、それが仕事だから仕方ない。
「はーい!ただいま!」
働いている理由は金のためじゃない。
ただ、頭を何かでいっぱいにしておきたいだけだ。
2年前、事件があった。でも、あの日より前の記憶は何一つない。
記録によれば、俺は目の前で母親を刺されて殺されたらしい。犯人は2人の強盗だった。
それだけなら普通だ。出血多量で死ぬのは自然なことだ。
だけど、俺自身が監視カメラの映像を見ても信じられなかったのはここからだ。
母が刺された後、犯人たちは逃げようとした。
次の瞬間、俺は一瞬で奴らに追いつき、拳一発で二人を粉々にした。
15歳の少年がそんなことできるなんて、信じられるか?
それから先の記憶はあるが、それ以前はすべて空白だ。
病院で目覚めた時、自分の名前すら思い出せなかった。
でも、不思議なことに、たった一ヶ月で数学、科学、文法など、すべての知識は思い出した。
ただ、記憶だけは戻らなかった。
記憶喪失が本当だと分かると、警察は俺を保護観察付きで釈放した。
15歳で二人を殺したってことだ。
その後は叔母に引き取られた。彼女は37歳、小柄で、俺から見れば可愛い女性だ。
叔母は俺を私立高校に入れてくれた。でも長くは続かなかった。
クラスメイトの目に映る俺は「恐怖の象徴」だった。
誰もが俺を避け、誰とも仲良くなれなかった。
三校転校しても結果は同じだった。
「あいつ怒らせたらやばいよ」「“人間ミキサー”が来た」「“ハンマー男”がなぜここに?」
そんな言葉ばかり耳にした。
もういいやって思った。独学で勉強することにした。
ほとんどの家庭教師も俺に教えるのを拒んだ。
でも、たった一人だけ、勇気ある教師が俺を指導してくれた。
そのおかげで17歳で高校を卒業できた。最近の話だ。
全国模試で457点(満点は500)を取ったおかげで、
貧しい家庭出身ということで奨学金ももらえた。
こうして俺は京都の大学に入学できた。
大学生活はもうすぐ始まる。それまではバイトで一日を潰す。
これが今の俺の人生だ。普通で、平和であってほしい。
あの忌まわしい事件は過去のものだと願いたい。
誰も俺のことを知らないこの町で、新しく始めたい。
***
あっという間に一日が終わった。
今は叔母が借りてくれたアパートに帰るだけだ。
大学からは近いが、バイト先からは少し遠い。
バスの最終便で帰った頃にはもう夜の9時だった。
アパートは小さいけど暖かい。いくつかの集合住宅が並ぶ住宅街にある。
ドアを開け、部屋に入る。今日はもう寝よう…と思ったが、
引っ越しの荷解きをすっかり忘れていた。
俺は散らかってるのが嫌いだ。
荷物は少しだけ。服が入った箱、好きな小説が入った箱、そして――
「こんな箱、俺持ってきた覚えないぞ?」
開けてみると、中にはミドルクラスのスマホ、何枚かのイラスト……
「俺、こんな絵描いたっけ?昔の自分が恥ずかしいわ」
他にもいろいろ入ってたが、一冊の革のノートに目が止まった。
「日記……か?」
読み始めてみたが、平日はいつも単調。週末だけが少し変わってる。
最後の方に、妙な一文を見つけた。俺はもしかして、事件の前からすでにおかしかったのか?
「2019年3月26日
10年前のあの子と再会した。…なんか中二病っぽい子だった。
でも、話してみると意外といい子だった。まあ、信じすぎだとは思うけど。
まるで漫画から出てきたような話だった。
どうやら、俺は元オタクらしい。今の俺はアニメ嫌いだけど。
字幕付きの動画とかマジ無理。小説の方がいい。
…でも、あの不思議なピラミッドに触れた時の記憶だけは、どうしても夢だったとは思えない。
彼女曰く、本当にそれは起きたらしい。
明日、彼女に会う約束がある。でも彼女は――」
「はぁ…昔の俺、バカすぎるな」
日記を閉じて荷解きを続けた。
俺は綺麗好きだ。
クモの巣の一本の糸がズレてても直すレベル。
人付き合いも嫌いだ。友達なんて時間の無駄だと思ってる。
叔母は「人見知り」とか言うけど、そうじゃない。
本気出せば百人でも千人でも友達できると思う。
でも、それが無意味に感じるだけ。
片付けが終わった部屋を見て、俺は満足した。
ご飯は…卵をスクランブルして、パンをトーストしただけ。
料理は苦手。ご飯炊いたら絶対失敗する。
食器を洗い、ベッドを見つめる。完璧に整ってる。
シワ一つない。まあいい、今日はもう寝よう。
***
次の日、朝はすぐに来た。
じゃがいものスープを作ったら、意外とうまくいった。
コーヒーとパンで朝食を済ませ、家を出た。
今日は漫画ショップに行く。が、目的は漫画じゃない。
絵が多すぎると想像力が失われると思う。
数ブロック歩いて到着。すぐに小説コーナーへ直行した。
ジャンルは問わないが、特にライトノベルが好きだ。
続きが気になって仕方なくなるようなやつ。
ネットでも無料で読めるけど、画面は目が疲れるし、
何より作家さんにお金を払いたい。
2冊買って、家に帰った。
最初の一冊を読み終えた。まあまあだった。
時計を見ると、9時16分。
「まだいけるな、もう一冊読もう!」
2冊目は当たりだった。話も構成も面白い。
時計を見ると――
「うっそ、もう10時45分!やばっ!」
急いでシャワーを浴び、仕事着に着替えて家を出た。
バスはもう行ってしまったらしい。
屋台の親父がそう教えてくれた。
仕方なくスナックを買って食べながら次のバスを待った。
バスに乗ったが、途中で渋滞に巻き込まれた。
あと15分で遅刻確定。バスを飛び降りてダッシュした。
5〜6ブロック走って、やっと職場に到着。
店の前で上司が腕を組んで待っていた。
「いい時間に来るじゃねえか、ヒトくんよ」
時計を見ると、15分の遅刻。言い訳せずに黙っていた。
すぐに仕事開始。と言っても、客が一人も来ない。
昼の2時、ついに最初の客が現れた。
高そうなスーツを着た男が現れ、その後ろには見るからに怪しい二人がいた。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「なんでもいい。店長に伝えろ、俺が来たと。」
「かしこまりました。お名前は――」
言い終える前に、ナイフが飛んできた。
反射的に後ろへ跳び、かすっただけで済んだ。
俺には不思議な力がある。人の殺意を感じ取れる。
もう一度襲ってくるかと思ったその瞬間――
「やめろ。」
スーツの男が止めた。手下はナイフを引っ込めた。
「余計なことするな。店長を呼べ。それと、酒を持ってこい」
…この店、大丈夫か?
何も言わず、裏にいる店長のもとへ。
彼は賞味期限をいじっていた。
「店長、お客さんが3人来ています」
彼は不機嫌そうに俺を見た。
「見て分からんのか?忙しいんだよ!お前が対応しろ!」
「で、でもあいつら、明らかにヤバいですって…」
その瞬間、店長の顔色が真っ青になった。
彼は壁から酒瓶を取り、砕いて、その破片で自らの首を…
「うわぁっ!」
俺は叫び、後ろに倒れた。血の匂いが部屋中に広がった。
まさか、こんな目に遭うなんて。
数分後、あの三人が裏に入ってきた。
床に倒れていた俺の前で、彼らは店長の遺体を見下ろし、
「警察を呼べ。」と言って去って行った。
我に返り、電話を取って通報した。
「こちら警察です。どうされましたか?」
「じ、事件です!店長が…自殺しました!」
10分後、警察が現場に到着。
事情を話し、取り調べを受けた後、
俺は「今週中は市外・国外への外出禁止」と告げられた。
家に帰ると、放心状態だった。
シャワーを浴び、テレビをつけると、もうニュースになっていた。
「…“闇金”の取り立てが来た途端、自殺か…」
「そういうことか」
つぶやいて、俺は再びあの日記を見つめたが、
手に取ったのは別のもの――一枚の写真だった。
フレームに埃がつもっていて、よく見えなかったが、
中には、13〜15歳の俺と、赤髪の女の子が一緒に写っていた。
笑顔で俺に抱きついている。彼女は一体――
写真の裏に紙が挟まっていた。
「思い出して、マリー」
…ぷっ。思わず笑ってしまった。
2年間、必死で思い出そうとしてできなかったのに、
こんなメモ一枚で何かが変わるわけがない。
涙が出るほど笑って、
少しだけ、今日見たあの死の光景を忘れることができた。
「思い出せるわけない、もう何度も試したんだ…」
そう呟いた。本当に、何度も思い出そうとした。
でも、どう説明すればいいのか分からない。
記憶を失ってから前のことを思い出そうとすると、
いつも俺は誰かと戦っている自分の姿を想像してしまう。
ぼやけた映像の中で、誰かと対峙する俺の後ろには、
まるで守るべき人たちがいるような気がしてならない。
なんなんだろう、あれは――でも、確実に俺の過去じゃない。
叔母にそのことを話したが、
「そんなこと一度も起きてないわよ」と言われた。
俺の頭は混乱している。
それ以上考えるのが怖くなって、
「きっと、脳が記憶の空白を埋めようとして、勝手に作ったイメージだ」
そう思うようにしている。でも、本当にそうだろうか?
…まただ、また同じ思考のループに陥っている。
思い出そうとするたびに、結局この地点に戻ってくる。
もう諦めた方がいいのかもしれない。
あの箱にすべてを戻し、
最後にもう一度、あのスマホと写真を見つめた。
中をさらに探ったが、充電器は見つからなかった。
それに、今使っているスマホとは充電端子の形も違う。
「明日、少し時間を作ってこのスマホ用の充電器を買ってみるか…
もしかしたら、何か面白いものが入ってるかもしれない。
記憶を取り戻す手がかりとか…」
「はぁ…」
思わずため息がこぼれた。
やっぱり、どこかで――
俺はまだ“何か本当に大切なこと”を思い出したいと願っているんだ。
全部を箱に戻し、残りの片付けも終わらせた。
なぜか心が少し落ち着いていた。
今日起こったあの出来事すら、すっかり忘れていた。
そして気がつけば、
まるで一瞬のまばたきのように――
翌朝が、静かにやってきた。