欲しがりな妹に婚約者を奪われたら、溺愛幼馴染が「やっと俺の出番か」と微笑んできた
タイトル通りのスカッとハッピーエンドです。
「リリアーナ! お前との婚約は破棄させてもらう!」
手紙も送らず訪ねてきたかと思ったら、目の前の婚約者―――ジェラルドは鼻息荒くそう言った。
リリアーナは自身を見下ろす男を、きょとんとした目で見つめていた。そしてゆるりと小首を傾げて「この人はいったい、何を言っているんでしょう……?」という顔をする。
動きに合わせて、砂糖をたっぷり入れたミルクティーのような茶髪がさらりと揺れた。
驚くでもなく悲しむでもなく、不思議そうな顔をするリリアーナが癪に障ったのだろうか。
ジェラルドは語気を強めながら言葉を続けた。
「お前のようなつまらない女ではなく、明るく可愛らしいミリアの方がよっぽどいい!」
「ジェラルド様のご両親は、納得されていらっしゃるんですか?」
「当たり前だろう!」
「……まぁ、でも、そうですね」
ジェラルドの返事に、リリアーナは少し考えてから納得する。
ミリア、というのは。リリアーナの異母妹である。
リリアーナは長女であったが父と侍女の間にできたいわゆる妾の子だったので、そうではないミリアは大層可愛がられて育ってきた。チョコレートのような色をしたふわふわの髪に、チェリーのように赤い瞳が可愛らしかった。
だがやり過ぎなほどに甘やかされて育ってきたため幼い頃からわがまま放題で、気づけば大層楽しそうにリリアーナを虐げていた。
見た目を着飾ることが優先で、姉のものを奪うのが好きで。
つまりジェラルドは、そんなミリアを婚約者にしたいと言っているのだ。
この契約はいわゆる政略結婚で、家同士の結びつきを強固にするために行われるものだ。
小さい頃から決められた相手ではあったものの、お互い愛はなかった。だけどリリアーナの立ち位置にミリアが立てば、家同士の結びつきが強くなるだけでなく愛のある結婚生活を送れるという訳だ。一石二鳥である。
ついでにミリアにとっては姉のものを奪えることが、3つ目のメリットとして数えられたのだろう。
「私ではなく妹と婚姻関係を結べば両家の結びつきは変わりませんし、お父様方も問題ないというわけですね」
「ふん、能面のような顔をして、可愛げのない女だ」
「ジェラルド様っ……!」
後ろの方から、パタパタと軽い足音が聞こえる。
振り返れば、話題の中心になっていたミリアがこちらに駆け寄ってくるところだった。
赤い瞳を潤ませて、当たり前のようにジェラルドの隣に立って。
姉のものを奪ってやった優越感に浸りながら、ミリアは言葉を紡いだ。
「リリアーナお姉様、ごめんなさい。ジェラルド様とお話するうちに、どうしても惹かれてしまったの。真実の愛に、気づいてしまったの……! ジェラルド様もお姉様を愛していないと言うし、それで、私っ……」
「そうなの、それは仕方ないわね」
「許してくださる? お姉様」
「…………」
「お前はどうしてそう、ミリアに冷たいんだ! ミリアが泣きそうな顔をしているのだから、慰めの言葉のひとつでもかけてやったらどうなんだ!」
「あぁ、ジェラルド様。お姉様は悪くないのです!」
自分という邪魔者をスパイスとして盛り上がっている2人を、リリアーナは冷めた目で見ていた。
わがまま放題で自分を世界の中心だと思っているミリアのことは、包み隠さずに言うとそこそこ憎たらしいと思っている。
長年自分を虐げてきた相手を好きになれというのも、まぁ無理な話だ。
だけどリリアーナはジェラルドのことを好きでも何でもないので、正直今回の件でそこまで傷ついているわけではない。……といいたいところだが、彼を好きではなかったとはいえ当然のように踏みにじられた自尊心は、じくじくと痛んでいた。
ジェラルドとの婚約がなくなったら、どうなるのだろうか。
別の貴族に嫁がされるか、勘当されるか……。長年自分を虐げてきた家族のことも別にどうでもよかったし、貴族の称号にそこまで未練はないので、自由気ままに暮らすのも悪くないかもしれない。
でも、それでも。
「ねぇ、ミリア」
「なぁに?」
どうせこれが最後になるなら、言ってやりたいことがある。
「可愛らしく甘え上手な貴女を、お父様もお母様も大層可愛がっていらっしゃったわ。貴女が私を舐め腐っていることはわかっていましたし、それでも良いと思っていたのよ。あと少しの辛抱だって考えていたし。でも、貴女本当に、それでいいの?」
「……どういうこと?」
当事者らしからぬ静かさでジェラルドとミリアを眺めていたリリアーナが、つらつらと言葉を紡ぐ。
その姿に、ミリアの表情が怪訝そうに歪んだ。
私はミリアに好きな人を取られた哀れな女ではないし、ミリアを選んだジェラルドに八つ当たりをしたりもしない。
どちらかというと、私は今、晴れやかな気持ちでいっぱいなのだ。
むしろ、ありがとうと言いたいくらいよ。
リリアーナはにっこり綺麗に笑い、軽い調子で囁いた。
「その男、だいぶクソ野郎よ?」
「「……は?」」
その瞬間の2人の顔といったら、写真に撮れなかったことが悔やまれて仕方ない。
お腹を抱えて笑い出しそうになるのをこらえて、リリアーナは真っ直ぐと2人を見つめる。
怒りで頬を真っ赤に染めたミリアは、唇をわなわなと震わせていた。その隣に立つジェラルドも、目を見開いて固まっている。
この場で優雅に微笑みを浮かべているのは、リリアーナだけだった。
「な、なっ……なんてことを仰るの!?」
「ええと、だからクソだって」
「私の大切な人を、排泄物呼ばわりしないでちょうだい!」
甲高い声で怒りを露わにするミリアは、愛する相手を守ろうと1歩前に出る。
その気持ちは尊いものかもしれないけれど、本当に守る価値があるのだろうか。この男は。
そんな風に思いながら、頭の回転が速くはないミリアでもわかるように、プレゼントのリボンをほどくようにゆったりとした声色でリリアーナは言葉を並べた。
「気に入らなければ怒鳴る、約束は守らない、他のご令嬢との噂が絶えない、挙げ句の果てには手を上げる。こんなの事故物件じゃなかったら、なんだというの? 家が立派ってこと以外、誇れるものなんてないじゃない。それだって貴方のお父様が立派なだけで、貴方の力ってわけじゃないわ。こんな男、私の家より家格が上じゃなければこっちからお断りよ」
ジェラルドの婚約者になってからの日々は、端的に言ってしまえば我慢の連続だった。
何をされても微笑みを絶やさず、自由を許し、されるがままになっていた。リリアーナの方が家格が下なので、逆らうという選択肢は最初から渡されていなかったのだ。
それだというのに、ミリアがこのポジションを欲しがるなんて。
姉のものを欲しがる悪癖も、ここまでくるといっそすごいと思ってしまう。だって、姉の傷つく顔が見たくて、この地獄に足を踏み入れるなんて。
リリアーナにはこれっぽっちも理解ができないのだから。
リリアーナの口はくるくると回り、それに合わせてミリアの顔色は青ざめていく。
ジェラルドは「いや」とか「違うんだ」とかごにょごにょ言っていたけれど、混乱しているのか吐く言葉は意味を持たず溶けて消えていく。
最後だから、言いたい放題言ってやる。
そんな気持ちで自由に振る舞っていたリリアーナだが、それは長くは続かなかった。
ふと外から足音が聞こえた。最初は風の音かと思ったが、次第に近づいてくるそれは足音だと気づく。
第三者の介入らしき音に、リリアーナは急速に頭が冷えていった。
そしてジェラルドとミリアの後ろから覗く人影を見て、リリアーナは思わず動きを止めた。
「門が開いていたから入らせてもらったが―――……ん?」
ド修羅場には似合わない軽い声に、ジェラルドとミリアも背後に振り向いた。
一気に視線を集めた男は、ぱちくりと瞬きを繰り返す。
「おや、お取込み中だったか?」
「……アレク?」
「あれ? リリアーナじゃないか!」
思わずこぼれた名前に、アレクと呼ばれた男はパッと表情を明るくした。
ジェラルドとミリアには目もくれず、アレクはずかずかと玄関の中に入り込んだかと思うとリリアーナの手を取り勢いのままに握る。
「久しぶりだなぁ! 会いたかったよ!」
昔と変わらない眩しい笑顔に、リリアーナは思わずドキッとした。
アレクは、リリアーナとミリアの幼馴染である。
太陽に透けるような金髪と青い瞳が印象的で、幼い頃から彼は賢く美しかった。
貴族ではないが家に出入りする商家の息子であり、昔はよく遊んでいたのだ。ミリアは幼い頃から階級主義だったのでアレクには一切興味を示さなかったが、リリアーナは特に気にせず普通に接していた。
2人の交流は、アレクの父親が国王の命で遠くで仕事をすることになるまで数年ほど続いた。
「アレク、どうしてここに……?」
握られた手とアレクの顔を交互に眺めながら、リリアーナはいるはずのないアレクに問いかけた。
頭の中では今までの思い出が駆け巡り、セピア色になっていたはずのそれはどんどん鮮やかな色を取り戻していく。
彼が笑った顔、真剣なまなざし、淡く優しい思い出たち。
今思えば、リリアーナにとってアレクは初恋の相手だったように思う。
その後すぐジェラルドとの婚約が決まったことに加えてアレクは遠くへ行ってしまったので淡い思い出にすぎないが、それでも、こうやって顔を見ればあの頃を思い出して胸が締め付けられてしまうのだから。
初恋とは恐ろしいものだ。
「どうしてって、ようやくこっちに戻ってこれたから、久しぶりに幼馴染の顔でも見ようかと思って……そういえば、玄関で何をやってるんだ?」
そう言われてようやく、ジェラルドという客人(別に招いてはないが)を玄関に立たせっぱなしなことに気づく。冷静なつもりでいたが、リリアーナも突然の婚約破棄に混乱していたようだ。
今更ジェラルドにお茶など振る舞うつもりなど毛頭ないが、傍から見たら不思議な光景なのも理解できた。
突然の第三者の登場に固まるジェラルドに代わり、リリアーナはかいつまんで事の顛末を語りだす。
「さっき、婚約破棄されたのよ」
「え?」
「そこのジェラルド様が私との婚約をなかったことにして、妹のミリアと婚約したいんですって」
「……へぇ、そっか! そうかそうか!」
憐れまれるか、同情されるか、もしかしたら私のために怒ってくれるか。
リリアーナは様々な反応を思い浮かべつつアレクの言葉を待っていたが、予想に反しアレクは青空色の瞳を輝かせた。
喜びを目一杯詰め込んだような顔をして、リリアーナの背中をバシバシ叩く。叩く、といっても加減はされているので、リリアーナは痛くもなんともなかった。
そういう優しさを持つアレクを、リリアーナは好ましく思っていたことを思いだした。
「……貴方、なんでそんなに嬉しそうなのよ」
「そりゃあ、この日をずっと待っていたからに決まっているだろう!」
「え?」
「やっと俺の出番がきたか。君の婚約話を聞いた日から、苦節何年だ……?」
「え?」
慰めの言葉のひとつでもくれるかと思っていたのに、アレクは目に見えてわかりやすく嬉しそうに微笑んでいた。語尾に音符がつきそうなほどの軽い声に、リリアーナはぽかんとする。
リリアーナも驚いていたが、視界の端に映るジェラルドとミリアも驚きにひとつまみのドン引きを混ぜたような顔をしていた。
そりゃあそうだろう。
幼馴染の婚約破棄という一大事に、何故こんな喜びに満ちた顔をしているのだ。
どう考えてもこの空気感で浮いているのはアレクのほうなのに、アレクはそのことに気づかずぐいぐいと話を進めていった。
気づけばリリアーナの手をそっと取り、うっとりするような瞳で見つめてくるアレク。それを呆けた顔をして見つめ返すリリアーナ。
情緒も何もない中で、アレクは歌うようにつらつらと言葉を吐きだす。
「いやぁ、実にタイミングが良かった。バラの花束でも用意したいところだったが、のんびりしていてまた掻っ攫われたらたまらない。ギャラリーがいるのも風情がないが、まぁ仕方ないだろう」
「……え?」
「さてリリアーナ。その辺の商家の息子だった俺にも分け隔てなく接して笑顔を向けてくれたリリアーナのことを、昔から魅力的だと思っていたよ」
「は?」
「そして親父から商会を継いでその規模を広げ続けて、国王の命で働いたこともあったな。そういう長年の功績から、俺は最近ようやく貴族になれたわけなんだが」
「アレク、貴方さっきから何を言っているの?」
まるで宝物にでもなったかと錯覚するほどに、アレクがリリアーナに触れる手つきは優しかった。
そして熱に浮かされたかのような青い瞳は、リリアーナだけを映している。
リリアーナを好ましく思っていただの最近貴族になっただの、受け流せない言葉がいくつかあるが、ここまでくるとさすがのリリアーナも何かが始まろうとしていることに気づいた。
先程まで泥沼婚約破棄の会場になっていたはずの玄関は、気づけばとろけるような甘さと柔らかさに支配されている。
リリアーナの名前を紡ぐ声は砂糖菓子のように甘く、優しさに包まれていた。
「リリアーナ」
「……はい」
「俺と結婚してほしい」
「…………はい!?」
婚約破棄されて、きっと自分はこれからひとりで生きていくと思っていたのに。
どうしてこんなことになっているの?
驚きに目を見開くリリアーナを見て、アレクは目を細めて笑う。
「それは承諾したとみて良いのか?」
「今のは承諾の『はい』じゃないわ……」
「チッ、言質は取れなかったか」
聞き捨てならない言葉が聞こえたのに、喉の奥がぎゅっとしてか細い声しか出なかった。リリアーナの頭は沸騰したようにくらくらしていて、視界の中にはもうアレクしか映っていなかった。
アレクが触れているところが熱くて、頬の辺りも熱くて、それで、それで。
―――あぁもう、どうしてこんなことに。
「なんで、急に……?」
「急にじゃない、ずっと好きだったんだから」
「えぇ……?」
「ただの商家の息子じゃご令嬢の婚約者になるなど不可能だったが、今なら君の婚約者に立候補できるというわけだ」
その言い方だと、まるで。
私のために努力して、私のために貴族になって帰ってきた。みたいな。
そんな風に聞こえるのだけれど。
自意識過剰だと言われるかと思い、リリアーナは思い浮かんだ言葉を慌てて追い出した。
だけど、アレクの言葉は疑うのもバカらしくなるようなくらいに、切実さと真剣さが詰め込まれていた。思い出として鍵をかけてしまっておいたはずの淡い恋心が、鮮やかに色づきだすような思いだった。
「貴方、私のことが好きだったの?」
「そこのクソ野郎と別れさせるために、あの手この手を使うくらいには」
「……ん? なんて?」
「えっ?」
パッと顔を上げれば、アレクは苦笑いを浮かべてするりと視線を逸らした。
「とにかく! そこのジェラルドとかいう奴の婚約者ではなくなったというのなら、俺の婚約者になるのはどうだ?」
「え? えーっと……」
「リリアーナがこの家の長女としてうちに嫁ぐならそれでもいいし、勘当されてただのリリアーナになったとしても俺は変わらずリリアーナを愛すと誓おう」
「あの……」
「まぁこんな場所で未来について語るのも風情がないし、俺の家でゆっくり語ればいいか」
いつのまにやら肩に手を回され、気づけばリリアーナはアレクに連れられ外に出ようとしていた。流されるままに歩き出そうとしていることに気づき、リリアーナはハッとする。
それと同じくらいのタイミングでミリアも我に返ったのか、慌ててリリアーナを呼ぶ声が聞こえた。
「お、お姉様っ!? どこへ行くの!?」
「えっと、ごめんなさいねミリア。ちょっと今、頭が回らなくて……」
ジェラルドも、ミリアも、そしてリリアーナも。
たぶん全員混乱していた。満足そうに笑っているのは、アレクだけだった。
ミリアはパタパタとこちらに駆け寄り、アレクに縋りつく。
チェリーと同じ色の瞳をうるませて、上目遣いでアレクを見つめてみせた。
アレクが貴族になったと聞いて、さらにジェラルドにも遅れを取らないレベルの成長を遂げたと察して。早速ちょっかいを出しに来たのだろう。
「アレク様、突然お姉様を連れて行くのはやめてください! それにお姉様を婚約者だなんて……!」
だがアレクはミリアの手を跳ねのけ、冷たい目でミリアを見下ろした。
「姉は家を出ていくし、君はジェラルドが手に入る。何をそんなに喚いているんだ?」
「なっ……!?」
「リリアーナは俺と末永く幸せに暮らすから、君は君でそいつと仲良くやればいいじゃないか」
小さい頃から甘やかされて、ミリアが黒と言えば白も黒になるような環境に身を置いていたからだろうか。そこまでキツイ言葉を浴びせられたわけでもないのに、ミリアは赤い瞳に涙をためていた。
泣きだすミリアを一瞥したあと、ため息を吐いたアレクはリリアーナを連れて歩き出す。アレクにエスコートされながら、リリアーナは門の前で待機していた馬車に乗り込んだ。振り返れば、ミリアは怒りに表情を歪ませながら涙を流している。
「そういうわけだから、まぁ、そっちはそっちでよろしくやってくれ」
ぱたりとドアが閉められて、そして何も聞こえなくなった。
少し切なさのようなものもあったけれど、きっと距離を置いた方がお互いのためになる。そんな風に思った。一緒にいたら、ダメになってしまう関係というのもあるものなのだ。
馬車に揺られる音だけが、小さく響いていた。
隣に座るアレクは、リリアーナと目が合うとふにゃりと笑う。
そして我慢できないと言わんばかりに、リリアーナを抱きしめた。
「あぁ、リリアーナ……ようやく手に入れた」
「……」
「……いや待て、リリアーナから返事を聞いてなくないか?」
先程まで世界中の幸せを目一杯詰め込んだような目をしていたのに、一転、アレクはハッとする。
そしてぶつぶつと『いやでも馬車には乗ってくれたし、嫌とは言われてないし、抱きしめてもクサイとかキモイとか言われてないし……とにかくアイツと婚約破棄したんだから、俺にもまだチャンスはあるはずだ。うん。そのはずだ』と呟いていた。抱きしめられているので、もちろん言葉の全てはリリアーナに聞こえている。
そういえば、と。流されるばかりで、リリアーナは何も言っていなかったことに気がついた。
何を言おうかと考えながら、リリアーナはアレクと過ごす未来を想像してみた。
真摯に愛を伝えてくれる、初恋の相手でもあるアレクとずっと一緒にいることができたら。
きっとそれはとても、幸せなことだと思う。
家族に虐げられ、婚約者にも裏切られたけれど。あの人たちへの未練など1ミリもない。
新しい一歩を踏み出すのは怖さもあるが、差し出された手を取ったからといって、今より悪い未来になるとは思えない。
―――だって目の前にいる彼は、私をあの家から連れ出してくれたのだから。
しばらく考えていたリリアーナは、アレクの背に腕を回してからぽつりと呟いた。
「私、初恋って叶わないものだと思っていたわ」
1人思考の渦に飲み込まれていたアレクが、ぴたりと言葉を止める。そして抱きしめていたリリアーナをバリッと引きはがしたかと思うと、こぼれ落ちそうなほどに目を見開いたアレクは興奮気味に言葉を吐いた。
「え、待ってくれ、それって……!」
「白馬の王子様が迎えに来るとも思っていなかったし、誰も助けてくれないなら自分で頑張るしかないと思っていたのよ」
「……もしかして夢か? これ」
「実は私もほんの少しだけ、夢かと疑ってるの」
「王子になるのは流石に厳しいが…………白馬、欲しいか?」
「いらないわ」
混乱しているアレクがあんまりにもおかしくて、リリアーナはふっと笑う。それを見たアレクは幸せそうな顔をして、そしてリリアーナの髪を優しく撫でた。
穏やかで柔らかな時間が、こんなにも幸せだとは思わなかった。
「あぁ、リリアーナ。きっと君を幸せにするよ」
「……今この瞬間、こんなにも幸せなのに?」
「こんなもんで満足してもらっちゃ困る! こちとら10年以上できなかった分、溺愛したくてたまらないんだから!!」
そう言ってアレクは、再びぎゅっとリリアーナを抱きしめた。
「えーっと……」
「なんだ?」
「お、お手柔らかにお願いします……」
きっとこれからも、思い通りにいかないことはいくつもあるだろう。
だけど。朝に紅茶を淹れて、アレクとたわいない話をして―――そんな当たり前の未来が、もうすぐそこにある。
それだけで、十分だと思えた。
終
感想、評価等ぽちっといただけると嬉しいです!
明日は別の短編を投稿予定です。