ユーラヒルの嵐――前夜
エリゼン離宮で決定した作戦はその日の夜半にはメルセデスの口から大隊の面々に伝えられ、決行日である翌日早朝に向けて、シュニック湖の畔の天幕では空を塞ぐような曇天の下、最初で最後の休息が取られることとなった。
中央軍の野外烹炊車が出張ってきて、大隊の主計科の烹炊員たちが中央軍からの物資で温かいトプカプ風の味付けのビーフシチューを振る舞い、中央軍から供与された北の地域特有のライパンと共に兵たちはそれを味わった。
酸味がありぼそぼそとしたライパンに小麦のパンを食するトプカプの兵たちは慣れなかったが、北のスラティ出身のリヒトだけは慣れた味だとすぐに平らげてしまった。
「なあリヒト。俺たちゃ確かにギルマン准尉たちの仇を討つとは言ったけど……まさかユーラヒルまで来て、列車杖に突撃かける役をやるたァ思ってもなかったぞ」
夕食後、自分の騎兵銃を整備しながらホイスが言う。
「僕だって思ってませんでしたよ。しかもミュッケ中将の陣に仕掛けるなんて……今度こそ僕も死ぬかもしれませんよ」
ホイスの言葉にリヒトは雷による火傷痕と青黒いマンティコア血清の痕をさすりながら、不安そうに口にする。それを耳にしたアルマが「そんなこと言わない! 死神が降りる!」と注意し、「ごめん」とリヒトは謝罪する。
「少佐のオヤジか……そんなに凄い人なのか?」
「魔導科の生ける伝説だよ。ミュッケ中将は」
言ったのは、自らの大杖を手入れするノイチュだった。
「メアリスとのカットハム係争戦争、ピンナーホルンの大赤竜、ベルタルデンの地竜、魔王軍との第七次・第九次ヴァッケブルグ攻防戦。この全てで勝ってきた。尉官時代から陣頭の魔導師としても、参謀や指揮官としても、幾つも戦功を立て続けてきた化け物みたいな人だよ。政治下手で魔導科中将で出世が止まってるとは言え、戦功で言えばベック参謀総長よりも上だ」
「ああ、はい。今のであの化物猿の番の何百倍も手に負えないってのはわかりました」
ホイスが肩を震わせながら分解整備した騎兵銃の槓杆を再び組み立てる。がちゃがちゃと槓杆の部品が音を立てて、なかなか合わないのが、オーベル=ホイスの動揺を伝えていた。
「そんな将軍の抑えてる陣に挑むってのも自殺行為だよなあ。いくら支援があるからって」
そんなヨハンのぼやきに、いつの間にか『ジャイム一家』の鉱山小鬼の兵たちと森人の兵を引き連れたジャイムがいつものぶっきらぼうな口調で返す。
「大丈夫だオーベル。お前らは俺たち軽砲部隊が陣地手前で全力で支援する。それにクレイマー大佐も付いてるって話じゃねェか」
「列車砲の専門家ですっけ。ジャイム准尉は知ってるんですか?」
ああ。とヨハンの質問にジャイムは低いしゃがれた声で答える。それにつられるように『一家』の年嵩の鉱山小鬼の兵たちも頷いた。
「十七年前のマンティコアの大発生の時に、中央軍から来た軍の中にまだ少佐だったあの人が混じってたんだよ。攻城臼砲一式をノイトックの平原に並べてな。右に何度だ、今度は左に何度、仰角何度、いや仰角何度だって。恐ろしいくらい俺たちジャイム一家をこき使って、面白いくらいにマンティコアを次から次へ吹き飛ばしていった」
ジャイムは骨張った手を何度も握っては開いてみせる。それが爆着の火花であるように。
「森人の将校様は気取ってて気にくわねェが、クレイマー大佐は別だ。ありゃ大した重砲屋だよ――だからこそ列車杖なんてェもんが恐ろしくて逃げたんだろうがな」
「やっぱり、ジャイム准尉も列車杖は怖いんですか」
リヒトが神妙な口調で問う。
「恐ろしいに決まってらァ。たった一門の軽砲ですら数人を纏めて吹きとばす威力がある、畏れるモンだってェのに、数百カムチャーンを飛び越えてとんでもねえ威力の大魔法を撃ち込むなんてェモンがどうして恐ろしくないんだ……」
ジャイムははぁ、と大きな溜息を吐いてから、言った。
「俺に言わせてみりゃ中央軍の魔導将校様がたこそ、自分の持ってる力をなんの畏れもなく、さも当然みたいに使いやがるから、力に無頓着になって底なしに力を求めちまってるように見えらァ。それだから大袈裟な攻撃魔法や列車杖みたいなモンを次から次へ組み上げちまうんだ」
なあ、ノイチュ大尉。と、突然ジャイムに話題を振られたノイチュも、戸惑うことなく訥々と語り出した。
「軍人魔導師は――特に中央軍で生き残れるような魔導師はそんなもんです。周りがみんなそうだから自分の力に慣れきりすぎて、なんの畏れもない。目に見えてるのは魔法をどれだけ強く、効果的に振る舞えるか。情や心が無く力を求める魔王グスウィンや魔族ともう大差が無いですよ……中央軍に行けなかった俺もそうなりそうになりますから」
「お前さんやミュッケ少佐は力が無いから力に溺れないで済んでるんだ。本当に身の丈にあった力で戦ってるから、戦ってる。殺し合ってるっていう実感が湧くんだ……それがわからず戦うことを選んだ生兵法や力に溺れた将校様に付いていった兵下士官が、俺ァ気の毒になってくるよ」
「そう……ですね」
ノイチュは首を横に振った。
これからヴィサンの森で始まるのは鎮圧のための殺し合いだ。『不殺』の魔法をかけることも無く、砲撃と魔法、そして銃撃や銃剣刺突で敵の兵士を葬るのだ。
叛乱側の兵士は如何な気持ちで上官に従っているのか。自分たちと相対するのか。
それを皆考えようとはしたくなかったが、自然と考えてしまった。
「僕はどうすればいいんだ」
芝の上に横たわったリヒトが口にする。
晩秋のユーラヒルの曇天はイヴァミーズの煤煙混じりの冬の空によく似ていて、リヒトは故郷の州の空を思い出していた。きっとトプカプと違って、ユーラヒルも冬になれば街も雪に包まれてしまうんだろう。
「人を殺せるのか……僕は人を殺して良いのか?」
州軍に入ったとき、リヒトはそんなこと考えたことは無かった。内陸のスラティ州軍の仕事など魔獣駆除が殆どで、リヒトも魔獣を倒した街の駐在兵の話に憧れて兵になった。
スラティでも、トプカプに移っても、敵を倒す訓練を重ねて、戦場に何度も立っていた。それでもいつも倒す相手は人に仇なす魔獣たちで、人を相手に戦うことは無かった。
『クレスタ』に攻め入ったときも――ホイスやヨハンが気遣ったのだろう――広間や廊下での射撃には加わらず、魔信室の制圧の威嚇射撃に一発撃ったっきりで終わった。
だからリヒトは兵士を撃ったことは無い。そこに明日、手や足を撃って兵士を行動不能にするだけでは済まない、殺すために撃たなければならない本気での戦闘がやって来るのだ。
誰かもわからない、しかし実際にそこに居る人の命を自分は奪えるのか。リヒトはその覚悟が付かず、今も迷っていた。
リヒトの視界にすっと影が落ちる。
曇天の夜でもすぐにわかる黄色い鮮やかな色の翼と癖の付いた金糸のような髪。
「リヒト」
アルマが神妙な顔をして言う。
「死神が降りてくるような顔になってるよ。そういう顔はやめた方がいいよ」
「やめようにしても、やめられないんだよ。僕は明日、自分の国の人を殺すかもしれないって考えたら」
「叛乱から逃げ出さなかった人だよ。もうそのぐらいの覚悟はあると思う」
「それでも逃げようとしても逃げ出せなかった人だっているはずなんだよ。真面目な人や怖がりな人は逃げるなんて出来ないだろうしさ……そんな人達を僕は手をかけるかもしれないって思うと、怖くて仕方ないんだ。兵士になった時にこんな日が来るって考えなかった自分が悪いんだけど」
「……そんなのわたしだって同じだよ」
そう言うアルマの声色はいつもの黄色い声でなく、低く、憂いに満ちた色だった。
「人鳥の中でも軍の伝令ってやっぱりすっごい憧れの職業でさ。風や雲を切って戦場の情報を伝えて。新聞の報道や戦記小説の人鳥……そういうのに憧れて州軍に入って。でもマンティコアの時とか、『クレスタ』の雷魔法とか、そういうの見てたら、軍の伝令ってすっごい重い職業なんだって気づかされた。わたしは自分で誰かを撃つことはあんまり無いけど、それでも色んな人を見殺しにしてる」
アルマも自分と一緒だったのか。そう思うとリヒトはずっと呼吸を邪魔していた胸のつかえが少し軽くなった気がした。
「ねえアルマ」
リヒトが口を開く。
「アルマは僕が人を殺したら、軽蔑する?」
「ううん」
首が横に振られ、リヒトの頭上で金糸の髪が揺れる。
「その時はわたしも人殺しだから。重砲部隊の観測任務を任されてさ、リヒトよりいっぱい人を殺すことに手助けすることになると思う」
アルマの顔がゆっくりと降りてくる。
「全部終わったら、殺しちゃった人達の家族みんなに謝ろう」
優しい声が語り出す。
「リヒト優しいから、仕方ないって切り替えられなさそうだもん」
「……うん」
乱戦の中で自分が殺した相手が誰かなんてわかるはずもない。そんなことはわかっていても、自分の気持ちにようやっと着地点を見つけられてリヒトは頷いた。
晩秋のユーラヒルの、水辺の空気の冷たさが、リヒトは少しだけ優しいものに感じた。




