嵐の前――髪飾りと母の肖像
ごんごんと蒸気エンジンの響きを船体全体に伝えながらユーラヒルへ向かう『LB-26』。その士官室でテオドールはメルセデスの髪の毛をブラシで梳いていた。
中央軍の戒厳司令部のお偉方や、下手すればヴィルヘルム帝とも顔を合わせる場で、彼女の髪の一つも整っていないのは流石にまずい。と、思ってテオドールは念入りにメルセデスの髪と馬体、それに尾の毛を梳くこととしたのだ。
髪は朝出る前にイレーネに軽くブラッシングこそしたものの、同じだけ見られる尾の毛など朝起きた時ほっといたままで、少し癖がついている。
馬体も鞍で抑えつけた部分に癖が付いていたから、メルセデスの毛という毛にブラシをかけておくことが到着までの喫緊の課題だった。
念入りにメルセデスの波打ち広がった髪の毛を梳いていくと「もういいです」という声にテオドールはブラシを止めた。
「三つ編みも編んでた」
「出来るんですか?」
「ベアトリスのをよく編んでた」
自分が末妹の名前を出した途端、少しだけ唇を尖らせたメルセデスに、テオドールは声を上げて苦笑する。
「いいだろ。こんなんでも長兄なんだから」
「それでも私のために覚えてくれた方がロマンチックでした」
我儘だなあ。とむくれる妻に零しながら、テオドールは飛行艦の揺れに抗いながら、赤い栗毛の波打った髪を三つ編みに結っていく。そして、最後に彼女の髪を止めるために脇に避けてあった髪飾りを掴み、結わえて行く。
空色石と白瑪瑙の玉の髪飾り。いつも彼女の三つ編みを止めているそれは、玉の部分が擦れ傷だらけで年季が入っていて、髪を結わえる革紐も恐ろしく使い込まれた様相だ。
「本当に気に入っているんだね。この髪飾り」
髪の先を髪飾りでゆっくりと結わえながら、テオドールが口にする。
それにメルセデスは感慨深そうに返した。
「小さい頃にお母様にもらったものなんです」
「お母上に」
メルセデスの母親。以前彼女自身やイレーネの口から聞いたことはあり、肖像画でその顔を見たこともある。メルセデスが幼少の頃に人馬熱で亡くなったとは聞いたが、詳しい話は聞いたことが無かった。
「はい。小さい頃にメルに似合うと贈られて……紐も今までに二度駄目になって付け替えたり、もう二十年は着けていますね」
二十年と言えば相当年季が入っている。テオドールの持ち物にもそんなに年期や思い入れのあるものは、幼年魔導学院に入学したときに母から買って貰った灰銀の短杖ぐらいで、それすら自分の道具として使い込んだが故に愛着を持ってのことだ。
テオドールは彼女の髪の先でその成長を見守り続け、幾多もの戦場を共にしただろう、空色と白の玉の髪飾りを見やった。
「そんなに大事な物だったんだ」
「ええ。お母様を一番身近に感じられるものですから」
メルセデスは胸に手のひらを当てる。指先が騎士鉄丁字章に触れ、その金属の感触をも感じ取るように居ながら、彼女が口を開いた。
「お母様は、わたしの一番身近で、最後まで届かない星でした」
暖かさと凜とした強さとが同居したその一言だけでも、メルセデスが亡母をどう思っているかよくわかった。
「どんな人だったの」
「とても強く、優しくて……私ほどではないですが、それでも小柄な方で。なのにお父様と互角の戦いを出来て、凜として……それでいてとても優しくて。小さい頃は寝付きの悪かった私に幾つもの英雄のお話をしてくれて、遅起きの私の髪をいつも結ってくれました」
テオドールは頷きながら、彼女の言葉から小さなメルセデスとその母親の姿を思い描く。幼い頃のメルセデスが見た彼女の母親は、きっととても輝いていたのだろう。彼女の口調がそれを雄弁に物語っている。
メルセデスはきっと母の輝く姿を――星を身近に見て育ち、そしてそれを掴もうと憧れの炎が燃え上がったのだ。テオドールが今目の前に居る女性にそう心動かされたように。
「――では、父上の言ったことは嘘になるな」
テオドールはブラシを持って、尾の方に回る。馬着から出てゆらゆらと揺れる髪と同じ赤い栗毛のメルセデスの尾を、ブラシでゆっくりと梳いてゆく。
「メルはお母上似だ。お父上にも似ているから、勘違いされたんだろうな」
「もう……私はお母様ほど出来た女性ではありませんよ。すぐに焼餅を焼くし、思い込みで走り出す未熟者なのですから。」
「それでも僕には、メルは君の語るお母上にとてもよく似ていると思う。優しくて、同じくらい凜として強いと思っている。君がお母さんになればきっと自分でもわかるよ」
メルセデスが恥ずかしそうに、呆れた声で「もう」と返す。
癖の付いた尻尾の毛は飛行艦が取り込んだ高空の少し湿った冷たい空気とテオドールの丁寧なブラシ入れですぐにほぐれて、真っ直ぐに流れてゆく。
「でも、テオの言うことも少しぐらい間違っていないと思います」
少しだけ頬を赤らめてメルセデスが俯き、そしてごんごんと鳴る飛行艦のエンジン音と風切り音に負けない声で言う。その様子にテオドールはまたどきりとする。
先程まで自分が気障なことを散々言ってきたはずなのに、彼女の見せる仕草にすぐに心臓が早鐘を打ってしまうのが情けない。と思ってしまう。慌てて俯いて眼鏡を直すふりをして、赤く染まった頬を隠す。
メルセデスもズレ防止の魔法が眼鏡にかかっているのを知ってると言うのだから意味が無いことだと知りながら。
そんなテオドールにふふ、と笑いかけながら、メルセデスは続けた。
「今なら言えます。どんな英雄譚も、お母様の強さと優しさに比べれば私の中では大したことが無いと。私が本当に見ていたのは、なりたかったのは、お母様のような女性なのでしょう」
「……それならば、全てが終わったら二人でお母上に報告に行かないと。二人で揃って」
死が二人を分かつことが無いように。と希望を込めて、テオドールが言う。
死を覚悟していないと言えば嘘になる。クルト=フォン=ミュッケは例え令息と言えど自らの道の上に立ち塞がる者は容赦なく切り捨てるはずだ。
それでも。テオドールはその希望の呪文を唱えた。
彼女に似合う半端者の魔導師として、半端者の人馬へと送れる最高の不死の呪文を。
「はい」とメルセデスが答えた。
テオドールは馬体の方へと回る。鞍のベルトの癖が強くついた馬体の毛は手強いだろうなと思いながら、ブラシを握って、ブラシの先で毛を撫で下ろしていった。
夜行急行列車では一昼夜かかる旅程も、飛行艦では足の遅い貨物飛行艦でも半日の旅程だ。エリゼン離宮到着までに彼女を、彼女の語る母のように、可憐で、それでいて凜々しい人馬騎兵に仕上げなければいけない。テオドールはそう口に出さずに彼女の毛を梳いた。
その頭上で、空色石と白瑪瑙の髪飾りがこつん、と音を立てる。




