間章 イザーク=ハントの憂鬱な午後
イザーク=ハント魔導科大尉が自らの肩に下がった参謀飾緒を恨んだのはもう幾度目だろうか。
帝国首都ユーラヒルは今日も晴天を遮るように煤の混じった川霧が立ちこめて、憂鬱な様相を呈している。イザークは参謀本部の窓外に望む天気に自分の心境を重ねて、はあ、と溜息をひとつ落とした。
自分の補佐すべき指揮官、ミュッケ中将は今頃、先任参謀であるグロックナー中佐と共に参謀本部のとある執務室に趣いているはずだ。
自分には関われないような重要な案件故に自分は席を外されたのだろうが、イザークとしては仲間はずれにでもされた方がまだ良いとさえ思えた。
ジグムント=ルーハンス=フォン=レンハルス少将殿下の上機嫌に声を張り上げて語る『天才的なひらめきと戦術』の聴講と、寡黙にそれに従う素振りを見せているがその実腹の読めないミュッケ中将の様子を見ることに比べれば、まだパッとしない天気の下に広がる首都の風景を眺めている方がマシだ。
イザークは窓を押し開けて、紙巻き煙草に手をやる。マッチ代わりの短杖を内ポケットから取り出し、紙巻き煙草を端に咥えた口で起動文を口にした。
「カルグ・パウナ」
着火魔法は煙草に火を点けて、重ったるい煙を吸い込み、吐き出す。
いがらっぽい中に混じる甘い桜桃のフレーバーが、少しだけ肺の中の重ったるい空気を色づけてくれる気がした。
それ程までにイザークの向かう場所はいつも空気が悪く、重いのだ。
紙巻き煙草から上った煙は参謀本部の窓からユーラヒルの空に、首都環状線《Sバーン》の蒸気機関車やどこかの工場の煙と一緒に消えて、霧の中に混じってゆく。
幾人もの士官が通り過ぎる気配を感じながら、ミュッケ中将の従兵がまだ来ないことを祈ってイザークは煙草がちびる度に次の煙草に火を点ける。
「ハント大尉、お行儀が悪くってよ」
イザークが三本目の煙草を半分ほどまで吸ったとき、後ろから声をかけられる。
ああ。とイザークは安堵する。ミュッケはミュッケでも、中将の方じゃ無い。
三期後輩の上官、エリス=ミュッケ少佐の方だ。
「そんな風に窓枠にもたれ掛かって、煙草を吹かして。州軍の万年大尉ならともかく中央軍の参謀飾緒を付けた士官のなさることではないと、お判りでしょうに」
「判っててやってるんです。少佐」
そうだ。参謀飾緒を付けた身でなければ、あんなものには巻き込まれなかった。
皇弟殿下とミュッケ中将の妄執に付き合うことだってなく、彼女のように堂々と振る舞えたんだ。
イザークは自分を悪い方向に導いた参謀飾緒を苦々しげに弄び、窓の桟の石で煙草を揉み消して、窓外に捨てる。
「ハント大尉、あなたの期の魔導科士官はそうやっていじけることを士官学校で教官から教わったのかしら?」
イザークが振り向くと、エリスが自分の大杖を握りながら顔を顰めてそう口にする。
彼女が自分と共に揶揄したいだろう、彼女のもっとも身近な同期の魔導師の姿を思い浮かべ、イザークは確かに今の自分が士官学校時代の奴そっくりだったということに気づいて、鼻を鳴らした。
「テオドール=ミュッケのことを言いたいのでしょうが、小官がいじけている理由は奴とは根本的に違いますよ。奴の方が根が深く、小官の方が今まさに切迫しています」
肩甲骨の下辺りまで伸びた薄い色の金髪を靡かせ、しかし父親同様の灰色の眼差しでこちらを睨む美しくも猛々しい女魔導師に、イザークは参謀飾緒を弄びながら、捨て鉢に答えた。
「貴女もご存じでしょう。ミュッケ中将とジグムント殿下が何かを企んでいることを」
「ジグムント殿下とミュッケ中将が何やら通じて、それぞれ己の権限で貨物飛行艦を次々接収していることや、兵器廠や複数の企業に何かを発注している。ということくらいは」
エリスは不遜な態度を崩さずに返す。イザークが考えていたよりずっと具体的に。
「特に貨物飛行艦の件は輜重科の将校からよく文句を言われますから重々承知しています。私は中将とは指揮系統が異なるとおっしゃってるのですが、艦と乗組員を返すように進言しろと言われますから。『秘密任務だか何だか知らないが、八隻の貨物飛行艦が一度に行方不明になったようなものだから』と」
「なるほど、そちらもそちらで大変なようですね」
イザークは飾緒の先を見せつけ、皮肉たっぷりの笑みを浮かべる。
「……それならば、ミュッケ中将とジグムント少将殿下が何をやってるかはわからなくとも、その下で参謀をやることの心労をわかって頂けると良いのですが」
「ええ。王様の耳が驢馬の耳とも打ち明けられないで、しかも二人に振り回されているご様子は、嫌というほどに……光の加減かと思いましたが、顔色がさっきから青白くて、隈が酷いことになっていましてよ。ハント大尉」
エリスに指摘されて、イザークは初めて自分がそんな顔をしていたのかと気づかされた。
「これは独り言ですが……誰かに何かおっしゃりたいのならベック参謀総長におっしゃいなさい。誰とは言いませんが、参謀総長直属師団の魔導士官なら総長への連絡もつけられますし、総長からジークハルト兵務卿殿下へも話が伝わりますわ」
ジークハルト兵務卿。その名前が出た瞬間、イザークの背筋に電流のようなものが走った。
先帝の三番目の弟であり、齢六十を過ぎた老将ながら中央軍や各州軍にも強い影響力を持ち、それにヴィルヘルム皇帝や皇室内部にも多大な発言力を持つ人物。
確かに彼に詳細が話せたならば、ジグムント皇弟の『あれ』の建造や周辺計画を止められるかもしれない。
「……ためになる独り言ありがとうございます」
少しだけ、イザークの肺の中の空気が軽くなった気がした。
「ハント大尉。貴方を気遣ったのもありますが、恐らくあなたの抱えている秘密は私の誇りの問題でもありますの」
エリスが笑うような、しかめ面のような、複雑な表情を浮かべる。
彼女の瞳の中に、冷たさと、炎が点っているような感覚を覚えて、イザークは再び背筋を震わせた。
「『ミッテルラント帝国は人族の魔王の治める国という言葉を真に受けて、浅慮な魔導師が舞い上がっている』などと先日世間知らずな夢見る乙女に言われたものですから。その汚名を雪ぐためにも、誰より舞い上がっているであろう、あの似合わない口髭を生やした皇弟殿下を止めてやりたいと思っていたところなのですわ」
イザークは、己の誇りのためによりによって皇族に喧嘩を売ろうとする、自分より三歳も年下のこの若い魔導師の顔と立ち姿に空恐ろしさを覚え、はあ、と息を大きく吐いて、調子を取り戻そうとする。
しかしエリスはそんなイザークの姿など知ったことかといった様子だ。
「それではご機嫌よう。今度師団の私の執務室でお茶でもご一緒致しましょう」
そう言って、かつん、かつん、と大杖の先で床を鳴らしながら、エリスは立ち去っていった。
イザークはその姿を目で追ったかと思うと、窓を下げた。
「彼女との話は済んだかね、ハント大尉」
後ろからの聞き慣れた声に、イザークははっ、と小さく息を漏らす。心臓をその人物に素手で掴まれた心地で振り向こうと、重い身体をなんとか捻ろうとした。
振り向いた先には、やはり眼鏡をかけた禿頭の参謀――グロックナー中佐が立っていた。
「ちゅ、中佐……」
「『ラプラスの魔』が出港する。早くしろ」
グロックナーはそう言うと踵を返し、かつん、かつんと床を靴底で鳴らして歩いて行く。イザークもそれに続くように歩き出した。
「大丈夫だ。今の会話は俺には聞こえていなかった。爆裂魔法は術者の耳を壊すから、大尉も注意しておくのだな――まあ、何も聞こえていなかっただけで、お前が怪しい動きをすれば中将に報告せねばならんのだがな」
本当は聞こえていないはずがない。だが、今はグロックナー中佐の好意を素直に受け取っておくほかなかった。
それはエリスの意を反することになるが、グロックナーや自分の立場を考えればグロックナーの忠告を受け取るしかないのだ。
軽くなったと思った肺の空気が、また重くなる。魔法ダイナモを何発も使った気分にまた煙草を吸いたくなった。
「ところでハント大尉。グロシュニィ山脈のマンティコアの話は聞いたか?」
突然振られた話題に、イザークは「いえ」と返す。
「今年は例年より群れが大きく、異常な成長を遂げた個体がいると言う話だ」
「それは……」
イザークにも、グロックナーにも、その話には思い当たる点がある。
グロシュニィ山脈。マンティコアの群れの拡大と異常成長個体。恐らく――。
「身から出た錆だ。完成を急ぐあまりに処理をおざなりにした結果だよ」
グロックナーはあくまで淡々と語る。
「恐らくマンティコアの討伐が終結すれば、早晩トプカプ州軍に『あれ』の存在が勘づかれるだろう。ザイサー准将は馬鹿ではないからな」
グロックナーのわずかに髪の残った後頭越しに感情の籠もらない声が、イザークにかけられた。
「だから今は動くな。動かずとも、綻びはすぐに広がるだろうからな」




