ようこそ、トプカプへ・上
テオドールが重い瞼を開けると、目に映ったのは見慣れたイヴァミーズ城の自室の暗い色をした木天井では無く、白塗りの天井だった。
壁紙も軽快な緑色で、大きな窓からは眩しい朝日が差し込んでいる。それだけで自分の昨日の記憶が蘇る。
汽車がオヴェリフルの駅に夜遅くに到着したあと、テオドールとリヒトは一頭立て馬車で、そしてメルセデスはその脚で真っ直ぐエンツェンヴィル城へ向かい、そのまま寝せてもらったわけだ。
メルセデスは自分の部屋で共寝すると言い出したが、人と人馬の共寝の準備の済んでないベッドではテオドールが蹴り殺されると侍女のイレーネが言ったので、イレーネの気遣いに従って客間を使わせてもらったところまで思い出し、大儀そうに上体を起こす。
傍らの眼鏡を取ると、リヒトもまたむくりと上体を起こしていた。
「おはようリヒト」
「おはようございます、少佐」リヒトはぱっちりと開いた眼でテオドールを見る。
「起床ラッパの聞こえない朝は久しぶりなのに、どうしても起きてしまいますね」
リヒトの皮肉にテオドールは朝から「身体に染みついた習慣は取れないよ」と苦笑する。
「顔でも洗いに行こうか」
「そうしましょう」
二人は連れだって、長靴に足を通すと寝間着のまま洗面所へと向かう。
冷たい水で顔でも洗えばもう少しはっきりと目が覚めるはずだ。そう思って廊下へ出て、洗面所の方へと向かう。
洗面所に着き、リヒトと共に汲み置きの水と昨晩用意されたタオルを洗面器に浸し、それで思い切り顔を洗っていると、後ろから眠たげな高い声をかけられた。
「テオ……あなたも今起きられたのですか?」
振り返ると、いつもぱっちりと開いている大きな目をうつろに細めた、フリルの多い寝間着姿のメルセデスの姿があった。
いつもは三つ編みにしている赤みがかった栗色の髪も今は解放され、普段結ばれている部分からゆらゆらと波打っている。それが余計に普段の元気な彼女とのギャップを感じさせた。
かん、かん、といつもよりゆったりとした蹄鉄の音を響かせて、洗面台の前に立つ。
ふわりと香る寝汗の匂いと薄いフリル付きの寝間着の下から覗く肌に、テオドールは朝からどきりとさせられ、眠気が吹き飛ぶ。
一方でメルセデスはまだ夢うつつも良いところと言った様子だった。
「随分眠そうだけど、大丈夫?」
「私、昔から朝が弱くて……もっと早く起きて、朝の鍛錬をしなければいけないのに……ふぁあ」
無念そうに大きな欠伸を一つしてから、メルセデスもまた琺瑯の洗面器に汲んだ冷水で顔を洗う。何度も何度も顔を擦り、ようやくタオルを取った頃には、あのぱっちりした眼が現れた。
「ぷはぁ」と切れのいい声を上げてから、メルセデスはテオドールの方を向く。
「さあ、今日は初登庁日です。気合い入れていきましょう」
高い声を張り上げて歯ブラシを手にするメルセデスに、隣に並ぶテオドールとリヒトはその切り替わりの早さを見て、お互いに顔を見合わせたのだった。
「朝が弱いと言うには随分切り替わりが早いようだけど」
テオドールの問いかけに、メルセデスは後ろで後頭部を掻きながら答えた。
「早起きと、起きてからしゃっきりするまでがすっごい苦手なんです。顔を洗ったらぱっ、て目が覚めるんですけど、そこまで行くのがいつも凄いだるくて……今日もこんな時間に起きてしまって、朝の鍛錬が出来なかったです」
こんな時間と言っても午前六時、兵舎や士官学校で起床ラッパの鳴り響く時間だ。朝の早い農家や職人達ならともかく、遅起きな学生や官吏など未だに夢の中だ。
なら一体彼女は何時に目覚め、何時間『朝の鍛錬』をするつもりで居たのだろう。
テオドールはあえてそれを聞くことをせず、リヒトも畏怖の眼で彼女を見るだけで、お互いに新品らしい歯ブラシに手を伸ばすのだった。
トプカプの農産物と豚のベーコン、そして焼きたての硬パンの朝食を食べ終え、テオドール達はエンツェンヴィル城から、オヴェリフル郊外のトプカプの州軍司令部への登庁の準備を始める。
魔導科徽章と、イヴァミーズを後にする際に新たに受け取った参謀飾緒を付けたスラティ州軍の軍服に袖を通す。
前線部隊の遊兵部隊の長をずっと任され、参謀職など経験してこなかったテオドールにとって、軍服に参謀飾緒を付けたのは初めてで、なんだかこそばゆい感覚だった。
リヒトは先立って一頭立て馬車で兵舎の方へ向かったので、『アッシャー・ヘイロー』と書類鞄は自分の手で持つこととなる。
テオドールが城館の扉を開けると、眩しい日差しの中に、洋酒色の軍服を着込んだメルセデスがはにかんだ笑顔を浮かべながら扉の前で待っていた。
肩には亜人用の大型のライフルをかけ、人体と馬体の分かれ目辺りで軍刀を吊っている姿は凜々しい騎兵のそれだったが、顔が弛みきっていて、台無しだ。
そしてその理由はテオドールにもすぐにわかった。
洋酒色の丈夫な毛織りの馬着の上からは彼女の馬体には少し余り気味な鐙の付いた革鞍が巻かれており、軍服の肩から薄い胸の膨らみの下にかけてもズボン吊りに似た革紐が巻かれ、それが彼女の三つ編みの後ろを通った手綱に繋がっている。
「さあテオ……乗ってください」
少し遠慮がちに口にするメルセデス。
一頭立ての馬車を使うつもりだったテオドールは面食らうばかりだった。
「メルの背に乗って登庁すると言うこと?」
「……当然です」
恥ずかしそうにはにかんだ顔が。少しむくれ顔に変わる。
「私の伴侶になる人なのですから、背に乗ってくれないと困ります」
「当然、かぁ……」
テオドールも困惑の声を上げる。
メルセデスの背に乗ることに嫌悪感は無い。
無いのだが、いざ乗ってしまうと変な気持ちに――今まで何度も鼓動を早くさせてきた彼女の髪の匂いや汗の匂いに加えて、彼女の体温まで感じさせられてしまいそうで困る。
それに周囲の人に――特にこれから一緒になるトプカプの将校たちに――見られて、冷やかされそうなので、どうにも気が進まない。
「大体、その杖だって馬に乗る者のために作られた杖なんですから! テオは私の背に乗って然るべきです!」
「いや、でも、冷やかされそうで……」
流石に匂いや体温で気が変になりそうとは言えなかったが、慌てて誤魔化す。
「恥ずかしいのは私も一緒です! それでも乗ってほしいんです!」
対するメルセデスの方もよくよく見れば頭頂の耳を忙しなく動かし、頬を真っ赤に染めている辺り、なんとなくテオドールと同じことを考えているようにも思えてきた。
それでもふくれっ面のメルセデスは、頑としてテオドールに背に乗ってもらえなければ動かない。と言った様子だ。
テオドールも少ししてから首を横に振って、「わかったよ」と言い、鐙に足をかけた。
なめし革の鞍と厚い羊毛の馬着を挟んでも、メルセデスの身体の鼓動や体温はなんとなく伝わってくる。それを尻と足で受け止めているのも妙な気分になってくる。
『アッシャー・ヘイロー』を腰のベルトの佩用金具に下げて、書類鞄を肩にかけると、テオドールは三つ編みの髪の前に伸びた手綱を握る。
軍に属している分普通の馬の騎乗経験はそこそこにあるが、人馬、しかも妻となる女性の身体に乗っていると思うと、それまでの経験なんて役に立たなく思える。
「手綱、ちゃんと握っててくださいね。行きますよ」
かつん、かつん、とメルセデスは石畳の上をゆっくりと歩き出す。
最初は彼女もおそるおそる、そろそろと言った感じがしたが、城の外縁、古い時代の城壁のあたりまで着くと、背に乗られるという感覚を掴んだらしくその足取りから力みと緊張が消え、足取りは軽くなっていた。
そして城門をくぐり、土の道に出ると「しっかり掴まってください!」と言い、いつかのエリスの決闘で見たときのように思いっきり駆け出した。
しかしあの時は見るだけだったが、今はその視点を彼女の頭と耳越しに共有し、彼女の馬体の揺れを身体で感じ取っている。
麦畑の中を走る道を疾走するメルセデス。
テオドールの耳にもはっ、はっ。と強めの息づかいが届いてくる。
楽しげな様子でスピードを上げると、ふわりと彼女の髪が舞って、土埃や畑の匂いに混じって彼女の匂いがテオドールの鼻をくすぐる。
「どうですか? 慣れました?」
「慣れない!」
テオドールは思い切って声に出す。
「メルが近すぎて、変になる!」
「そ、それは……慣れていかないと困ります!」
震動の中でメルセデスの耳がぱたぱたと忙しなく揺れる。
「そう言われると、私もテオを意識してしまいますもの!」
もしこの場にイレーネがいたなら、自分たちの会話に呆れていたことだろう。
テオドールはそう思いながら、自身の耳も熱くして手綱を握っていた。




