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6

 同日の午後、静けさに満たされていた部屋の中に柔らかな声が上がる。


「レティ、俺は賭けに勝ったよ」

「賭け? ええとお兄様、藪から棒に何? 両想いってわかって頭沸いたのかしら?」


 今までになくツンとしている妹レティシアの態度にクラウスは戸惑いを浮かべた。

 現在二人がいる部屋はエマの寝室で、部屋の主人のエマは並んで丸椅子に座る彼らの目の前のベッドで眠っている。幸いエマに大事はなかったようでレティシアも安堵していて決して機嫌は悪くなかったはずなのだが……。


「え、どうして急に塩対応……」

「はあ? それはお兄様がエマを独り占めしようとするからに決まっているでしょう」


 横目で自分を睨む妹に、クラウスの内心では衝撃が走った。


「え、でも俺の恋路を陰に日向に応援してくれていたんじゃ?」

「ええ。お兄様とくっ付ければエマはうちの子になって、いつでも遊べるもの。けれどわたくしにも限度があるのよ。大切な友人を過激なスキンシップで気絶させられて落ち着いていられるとでも? エマはそういうのに免疫がないも同然なの。それでなくても、わたくしだってエマとイチャつきたいのに!」


 レティシアは友人を取られた気分なのだ。最近では滅多に見なくなった子供っぽい仕種で頬を膨らましている。BL事ではあはあしている以外はほとんど動じず涼しい顔でいる彼女は、エマに関する事だけには素直な反応を見せる。


「レティ、えーと、そのー……」


 とうとうぷいっとそっぽを向いてしまった妹に、つい節度を守れず大胆をやらかした兄はやや気まずい。あれはエマの気遣いが自分への恋愛感情からのものだと悟り嬉しさのあまり箍(たが)が外れかけたのだ。


「調子こいて悪かったよ」

「わかればいいわ。それで、賭けって何の?」


 辛うじて会話だけは続けてくれるようなのには、首を竦めていたクラウスはホッとして正直に吐露した。


「エマに、エマは俺を好きだよなって断言しただろ、あれ本当は否定されたらどうしようって内心気が気じゃなかったんだ。五分五分って言うか二割くらいそうかもって感じただけで確信なんてほぼなくてさ、だけど焦りと対抗心から口が勝手に動いたって言うのか……」

「ああ、確かにお兄様ガンガン攻めるわねーって感心してたわ。BL演技の時以外いつもはチキンでお前誘惑する気あんのかって程ダルダルなのにねえ」

「ハハ、そこまでかな俺……。まあ、エマが肯定してくれたから良かったけど、あんな強気な真似もう出来ないと思う」

「――故意に彼女の首を噛むなどという破廉恥な真似をしておいて、そんな白々しいことをよく言える。私の油断を誘う作戦なのか?」


 ベッド脇なので声を潜めている兄妹の、ベッドを挟んだ正面から声が返った。


 クラウスが途端に臆していたようだった表情を硬いものに一変させる。


 彼が睨み付けた先はステファンだ。


 ステファンも兄妹と共にエマのベッド脇に待機していた。それまで椅子に静かに座していた彼は恋敵からの視線を何て事ない顔で流すと、まだ目を覚まさないエマへと案じる目を向ける。

 因みに王宮での戦闘訓練中に昏倒者が出るのも珍しくなく、その都度昏倒者を救護してきた彼が即座にエマの状態を診た。

 その際その手の心得で及ばなかったクラウスはとても複雑そうな顔をしていたが、その挽回のようにエマを横抱きにこの部屋まで運んだ。

 部屋の位置を知るクラウスに任せた方が早いからかステファンは憮然としつつも妨害はしてこなかった。


 無言の睨み合いが続き、部屋の空気が次第に張り詰めていく。


 何か衝突し合う当人同士にしかわからない合図でもあったのか、突如二人は同時に立ち上がった。


「最低にも女の子の寝室で暴れるつもり? 大っ迷惑だから外でやって頂戴!」


 レティシアがどちらも見ずにピシャリと正論を放つと、男二人は彼女の得体の知れない黒い殺気にビビって腰を下ろした。それでもライバル心は剥き出しだ。


 結局エマの失神で男二人の決闘云々は曖昧なままになっている。


 互いに決闘してもいいと思っているとは言え、今はエマが目を覚ますまで彼女の傍らから離れる気はない。故に彼らは口元を引き結んで大人しくする。

 ……大人しくしていたのだが、ややあって冷徹にメンズに注意したレティシアの呼吸が何故か荒くなっているのに二人はふと気付いた。

 彼らは怪訝に思ってレティシアを見やる。


「ああエマの寝顔ってばもうこれは襲ってくれと言っているようなものじゃないのお~っ、さあさあお兄様達、眠れる美少年にイタズラして半覚醒の恥じらう彼を手籠めにする鬼畜男二人の図よ。あ、こんなのボク初め、て――あん、お兄さんっボク恥ずかしいっ……てやつをさあレッツプレイよっ!」

「「…………」」

「ああでもたまには美少年と青年じゃなく、美少年と美少年もいいわよね。ならわたくしが男装してエマに迫ろうかしら、ああでもダメダメ自分で演じたら耽美な光景が見れないわ。今すぐどこかにちょうどいい美少年はいないかしら? ……っているわけないわよね。じゃあもうやっぱりわたくしがするしかないわよね!」


 既にだいぶはあはあしているレティシアが煩悩まみれの目をエマに向けている。今にも獲物にむしゃぶりつきそうな危うさが彼女からは漂っている。

 いや、漂うどころかいつの間にやらエマに馬乗りになって頬を撫で撫でしている。幸いまだペロペロはしていない。腐乙女の煩悩の成せる業か素早い動きに驚く男二人の真ん前でレティシアは更なる下卑た笑みを浮かべた。


「エ~マ、起きて。起きないとレティシアお兄さんがいけないイタズラしちゃうぞ~お?」

「「落ち着けーーーーっ!」」


 激しく対立していた男二人だが、お前らは前世でおしどり夫婦だったのかというレベルで息ピッタリにエマを心から案じた。





 頭がふわふわとして上手く思考が回らない。

 私は自分がどうしてこの場にいるのかさえもわからない。

 だけど見慣れた実家の屋敷の庭先で、明るい昼の陽光の下で目の前に佇むのはクラウスさんだ。

 彼だって認識した瞬間から足取りが軽くなる。

 微笑んでいる彼の傍に芝生を踏んで近付いて、今日はどうしたのかなんて問いかける。レティシアは一緒に来ていないのかとキョロキョロとした。


「エマ、君は俺を好きだよな。付き合おう」

「へっ?」


 唐突な問い掛けと提案内容に一気に動揺が胸に広がる。赤面を避けられず口をパクパクさせて言葉もなく瞠目していると、彼は猫のように目を細めて顔を寄せてきた。その表情は彼らしくなくどこか鋭くも甘く、拒絶を許さない雰囲気を醸している。

 ままま待ったー! このままじゃキスしちゃうよ!


「えっあのあのあのクラウスさん!?」


 思わず後退すれば彼は不服そうにした。


「どうして避けるんだ? 恋人になったんだから、まずは皆にエマは俺のだって証明する印を付けないと駄目だろう?」

「は!? キキキキスで証明の印なんて付きませんよ!」

「そうか? してみないとわからないだろう? これでも君の気持ちを考えて首の後ろに噛み付くのを我慢してるんだ。本音じゃすぐにでも君と運命の番になりたいんだぞ」


 それはオメガバース縛りでは? 架空の世界の理だから噛んだからって運命がどうとかにはならないよね。


「半信半疑なら、試してみようか」

「へっ!?」

 

 クラウスさんてばぐいっと私を抱き寄せてくる。ぎゃーっ、まるでレティシアから薦められたBL小説の中の攻めキャラみたいなんですけど!? 一体全体どうしたって言うのこの人!?


「エマ、目を閉じて。まずはキスからだよ」

「だだだだから印は付かないですって!」


 大いに戸惑う間にもクラウスさんは迫ってきて私の首筋に唇を当てる。

 ひゃあああ、口じゃなくてそっちですううう!?

 硬直して抵抗らしい抵抗も出来ないでいたらそこに歯を立てられた。


「ククククラウスさんそこはうなじじゃないですよ! それに何より本当にこの世界にオメガバースはないんです! ですからやめて下さっ……――えっ!?」


 遅ればせながら押し返してぎょっとなる。


 だって嘘でしょ、クラウスさんだと思っていたら何とステファンだった。


 でも、ううん、確かに直前まではクラウスさんだった。どう言った手法かは知らないけど魔法みたいな早変わりだよ。

 するとステファンが手の甲にキスしてきた。


「ぬあっ!?」

「エマ、私と結婚しよう」

「えええーっとそれはお断りしたはずですよねっ?」

「私の情熱の伝え方が足りなかったみたいだな」


 ステファンがまた手にキスをしてきた。しかもちゅって感じじゃなくちうーって長めのやつを。


「ススススステファン駄目です私には好きな人がいますから!」

「それって俺だよな、エマ?」

「へあ?」


 すぐ横からした声に振り向けば、クラウスさんがまたいる。

 え? え? どういう状況?


「エマ、恋人のキスをしようか」

「はいい!? またもや何事ですか!? それに恋人になった覚えはないですよ!」


 なんて唾を飛ばしている間にも顔が近くなる。

 吐息がかかる。


 唇が触れ――……。


 こんなの心臓爆発す、る……っ。


「わああああああああっ!」


 バチっと勢いよく上下の瞼を押し開けた私の視界に飛び込んだのは、銀のまつげと綺麗な薄い青の瞳。


「………………レティ?」


 よく知る親友の美しいどアップだったけど、だからこそ心からの安心と安堵が込み上げた。キュン死にしそうになる心配なんてないもの。窮地を救われた心地で自然と涙まで出てくる。

 周囲には目を向けないままに、私は両手を伸ばして彼女の首に抱きついていた。


「レティ~~! レティで良かった……っ」


 同じカラーのクラウスさんだったらまた鼻血爆発で死んでた。


「ええとよくわからないけれど、グッドタイミングで起きたみたいね」

「グッドタイミング?」


 レティシアはうふふふと微笑むだけで答えなかったけど、疑問を深める前に彼女が眉尻を下げた。


「エマ、どこも痛む所はない?」

「ないよ。レティの顔がアップで驚いただけ」

「熱を計ろうとした所だったの。そうしたら急に目を覚ますんだもの。こっちの方が驚いたわ、おほほほ」

「ああ道理で。びっくりさせてごめんね」


 人畜無害なレティシアはさらりとした銀の髪を揺らしふるふると左右に首を振る。

 もしもこの時もっと早く周囲に目を向けていたなら、私はきっと誰かさん達の複雑そうな表情を見ただろう。


「ところで、レティが運んでくれた……わけじゃないよね」

「ええ。そこはバッチリお兄様よ」


 そう聞いてドキリとした。でもだよねー。私がレティシアを運ぶならともかく、レティシアの細腕じゃ無理だろうし。

 丸椅子に座り直す親友を視線で追えばその隣に件のその人を見つけた。

 反対側の人の気配を一瞥すれば、ステファンの姿も。彼も律儀に心配して残ってくれたに違いない。

 クラウスさんを見た途端に心臓が急速に高鳴ったけど、正面に視線を戻して彼を見ないようにして何とか恥ずかしいのに耐えた。


「ええと……ここまで運んでもらってありがとうございます、クラウスさん。ステファンも、ビックリさせてしまってすみません」


 さらりと二人を交互に見てベッドの上でぺこりと頭を下げる。

 お礼と謝罪も兼ねて食事にでも誘うべき?

 って、そうだよお昼! たぶんまだだよね皆。うちで食べていってくれるかな。

 レティシアとクラウスさんだけなら昔からそれも珍しい展開じゃない。むしろさっきは庭で食べようなんてクラウスさんの方から言ってきたし。だけどステファンはどうだろう。まあ訊いてみるだけ訊いてみようと思って急いで顔を上げた。

 同時に、ベッドが軋んだ。


「ふぁっ?」


 目を上げたら、銀色のまつげと青い瞳がすぐ傍にあった。


 ああ何だ再びのレティシア……じゃない。


 瞼の上の銀色の眉が彼女のよりも太く凛々しい。

 ビックリして固まっていると、私の額に自分の額をこつんとくっ付けたクラウスさんは触れた時と同じくらい自然にそっと離れた。


「良かった熱はないみたいだな」


 ベッドに身を乗り出しているのはそのままに、彼はようやく安心したように無邪気に微笑む。レティシアがどこか笑い含んだ声を出す。


「もう、お兄様は心配性なんだから。エマは大丈夫って言ったのに」

「うーんでもエマは無理するとこがあるだろ。だから念のためだよ。……結局レティは計らなかったしな」


 な、な、な。なかったはずの熱が出そう!


「……あなたは節操という言葉を知らないようだな」


 ステファンが低い声を這わせる。


「王宮騎士殿こそ知らないようだけど、俺達の仲じゃこれも普通事だ。ただしまあ、俺達の仲だけの話だから君は節度を守って行動してくれ」


 鼻で嗤うようなクラウスさんにステファンが一層むっとしたのがわかった。他者に愛想笑いもなくこれ程素っ気ないクラウスさんは新鮮でもあったけど、今のは私のための牽制でもあるだけに心臓には頗る悪い。

 加えておでここつんはもう普通事じゃないよ。かつてはそうでももう違う。私には十分甘過ぎる……っ。

 この先男装の時もベタベタできるか冗談じゃなく自信がなくなってきたよー……。大勢の前で鼻から流血して失神するなんて無様な失態をやらかしそう。

 ああどうしよ、先行きが不安。

 彼も私を好きなんだって知っただけでも一杯一杯なのに、これ以上はちょっと待ってほしい。


 スススとベッドに潜り込み掛け布団を頭まで引き上げた私を不思議に思ったのか、クラウスさんが布団を少しめくって覗き込んできた。


 角度的に彼しか見えないせいで余計に感情が表に出る。隠したいけど隠せない。顔だけじゃなく耳まで熱いし、先の夢を思い出して照れちゃって自分でもかなり恥ずかしい表情をしていると思う。お願いだから今は指先一本でも触れないで。


「……」


 クラウスさんは何故か黙ってこっちを見下ろしている。まるで目を離せないかのようにじっと見つめられて、何とも居た堪れない気持ちになるよ。見られているのは顔だけなのにあたかも全身を見透かされているみたいに羞恥が込み上げる。

 イヤ、見ないで。でも見ていてほしい。私もあなたを見ていたい。ホントは嫌なんかじゃない。

 大好きだから。

 私と彼の見つめ合いは時間にすればレティシアやステファンが怪訝に感じるギリギリくらいだったと思う。

 エマ、と口の中で極々小さく疑問調に呟いたクラウスさんが指先をこっちに伸ばしてごくりと唾を呑み込んだのとほぼ同時、私は叫んでいた。


「きっ、着替えたいので!」


 やや乱暴な言い方にはなったけど、声が震えるよりは良かった。


「ああそうよね。エマの服血で大変な事になっているものね。はいはい男衆は急いで出た出た~!」


 いつもの調子のレティシアが男二人を急かしてくれて、彼らは埃が掃き出されるように一旦部屋から出て行かされた。

 やっとホッとした。あれ以上見つめ合っていたらたぶん私は大変な事になっていた。たぶんでろっと溶けてた。

 ――この男と運命の番になりたい。

 そう欲した。

 私の首の後ろを噛んで。

 じゃなければ、私が噛んでしまいたいなんて思った。

 でも、こんな破廉恥なエマ・ロビンズなんて知られたくない。

 彼が一時的に場を離れてくれたから、予期してなかった両想いから乱された気持ちもだいぶ落ち着いた。行動派のレティシアに内心感謝しつつ着替えて気持ちを切り替えた。決闘も終わったから簡素な普段着ドレスに着替えた。


「これまで通りに。これまで通りに」


 BL演技は継続するんだろうから、下手な態度は取れない。

 ぶつぶつ呟いていると、着替えを手伝ってくれたレティシアが不思議そうにする。


「エマはこれまで通りでいるつもりなの?」

「へ? だって他にどうするの? クラウスさんの気持ちはその、とても嬉しいから一緒にいるとドキドキするし常に平静でいられる自信はないんだけど、変な噂が立たないように努力するよ」

「エマ……?」


 レティシアは本格的に気がかりそうな目になった。


「あなた、まさかと思うけど、お兄様と結婚するつもりはないの?」

「あはは結婚って……考えたこともないよ。って言うかさ、レティは私の気持ちもクラウスさんの気持ちも知ってたんだね。全然驚いてないし」

「ええ、あらあら二人はお互いそうよねーっていつの間にか気付いていたのよね」

「な、なるほど」


 彼女の洞察力は鋭いなあ。


「話を戻すけれど、エマはお兄様を好きなのにどうして結婚しないの?」

「私とクラウスさんとじゃ釣り合いが取れないからだよ」

「そんな言い方、エマらしくないわ。小さい頃からわたくし達は対等に付き合ってきたじゃないの。それともエマはずっと引け目を感じていたの?」

「レティとクラウスさんと幼馴染やってきて隔たりを感じたことはないよ。そこは私の感じ方が多少独特なのもあるとは思う。とは言え年上のクラウスさんには少しは躊躇う部分もあるけどね」

「そこは言葉遣いに表れているわよね。お兄様になんてタメ口で構わないのに」


 こういう時、レティシアの兄への扱いは結構雑だなーって思う。


「お兄様ってば、まずはタメ口からどうにかしないと駄目じゃないの。はあ、そうそうすんなりとは行かないものねえ……」


 ボソボソとレティシアが嘆息混じりに呟いたけど、問題はタメ口じゃない。


「でも、隔たりがないならお兄様と恋人になるのに躊躇う必要はないでしょう?」


 彼女だって本当は貴族社会というものをわかっているはずで、だけど友人と兄のために目を瞑っているんだろう。優しい優しい親友のレティシア。

 だからこそ敢えて私は口にする。


「レティ、友人と恋人とじゃ立ち位置が違うよ。レティだって本当はわかってるよね。私も通じ合った想いに舞い上がって忘れるとこだったけど、貴族社会はそう簡単じゃない」

「そんな、エマ……」


 レティシアは酷くショックを受けたようだった。唇を悔しそうに歪める。


「わたくしは、わたくしはっ、エマなら大丈夫だって信じているの。どんな逆境でもエマと一緒ならお兄様も乗り越えられて、そして幸せになってくれると確信しているの。エマだからこそお兄様は心から笑えるんだって」

「レティ……ありがとう」


 そんなにも深く信頼してくれているなんて思いもしなかった。勿論他の誰よりレティシアは私が理解している人間だ。そうであっても予想以上だったってわけ。

 凄く、ううんものすごーく嬉しい。誇らしい気持ちになれる。


「でもねレティ、無理なんだよ」

「どうしてっ? エマがその気ならお兄様が周囲を黙らせるわよ!」


 あはは、クラウスさんならしれっとやってしまいそう。


「うーんやっぱり家の問題になるんだよ。ほら、私は他家に嫁げないから」

「あ」


 レティシアも重要な事実を思い出したようで口を手で覆った。


「私は一人娘だから両親も婿をもらう方向で考えてるみたい」


 私が男爵家の後継者であるように、クラウスさんもクラウスさんで公爵家の嫡子だ。彼が将来的に公爵家を引き継ぐ。大事な跡取りを格下の貴族の婿になんて出すわけがない。

 釣り合いの問題だけならレティシアは全面的に協力尽力してくれただろうけど、家門存続まで絡んでくるとなると彼女が奔走してすんなり解決できるものでもない。

 彼女もそれをわかるからこそ、これ以上食い下がる言葉を見つけられないようだった。


「ごめんなさいエマ、わたくしが焚き付けた部分もあるのよね。エマにそんな顔をさせるなら、わたくしがエマだったら即お断りしていたヘタレなお兄様なんて、最初から推すんじゃなかったわ」


 私が困ったような顔をしていたからか、レティシアはわざとらしくクラウスさんを扱(こ)き下ろす。ええとやっぱり兄の扱いが雑だよねー。


「レティが謝ることはないよ。あと、クラウスさんには私からちゃんと伝えるから」

「そ、それはちょっと待ってエマ。まだお兄様には言わないでほしいの。お兄様ってばガラスのハートだから天から墜ちたショックで死んじゃうわ」

「え、ええとでも、後になる程言いにくい空気になりそうだし……」

「もしそうなったら、わたくしがバッサリお兄様を切ってあげるから!」

「あ、そ、そう?」


 責任感からか半端無い意気込みに気圧されて、とりあえずは彼女の意見に従う事にした。

 現状期待も落胆もさせないってわけで、彼とはいつも通りってわけだ。

 レティシアは小さく笑みを浮かべる。


「もしかしたら、ここでは思い付かない何かいい解決法があるかもしれないしね。保留が最善よ」


 そっか、その可能性は皆無じゃないのか。

 今すぐクラウスさんを諦めなくてもいいんだ。そう思ったら暗くなりかけていた気持ちに少し光が射して余裕が持てたから、レティシアには感謝だね。

 それから、廊下で待っていた男二人を呼び入れて皆を昼食に誘った。

 公爵家の二人は食べていく方向で決まったけど、ステファンは都合が悪いらしく残念そうな面持ちで帰っていった。用事が終わり次第早く戻るようにって上官から言われていたみたい。是非次の機会があればなんて言っていたっけ。そんな機会はないってクラウスさんは塩を撒きたそうな顔で睨んでいたけども。


 話は逸れるけど、クラウスさんとステファンは廊下で話し合ったのか決闘はなしにしたようだった。


 そこは素直にホッとした。

 最後はいつもの幼馴染メンバーになって、クラウスさんは邪魔者が消えたととても清々した様子だった。

 玄関先でステファンの馬車を見送った際はそんな輝くような横顔を盗み見ながら、まだ私の最悪時の意向を知らない彼がそれを知ったらやっぱり酷く落ち込むんだろうかなんて考えちゃった。……うん、落ち込むよね。

 想像したら、言うまでもなく胸がチクチクした。

 昼食を二人と食べながら、次のレティシアが赴くパーティーの話もした。当然私は男装して同行する。毎回クラウスさんも一緒なわけじゃないけど、次回は彼も行くんだろう。やけににこにこして今度のBL演技はこうしようああしようなんて提案をしてきた。でも前以ての打ち合わせをしても本番じゃアドリブしてくるから心臓に悪いんだよね。

 ステファン程には急がなかった二人も午後遅くまではいられないようで、少々遅かったお昼を食べて帰っていった。

 二人の馬車を見送って部屋に戻ると私はベッドにそのまま倒れ込む。


「はあ、何か今日はまだ半日しか経ってないのに盛り沢山だったなあ、疲れたあー」


 ドレスがシワになるからいけないとは思いつつ、食べた後ってのもあってかもう瞼の重さに抗えなかった。





「お兄様のその顔……エマとの会話が聞こえていたわね? 盗み聞きなんて紳士的とは言えないわよ」


 帰りの馬車の中、レティシアの正面に座るクラウスはどんよりとして項垂れていた。レティシアが呆れと窘めの眼差しを送るも、彼は無反応で細々とした声を出す。エマの前では必死で明るく振る舞っていたのだ。


「いや、半ドアだったからたまたま漏れ聞こえてきて……」

「どうして半ドアに……って、お兄様達結託してエマの生着替えを覗いたのね!」

「は? え!? いいいいやちょっと待て違うから! 覗いてない断じて覗いてない! 聞こえたのだってあれは俺達も意図してなかったって!」


 不可抗力だと必死に訴えるクラウスへとレティシアはまだ胡乱な目を向ける。痴漢や不届き者を見る目そのものだ。


「信じてくれって!」

「はあ……お兄様ねえ、むしろ俺が全部脱がせてやるよほら怖からず身を任せろ可愛い奴めってガンガン攻めないと、騎士の誰かさんに盗られるわよ」

「そんなことできるわけな……あああっ」


 想像したのか赤くなって動じる兄へと妹はふふふと口角を上げた。因みにそんな赤面必至な強引甘い夜展開がレティシア愛読のBL小説にある。


「はいはいまあおふざけはこのくらいにしておくわね」

「からかわれた!」


 ガンと衝撃を受けるクラウスをレティシアはじっと真面目な面持ちで見つめる。


「冗談じゃなく、エマの観念を変えたいなら、それこそお兄様の所にエマの方から家を捨ててでも飛び込んで来てくれるように、もっと徹底して誘惑しないと駄目よ。エマが男装している時と同じくらいは普段からのスキンシップを増やしていかないと」

「そ、それはまたハードな……」

「どこがハード? お兄様ホントやる気あるの?」

「あるに決まってるだろう。……節度を保つのに忍耐を要するって意味で俺にはハードなんだよ。やり過ぎて嫌われたら立ち直れない」

「ああ」


 背凭れに無造作に身を預けて参った様子で前髪を掻き上げるクラウスの悩ましげな我慢と遠慮と配慮をレティシアは全て悟ってにんまりとした。よくこれまで押し倒さなかったと感心もした。


「男の人って大変ねえ。理性と本能の挾間で」


 その目がやや同情気味にクラウスの股間を一瞥する。


「ほら、下半身とは別の生き物って言うし? 小説じゃ攻めキャラは案外そこでいつも悶々と葛藤していて、さっさと致せって何度も思ったものだわ」

「――っ、レティッ、レティシアッ! 女の子がそういうこと言うんじゃありません……!」


 窘めつつも恥ずかしそうに斜め座りになった兄を妹は冷静な目で見据える。こうしていると純粋と言うか初と言うかそんな男にしか見えない。


「……ふう、お兄様もどこまでが素なのかしらね」


 小さく独り言ちる彼女は、兄にブラックな面も存在するのを知っている。ステファンとのやり取りでその片鱗が出ていたがエマは全然気にしてはいないようだった。僥倖だ。

 エマはたとえどんなクラウスでも受け入れるだろうと漠然と思う。

 どうか彼女が兄クラウスの隣に居続けてくれますように、と願う。


 元より、クラウスを彼が心から笑える人間に変えたのはエマなのだ。


 昔、クラウスは嬉しい楽しいという感情から笑うような少年ではなかった。


 レティシアはそれを知っている。彼の笑顔はいつも義務的で欺瞞的で顔面の皮膚の下にからくりの機械が埋め込まれていて笑みを造り出していると言われても納得しただろう。彼に嬉しい楽しいという感情があるのかさえも当時は子供ながらに疑問だった。

 しかも兄は家庭教師達がベタ誉めするレベルで何でも完璧にこなした神童でもあったから、余計レティシアには兄が自分と同じ人間の子供には見えなかった。何か悪魔や魔物の類いが人の皮を被っているのではと思った事もある。

 それ程に幼い頃はレティシアの目には人間味がなくて不気味な存在として映っていた。

 造る綺麗な表情の裏の感情が薄かったのは、公爵家の後継者としてハードな英才教育を受けて育ち、良くも悪くも周囲の様々な言葉を耳に入れてきたクラウスだからこその心の均衡を保つ自己防衛方法だったのかもしれない。

 今だからこそ言えるが、幼い頃は彼と一緒にいても全然楽しくなかった。むしろ一人の方が気が楽だった。


 端的に言えば、クラウスが嫌いだったのだ。


 エマに出会うまでは。


 レティシアはエマと出会ってすぐに彼女が大好きになった。


 クラウスはレティシアのようにすぐには打ち解けなかったようだが、気付けばジェラシーを感じるくらいにエマと仲良くなっていた。


 そしてある日唐突に気付いたのだ。エマの傍らで兄が極々自然に笑っているのに。


 いつから兄の笑みはイミテーションではなくなったのだろうか。


 それを認識した時は何かの幻覚かと思ったくらいに衝撃的だったのをレティシアは覚えている。たとえて言えば魔物だと思っていた相手の正体が実は天使だった……くらいにはあり得ない光景だった。

 兄も血の通った人間だったのだと初めて実感した日だった。


 ただし、今ではエマが傍にいなくても普通に笑うクラウスだが、あの頃はエマがその場にいないと心から笑わない、いや笑えない少年でもあった。


 レティシアはクラウスの変化もとい進化を目の当たりにしてずっと心の根底に抱いている確信がある。


 兄はエマがいなければ駄目なのだ、エマじゃなければ駄目なのだ、と。


 だからどうか二人が結ばれるために必要な努力を怠らないで欲しいと願う。


 お兄様、とレティシアは向かいに座るクラウスを呼んだ。ん、とクラウスが顔を向ける。


「絶対に退化しないでよ」

「ええ……?」


 レティシアは言い聞かせるような目をした。

 クラウスは言われている意味がわかるようでいてよくわからずにキョトンとするしかない。彼は一体何の話だと訊ねたもののレティシアは微笑むだけで答えはしなかった。

 何はともあれ、妹の期待と懸念が半々の命令それ以前に、クラウスが決意を新たにしたのは言うまでもない。





「そう言えば今日はコンラートとか言う赤毛の奴は非番だったのか?」


 同じ夜、王宮の執務室で第二王子フレデリックがふと思い立った口振りで王宮騎士達を見回した。彼は今日近隣の貴族の領地に視察で出ていて遅くに王宮に戻ったのだ。

 王子が休まなければ休めないのがここの騎士逹だ。そんな責任感と熱意が必要な職務を遂行していた彼らのうちの代表が拳を胸に当てる独特のポーズで返答する。騎士団団長だ。

 因みに第二王子の護衛を務めるのは王宮に複数ある騎士団の中でも黒い制服が特徴の大鴉(レイブン)騎士団だ。

 発足時から変わらないこの騎士団の装備としての黒いマントが翻る様がまんまカラスを彷彿とさせるだとか、ここの初代団長が単なるカラス好きだったなど諸説あるが、とにかくその名になった。


「はい、彼なら私用で出ております。もしや彼が何か失礼を?」


 大きな懸念の色を見せるレイブン騎士団団長へと、王子は苦笑を浮かべた。


「いや、いつも髪の色で目立ってただろ。それが見えないから単に気になっただけだ」

「なるほど、左様でしたか」

「私用の中身は聞いているのか?」

「確か、エドウィンと言う近頃何かと噂の若い騎士に会いに行くとか」

「エドウィン……。ああ、あの公爵令嬢の専属のか。――気に食わないな」

「は、え?」


 目を合わせるのは不敬かと目線を下げて畏まっていた団長は思わず目線を上げ真意を問うようにした。


「ああ赤毛ののことじゃない。エドウィンって専属騎士がだ。王宮所属でもないくせにレティシア嬢に侍るなんて身の程を知れってそう思うだろ?」


 団長も数日前の夜会でエドウィンの姿を少し見かけたが、別に侍っていたようには見えなかった。常識的な騎士らしく控えていたように思う。

 今日この場にいないステファン・コンラートとは何かがあったようだが詳細までは知らない団長はしかし、エドウィンという少年騎士からただならぬものを感じたのも覚えている。彼も伊達にレイブン騎士団を束ねる地位にあるわけではないのだ。

 加えて、何となく王子に追従するのは嫌だった団長は返答に窮した。


「先日は、久しぶりにレティシア嬢の顔を見れたのに、彼女は途中でいなくなった無責任な例の騎士を気にしてばかりいたからな、正直面白くなかった」


 幸い答えや同意を求めていたわけではなかったらしいフレデリックが話題をさっさと転換してくれたのでよかった。


「機会があれば、あいつにちょいと灸を据えてやりたいぜ」


 いや、よくなかったと団長は胸中で訂正する。女絡みだけではない面倒事を仕出かしそうだと懸念すれば頭痛がした。こういう所がレティシアから相手にしてもらえないゆえんなのになあと年長者の視点から見て悟る彼は内心での嘆息を禁じ得なかった。

 そして、次の邂逅がいつになるのかは不明だが、猫が鼠をいたぶるようなそんな目になる王子を見ながら、苦労性の団長は件の少年騎士に心底同情した。





 この前レティシアにも言ったけど、私としては両想いで何かが変わるとは思っていなかった。


 お互いに好意があるってわかって少しだけ照れが増しはするだろうけど、基本今までみたいにほのぼのとするんだろうって思っていた。

 だってホント単に気持ちがわかっただけだもんね。

 正式な婚約どころか交際しようって彼からだってきちんと言われたわけでもないから、私達の関係に変化はないと思っていた。


 ……だからまさか彼を正気かって心配する日が来ようとは思いもしなかった。


「うぅ、今日も手紙来てる……」


 その日の鍛練を終えて自室に戻った私は、机上にメイドが運んでくれたんだろう私宛の綺麗な封筒が置かれているのを見て一気に汗が引いた。


 差出人はクラウスさんだ。


 お互いの気持ちだけは判明後、彼からちょくちょく手紙が届くようになって早一月だ。屋敷同士が近いから手紙でご機嫌伺いなんてする必要もそんな手間も必要ないと思うんだけど、最近は忙しいからなのか彼は手紙を送って寄越すようになった。

 わざわざ手紙を書いてくれたんだあ~って素直に嬉しかったのは受け取った時だけだった。わくわくして中身を読んで紅茶を思い切り噴いたっけ。


「きっと今日の手紙も同じ類いだよね……」


 開けたくないけど開けないわけにはいかない。何か大事な事が書かれていないとも限らないもの。私はごくりと唾を飲み込んで心のガードをしっかり固めると、ゆっくり慎重に封書を開いた。

 手紙は予想通り【親愛なるエマへ】から始まっていた。

 その続きも予想通りだった。

 だからこそホッとできるわけもない。


【親愛……いや親愛どころか俺がまるごと愛するエマへ。元気に過ごしているだろうか? 寝ても覚めてもチャーミングな君の事を想っているよ。またレティの騎士として夜会に参加するそうだけど、今度のは俺も行けると思う。半月ぶりに会えるな。いつも通りBL演技をお願いするだろうから、その時はよろしく頼むよ。きっとエマの男装姿を目にしたら毎度の如く舞い上がって大変だ。理性崩壊寸前級に可愛いだろうから。いや違う人目がなかったら俺の理性なんてとっくに木っ端微塵な可愛さだろうから。欲を言えば君が何を着ても俺が一番に君に可愛いって伝えたい。だから先手を打ってこの場で伝えておく。エマ、とっっっても可愛いよ! そんなわけで当日会えるのを楽しみに待っているからな。それまで体に気を付けて。ああだけどもしも風邪を引いたら遠慮なく俺に移して治してくれていいから。その……口移しで? うわああ直球投げちゃったけど、けどさ、これはホント俺の本音だから! こほん、まあとにかく元気でな! 君のクラウスより】


「……よし、もう一汗掻いてこよう」


 そっと手紙を折り畳んだ私はやる気の薄い笑みを浮かべて部屋を出た。


「ふう……」


 廊下に出て早々ふるふると拳が震える。顔面に血が集まってくる。


「うわああやっぱりもうダメだあぁっ」


 運動を終えたばかりで疲れていたはずなのに、猛ダッシュで庭の稽古広場まで戻った。大きく全身で呼吸をしながら腰の剣へと手を伸ばす。


「ああああもう何なの何なの何なのクラウスさんはーーーーっ」


 近くに屋敷の誰もいないのを確認して思い切り狼狽して右往左往しつつ滅茶苦茶剣を振り回した。こんな姿誰にも見られたくないからどうか誰も来ませんように~って願いながら、恥ずかしくてどうにもできない感情を吐き出した。

 はっ、もしやあの砂糖菓子レターは本当に彼本人が書いたもの? 代筆してもらったんじゃない? いやでも内容確認はするわけで、あの書面でオッケーだったから封をしたんだよね。彼がわからなくなる。


 素振りも型が乱れまくってるからステファンになんて特に見られたくないかも。


 彼にはあの日から今日まで二回程手合わせをお願いされて付き合った。勝負事じゃなくて単に練習に付き合っただけね。


 手合わせ初日、求婚の断り方がかなり雑だったと自覚する私の顔に気まずいって文字がでかでかと書かれていたのか、彼の方からそれを取り下げてくれた。性急に過ぎたとか何とか苦笑していた。


「クラウスさんのっ、クラウスさんの口説き魔ーーーーっ」


 甘さ二万%なレターを読んだ端から心のガードはガタガタ。

 いつから彼は手紙でまで人をドキドキさせるような男になったんだろう。昔から手紙をやり取りしていたらわかったのかもしれないけど……ってそう、そうなんだよね、彼は以前にも増して甘い男になった。

 男装時はBL演技で変わらないけど、手紙と違ってまだ数える程とは言え私が普通に女子の服装の時にまで男装時と変わらない甘い態度を取るんだもの、こっちはたじたじだよ。

 急に甘い言葉のオンパレードでどうしたのって訊いたら彼は大真面目にもこう言ったよね。


『もうエマを好きだって気持ちを隠さなくてよくなったから?』


 確かにお互いに気持ちはバレているけど……。悔しいなあ余裕過ぎない?

 嫌じゃないけど慣れないから困る。まあきっと慣れなんてこないけどね。

 レティシアの前でも恥ずかしげもなく同じだからもっと困る。

 彼女は自分の兄が目の前で友人にベタベタしてるの嫌じゃないのかなー。彼女的にはそれもBLみたいに見えてるんだろうか。わからない。


 わからないと言えば重大な疑問が一つ。


 両想いなだけで、私は彼の恋人じゃない……はずだよね?


 なのに押し返してもぐいぐいくるから拒み切れない。


 でも首を噛んだり口にキスとかはない。


 だからやっぱり向こうも付き合ってるつもりではないんだよね?


 そう思っていいんだよね?


 だけど手繋ぎ肩抱き挨拶の手キスとかは濃厚で……って、もしや私が過剰に反応しているだけで、巷の令嬢達が正式交際前にアプローチされる時ってそれが普通なの? 令嬢としては社交界デビューしてない私にはその辺の男女の常識がわからない。あああ社交界怖……っ!

 そんな風に悩み悶々としつつも汗を流せばかなりスッキリした。


「はふー、社交界の常識がどうであれ、この現状をどうしたらいいんだろう。心臓がもたないよ……」


 そんなこんなで、手紙に言及してあった夜会の日になった。

 

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