↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/8

4

 決闘の場所は私の生家ロビンズ男爵家。

 だってこれは正式だけど秘密の決闘だから公の場でなんてできるわけがない。

 レティシアとクラウスさんの二人を待っている間、肩と手首がじんじんして痛かった。でも明日にはこの鈍痛も薄れて何でもなくなると思う。その程度の怪我と言えない怪我だから。


「エマ! 大体の話はお兄様から聞いたわよ!」


 クラウスさんと共に廊下に出てきたレティシアが私を見て安堵したように駆け寄ってくる。第二王子フレデリックが来ているせいか人々は会場内に集中していて廊下には他に誰もいないから遠慮なくエマ呼び……ううん、たぶん私を心配するのに夢中で周りを見ていなかったから誰かいても気にせずエマ呼びだったかな。

 安心したはずのレティシアは私の顔色を見て案じる目になった。


「大丈夫なの? あなた酷く疲れた顔してる。……まあ弱ってる美形騎士もそれはそれでそそられるけれど。で、そこを甘く優しく慰めるこれまた美形男が現れて騎士の心も体もホッカホカに……っ」


 はあはあし出すレティシアはクラウスさんと絡んで欲しそうな目をした。

 いつでもどこでもぶれないなあ……。

 でもどうしよう、今BLっぽいスキンシップをするのはちょっとかなり緊張してガチガチになりそうなんだよね。

 気恥ずかしいって言ったらいいのかな。

 気疲れしたのも半分は彼が原因だし。


 遠慮がちにクラウスさんの方を見やれば、目が合った彼は何故かびっくりしたように目を見開いてだらだらと変な汗を流した。


 ひくっと歪なイケメンスマイルを張り付ける。

 ええー、どうして急にそんな不可解なリアクションを?

 今は皆の前で緊張のベタベタ演技中ってわけでもないのに……って、まままさかさっきのドキドキしてたのを気付かれた、とか!? だだだから気まずいの?

 ああもうどうにかドキドキしているのを悟られないようにって注意してきたのに失敗した。


 普通誰だって告白されても断るしかない相手が自分に気があるんじゃねって察した直後は薄ら気まずく思うでしょ。


 私に女除けを頼んだ以上、いるって言っていた意中の相手以外は門前払いなんだろうからね。


 そもそも私じゃ家格が下過ぎる。王家を除けば貴族社会の頂点に君臨する公爵家と底辺の男爵家じゃ天と地も然りだもの。論外論外。これ以上変に意識されないように気を引き締めないと。

 と、クラウスさんが咳払いした。


「こほん、レ、レティ今はそれ所じゃないだろ。帰るぞ。エマだって疲れただろうしな」

「ふうん、あらあら仕方がないわねーえ」


 クラウスさんへとレティシアが妙ににやにやしてみせて、見せつけるように私に抱きついてきた。あっと彼がどこか羨望と非難を含んだ声を上げたけど、次には誤魔化すように咳をした。


「ああわたくしのエマー! そうだわ、今夜はうちにお泊まりね? いいでしょう? あなたの家には遣いを出すから、久しぶりに二人だけで女子トークして一緒のベッドで抱き合って寝ましょうね!」

「お泊まり? 今日の今日でレティの所は大丈夫なの?」

「全然よ。我が家にはよくお客様が来るもの」


 そうだ公爵家には沢山の貴族や商人なんかが訪ねてくるらしい。


「じゃあ、お言葉に甘えて」

「良かった! エマ大好き!」


 ぎゅうぎゅうと頬同士をくっ付けてくるレティシアに、私の顔には嬉しいを内包した苦笑が滲んだ。彼女のこのテンションは私を気遣ってくれているからこそだ。私が暗くならないように彼女の明るさを注いでくれている。ふわりと花のようなレティシアの良い匂いがしていて気持ちが和らいでいく。


「あ、そうだ。レティ、何も言わないで急に離れてごめんね?」


 抱き付いたままのレティシアは横に首を振った。


「そんなの気にしなくていいわよ。仮にエマに別の場所に行こうってお願いされても、わたくしもお兄様もあの場をすぐには離れられなかったから」

「ああ、王子殿下と話してたんだっけ」

「ええ、あんのボンクラとね。こっちから何とか言って止めないと永遠に喋ってるわねあれは」

「ボンクラ……ア、ハハ……レティは色々強いよね」

「ふふっあらそう? さあて帰りましょ、お泊まりお泊まり~! くれぐれもお兄様に着替え覗かれないようにするのよ、エマ!」

「え」


 あたかも彼の覗きが確定なような呆れた眼差しを兄に向けたレティシア。彼女に釣られてついつい私も彼を見ちゃって頬が赤くなる。

 他方、不意打ちのからかいに一瞬ポカンとして何を言われたのか理解が遅れたクラウスさんは、理解すると見る間に赤面し動転した。


「おっ俺はそそそんな下劣な真似はしたい! あああ違うっ、しないっ! エマッ俺はそんな男じゃないから!」


 ああうん、うっかり大変な言い間違いをしちゃう程に心外だったんだよね。私もついねちょっと覗かれたらどうしよーって焦っちゃったけど、そんな事はないか。でもあれだ、テンパり具合が可愛いんですが。

 二人といたら、今夜の落ち込む出来事や懸念なんて薄れた。


「はいはいわかってますよ。信じてますから、クラウスさんは紳士って」


 大袈裟であたふたした弁明にくすりと微笑んだらばっちり目が合った。またドキリとしてしまって内心猛烈に恥ずかしくなって、だけど私はそれを悟られたくなくて誤魔化すように笑みを深めた。彼は何故か息をし忘れたみたいに詰まらせてややあって咳き込んだけど、大丈夫かな。


「あらまあお兄様ったら相変わらず……骨抜き」

「どうかしたレティ?」

「ううん、さあ帰りましょ、エマ」


 彼女はふふっと上品に笑って仲の良さを見せつけるように私と腕を組むとぐいぐい引っ張って歩き出す。クラウスさんは思わずと言った感じに取り残される形になった。


「クラウスさん、来ないんですか?」


 中々付いて来ないのを不思議に思って振り返れば、彼はハッとして追いかけてくる。

 その顔は少し赤い気がしたけど表情は柔らかだった。





 夜会会場で慌ただしくしていて二人に詳しく話をできなかった分、帰りの馬車では逆に二人から落ち着いてじっくりと話を聞き出された。なんて言っても主に隣に座るレティシアからね。


 クラウスさんは向かい側に一人で腰かけているけど、彼も私の話には超絶真剣かつ不機嫌な様子で耳を傾けていた。


 ステファンさんの名前が出た途端にぎゅぎゅぎゅっと眉間が寄ったっけ。


 そうだ彼は廊下でも少し怖いくらいに腹を立てていた。あ、怖いなんて言っちゃ失礼だよね、私のためにそうしてくれたんだから。

 私のためなんて思って体温が上がりそうになる。私が彼にとって怒って案じてくれる価値のある相手なんだって改めて意識したせいだ。幼馴染兼友人として大事に思われているって実感したせいだ。


 ……彼に好きな人がいるにせよ、ここまでは喜んでもいいよね。


 現在彼は向かいの座席で腕を組んで静かに両目を伏せているからこっちも平静にしていられるけど、また正面から目が合ったりしたら焦って挙動不審になりそう。

 幸い私のドキドキを話に出してはこないから、もしかしたら案外服のおかげで気付かれていないのかもしれない。とりあえずは墓穴を掘る真似だけはしないようにしよう。

 ちょうどレティシアがふんと鼻息を荒くする。


「やっぱり類は友を呼ぶのね。あのスケコマシ王子の騎士も生け簀かない男だったなんて。誰に師事していたって男装くらいいいじゃないのよね。それに令嬢が剣を握ったっていいじゃない。王宮には少ないとは言え女性騎士だっているのに、エマがお遊びだってどうして決めつけるのよね。大体にしてエマの方がそこらの王宮騎士なんかよりもよっぽど腕が立って有能なのに!」

「へへっそうかな。ありがとレティ」


 有能かはわからないけど、腕が立つって部分は自分でも自信あり。私を思いやってくれる優しさに感動してついつい甘えるように隣から抱きつくと、親友レティシアはよしよしと慰めるように頭を撫でてくれる。

 この時何気に目をやったら、クラウスさんは何故か悔しがる令嬢よろしくハンカチを噛んで引っ張っていた。えって目を疑って瞬きしたら次にはもう普通に座ったまま静かに目を閉じていたから……うんたぶん幻覚だったんだね。私相当疲れてるのかも。何故かレティシアはやけに優越に浸った目で自らの兄を見ていたけど。


 それからまあ馬車の中で色々話した結果、レティシアも決闘の日はクラウスさんと共に私の家に来る事になった。


 ホント心配性の兄妹だよね。そこまでしてくれる二人の応援のおかげで決闘は絶対頑張ろうって改めて力が湧いた。


 夜会に出席したから当然だけど、途中で帰ってきたとは言え公爵家に到着した時間は夜も遅かった。


 因みに今回の会場は王都だったから、国内各所に点在する空間ワープを使って時短してもそのくらい遅くなった。この国は空間ワープ魔法が整備されているおかげで各地の貴族達は領地で暮らしつつ、何か会議などの用事がある際は王都まで短時間で集まれる。昔は公式行事日程に合わせて遠路遥々領地から長旅をしてきたり、わざわざ王都に屋敷を建てて必要な期間中住んでいたみたいだけど、今では王都の屋敷、タウンハウスを持つ貴族は少ない。

 私の家も持ってない。アドレア公爵家は持ってるけどレティシアもクラウスさんも王都生活は煩わしいからってもう何年と訪れていないようだった。タウンハウスはともかく王都は道端一つ歩くだけで面倒事の方から寄ってくるから嫌なんだとか。有名人は大変だなあ。


 話を戻すと、良い子はもうとっくに寝ている時間に私達の馬車は公爵家屋敷の玄関前に停まったんだけど、夜会に同行していた使用人の誰かが先行してレティシア達の帰宅時間の目安を報せていたのか、音を聞き付けた使用人達が颯爽と出てきて迎えてくれた。


 時間も遅いのに感心だよ。きっと大事なお嬢様お坊っちゃまが心配で、彼らの帰還を耳をそばだてて今か今かと待っていたに違いない。

 先立ってクラウスさんが馬車を降り、私とレティシアに手を貸してくれる。ああやっぱり紳士的だ。


「あ、ありがとうございます」


 彼の手を借りる際にはドギマギしたけど、目が合っても努めて何とかいつも通りの落ち着いた顔をできたと思う。


「今夜はエマもわたくしの部屋に泊まるわ。皆いつものように彼女をよろしくね。ああそれとよく眠れるように就寝前にはハーブティーもお願い」


 馬車を降りた私をレティシアがそう言ってメイドに任せる。もうすっかり顔馴染みでもあるお姉さんメイドはにこやかに畏まりましたって言葉を口に、私を屋敷の中へ促してくれる。


「あれ、レティは入らないの?」

「わたくしはまだお兄様に話があるから。だから先に入っていてね」


 今必要になったのか、或いは車中じゃできない話でもあったのか、レティシアはクラウスさんを足止めしながらわかったと頷く私を見送った。





 エマが屋敷の中に入ったのを見届けて、レティシアは兄へと取り調べ官のような厳しい目を向ける。


「さーてお兄様、エマと一体何があったの? 馬車の中じゃエマ本人がいたし訊くのを必死に我慢したのよ。お兄様とのスキンシップの催促も遠慮したんだから。嫌々させてエマが遊びに来てくれなくなったら困るもの」

「嫌々……」


 クラウスは暗くなった。彼は一方的に何度も抱き締めてしまったのを思い返して強引だったかもしれないと反省したのだ。

 レティシアは兄の様子に両目を極めて細くする。


「お兄様、勿論白状してくれるわよね?」

「え……えーと、何もない、よ」

「嘘だわ。お兄様は元からだとしても、エマも様子が変だったもの」

「エマも……? レ、レティシアお前もそう思うか? やっぱりエマもおかしかったよな!? 馬車の中じゃ平然としていたし、全部俺の都合のいい思い込みだったのかと本気で思い始めていたところだよ」


 何かを一人勝手に期待するようにする兄へと妹は面白くもなさそうに顔を歪める。そこで思い込みかどうかエマに確かめようとしない辺り、兄はヘタレだという残念な認識が強まったからだ。


「まあお兄様の方が絶対的に挙動不審だったけれどね。大方、例の王宮騎士に嫉妬してやらかしたんでしょう?」

「や、やらかしたまでは行ってないっ……はず」


 嫉妬したのは否定せずも反論を口にするクラウスは、妹の勘の良さにたじたじだ。


「で? 本当に何したの? ハッ、まさかお兄様っ、ケダモノ宜しく無理ちゅーを!?」

「するかっ! 思わず何度か抱き締めただけだ。でもそれだってBL演技ではよくするし……やらかしレベルじゃないだろ、ギリギリで……」


 終いには人差し指同士をつんつんしながらごもごもと口ごもる兄の言い訳染みた説明にレティシアは溜息を禁じ得ない。そんな風にぐずぐずしているから進展しないのだ。

 エマには悪いが無理ちゅーくらいしろ、と思ってしまった。


「お兄様って外面は嫡男としてしっかりしているくせに、こういう所でホンッッッッッットに根性なしよね」

「言うな!」


 夜の空に悲痛な男の嘆きがこだました。


「ふう……。もうお兄様を泣かすのは飽きたからいいとして」

「なんて妹だよ……っ」

「ステファンとかいう暴力騎士はもっと具体的にはどう言った殿方なの? お兄様は直接喋ったのよね?」


 妹は鬼だと傷心していたクラウスは、件の王宮騎士を思い出してムカムカとまた不愉快になってくる。


「身のこなしからすると腕は立ちそうだったな。王宮騎士なんてやっているんだし実力は貴族の教養以上だろう。とは言ってもエマの方が全然強いけど」

「ふうん、そうなのね。因みに剣士?」

「ああ、帯剣していたからそうだろう。お飾りの剣じゃなければ、な」

「ふうん。見た目はカッコ良かった?」

「……まさかとは思うけど、エマとそいつで腐の趣味的に絡ませる気じゃないだろうな」


 クラウスが嫌な予感に低い声で牽制を込めれば、兄の恣意的な凄みなんぞどこ吹く風~な妹はしれっと半眼になった。ただその眼光には冷たい鋭さがある。


「お兄様って本当に腹が立つわね。わたくしが大事なエマをどこの馬の骨とも知れない男と薔薇の園的に密着させると思うの? エマのためにもお兄様だからこそ許してあげているのよ」

「エマのため……? どういう意味だ……?」


 刹那クラウスはレティシアの顔面史上最も破壊的と言える脱力の表情を目にした。

 そんなレティシアは「この会話の流れでどうして……」と盛大な溜息を落とす。地の底まで届きそうに深いそれを。


「嗚呼悪かったわエマ。あなただけをどうこう言えなかったわね。偏見の目でいたわたくしを許してね」

「おいレティ?」

「さてと、そろそろわたくし達も中に入りましょ」


 兄の困惑を無視して話は終わったとくるりと反転して玄関に爪先を向けたレティシアは、ふとその歩みを止める。兄からは見えない紅唇にはふっと策士の笑みが浮かんだ。


「……ねえお兄様、そう言えばエマってば恋愛するなら剣を打ち合える対等な相手がいいとか言っていたわよ。ステファンとか言う騎士は案外危険人物かもしれないわ」

「何だって!?」


 魔法の扱いには長けていても、剣の扱いではエマの方が上なのをよく知るクラウスはやや急いたような声を上げる。謙遜でも何でもなく何度も彼女と剣を打ち合える自信は彼にはない。


「まずいわね。これは転び方によってはその王宮騎士と恋に落ちる可能性も出てくるんじゃないかしら」

「なな何だって!?」


 大いに焦った面持ちの兄へと肩越しに振り返った妹はどこか同情染みた表情を作ってみせる。


「これまでも散々チャンスがあったにもかかわらず、唯一無二と言って差し支えないエマの周りの年頃の男だったにもかかわらず、わたくしが時々いいえ結構焚き付けてやっていたにもかかわらず、チャンスを無駄にして全く甘い雰囲気に持っていけなかった誰かさんはもう潮時なのかもしれないわね」

「……っ……っ、そんな抉ってくれるなっ!」


 涙目になるクラウスは拳を握りしめた。


「わかったよレティ。俺は今夜……今夜……狼になる!」

「そう言う事言ってんじゃねえわよ! いくらお兄様でも手順すっ飛ばして無理やりエマを奪ったら最高に泣かして潰して埋める……!」

「つ、潰す……?」


 何を、と青すぎるくらいに青い顔の兄を震え上がらせるようなメンチを切り絶対零度の眼差しを突き刺したレティシアは、いつもは使用人に開閉を任せている玄関扉を自らでピシャリと勢いよく閉ざした。

 鍵は開いたままなのだが、クラウスは締め出された気分だった。


「あ、でも二人のBL演技は別口ね! じゃんじゃんやって!」


 言い忘れたのか、一度扉が開いてまたバタンと激しく閉められた。

 ぽつねんと取り残されたクラウスはしばしポカンと突っ立った。





 クラウスさんとの話が終わったらしいレティシアから先に汗を流してきたらいいわと勧められ、私は男装を解いて入浴を終えた。今は彼女から借りた寝間着に着替えて彼女の寝室で人心地ついている。

 レティシアは私と入れ替わるように入浴しに行っていた。

 当たり前だけどだいぶ時間は遅い。

 リラックスできるようにって彼女が頼んでくれたハーブティーは、たぶん彼女がここに戻る前に運ばれてくるだろうから先に飲んでいていいとも言われた。

 それから退屈だったら自由に本でも読んでいて、とも。


 気の利くレティシアはお薦めを何冊か用意してくれたから、今は長椅子の上に寛いでそのうちの一冊を読んでいる。


 因みにレティシアチョイスは期待を裏切らない男の子同士の恋愛小説だ。


「ああ、髪の毛拭かないとなあ」


 さっきからそう思いつつ、私は読み始めた小説の続きが気になって後回しにしてしまっていた。前に何度か借りた時と同様彼女のコレクションはどれもストーリーが面白い。……スキンシップ面では激しめのがかなり多いけども。


 この今読んでいる小説はオメガバースって設定のある架空の世界のBL小説で、そこじゃ人間はアルファやベータ、オメガって性質を持っていて男性が妊娠したり強い発情期があったりするみたい。

 運命の番なんてものもいる。


「……もしもこの小説世界にクラウスさんがいて妊娠したら、そんなのまんま聖母だよね!」


 勝手に妄想して興奮した。うん、レティシアの腐令嬢サークルに私も近いうち入るかもしれない。

 初恋と抗えない本能との挾間で揺れ動く主人公に感情移入してドキドキしながら文章を追っていると、ノックが聞こえた。


「お、きっとお待ちかねのハーブティーだ。はーい、どうぞー」


 応えて待っていると、どこか躊躇うような間を置いてから静かに開けられた扉の向こうから相手が入ってくる。


「へ!?」


 私は一瞬息を止めて瞠目した。


 現れたのは使用人じゃなかった。


 何とクラウスさんだった。





 どうしてクラウスが深夜の妹の部屋を訪れたのか。

 それは先の玄関先での兄妹二人の会話付近まで遡る。先に屋敷に入ったレティシアに遅れて建物に入ったクラウスは、翌朝の食事を二人と一緒にしたいと言い忘れたのを思い出し急いで追いかけたのだ。そこでレティシアから就寝前のお茶に加わらないかと誘われた。まあ誘いというよりは、兄への情けだったのかもしれない。


『一緒にハーブティーを飲むくらいなら仲間に入れてあげてもいいわよ。昔みたいに』


 そう言ったレティシアは駄目な子を見つめるそれだった。

 しかしエマと同性のレティシアはともかく、一般的に言って男がレディの寝室を遅くに訪うなど非常識。しかもエマは入浴後かもしれないのだ。故にクラウスは一度断った。

 BL演技のおかげで少しは昔のようにエマとのスキンシップに慣れて、意識しまくりだった以前よりは落ち着き払って彼女と接する事ができるようにはなった。だがしかし、図々しくも部屋に行ってもしも嫌われたら一年はじめじめしてカビている自信のあるクラウスだ。遠慮するのは当然だった。恋する男は繊細なのだ。


『お兄様、本当に来なくていいの?』

『ああ、エマは俺を紳士な男だって思ってくれているし、その信頼を失くしたくないからな』

『……昔は余計なことをあれこれ考えずにもっとストレートだったのに。時に恋は人を弱くするものよね』

『弱く? 俺も大人になったってことだろ』

『へえ……。いいわ、来ないなら来ないでも。けれど後悔しないでね。もしもわたくしが今夜エマをものにしても』

『……は?』


 レティシアから意味深に微笑まれクラウスは言葉に詰まった。最大の恋のライバルはすぐ近くにいたのかもしれない。


『ハーブティーに媚薬でも一服盛ろうかしら。エマはノン気だけど媚薬の効果でどう転ぶかわからないわよね。それにうちには一時的に性別を変える魔法薬だってあるし、エマは責任感が強いから、仮にわたくしとどうにかなったら本当に責任を取ってくれると思うのよ。ねえお兄様もそう思うでしょう?』

『レティシア、おおお前まさか本気で何かするつもりなのか?』

『さあ? わたくしはお兄様にしかエマを譲るつもりはないけれど、そのお兄様が使えない男ならわたくし自身で手に入れるしかないでしょう? だから来ないなら来なくていいわ、慎重過ぎるお兄様。まあねえ、エマと良い雰囲気の時には邪魔なだけだもの。それじゃあお休みなさいお利口さんのお兄様』

『レティ……!』


 クラウスが絶句するのを気にも留めず、社交界の寵児たる麗しい微笑を浮かべ妹は踵を返して歩き去っていく。

 驚きはしたが妹のはおそらく演技だとクラウスは感じた。彼を動かすための彼女なりの励まし方なのだろう。だいぶ捻くれているが。


 レティシアがエマに本当に媚薬を盛るとは思えない。


 無論その後の口にできない展開も。


 しかし、クラウスは一抹の不安を抱いた。


 果たして、本当に、自分の無難な考えが正解なのか?


 妹はマジに白なのか?


 今し方の妖艶とも言える微笑に、急に自信が揺らいでいく。


 もしも、万が一、レティシアが本気なら――エマの貞操が危ない!


 好きな女を妹に寝取られるかもしれないと半分本気で焦って顔を上げた視界の中では、その危険かもしれない人物妹は廊下の角を曲がっていくところ。


『――っ、レティシア!』


 追いかけて制止した。


『まだ何か? わたくし達はこのあとすぐに身綺麗にする予定ですけど、お兄様も今日の汚れを早々に落としたら如何かしら? いくら寛容なエマでも汚い男は好かないでしょうしね。ふふふ、すっきりしてエマと二人でハーブティー片手にじっくり密着して女子トークをするわね。エマのことは安心してわたくしに任せてねお兄様。ああ今夜は良い夢を見られそうだわ~』


 これみよがしな台詞を口にするレティシアはクラウスにはろくに取り合わずさっさと遠ざかっていく。

 くっと奥歯を噛んで拳を握ったクラウスは静かに決意する。


『レティシアにエマはやらない』


 二人が羨ましい関係に発展しないように邪魔をしに行ってやる、と。

 そんなわけで彼は浴槽に湯の用意を急がせるとこの日の汗を洗い流し、最早躊躇いを捨てて妹の部屋へと向かったのだ。


『ところで、エマ本人に夜会でドキドキしていた理由を訊ねてもいいものか……?』


 廊下の途中で自問自答。自分のドキドキの理由がそうだからと言ってエマまでそうとは限らない。会場では早計にもまさかのラブかと喜んだが冷静になって考えるとぬか喜びだった可能性も捨て切れなかった。

 だからこそ確かめたい。エマを知りたいならばそうすべきだろう。


『ま、まさかあの騎士が……好みドンピシャの男が現れたせいで高鳴っていたとか?』


 いやいやいやと即座に首を振る。

 ステファンはエマが女性とわかっていても指の跡が付くような乱暴な振る舞いをする輩だ。彼女が恋に落ちるとは考えられない……というより考えたくない。


 ぐるぐると悩んでいたらいつの間にかもうレティシアの部屋前に着いていた。


 扉の前で小さく咳払いをして気持ちを整える。顔を上げ、すうっと息を吸い込んで、中の人間をびっくりさせないように控えめなノックをした。

 中からはエマの声で「はいどうぞ」と返事があって簡単に入室を許される。

 まさか名乗る前に入るよう言われてしまうとはと思わず拍子抜けしたが、その声にさえドキリとして彼は深夜の妹の部屋へと足を踏み入れたのだった。





 どうせレティシアもいるのだろうとクラウスは気を抜いていた。


(いや気を抜くどころか警戒すべきか?)


 しかし入って早々固まる羽目になった。


(え、な、何でエマ君はそんな格好なんだ……!)


 彼女はゆったりした寝間着姿だった。

 妹レティシアの服なので普段エマが着ないようなフリフリが可愛いデザインでもある。今までもエマのお泊まりはあったが年頃になってからの寝間着姿を見るのは初めてだったし、その時は女子同士で事前に約束していてエマが自分の簡素な寝間着を持参していた。


「かっ……!」


 クラウスは愚かなまでに叫びそうだったのを両手で口を塞いで本当に辛うじて堪えた。穴があったら「可愛過ぎるーーーーっ!!」と叫んでいたはずだ。彼女の普段着ドレスもシンプルであっさりしたデザインのしか見た事がなく、女の子女の子した服を着ないエマの新鮮過ぎる姿に戸口で早々に理性を持って行かれそうになる。


 しかもまだ髪の毛が半乾きで背中に下ろされていた。


 雰囲気がいつもと違っても見える。


 タオルは肩から掛けられているものの長い黒髪を乾かしている様子はない。

 就寝前とは言えここまで無防備な姿を彼は想像していなかった。せめてもう一枚カーディガンでもショールでも上に羽織ってほしい。湯冷め防止の観点からもそうした方がいい。ごくりと我知らずクラウスの咽が鳴る。


「へ? あれ? クラウスさん? 何だてっきりメイドさんがハーブティーを運んで来てくれたんだと……」


 そう言われてみればまだハーブティーは用意されていないようだ。テーブル上はがら空きだ。どうやら自分は来るのが早かったらしいとクラウスは悟った。

 これが良いのか悪いのかは判断がつかないが、彼は肝心な妹の姿がないのに気付いた。


「ええとレティは?」

「あ、まだ入浴中で……」

「な……そ、そうなのか」


(何だってええええーーーー!?)


 エマは長椅子に腰掛けて何かの本を読んで寛いでいた様子だ。レティシアはやはり兄は来ないと思ってエマには何も告げていなかったようだ。

 しかもエマ一人を置いて部屋にいない。


「まさか、これはレティの企みなのか……?」


 真相はクラウスを動かすための演技だったのかもしれない。しかし男女二人きりなどかえってエマに警戒心を抱かれて逆効果なんじゃないかとも懸念が湧く。


「レティにご用ですよね? たぶんもう少しで戻ってくると思いますが」


 そう言うエマの顔には微かに気まずさのようなものが見て取れる。

 ほら見ろーっとクラウスは内心ちょっと泣いた。

 告知なしに加えて夜遅いという状況もあるだろう。警戒して緊張されても仕方がない。けれど、深夜集ったのはこれが初めてではなく、昔なら彼女からそんなものを感じなかったと思えば彼はどこか面白くないものを感じた。


「ああえっと、用事って言うか、その、えーと、あっ実は俺もレティからお茶に誘われたんだけど」

「ああ何だそうだったんですね! ごめんなさいうっかりしてました。レティなら当然クラウスさんも誘いますよね! ささっ椅子にどうぞどうぞ……って私が言うのもあれですが。レティは先に飲んでていいって言ってましたし、そのうち運ばれてくると思うのでもうちょっと待ちましょう。大丈夫ですか?」

「うん、全然」


 別段部屋から追い出されるでもなかったのには内心ホッとしつつ、クラウスはローテーブルを挟んだエマの向かいの長椅子に腰かけようとして進んだが、思い立って進路を変えた。


「エマ、髪を乾かさないと風邪を引くよ」


 タオルがあるくせに湿った髪を放置しているのを見かねたのだ。昔からレティシアの髪もよく拭いてやっていたので、この時は純粋に世話焼きの意図だけで他意はなかった。

 病気への心配から照れも何もなくエマの後ろに立つと、彼女の肩にあったタオルを使って頭を覆ってわしゃわしゃと擦って水分をタオルに移してやる。


「へっ、わっ、ちょっ、私は犬じゃないですよう! もう~っ!」

「あははっ」


 上がった抗議の悲鳴に思わず笑ってしまった。こんな気安いやり取りがとても嬉しい。

 ぶーぶー言われながらも手を動かす彼はエマが手に持っている本へと目を落とす。


「何を読んでたんだ?」

「ああええと、レティからお薦めされたやつを……」

「へえ、何の本?」

「え、ええとー……BL演技の役に立ちます」

「……なるほど」


 どんな本かはすぐに察した。


「でも中々に面白いんですよこれ。オメガとかアルファとかって設定があって、首だかを噛むと運命の番になるとかって本能的な決まりもあって」

「オメガバースってやつか」

「ああはい、それですね。何だ知ってるんですね」

「レティが毎日呪文みたいに言ってくるからな」

「あー……ある種の記憶術ですねそれもう」

「だなー」


 互いに温い空気でへらりと笑んだ。

 レティシアのおかげでその手の知識に無知ではなかったのは良かったのか悪かったのか。


 作品によっては首筋を噛むと運命の番に決まってしまってその本能に抗えないとかどうとか言う鬼畜な、それでいてどこかエロティックな決まりがある世界。


 妹も含めた巷の腐令嬢達はそういうのが好きなのかと何とも複雑な気分になったものだ。


 けれど、どこか、それが今は心底羨ましくて甘い。


 エマの髪を拭きながら、タオルの下に見える首筋が妙な白さを伴って目に映る。太陽光の下ではなく室内灯の下だからかもしれない。

 これまで濡れた黒髪がこんなにも艶かしいだなんて思ったためしだってない。


 いつもの凛とした彼女の髪は思いもかけず柔らかい。


 吸血鬼が血の衝動に誘われる時はこんな気分だろうかと、彼は仄かに酔ったような意識の傍らで思った。


 もしも、本の中のように首への甘噛みだけで自分の運命の伴侶にできるなら……。


 半分伏せた瞼が卑怯な欲求に震える。


 ドクリドクリと熱く血が巡る。


 この部屋には自分達二人きり。


 駄目だ、するな、我慢しろ、と理性が訴えてくる。


 寝間着の袖から覗く彼女の手首に微かにまだ赤く残る別の男の指の跡が見えた。レティシアの服なのでエマには少し短かったようだ。


 跡……自分ではない男の……。


「エマ……――」


 声にならない声で愛しい名を呼んだ。


 彼は手を止め屈み込むと、ゆっくりとうなじに顔を埋めた。





 突如頭からタオルを掛けられてびっくりしたけど、クラウスさんが面倒見の良い人間なのを知っていたからそのまま任せた。文句を言ったものの視界が隠れて髪を拭いてもらう感覚が心地よくて途中からはうとうとしていた。

 だって今夜はとても疲れた。ぐっすり眠って気分一新したい。

 そう思っていた。


 不思議な感触を首に感じるまでは。


 クラウスさんが手を止めたかと思えば近付く気配がして、疑問に振り返る暇もなくタオル越しに首に噛み付かれたような感覚がもたらされた。


「ひゃっ……?」


 い、今のは歯が当たった感じだよね?


 でも……歯?


 自分の感覚が信じ難くて今度こそ首を回せば、至近距離に彼の顔が見えて目を見開いた。


 ややややっぱり気のせいじゃなかったんだ!?


 私噛まれたの!? えっでも何で!?


 だけど彼も放心したような様子でいたから、逆に動揺が引いていく。


「ク、クラウスさん? その、大丈夫ですか?」


 一つの瞬きの後彼は一気に赤面するや摩擦でズザザザーッて音がして絨毯が焦げそうな速さで私から離れた。その手には勢い余って掴んだままのタオルがある。


「やっ、エマ、いやっ、今のはそのっ……っ」

「へ、あの?」


 向こうも大概大混乱中なんだろうけど、私だって混乱している。正直彼に何があったのか説明してほしい。

 椅子から立って近付けば、


「まっ……!」

「ま?」

「まだお茶ないし、こここ今夜は疲れてすっごい眠いから俺……! お休みエマ!」


 何故か彼は後ずさってタオルを持ったまま回れ右をすると脱兎のごとく部屋を出て行ってしまった。


「……え、なに?」


 何か悪い事をしただろうか。ついさっきは待つの平気って言ってたのに。


「あっどうしようっ、お休みなさいって言いそびれちゃったよ……!」


 でもたぶん問題はそこじゃないって自分でもちょっと思った。





 深夜の廊下を全力疾走するクラウスは顔面が自然発火してもおかしくないなと本気で思っていた。


 タオル越しに噛んだのは、寸前で理性が僅かに働いたからだ。


 だから直接肌に触れなかった。


 惜しかった気持ちとそれで良かったという気持ちがごっちゃになっている。


「うあああああタオルそのままっ。悪いエマ……!」


 彼女の匂いのする物を持ってきただなんて、オメガバースで言う所の巣作りみたいではないか。発情期に相手の匂いに包まれたいと相手の匂いのする物を自室に持ち込むと言った設定だったか。


 無駄に知識があったせいで彼はその類似性に気付いて羞恥心もひとしおだ。


 絶対今夜は眠れないと確信した。





 ポカーンとしていたら暫しして何も知らないメイドがハーブティーを運んできてくれた。

 冷めないうちにって思考だけが働いて美味しく頂いた。

 飲み終えてから小説の続きを読み始めたけど、内容はろくに頭に入ってこなかった。いつまで経っても火照りが取れない。


「エマ、どうかした? 凄く顔が赤いけれど」


 やっと気分もなだらかになった頃、入浴してさっぱりした様子で戻ってきたレティシアからキョトンとされた。


「そ、そうかな? お薦めされたこの本のせいかも。まだ途中だけど……ヤバいくらいに胸キュンするんだもん」


 位置的に直接は見えていなくてハッキリ確証を得られなかった彼の行為には言及せず、敢えてもやもやした気持ちを考えないようにした。


「そうでしょそうでしょー! エマもとうとう扉を開けちゃった?」

「あは、少しだけ」

「やったわ~布教成功~っ、これで次からはもっとお兄様とのBLも濃厚なのがいけるわよね!」

「え、ええとそこはどうだろう?」


 大興奮したレティシアから飛び付かれ苦笑するしかない。


「ところでお兄様ってば来ないのね。結構煽ったから来るかと思っていたんだけど」

「あ、さっき来たけどハーブティーまだだったし、眠いみたいで戻って行ったよ」

「そうなの? ふーん……寝間着で二人きりはまだチェリーボーイにはハードルが高かったのかしらねえ」

「うん?」


 レティシアの独り言はよく聞こえなかったけど、機嫌を悪くしたりしなくて良かった。

 きっと明日は何でもない顔でクラウスさんとは話そう。

 故意に噛んだんじゃなくて不可抗力か不可避な何かがあったとか、そもそも噛んだんじゃなかったのかもしれない。大きな勘違いだったら申し訳ないもの。


「ああちょっとエマってば」

「うん?」

「髪! 半端にしてえっ。大事な決闘があるのに風邪でも引いたらどうするのよ!」


 自分の銀髪を拭くのもそこそこに、レティシアが新しいタオルを手に私の頭をわしゃわしゃした。

 ……ホント兄妹揃って同じなんだから。


「ふふっ、あははっ」

「エマ? もう、何笑ってるのよ。風邪なんて引いたら笑い事じゃないのよ」

「えへへ、うん、そうだよね。ありがとうレティ」


 大人しく座ってやってもらった後で今度は私がお返しにレティシアの綺麗な髪を拭いてあげて、この日は予定通り仲良くベッドに並んで姉妹のように眠った。


 翌日、朝食を済ませて公爵家から帰る私はドレス姿で馬車に乗り込んで車窓から外を眺めた。


 男装衣装は基本公爵家に置いてある。レティシア達と集まりに出かける日はここで着替えて行く事が多いからね。


 でも剣だけは別。


 自前だ。今も腰にある。


 世間じゃドレスに剣って取り合わせはまだまだ奇異に見えるかもしれない。


 将来このまま私が私のスタンスを貫いてひとかどの人物になれたなら、ドレスに剣なんてカッコも広く受け入れられるようになるだろうか。


 わからないけど、その一本道を真っ直ぐ突き進むのも有意義な人生じゃない?


 ってわけで、明日は何があっても勝つぞー!


 見送りにはメイドと一緒にレティシアが出てきてくれたけど、クラウスさんは忙しいのかもう屋敷を出て仕事をしているとかでいない。


 朝食時に顔を見たら寝不足なのか目の下には濃いクマができていたし、ふらついてもいたから大丈夫なのかなって正直心配だった。


 食堂の入口で転びそうになった所をたまたま近くにいたから支えたら、半分寝ていたらしく「いい匂い」って抱き締められて髪に頬をすり寄せられたっけ。


 不意打ち過ぎるスキンシップにさすがに硬直しちゃったら、レティシアが横からクラウスさんの耳を引っ張って、痛みに目が覚めた彼は失態を悟って「わああっごめんエマ!」って酷く驚いて真っ赤になって飛び上がった。何だかコントをしている気分だったなあ。

 お早うお兄様って微笑んだレティシアは、どこか胡乱な目で「帰ったらお話ししましょお兄様」って話し掛けていたっけ。兄妹仲が良くて何よりだね。


 極度の挙動不審であれクラウスさんは明日の決闘には行くから大丈夫ってレティシアは言っていたけど、倒れられても困るし無理はしてほしくない。


「レティ、クラウスさんかなりその、イケメンが崩れる程グロッキーだったし、明日は休息優先で良いからって伝えてくれる?」


 窓を開けて声を掛けると、レティシアは難しい顔付きで小首を傾げた。


「雷雨だろうと大雪だろうと、わたくしにはお兄様を止められないと思うわ」

「いやそんな悪天候だったら決闘しないよ!」

「そもそもエマが全責任を取ってくれればお兄様は秒でピンピンするわよ。心配無用。それじゃあ明日~」

「え、何それ? 新手の回復魔法か何か? でも私魔法はからっきしだけど」

「いいえ、古今東西人類が経験してきた真理よ」

「うん……?」

「それじゃあね、エマ。気を付けて。明日ね」

「うん、明日」


 車輪がゆっくりと回り出し、馬車は私の僅かな困惑さえ乗せて走り出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。