境夏美
エピソード4 境夏美
「君、天崎海斗くん?」と、突然背後から名前を呼ばれ、海斗はひどく狼狽えた。振り返ると知らない女性が立っていて、「なんだ、さっきの子じゃないのか。」と少し胸をなでおろした。本当に見覚えがない女性だったので「誰ですか。」と問いかけた。
「本当に陸にそっくりだね。本人かと思っちゃった。」と女性ははにかんで笑った。
そして、「私は境夏美。海斗君の話は、陸からよく聞いてるよ。」と言った。
ああ、兄さんが言っていたカノジョか。夏美さんは絵を描く仕事をしていると、この前兄が自慢げに話していた。ほんとにすごいんだ、あの子の描く絵は、と顔をニヤニヤさせて話していたっけ。海斗が直接顔を合わせるのは今日が初めてである。
夏美は周囲を見渡して「図書室じゃあ話せないね。ちょっとここから歩こうか。」と言った。
「兄さんは僕のこと、なんて言っていましたか。」と海斗が聞くと、
「顔は俺とそっくりなのに、全く彼女を家に連れてこないって言ってたよ。海斗君、身長も高いし顔もイケメンなのに、一回も彼女が出来たことないってマジなの?」
「はい。女子に興味がないので。」と海斗は静かに答えた。そう、今までは女子に興味が全く湧かなかった。小学校のころから何回か同級生に告白されているが、全部断っている。
なのに、さっきの奴はなんなのだ、と海斗は苛立った。目が合った途端、金縛りにあったみたいに何もできなくなった。あの子はメデューサなのだろうか。
階段を下りて一階の廊下に出る。夏美さんは終始、校舎を懐かしそうに眺めながら、海斗との会話を続けていた。
海斗は「夏美さんは絵を描くんですか。」と言った。
「そうだよ。今日は母校に私の絵を飾るためにここに来たの。」
「飾りたかったんですか。」と聞くと、
「まさか。校長先生がどうしてもって言って聞かなかったから仕方なく。私、本当は誰かに自分の絵を見せるのが、あんまり好きじゃない。」と言った。
保健室の前を通り過ぎ、来賓用の玄関を過ぎたところに校長室がある。そばの廊下の壁には、受賞した美術部の作品や、OBから贈呈された絵画や彫刻が一面に飾られていた。
「これ、私の絵。」と言って夏美は一枚の大きな油絵を指さした。
「人に絵を見られるの嫌いじゃないんですか。」と海斗が聞くと、
「あんたは別。陸の弟だからって言うのもあるけど、海斗君は分かってくれる気がするの。」と夏美さんは答えた。
その絵は子供の身長くらいありそうな大きなキャンパスに書かれていた。絵の中央に大きな水たまりがあり、中心から外側にかけて水面が同心円状に波打っている。ホタルのような光の粒が辺り一面に漂っていて、天頂から一筋の陽光がさしていた。水たまりの周りには鮮やかな黄緑色をした芝生が生えている。
そして、水たまりの中央にぽつんと浮かぶ、一個の眼球。
「訳が分からない絵でしょう。私もそう思うの。」と夏美が隣で呟いた。海斗も大いに不可思議だと思った。全体としての絵はとても美しいのだが、中央の眼球によってアンバランスな印象になっていた。
しかし、それ以上にこの絵は、海斗にとって猛烈な郷愁を感じさせた。
「変な絵だってわかっているのに、凄く懐かしい感じがする。」と海斗が正直に言うと、
「この絵を見た人はみんな、同じこと言ってた。」と夏美が言って笑った。
「私、小さいとき事故に巻き込まれて、十年間意識が戻らなかったの。」と夏美がつぶやき、海斗は驚いて彼女を振り返った。
「その時、私は一回、この世界からいなくなってる。ここじゃない世界に行ってた。」とつぶやき、
「初めてこのこと、人に言った。」と言って、嬉しそうに笑った。
「・・・なんでそんなこと僕に。」と海斗が言うと
「あんたなら、分かってくれる気がするから。あと、陸には話しちゃいけない気がする。」と夏美は言った。
「今まで描いた絵は全部、私が眠っている間に見た別の世界のこと。あっちのことは、ぼんやりとは覚えているんだけど、何か大事なことを忘れている気がする。」
彼女は「私の話、聞いてくれない?」と言った。海斗は「いいですよ。」と答えた。