ポーションがお好きでしょ?
かつて永い戦いがあった。
北方から南下してきた魔族と人の戦いは断続的に百年近く続いたが、人間は最終的に勝利した。膠着した戦いを終わらせたのは英雄でもなく、優れた武器でもなかった。ただ一つの薬だった。
その名前はポーション。飲んだ人間の精神と魔力に影響を与え疑似的に回復魔法と同じ効果を持たらすこの薬は多くの命を救った。回復師と呼ばれる人体の傷を癒す魔法を使える者は多くない。せいぜい兵隊百人のうち一人が回復師というくらいである。彼らがいくら頑張っても広い戦場で救える命は限られている。
それが一転した。ポーションを持っていればいつだって回復ができる。戦場でもすぐに治療を行い。また戦う。戦場は姿を変えた。回復できる。その気持ちが勇気となり魔物を駆逐し、それらを使役する魔族を次々に打ち倒していった。
のちに『献身の第九中隊』といわれる勇者たちもポーションを飲みながら過酷な戦いに挑んでいった。
こうして世界は人のものとなり、人々は栄華と平和を手に入れた。
ノートン王国の王都ユトランドに世界で最初にポーションを生み出したニア・ボードウィンの工房はある。ニアのポーションと言えば戦後五年経ったいまでもポーションの代名詞だ。もちろん、戦中に大量生産されるようになったポーションをこの工房だけで賄えるはずもなく、世間にはいくつものポーション工房がある。
私は、ポーションの原点であるポーション職人ニアの一日を追った。
「はじめまして、ユトランジャーナルのメルト・ガランディーノです。随分と朝早くから作業をされるんですね?」
私が問いかけるとニアは朝日に照らされたのか取材に緊張しているのか恥ずかしそうに笑った。
「俺がポーション造りをできるのは多くの人のおかげですし、いち早くポーションをお客さんに届けたい。そう思うと不思議と目が覚めてしまうんです」
ニアの目はどこまでも真剣で、薬を煮出す鍋や生薬を砕く乳鉢を念入りに確認している。少しでも汚れがあると彼はきれいな布でふき取り、異物が入らぬようにそっと机に並べていく。彼は一切妥協したくないのだという。
「いまやポーションは兵士だけじゃなく、冒険者や普通の若い人も老人も使います。ただの回復薬だ。そう言われればそうですけどやっぱり最高のものを提供したいんです。粗雑な材料で最低限ポーションの要件を満たしている液体。そういうものとは一緒にされたくない」
彼にとってポーションとはある種の芸術作品であり、誇りでもあるのだろう。戦時下でポーションが量産されるようになった際、その質の差について問題になったことがあった。ニアのオリジナルポーションとレシピから製造された他の工房とでは効果に違いがあったと多くの兵士たちが証言している。
道具の準備が終わるころ、工房の扉を叩く者があった。ニアは満面の笑みで扉を開くとそこには大きなカゴいっぱいに薬草を詰め込んだ中年の冒険者が立っていた。彼はやや緊張した様子でニアに薬草を見せる。薬草は何種類もあり、私たちが普段使うようなものもあれば、分からぬものも多い。
ニアはそれら一つ一つを丁寧に確認すると手元にあった紙に種類や品質について短い言葉を添え、最後に買い取り価格を書いて中年の冒険者に渡した。冒険者は金額を見ると「もう少し高くてもいいんじゃないですか? ベラドンナやヒヨスなんてこの季節なかなか手に入りませんよ」と食い下がった。ニアは少しだけ考えて数字を少しだけ書き換えた。
冒険者は納得したのか首を縦に振って、ニアと強く握手した。どうやら商談成立したらしい。私は冒険者に質問をしてみた。
「ニアさんとの取引は大変ですか?」
「そりぁ、大変ですよ。ニアさんほど薬草に厳しい人はいない。せっかく採ってきた薬草も品質が悪いと買い取ってもらえないことも良くあります」
「それだと生活が厳しいんじゃありませんか?」
「……確かに厳しいよ。でも俺は大戦のころからニアのポーションの愛飲者だし、いい薬草を持ってくるとたまにポーションをくれたりする。そうなるとまた採って来よう。そう思うんだよ」
どうやら、ニアのポーションに対する情熱は出入りの冒険者にまで伝わっているらしい。
冒険者が帰るとニアはさっそく薬草を種類ごとに加工し始めた。
「これはガンジャ。ある薬草の花序の部分なんだけどこのままだと効果が薄い。だから細かく刻んでからオイルや酒に付け込んで成分を取り出すんです。このとき作業時間を短くするために加熱する奴らもいますが、ここでゆっくりと抽出するのが大切なんです」
効率よりも品質。薬草を刻むナイフの軽快さにプロならではの技を感じた。
しばらくすると何とも言えぬ薬のにおいが工房に立ち込める。それはとても甘いような。それでいて苦みを感じさせるものだった。ニアは少しだけ恍惚の表情をしたあと「少し外に出ましょうか」と私たちを工房の外へと連れ出した。
「どうして外へ?」
「これ以上は危険ですから」
「ポーション作りにも危険があるんですか?」
私が尋ねるとニアは少しはっとした表情を見せたあとこっそりと秘密を打ち明ける少年のようなはにかんで「とっても臭いんですよ。製品からは思いつかないほど。薬草が酒と混ざり合って薬効が溶け出すときにでるにおいなんですけどね。内緒にしてくださいよ。ポーション職人になる人間が減るから」と、語った。
どんなものにも一長一短があるというがポーション作りにもそんな欠点があるとは知らなかった。ニアは少しでも時間を無駄にしたくないとばかりに私を手招きすると工房の裏にある畑に私を案内した。畑には手のひらくらいの青々とした植物が生えていた。
畑には従業員と思われる男性が小作人たちに神妙な顔で指示をしている。小作人たちは恐々という様子で青々とした植物に紐を結び付ける。
「これは一体なんの畑ですか?」
「これはマンドラゴラです。長い間、栽培方法が確立されていませんでしたが、十年ほど前に安定した栽培ができるようになったんです。この技術が生まれたからポーションが量産できるようになったと言っていい」
マンドラゴラと言えば、根の部分が複雑に絡み合い人の形状になることで有名な薬効植物である。土中から魔力を吸い上げ根にため込む性質を持っており、かつては魔力の濃い土地でしか栽培できなかった。高い魔力を含むため魔法使い以外の人間が口にすれば、身体に過剰な魔力が吸収され幻覚や幻聴、嘔吐と言った症状に襲われる。反対に体内に魔力を多く持つ魔法使いが摂取すれば、効率よく魔力を回復することができるという。
「しかし、一面のマンドラゴラ。ここまでくると大根畑みたいですね」
「大根ね。でも大きな畑にできるまではなかなか苦労したんですよ。魔力を土中に増やすために肥料も必要だし、管理するための人間もいる。ここにいるジョージはマンドラゴラに関しては僕以上に知識を持ってます」
いきなり声をかけられたジョージは泥まみれの手で顔の汗をぬぐうと嬉しそうに笑った。日に焼けた肌に白い歯が健康そうだった。
「では、いまジョージさんたちがマンドラゴラに紐を結わえていたのは?」
「そう。収穫です。こればっかりは今も昔も変わりません。マンドラゴラの絶叫は収穫と同義ですから」
古来からマンドラゴラの収穫は命懸けだ。土から引き抜かれるときマンドラゴラは絶叫する。その叫びは人を狂わすという。そのため、叫び声を聞かぬために犬や馬とマンドラゴラを紐で結び引き抜く方法が取られている。
「でも犬の姿がありませんよ?」
畑を見渡すが犬舎や厩舎は見当たらない。畑の周りには農機具小屋とジョージの指示で働いている小作人たちの住まいと思われる粗末なあばら家があり、その隣に工房には不釣り合いな石造りの城壁のような建物があるだけだ。
「ああ、いまは犬とかは使いません。犬や馬がマンドラゴラの絶叫を聞けば人間のように発狂するどころか死んでしまいますから」
「では、どうやって?」
私が疑問を口にすると小作人たちが鎖につながれた男性を連れてくるのが見えた。男性は40代半ばといった年頃だが髪の毛はぼさぼさで髭も伸びるままでまともな様相ではない。また、口からは訳の分からないうめき声が漏れ出し、瞳はぐるぐると宙をさまよっている。
「狂人ですよ。あの永い戦争で心を病んだ。平和になっても心が戻らず家族にも見捨てられた男たちですが、ここでは仕事があります」
「……まさか?」
「叫びを聞けば狂う。ならば最初から狂っている者に手綱をつければいい」
ニアの言葉通り、連れ出されてきた男の身体にマンドラゴラから伸びた紐がくくりつけられた。それから長い縄と短い縄が取り付けられ柱のように太い杭に結ばれた。男は短い縄の長さまでしか動けずにいるが、短い縄はいまにも切れそうな切込みが入れてあり男が激しく動けば切れるに違いない。
短い縄がちぎれて長い縄の範囲だけ男が動けるようになるとマンドラゴラに結ばれた紐が引っ張られて抜けるという仕掛けらしい。
「ニアさん、行きましょう」
小作人たちが男に紐と縄を結び終えたのを確認したジョージが私とニアを石造りの建物へと導く、建物の入り口は畑の反対に取り付けられていた。中に入るとすぐにその暗さに驚かされた。窓が一つもないのだ。小作人たちが手際よく壁際のランプに火をともしていくとようやく暗闇が去った。
「私たちが残酷だと思いますか?」
「……ええ、そうですね。もし、自分が彼の立場だと思うとぞっとします」
「それも一つの考え方だと思います。でも、彼と一緒に暮らさなければならない家族のことを思うとどうですか? 戦争から帰ってきた夫または息子が心を壊していた。わめいたり叫んだりするだけなら耐えられるかもしれない。これが暴れたり、自分を襲ってくるとしたら? 優しかった夫や可愛かった息子が鬼になっている。そんな生活のほうがつらくないですか?」
確かにそれはそうかもしれない。あの戦争の中で心病んだ人は多い。そういう人間と一緒に暮らすというのは確かに難しいに違いない。元の姿が優しければ優しいほど変貌した姿に絶望する。そんなこともあるだろう。
「それは……」
「彼は確かに過酷な境遇です。でも、彼がここでマンドラゴラを抜いてくれれば、それだけ人々を癒すポーションが製造できて、彼の家族にも給料を渡すことができる。家でお荷物のように扱われるよりもずっといいとは思いませんか?」
即答はできなかった。豊かな家であれば彼を看護しながら暮らすこともできるだろう。しかし、貧しい家ならどうか。その日の暮らしにも事欠くような家なら、彼を養うことは難しいに違いない。戦後とはいえ、まだまだ問題が残っていることを突き付けられて私は複雑な気持ちになった。
「即答はできませんね。とても難しい問題です。第九中隊の家族からお話を聞いたときにも似たような気持になりました。祖国を守るために命を捨てて敵陣を破り、勝利の大きな礎になった彼らは間違いなく勇者でした。ですが、残された家族は生きて帰ってきてほしかったと語っていました」
『献身の第九中隊』はあの戦争の語り草である。魔族の拠点であったラジバル大要塞。ここに据え付けられた魔導砲台ケルビムは人類側に多くの犠牲を生んだ。この砲台を占拠するために第九中隊は剣と大量のポーションを持って挑んだ。
降り注ぐ魔弾に腕や足を吹き飛ばされてもポーションの効果で彼らは進撃をやめなかった。彼らの脚が停まるのは頭か心臓を失ったときだけだった。隊列を組み彼らは走った。前の仲間が止まれば後ろの者が前の者のポーションを奪い最前列を進む。そうして彼らは砲台に肉薄し占拠した。戦闘後の生還兵は二名。その二人も傷がひどく二日後には死亡した。結果だけ見れば第九中隊は全滅であった。戦後、彼らは勇者として祀り上げられ、ラジバル大要塞に彼らの銅像が勇ましくたっている。
「献身の第九中隊ですね。彼らがいなければ戦争はもっと長くなったでしょう。家族には悪いとは思いますが、彼らが全滅してくれたことでより多くの人々が救われた。彼らの行動が正しかった。僕はそう思います」
私たちの会話が気まずく終わったとき石壁の向こうでくぐもった残響が断続的に聞こえた。おそらくあれがマンドラゴラの叫びなのだろうが、石壁に遮られてまともに聞こえもしなかった。ジョージが小作人の一人に見に行くように命令する。命令を受けた小作人は耳元に何枚もの布を巻きつけるとおっかなびっくり外へ出て行った。
「たまに抜けそこなったマンドラゴラがあるんですよ」
「それは怖いですね」
「まぁ、マンドラゴラの叫びは地中の魔力と根が切り離されるときに生まれるので抜けかけであれば、ちゃんと耳を覆っていれば問題ありませんけどね」
そういってニアは微笑むと畑へと向かって行った。その背後についていくと畑には地面から抜け落ちたマンドラゴラと意識を失った狂人の男が倒れていた。一瞬死んでいるのかと思ったがどうやら気を失っているらしく瞼がぴくぴくと動いている。男につなげられた縄を小作人たちが手際よく切断し、体格のいい者が男を担いで私たちが先ほどまでいた石造りの建物に狂人を放り込むと扉を閉めて大きな錠をかけた。
どうやらあの建物は退避小屋と彼の家を兼ねているらしい。
「それにしてもここまで人型をしたものが落ちていると少し気味が悪いですね」
「はは、まぁ初めての人からすればそうでしょうね。でもこうやってマンドラゴラの栽培が成功するまでは本当に大変だったんですよ。魔力の高い土地にしかマンドラゴラは育ちませんから」
「でもいったいどうやって土地の魔力を高めたんですか?」
「それは秘密です、と言いたいところですがポーション工房には広まった手法なのでお教えしますよ」
ニアは畑の土をひと掴み握りしめるとその中から乳歯ほどの白い塊を取り出した。
「なんだと思います?」
「なんでしょう? 石にしては脆そうですが」
それはところどころ小さな穴が開いており、石とは明らかに質感が違っていた。
「これは魔物の骨です」
「魔物の!?」
「そうです。魔物と動物の違いが何かわかりますか?」
「人を襲うのが魔物で、それ以外が動物ではないでしょうか」
「それも正解と言えるかもしれません。魔物は体内に魔力を有しています。それによって奴らは動物からかけ離れた力や特殊な力を使えるのです。そしてその魔力を取り込むために魔力をもつ人間を襲うのです。一般の人が持つ魔力というのは魔物から見れば微々たるものですが、狩りをするなら弱い者を狙うのが一番です」
確かに多くの人間を倒した魔物はより強くなるという話を聞いたことがある。倒した人間から魔力を蓄えていたのだとすればそれはその通りに違いない。
「ではこれは?」
「魔物の骨です。より正確には冒険者によって倒された魔物を土に混ぜ込んだ残りです」
「冒険者ギルドが魔物を買い取ってくれるのは討伐の成果を確認するためだけではなかったのですね」
「ええ、こういう用途であったり、道具を作るためです。戦争が終わって平和になったおかげで魔物の討伐が安定的にされるようになって、こっちもだいぶ安定したんです。戦争中は冒険者なんて全員が兵隊にとられていましたから」
確かに戦争中は魔物の被害がひどかった。軍隊は北部戦線に釘づけで町々の防衛は市民が請け負っていたからだ。平和になって魔物を狩ることを専門とする冒険者が増えたことで、魔物の討伐はかつてよりも速やかになっている。
これも戦争が終わったことの良さだろう。そして、その戦争を終わらせたポーションという発明がどれほど世の中を変えたか私は改めて知った気持ちになった。
「さて、では工房に戻りましょうか。そろそろ酒付けした薬草類から薬効が溶けだしているはずです」
工房に戻ると確かにきつい刺激臭と頭がぼんやりするような香気が部屋に満ちていたが窓を開け放つと気にならないくらいになった。ニアは薬効が溶けだした液体を慎重に測り混ぜ合わせていく。その姿は職人そのものであり、私に話しかけてくるようなこともなく、こちらからの話も耳に入らないように思えた。
マンドラゴラの根を細切れにしたあと麻布に包むとニアはそれを絞り機にかけると乳白色の液体がじんわりと麻布ごしに流れ落ちる。それはやや光を放っているようでそれが魔力だというのならとても綺麗だった。
液体を薬液に混ぜ合わせると小さな煙が容器の中で沸き上がる。その瞬間に萌黄色の液体が透き通るような青色に替わる。透き通るその液体はまるで空の色を凝縮したようだった。ポーション愛好家の中ではニアの空色ともいわれるこの色は美しいと同時に品質の証であった。
「これでポーションの完成です」
「こうやってみると宝石のような美しさですね。これが兵士たちの傷を癒す薬とは思えませんね」
「そういってもらえると嬉しいです。でも戦争が終わってどこのポーション工房も売り上げが落ちていると困っているでしょうね。うちは幸い最初のポーション工房ということで生きながらえてますけど」
苦笑いをするニアだが、そこに職人として人から選ばれる製品を作っているという自信があるようだった。戦後になってもニアのポーションを求めるものは多い。多くの場合は戦争の従軍者だが、その効力を知って愛飲家になるものも多いという。
「いくつか質問をしてもいいでしょうか? なかには気を悪くされるような質問があるかもしれません」
「なんだろう。怖いな」
頭を搔きながらニアは私のほうに向きなおると微笑んで見せた。
「第九中隊の遺族中にはポーションが生まれなければ、息子や父親が死なずに済んだというような人もいます。反対にポーションのおかげで戦争は終結し、被害が少なくすんだという人もいます。あなたはどちらだと思いますか?」
ニアは少しだけ悩んだ表情をして口を開いた。
「確かにポーションの発明によって戦闘が激化したという人がいるのは知っています。ですが、俺は最高の薬を発明したと思っています。腕や足を失って死ぬしかなかった人間が生きていられる。回復師がいない場所でも回復できる。これは兵士たちに勇気を与えたと思います。死ぬのが怖いから動けなくなるような弱い兵士が、傷ついても大丈夫だと信じて踏み出せる。献身の第九中隊の勇者たちはポーションがあることで勇気づけられ、結果として戦争を終結させる契機をつくった。ポーションがなければあの勝利さえなかったはずです」
「なるほど、ポーションは兵士たちに勇気を与えるものだということですね。興味深いお話です。あの戦争では過酷な戦争で精神を病む人が多く出ました。そのことにはどう思われますか?」
ニアは質問に対して不快感があったのかやや攻撃的な視線を私に向けたが、すぐにその色を消して答えた。
「あの戦争は過去にあったどの戦争よりも厳しいものでした。その中で精神を病むような出来事にあってしまうというのは仕方がないことです。それが戦争というものです。日常の延長でありながら延長にない。それがあの戦争でした。だからこそこの工房では狂人となってしまった彼のような人間を雇い入れ、彼の家族たちに賃金を支払っています」
彼というのはマンドラゴラを抜く犬となっていた男のことだろう。日常にもどれなくなった人間に仕事を与えることは確かに素晴らしいことだろう。家族にとっても喜ばしいに違いない。
「ありがとうございます。最後の質問です」
私が口を開くとニアはまだあるのかといった様子で顔をしかめた。それに示し合わせたように工房の扉が乾いた音を立てる。扉を開いたのは明るい茶色の髪をした女性と明るい金髪の男性だった。彼らはひどく恐縮したような表情で「遅れて申し訳ありません。ユトランジャーナルのメルト・ガランディーノです」と頭をさげた。
座っていた椅子から立ち上がった私は一気に彼の足元まで距離を詰めるとメルトと名乗った女性を顎下から蹴り上げた。鋭角な放物線を描いて女が倒れる。隣に立っていた男がなにか怒鳴る前に私は胸元に隠していた小刀で彼の喉を引き裂いた。
怒鳴り声は聞こえなかった。代わりに喉から漏れ出す空気の音と流れ出した血が泡立つ変な音だけが聞こえた。私が振り返るとニアは腰を抜かしたまま椅子に座っていた。その眼には恐怖の色が張り付いたまま私を映していた。
「失礼しました。私はユトランジャーナルのメルト・ガランディーノではありません。嘘をつきました」
「だ、誰なんだ。あんたは」
「……魔導砲台ケルビム争奪戦の生き残りといえばいいでしょうか」
「そんな……第九中隊の生き残り。それがいまさらなんだっていうんだ。俺はポーションを作っていただけだ。それが何だというんだ。あれのおかげで多くの命が助かった。それは事実のはずだ」
「それはそうかもしれません。でも隠しごとはいけません。ええ、いけませんとも」
私は彼の顔のすぐそばにまで顔を寄せて瞳を覗き込む。ニアが吐き出す息さえ感じられる。
「嘘だと? 嘘なんてあるわけない」
「嘘なんてない? そうですか」
身体をニアから離して椅子を蹴り倒すと彼は地面に横たわったので、私は彼の身体に馬乗りになった。何かを叫ぼうとする口に私は左手を押し込む。異物が入ったことに驚いたのか拒絶するためか左手に彼の歯が喰い込む。血が出ているかもしれない。だが、そんなことどうでも良かった。これで彼は悲鳴をあげることができないのだから。
私の残った右手に握った小刀を彼の右腕にゆっくりと食い込ませる。表皮を切り裂き、白い脂肪が見えたら刃を引き抜き、傷口に重ね合わせるようにもう一度、刃を突き立てる。次は筋肉まで、その次は骨まで、最後は神経の手前で刃を引き抜く。
ニアは何度も私の左手をかみ砕こうとしたが。私は気にしなかった。
「そうだ。昔話をしましょう。魔導砲台ケルビム争奪戦あれは不思議な戦いでした。兵士たちはみなポーションを手に突撃をした。砲撃で足を吹き飛ばされてもポーションを含むと彼らはすぐに癒されたばかりの脚で走り出す。それが頭や心臓でなければ彼らは立ち上がり続けた。私はその姿をずっと見ていました。悪夢のようでした。彼らの目はすでにこの世のものではないようでした。むろんそれは私もそうだったのかもしれません。戦争は日常ではない。だから皆が狂っている。だとしても……あれはあまりにも狂っていた」
傷がいくら治せるとしても痛いものは痛いし、怯えもするその当たり前が彼らにはなかった。
私はニアに馬乗りになったまま右手を机の上に走らせて宝石のようなポーションを握りしめた。
「右腕をずたずたにしてしまいました。痛いですよね」
ポーションの容器で傷口を押し当てるとニアは苦痛の呻きを私の左手の奥から吐き出す。その湿り切った音が彼の苦悶なのか私の血あるいはそれ以外なのか私には分からなかった。
「ここに出来立てほやほやのポーションがあります。飲みましょう。すぐに治ります」
私が左手を引き抜くとニアは「やめろ」と叫んだ。
「どうしてですか? このままだと血が抜けきってあなたは死にますよ。ポーションだって二度と作れなくなりますよ。いいんですか?」
ポーションの飲み口を彼の口に突っ込んで容器を傾ける。青い液体が血にまみれた彼の口の中に入ると紫色に変化する。だが、ニアはそれを強引に吐き出すと何度も咳を繰り返した。
「もったいない。どうして吐き出すんですか? 腕、治さないといけませんよ」
「いやだ! やめろ! そんなもの飲んだら……」
「中毒になるですか? 大丈夫ですよ。一回や二回じゃ狂いませんから。私はずっと見てたんです。最初は怪我が治ることに喜んでいましたよ。どんな怪我でも治るんですから、でもそれが四度五度繰り返すと彼らは今ある腕や足が本物か偽物か分からなくなる。そして、怪我をしていなくてもポーションに手を出す。抜群の回復が約束されながらポーションには精神を壊す効果があった。兵士の一人は言ってましたよ。ポーションをくれるなら何でもしてやるよって」
戦場ではさまざまな工房のポーションが配布されていた。なかには粗悪品もありまったく傷を癒せないものもあったがニアのポーションだけは違っていた。千切れた四肢が再生し、兵士たちは不死身のように見えた。だが、そういう兵士の最後は悲惨だった。無謀な突撃を繰り返し再生の途中でさらに攻撃を受けた者は腕から腕が生えたり、身体をとても支えられそうにない小さな足が生えたり、とても人間とは思えないものだった。
私はニアの口にさらに容器を押し込むと強引に中の液体を彼に与えた。口周りから青い液が飛び散るが最後にはそれは彼の臓腑に収まったらしく、傷ついた腕が恐ろしい速さで再生する。
「ぁぁぁ。……君は使い捨てにされた第九中隊の仇を討ちたいのか。それなら俺なんかよりも軍部に言え。あいつらに俺は兵士たちが恐怖を忘れる薬を作れと言われてあれを作ったんだ。精神を乱すベラドンナやヒヨスを混ぜたがあまりいい効果にはならなかった。それで考えたんだ魔力の釣り合いを崩したらどうかと。それでできたのがポーションだ。最初は傷が治ることは予想外だった。だが、軍部の奴らは喜んだよ。ほぼ不死身の兵士とポーション欲しさに何でも言うことを聞く兵士を手に入れたんだからな」
ニアはおかしそうに笑った。
「一つだけ教えてください。どうして、あなたのポーションだけが特別だったのですか?」
戦場にばら撒かれたポーションにはひどく効果に差があった。とても同じレシピを使ったとは思えない。
「ああ、それか。マンドラゴラの差だよ。魔力が足りない痩せたマンドラゴラだったり、マンドラゴラがないからってほかの魔力を含む植物で代替したほかの工房はロクな効果にならなかっただけだよ」
私はニアの上から退くと彼を解放した。
彼は疑わしそうにこちらを何度も見た。
「……分かってくれたなら良かったよ。あんたら第九中隊を薬漬けにして捨て駒にしたのはエドガー将軍だ。あのおっさんは俺を脅してポーションのレシピを方々にばら撒きやがった。だから、俺はあんたの味方さ」
「そういえば、魔族と人間の違いってなんだと思います?」
「魔族と人間? そりぁ……魔力の総量が違うんだよ。魔族は人よりもはるかに大きな魔力を持ち。人間は微々たるもんだ。それが何だっていうんだ」
「いえね。気になったんですよ。どうして、戦時下で魔物がろくに狩れないのにこの工房だけが肥え太ったマンドラゴラを栽培できたのかって……。でも、分かりました。あなたは戦場に落ちている魔族の死体を使ったのですね」
そして、それは工房主であるニアだけの力ではできない。軍部が力を貸したのだ。レシピを公開する代わりに優先的に魔族の死体をニア工房に回す。そんな約束が結ばれたに違いない。
「だ、だから何だっていう。あんたら第九中隊が全滅したのとそれになにか関りがあるか。あんただってあの薬のおかげで今日まで生きてきたんだろ?」
ニアは私の顔を指さして言う。私にはそれが不快で堪らなかった。
「確かに第九中隊に関わりはありませんね。ただ、人を指さすのはやめてもらえますか?」
私が微笑むとニアの指先がどろりと溶け落ちるように燃えた。
「あっ」
ニアは驚いた声をあげたが、それは訳が分からないという様子であった。
ロウソクのような弱い火だというのにニアの指先は燃え続けた。彼が手を大きく振っても布を何度も叩きつけようとそれは消えなかった。なぜならそういう魔法だからである。戦争のとき兵士たちを何度燃やしても彼らはポーションを飲むとすべてなかったかのように傷を癒して突撃してきた。だが、ニアはそうしないだろう。彼はあの薬が怖いのである。
消えない小さな火に彼はあるものを見つけてほほ笑んだ。それはポーションを作るために薬草を漬け込んでいた酒であった。ニアは迷いなく火のついた指を腕ごと突っ込んだ。普通の火なら消えたのかもしれない。だが、それは魔法の火だ。
酒の中で燃え続ける火に酒精が気化をする。それはあっという間にあたりを燃やした。
工房の中は火に包まれてニアは何度もあたりを転げまわって動かなくなった。
火の明るさか煙に誘われたのかジョージと呼ばれる作業員が駆けつけてきたが、私はそれを有無を言わさずに殺した。魔法でつくった刃は彼を引き裂いて、次に畑の世話をしていた小作人たちを切り裂いた。最後に石造りの建物にとらわれていた狂人を殺して私は息をついた。
戦争をしていたときのほうが人を殺すことに躊躇を覚えたというのに今は感じない。
私は魔導砲台ケルビムを守る魔族の一人だった。だが、焼かれても吹き飛ばしても歩みを止めない第九中隊に敗れた。多くの仲間を失い、戦争は私たち魔族の敗北で終わり。少数の魔族は再び大陸の北部に引き籠り、もっと少ない魔族は人間の中に紛れ込んだ。
見た目には違いなどないのだ。
あるのは魔力の有無である。それだけで極寒の地に追いやられ殺される。
私は嫌だった。だから、待ったのだ。どうして私たちが負けたのか。これはその最初の火だ。
死んだ仲間を空に返す。マンドラゴラ畑が燃えてゆく。ここに埋められた仲間たちが大地から解放されるように「燃えろ」と小さく呟く。マンドラゴラから叫びとも呻きともいえない音が漏れ出す。それは地に混ぜ込まれた仲間のものなのか。私の心の中から湧き上がるものなのか分からなかった。