第7話 生前の世界
「ってことがあってさー」
「それはそれは、大変だったわね」
アイリと別れたロベルトは屋敷に帰り、風呂に入ったのち食堂で本日の出来事を家族に話しながら夜食に舌鼓を打っていた。
馴染みのアルトと出会ったことや、騎士学校時代からよく絡んでくるエリックとの出来事など、本日一日だけでも様々なことを体験した。
ロベルトの話を椅子に座って食事をしている家族は、楽しそうに聞いていた。
「笑いごとじゃないって。あのモア……ブランシャールの奴、昔からよく俺に突っかかってくるんだよな……」
「ブランシャールというと……あぁ、あのジャンの息子か」
「知ってるのか?親父」
「彼の父親であるジャンとちょっとな……。ただそれが息子にまで飛び火するようであれば私も何か対策を立てなければなるまいな」
ロベルトの悩みを聞いたシリウスは腕を組み、険しい顔をして悩む。
今の会話からして、エリックがロベルトに因縁をつけるのは親同士に何かしらの確執があるのだろう。
だとすれば、ロベルトからしたらとんだとばっちりである。
「はぁ……お願いだから親同士の対決に俺を巻き込まないでくれよ」
「それは悪かったね。これからは気を付けるよ」
と、シリウスは笑っていったものの、一度できた確執というのは簡単に取れるものではない。
しかもそれが息子の代にまで続いているとなれば悪質極まりない。
下手をすれば今度は自分の子供、最悪孫の代まで続くものなのだから。
「そういえばお兄様、昨日の誕生日でお兄様はお父様から何をもらったのですか?」
横で食事をとっていたリナリーがロベルトに向かってそう聞いてきた。
昨日の誕生日にロベルトはシリウスから神の聖遺物とやらの指輪をもらったのだが、リナリーはその事実を知らない。
それに彼女はロベルトのプレゼントに大層興味があったそうで、教えてやらなければ彼女はずっと聞いてくるだろう。
「そういえば言ってなかったな。親父からのプレゼントはこの指輪だ」
ロベルトは右手の中指にはめていた指輪を引っこ抜き、それをリナリーに渡す。
プラチナながらシンプルなデザインの指輪ではあるが、リナリーは指輪を受け取ると目を輝かせる。
「わぁ……とても綺麗な指輪ですね。傷一つなく、顔が写り込むほどに輝いていますね」
やはりリナリーも女の子なのか、こういったアクセサリーには目がないのだろう。
するとシリウスが
「おや?すまないがリナリー。ちょっとその指輪を見せてくれるかい?」
「え?あ、はい。わかりました」
何かに気づいたのか、ロベルトの指輪を自分に渡してくるように言ってきた。
リナリーから指輪を受けとり、それをまじまじと観察するシリウス。
左目に着けている片眼鏡をかけなおし、指輪の裏側まで目を細めて指輪を吟味する。
「これは……まさか」
「……親父?」
「ん?あぁ、すまなかったねロベルト、ほら、返すよ」
そう言ってシリウスは指輪をロベルトに返し、彼は再び右手の中指にはめなおす。
(一体、何だったんだ?それに、親父は何かに気づいたな)
女神アリシアから託された神の聖遺物であるプラチナの指輪。
この指輪には一体、何があるのだろうかと考えるロベルトだったが、せっかくの美味しい夜食を食べているときにそんなことを考えるのは無粋だと考え、今は大人しく食事に専念することにした。
夜食後、自室に戻ったロベルトはソファーではなく、デスクのチェアーに座り、ある本を読み始めた。
それは今朝シャルロットから譲ってもらった本、ルナティールの創世記である。
あの時は肝心なところだけシャルロットから説明してもらったが、この機会にじっくり読もうとロベルトはそう考え最初の頁を開く。
古い本故に頁も傷んでおり少し捲っただけでも敗れてしまいそうだが、彼は丁寧に次の頁をめくる。
蓄音機の音楽もかけていないので、今この部屋には頁をめくる音と壁に掛けられている時計のh針が動く音だけが聞こえていた。
「これは……」
次第に読んでいると、ロベルトは気になるところを見つけたようで、肝心の頁を食い入るように目を開く。
そこに書いてある内容は……
遥か大昔、この世界は混沌に覆われていた。
大地は荒れ果て、空は闇に覆われ、そこに秩序など無しに等しかった。
さらに人ならざる者が存在し、弱者は成すすべもなく死にゆく定めの世界。
まさにこの世界は名もなき死の世界であった。
しかし、天はこの世界を豊かにしたいと考え、空の上の世界……神界より11の神をこの地へと送った。
11の神が世界を作り、人間を作り、自然を作り、秩序を作り、やがて天命を果たした神たちは残りを人間に託して天界へと帰っていき、11の神はこの世界を「ルナティール」と名付けた
(このルナティールには11人の神がいたというのか。それに人ならざる者ってなんだ?)
気になる単語もあったが、考えるよりはまずは読むことが先と判断し、ロベルトは次の頁を開く。
11の神……混沌の世界を新しい世界、ルナティールへと作り替えた神、その名をこの書に記す。
混沌とした世界に人間、自然、秩序を作った創世神アルタイル。
アルタイルの妻であり、その手に持った巨大な槍で立ちふさがる人ならざる者を薙ぎ払い、戦乙女と呼ばれた女神エマ。
アルタイルの妹であり、アルタイルと共に秩序を作った女神カグヤ。
エマの姉であり、彼女が放つ矢は遥か地平線まで届くほどの弓の名手ともいわれた女神カタリナ。
アルタイルの友人であり好敵手、常に闘争を求めた武神ガゼル。
エマの友人であり、人間に知識というものを与えた知神ルフェイド。
カタリナのよき友であり、人間に歌というものを教え、数々の銃器の操り手である女神ユヅキ
エルフの血を引き、同胞の為に自ら戦場に立ち、手に持った二つの弓銃で敵を蹂躙した女神リアナ。
人間の血を好み、人間を愛し、数々の人間を虜にした女神クロエ。
剣の達人であり、人間に剣術や規範、誇りを教えた騎士神アレス。
美の化身であり、世の乙女の理想とする至高の女神、女神スカーレット。
彼ら11の神によってルナティールは人間が住む世界へと生まれかわり、神の代わりに人間がルナティールを統治することになった。
(なるほど……まさかアリシア以外にも11人も神様がいたとは……あれ?)
ここでロベルトはあることに気づいた。
今読んだ頁にはこのルナティールを創造した神々たちの名前が載っていたが、肝心のアリシアの名前が載っていなかったのだ。
「他のところに書いてあるのか?」
そう思った彼は頁をめくったのだが、次の頁は破れていた。
今朝シャルロットが指摘したあの破れた頁のところである。
だが頁がない以上、何が書いてあるのかは分からない。
破れた部分はあきらめ、他に気になるところがないかと頁を再びめくると、目についたものを見て思わず
「あ、これって例の紋章か」
と、口にする。
シャルロットに教えてもらったアリシアの紋章が描かれている頁だ。
彼女の紋章は三日月が百合の花を囲む紋章。
よく見ると、アリシア以外にも他の神の紋章が描かれており、男性の神は三日月に鳥、女性の神は三日月に花が描かれていた。
「これは鶴か?それに鷲に……梟や孔雀か」
他にもロベルトが気になったもの、それは男性の神の紋章に書かれている鳥である。
アルタイルは鶴、ガゼルは鷹、ルフェイドは梟、アレスは孔雀の紋章となっており、他の女神と同じように三日月もセットで描かれている。
残念ながらロベルトは花の種類については詳しくはないので、女性の神に描かれている紋章についてはよく分からなかった。
時間があれば調べるべきだろう。
この後、30分ほどかけて本を読んだものの、結局邪悪なる者についての手掛かりは見つけられぬまま、時だけが過ぎていた。
唯一、紋章の事だけが分かっただけでもよしとしておこうと思ったロベルトはため息をつきつつ、デスクの上に置かれている紅茶が入ったティーカップに口をつけて、中身を一口飲む。
仄かに香る花の香りと口に広がる甘味、疲れているときはこれが一番である。
一つ分かることは、アリシアの言う邪悪なる者をどうにかしない限り、何かの厄災が訪れるということ。
ロベルトとしても、放ってはおけない。
せっかく転生して第二の人生を歩んでいたのに、こんなことになるとは思わなかっただろう。
もしこれが思春期真っ盛りの中高生であれば、こんなファンタジー展開は喜ぶかもしれないだろうが、生憎とロベルトは既に前世から数えて実年齢は30を過ぎている。
はっきり言って子供ではないのだ。
「さてと……明日はパレードの警備だし、さっさと寝るとしようか」
時計に目を配ると、針はもうすぐ12時を刺そうとしていた。
明日は騎士団にとって重大な仕事であり、もし寝坊して遅刻してしまえば処罰は免れない。
そんなことにならないように彼は紅茶を飲みほし、大きなベッドに向かってダイブしてそのまま眠りの世界へと突入していった。
朝になり、目覚ましの電子音が鳴り響き、ロベルトは目を覚ました。
正直彼はまだ寝ていたいのだが、今日は朝からラマー王子の凱旋パレードの警備があるため、嫌でも起きなければなるまい。
布団の中から手を伸ばし、けたたましい電子音が鳴っているスマホに手を取って、目覚ましを止めた。
(……あれ?)
ここでロベルトは妙な違和感を抱く。
いつもはメイドが起こしにくれるはずだが、今日はなぜか聞きなれない電子音で目が覚めた。
いや、そもそもこの電子音は転生してから聞いたことがない音。
だが前世では嫌というほど聞いたことがある音であった。
「な、何でこれが!?」
違和感の正体を確かめるために、ロベルトは手に持っているそれを見ると驚きのあまり声を荒げて布団から起き上がる。
ロベルトが今持っているのは異世界ではまず存在しない多機能型携帯電話、スマートフォン。
そして音の正体はこのスマートフォン……通称スマホから発せられる目覚ましのアラームであった。
だがこの時点で既におかしい。
異世界に転生してロベルトはスマホなんてものは手にしたことがないし、今それがここにあること自体がおかしいのだ。
「って、あれ?ここって……」
ロベルトはスマホにも驚いたが、今彼がいる部屋の光景をみて、さらに驚いた。
エルヴェシウス家の大きな部屋とは真逆の狭い部屋に大きな薄型テレビ、箪笥に勉強机とさらに部屋の中には好きなアーティストのCDケース。
「前世の俺の部屋じゃねぇか!」
そう、ここは生前のロベルト……海堂翼の部屋だ。
なぜここにと思ったロベルトだが、ふと視界に置かれた鏡を見て、またもや驚愕する。
「はぁ!?」
鏡に映っていたのは、ロベルトの特徴である銀髪青目の女の子よりの顔ではなく、黒髪黒目のれっきとした日本人男性の顔立ち。
すなわち、鏡の中の男はロベルト・エルヴェシウスではなく、生前の海堂翼であった。
「一体……何がどうなってるんだよ……」
次から次へ訳が分からない状況に陥ったロベルト……否、翼は頭を抱えて悪態をつき始める。
「まさか外も……うわ、マジか」
部屋の窓を開けると、目に飛び込んできたのはメランシェルの街ではなく、コンクリートでできた建物や現代建築の住宅。
この高さからでは見えないだろうが、もう少し上から見れば立ち並ぶ摩天楼や新宿区にあるランドマーク、東京都庁が見えるだろう。
だが翼は自分の身に何が起こっているのかわからず、その場で自問自答を繰り返す。
まさか転生してルナティールで過ごした18年の人生はずっと夢だったのか?
それとも今体験しているこの出来事は夢なのか?
突然降りかかってくる出来事に翼の思考はもうパンク寸前であり、今にも頭から煙が噴き出しそうである。
頭を抱えて色々と考えていると……
「翼ー!起きてるのー!?」
「えっ!……母さん?」
下のほうから懐かしい声が聞こえ、思わず翼は反応する。
転生した世界の母、エミリーではなく生前の母の声。
懐かしと優しさが混じった声に、翼の目には少しだけ涙が浮かんでいた。
「今日華蓮ちゃんと出かける約束があるんでしょー!?」
「……約束?」
どうやら今日はアイリ……華蓮との約束があるらしい。
翼は生前、スマホにスケジュールをメモしていたのでさっそくスマホのカレンダーに確認をする。
すると今日のAM10:00のところに「華蓮との買い物。待ち合わせは渋谷ハチ公前」と書いてあった。
「そんな約束、生前にした覚えはなかったが……まぁ行ってみるか」
どういうことだと考えつつ、箪笥から服を取り出して着替えて、一階に降りてリビングに降りる。
「翼、おはよう」
エミリーではない、翼の前世の母がキッチンに立ってご飯を作っていた。
だが突然の再開に翼はどう反応していか分からず、その場で突っ立っていた。
「ほら、そんなところに突っ立っていないで。もうすぐご飯ができるわよ」
「え?あ、あぁ…」
母を見て懐かしいと思っていたが、翼は母に言われるがままに椅子に座る。
「おはよう、リナ……あっ」
心の中でしまったと思った。
転生した世界では翼は朝、食堂に降りて椅子に座るときに妹のリナリーに挨拶をするのだが……
前世では彼は一人っ子で兄妹はいない。
隣を見ても当然、リナリーはいなかった。
「どうしたの?」
「あーいや、なんでもない。ちょっと寝ぼけてただけだ」
ここでは存在しない妹の事を適当にはぐらかして、ご飯ができるのを待つ。
その間、翼は懐かしき家のリビングを見渡す。
アルメスタ王国では未だ存在しない大きな薄い液晶テレビに机にソファーなどと、日本では一般的なリビングの光景。
液晶テレビには朝のニュースがひっきりなしに流れており、有名政治家の贈賄事件やら野球選手のスキャンダルといったニュース。
ソファーの上にはスーツのジャケットが皺だらけのまま置かれており、近くには大きなビジネスバッグも無造作に置かれていた。
(親父、帰ってきてるのか?)
翼の父の職業はとある大学病院の医師であり、主に当直が多いために朝に帰ってくることが多い。
そのため、生前の学生時代から父とは親子との交流もあまりなく、翼は父親に対して仕事ばかりの親という印象を強く持っていた。
だがその親が医師という職業のため、生前の翼の家は他の家よりも少しだけ豪邸で割と裕福な環境であり、翼自身も俺が生活できるのは親が仕事をしてくれているからという感謝の気持ちは持ち合わせていた。
脱いだスーツがソファーの上にあるということは、翼の父は当直帰りで帰って着ている証拠。
おそらく風呂に入ってそのまま寝ているのだろう。
「ほら、ご飯できたわよ。お母さん仕事に行くから後はよろしくね」
「ん、ありがとう。いただくわ」
母がお盆に朝食を載せてテーブルに運び、仕事のためにリビングを出ていった。
目の前に置かれた朝食は、転生したエルヴェシウス家で出されているご飯とは違ってごく一般的な朝食。
だが日本らしく、納豆に味噌汁や焼き魚といった健康的な和食だ。
心の中で懐かしいと思いつつ、翼は箸を手にもって朝食を食べ始めた。
(懐かしいな……納豆に味噌汁。これぞ日本の味だ)
懐かしさをかみしめながら朝食を摂っていた翼はテレビから流れる朝のニュースを見ていた。
その時だった。
『では次のニュースです。一週間前、アイドルグループ「フローリアン」の元メンバー、東堂雅さんが交通事故で死亡した問題で、雅さんが所属していた事務所は……』
「……東堂雅?」
テレビから気になるニュースが流れた。
フローリアン、数年前は無名のアイドルだったがここ数年で売れ始め、現在では若者の間では知らぬものはいないと評判のアイドルグループだ。
その元メンバーである東堂雅……翼が事故で死ぬ一か月ほど前、彼女は交通事故で死亡した。
翼はアイドル事情は詳しくはないが、ネットではフローリアンは大手レコード会社に移籍する際に東堂雅はメンバーを脱退し、現在は別の事務所に移籍してソロで活動していたとのこと。
その東堂雅だが、メンバーを脱退したのはよからぬ噂があったらしい。
アイドルの間では暗黙の掟である恋愛禁止を破ったからだとか、援助交際をしていたからだとか。
真意は不明であるものの、翼は俺が気にすることでもないと判断し、そのままご飯を食べ続けた。
朝食を食べ終わった翼は食器を片付け、身支度を整えていた。
目的はスマホの予定にあった華蓮との約束だ。
家を出てカギを閉めた翼は、庭に置いてあった自転車に乗ってペダルをこぎ始める。
「懐かしいな。この自転車も……この街も」
ペダルを動かすたびに自転車は加速し、風の抵抗を強くその体で受け止める。
生前、生まれ育った街を懐かしみながら、翼はある場所へと向かう。
翼が生前住んでいた場所は東京の杉並区であり、近くには青梅街道を挟んで荻窪駅がある。
彼はその荻窪駅へと向かっていた。
10分ほど自転車をこいでいると、多くの車が行き交う青梅街道に出る。
その向こうには生前、学校に行くのにお世話になった荻窪駅があった。
「本当に何も変わっていないな。ここは」
少し離れている駐輪場に自転車を止めた翼は盗難防止のために鍵をかけて、今度はその足で荻窪駅へと近づく。
切符売り場で切符を買って改札を通るが、荻窪から渋谷に行くには一度新宿に降りる必要があるため、翼は新宿方面へ向かうホームへと向かう。
まだ電車は来ていないようで、吊り下げられている電光掲示板を見ると、あと少し待てば電車が到着するようだ。
その間に翼はホームに置いてある自販機でジュースを買うことにした。
最近の自販機は大型タッチパネルに商品が表示され、商品だけではなくニュースや災害情報など、便利な機能も備わっている。
翼はその自販機から欲しいジュースを購入し、キャップを開けてジュースの一口飲む。
(……久しぶりに飲んだな。アルメスタじゃまだまだこんなジュース、出るのは先だろう)
いつかはアルメスタ王国でもこんなジュースがや自動販売機が出てほしいと思いながら、久しぶりに飲むジュースを味わった。
飲んでいる間に駅にアナウンスが鳴り響き、数秒してようやく新宿方面行きの電車が騒音を巻き散らかしながら駅に入ってきた。
電車は徐々に速度を下げて停止し、扉が開くと大勢の人が流れ込むようにホームに出てくる。
翼は電車から出てくる人がいなくなったのを見て、電車に乗り込む。
それでも車両には大勢の人がまだ乗っており、翼は扉付近に隙間を見つけたのでそこで立つことにした。
やがて扉が閉まり、電車は少しずつ動き出す。
目の前の窓の外に広がるのは住宅地の光景であり、それから阿佐ヶ谷駅から高円寺駅を通過。
あと数分もすれば大きな高層ビルが立ち並ぶ都心へと近づくだろう。
そして、最初の乗換駅である新宿に近づくと車内にアナウンスが鳴り響き、新宿につくことを教えてくれる。
荻窪駅から10分ほどで新宿につき、電車を降りて今度は渋谷に向かうために翼は山手線へと乗り返す。
「えーと……どこだっけ」
翼の中では最後に乗ったのは転生する前の18年前。
故に記憶の中ではほとんど忘れており、頼れるのは手元に持っているスマホのみ。
長らく手に触れていなかったこともあり、翼のスマホをいじる手はどこかぎこちなさを感じる。
それでもスマホの画面をなんとかいじり、表示された乗換案内を見て翼はようやく思い出したのか、渋谷方面へと向かう山手線のホームへと向かう。
「うわーいっぱいいるな」
流石、東京都心の主要鉄道駅だけあって渋谷へ向かう山手線のホームには多くの人が既に電車を待っていた。
今いる新宿駅は日本でも5本の指に入るほどの乗換駅ともいわれており、かつては日本一乗降客数が多い駅としてギネスにも乗ったほど。
さらに駅全体が迷路のような構造にもなっており、地下はもはやダンジョンみたいだと比喩されるくらいである。
田舎から出てきた人間が初めてこの新宿駅に入ったら、確実に迷うだろう。
だが翼はこの新宿に久しぶりに訪れた際、記憶の断片からどこにいけばいいか、少しずつではあるが思い出してきた。
少し迷いながらも、ようやく山手線のホームにつき電車を待っている人の列に並び、再び電車を待つ。
やがてアナウンスと共に今度は渋谷方面行きの電車がやってきて、多くの人が扉が開くと同時に乗り降りをする。
翼もそのあとに続き電車に乗り込むも、先ほどの荻窪駅よりもさらに人が多いためか、もはや電車の中はすし詰め状態。
「くっ……殺せ、じゃなくてきついなこれは」
何か変なことを言いかけた翼だが、この状況がきついことには変わりない。
人が密集しているためか車両内の気温も上がり、夏でもないのに汗が流れてきた。
(新宿から渋谷まではそう遠くはない。どうせすぐにつくから我慢だ我慢)
翼の思っている通り、新宿から渋谷までは大体は7分で着く。
無論、道中で緊急停止等がなければの話ではあるが。
そして7分経ち、ようやく目的地である渋谷へとたどり着いた。
電車を降りた翼は人の波の中に紛れ込みながらも駅構内へと進み、華蓮が待っているハチ公前へと向かう。
「やっとついた……」
色々あったがようやく翼は渋谷駅前のハチ公前へとたどり着いた。
周辺には彼と同じように友人や彼氏彼女を待っている人がたくさんおり、その場で立ってスマホをいじっている。
「えっと時間は……まだあるか」
スマホの時計を見るとAM9:45をさしており、華蓮との約束まではあと15分ほどある。
翼は適当に近くの街頭にもたれかかり、周りの景色を見渡す。
異世界ルナティールのアルメスタ王国では近代化が進んでいるものの、やはり現代の東京と比べるとその差は天と地の差がある。
大型ビジョンにはニュースが流れたり、道路には自動車が時折通ったりする。
さらには渋谷の象徴するものの一つであるスクランブル交差点には、たくさん人が右往左往と交差点を渡り、街にはたくさんの人の喧騒が渦巻いている。
映画やテレビの話題、好きな芸能人のことなど話題は様々。
交差点の向こう側には日本では知名度はトップクラスの書店とファッションショップがある。
「翼ー!」
突如、聞きなれた声が翼の右側から聞こえた。
首を右に振ると、そこではアルメスタ王国で着ていた綺麗なドレスではなく、生前の現代風の服装をしていた華蓮がいた。
華蓮は履いているミュールの軽快な足音を立てながら翼に近づく。
「ごめん!待った!?」
「いや、俺も少し前に来たところだ。それよりも普段はもっと遅い癖に珍しいな」
「むぅー失礼だな。今日は欲しいものがあるから早めに来たんだよ」
「そうか」
実は華蓮、生前から待ち合わせの時間はいつも遅れてくるので、翼としては珍しいと思ったのだろう。
「それじゃ、そろそろ行こうか!」
「はいはい」
華蓮も来たので、彼女の買い物に付き合うために交差点のほうに向かおうとしたときだった。
「あれ?雲が出てきたよ」
「うっそマジー!?今日晴れだって言ってたじゃん!」
翼と華蓮の周りにいた人たちが急に騒ぎ始めた。
空を見ると、西のほうから真っ黒な雲が急速に広がり、あっという間に渋谷上空をすべて黒雲で覆ってしまった。
もしかしてこれは雨が降るのかと思ったが……
「……何だあの雲は」
翼の見つめる先に広がる黒雲。
彼はあの黒雲を目にしたとき、人間の心の奥底に広がる闇よりも深く、人間の持つ欲望よりも遥かに強い悪意を感じ取った。
だが黒雲はそんな翼の思惑なんて裏腹に、瞬く間に広がり……
渋谷にいる人間たちに地獄をみせる。
「きゃあああああああ!!」
「な、何だ!?」
突如、空を覆っていた黒雲が渦を巻きながら地上に降り注ぎ、渋谷に遊びに来ていた人たちを飲み込む。
彼らは何が起こったのかも分からず、抵抗する暇もなくただ飲まれていく。
周辺を走行していた車も運転手がパニックになっておりて逃げたり、突然の事でハンドル操作を誤ってビルに突っ込んだりと、渋谷はもはや無法地帯である。
次第に雷も轟音を立てながら地上に落ち、近くのビルに設置されている大型ビジョンやネオンの電灯を容赦なく破壊する。
「華蓮!逃げるぞ!」
「えっ、翼!?」
この時翼は己の中に逃げなければという本能が強く働き、華蓮の腕を掴み考えもなく走った。
目的地などなく、ただひたすらに足を動かして走る。
スクランブル交差点を渡り、渋谷センター街のほうに逃げ込む。
だが黒雲のほうが遥かに早く、地上の人々を飲み込んでこちらにどんどんと近づく。
「くそっ!!」
「翼!もう……ダメ!」
翼と華蓮の後ろには黒雲が既に迫ってきており、自分の持ってる力をすべて振り絞り足を動かそうとするも……
無情にも黒雲は二人を容赦なく呑み込み、翼の意識は深い暗闇の底へと沈んでいった。