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千年書館 ―悠久恋書―4

4.迷いと少女と黄昏と




 古い書籍が(かも)し出す、少し埃っぽいような独特の匂い。

 年月と人の手が触れる事で艶の出る濃い茶の閲覧テーブルやカウンター。

 時刻は夕闇に包まれ、館内のいたる所で灯りを必要とする頃。

 紫がかった紅の髪と白い肌。髪と同じ色の長い睫毛(まつげ)と瞳を伏せて、メーラは丘の上に立つ図書館のカウンターを撫でる。

 そこで司書をしていた大事な人を思い、このままならいつかここに座るだろう少女に溜め息をつく。

 今しがたまで、その少女の保護者一同に二時間に渡るお叱りを受けたばかり。溜め息も許されるだろう。

主人(マスター)、どうしたら良いの?」

 ついつい無意識にそう呟いてしまうのも、まあ仕方ない。

「どうしたら良いのか、わかんないよ……」

 カウンターにすがり付くようにぐったりと座り込む。ガラスの棺にすがって白雪姫の死を(いた)小人(ドワーフ)のように(なげ)く姿は、この場に自分以外いないから。

「…………」

 瞳を閉じて、もう一度だけ溜め息をついた。

「守らなきゃいけなかったのに」

 人目のある所で行動に出るなんて思わなかった、なんて言い訳にしかならない。『人間じゃないものの行動』なんて、普通の考えが当てはまらない可能性が高いのは当たり前。

 間に合ったのは、本当に偶然と幸運が重なっただけだと、メーラは唇を()んだ。

「目を離した時の危うさなんて、俺が一番知ってるのに」

 警戒して家から出さないようにしたおとぎ話でさえ、二度の未遂に三度目には仮死状態なんて事態を招いているのに、それより制限のない状況でどうして油断出来たのか。

「…………馴染みすぎ」

 長い、時間。本当に長い時間、過ごしすぎて、時折、忘れそうになる。

「…………」

 居心地が、良すぎる。

「……セレーヤのこと、言えない」

 自分よりもさらに馴染みすぎている弟に注意して、ちょっと喧嘩したばかりだけど、言えた口じゃなかった。

「逃がすなら、今だよね」

 その言葉が零れたと同時に、けたたましい音を立てて夕闇(そと)館内(なか)を隔てる玄関ホールの扉が開く。

 転ぶような勢いで足を踏み入れた者を認識して、メーラは鋭い視線と声を向けた。

「お前!」

「この人間、助けて!」

 薄灰色のショートボブヘアに黒い瞳。(すす)のような黒い粒子(りゅうし)が立ち昇る小さな身体と必死の形相(ぎょうそう)。つい先ほど仕留め損ねた外敵。

 顔だけでなく身体中に傷を負ったスーリが、ぐったりと意識のないトーヤを背負ってそこにいた。

「メーラ、今の音は」

 物音にパロマが駆けつけ、目にした光景に足を止める。

「お願い、この人を助けて!」

「何いってるの?」

「わかってるよ! ふざけるなって思ってるでしょ。でも、仕方ないんだ! ボクだってお前らなんて頼りたくない! けど、お前らしかいない!」

 背からトーヤがずり落ちるのを、支えながらスーリはメーラとパロマを憎々しげに見た。どう見ても助けを()う者の態度ではないが、その声は本気でトーヤの助命を願っている事だけは本気だとメーラにも伝わる。

「ともかく、手当てを」

 パロマがトーヤを一度横たえ、スーリに手を伸ばすも、スーリはパロマの手を跳ね退ける。

「自分の状態くらいわかるから、無駄なことはしなくて良いし、余計なお世話だよ」

「ねえ、紙魚(しみ)がパロマの手を叩くとか無いんだけど。そこの人間ともども消すよ?」

「メーラ。私はかまいませんから」

「俺はかまうもん」

「あーもうっ! キミたちに構って無駄にして良い時間無いんだよ」

 心底、(わずら)わしそうに言ってスーリは立ち上がった。

「とにかく、頼むから!」

「ちょっと! どこ行く気!」

 スーリの身体からは煤粒子が絶えず出ている。それは人間で言えば出血、命が零れているのと同じ。あまりにも零れてしまえば、どうなるか。わからない筈はない。

魔書(ましょ)

「は?」

 吐き捨てるようにスーリは言う。

「キミたちじゃ全然安心できないからボクが始末してくるって言ってるの! ……だから、ちゃんと守ってよね!」

 トーヤに一瞬だけ目を向け唇を引き結ぶと、スーリは振り返る事なく夜闇に姿を消した。

「行ってしまいましたね」

「ねぇ、今なんか去り際にいやーな事いってなかった?」

 パロマの苦い苦い笑みは肯定(こうてい)の証。

「…………魔書」

 紙魚と魔書は、一言で言うと本に取り憑く魔物のようなもの。人に良くないものという大きなくくりで見れば大差無いのだが……。

 どうやら、想定より厄介な事態になっていたらしい。メーラは嫌そうに顔をしかめる。

「一体何の騒ぎ?」

「ルドヴィヒ」

 どうやら今の騒ぎを聞き付けて顔を出したらしい相手の姿を見て、メーラは名を呼んだ。

「うっわ、難しい顔。メーラさんまでって相当な」

 ルドヴィヒの言葉にメーラが口許を引きつらせる。

「ねえ、何か今のって俺はいつも難しい顔しなくて考えたりしないって言ってるように聞こえたよ?」

「え。考えてたんですか?」

「ルドヴィヒ……」

「ってのは冗談ですけど、本当に何があったんですか? パロマさん」

「ねえ、何でパロマに訊くの?」

 しれっとメーラの抗議を聞き流し、ルドヴィヒはパロマと、先程まではいなかった筈の人物が横たえられている光景に溜め息をつく。

「とりあえず、どこに運びます?」




(このボクがあんな奴らに頼るなんて……)

 自分という存在が零れ落ちていく感覚。全てが曖昧になって、痛みも苦しみもないのに、それが余計に薄ら寒い。

「すっごい屈辱」

 紙魚(しみ)と呼ばれる存在であるスーリにとって、メーラ達は時に(しょくじ)になり得る存在である。

 つまり、格下。それに頼るというのはその格下以下という事になるわけだ。

(けど、仕方ない)

 紙魚と魔書はとても似ているけれど、決定的に違う点がある。

 紙魚は本を(むしば)み、物語や本に()かれた人間を迷宮へ連れ去るもの。

(トーヤ、あそこなら安全だし)

 魔書は、人間を無差別に憎んで殺して、血を(すす)る。

 似ているけれど、決定的に違うもの。

(ボクの司書(トーヤ)は殺させない)

 たとえ自分自身が消えるとしても。たとえ、そんな事さえ『認識してもらえない』としても。

 意識が戻った時、(トーヤ)はスーリの存在さえ覚えていないだろう。あの司書見習いの首を絞めた事も。

(それで良いんだ)

 アレは自分の独断だった。彼があまりにも不憫(ふびん)だったから、あの娘があまりにも恵まれ過ぎているのに、それに気づいていなそうだったから。だから、腹立たしくて、殺そうと思った。

 その時点で、多分、自分は魔書に毒されなり掛けていたのだろう。メーラを狂っていると思ったけど、あれは守るためなら(いと)わないだけで、殺そうという意思からきていない。本来の性質から外れてはいない。やり過ぎだとしても。

 狂っているのは、自分。

 彼を、誰よりも幸せにしたかった。

(バカみたい)

 そんな事で彼が幸せになる筈もない。あの上司を消しても、あの司書見習いを殺しても。何の解決にもならない。それはわかっていたけれど。

 笛を吹くしかできない道化のように。子供を連れ去るしかできない男のように。

 自分にできることなんてその程度しかなかったから。


 そうして、笛吹男の物語は何処かへ消えて終幕を迎える。




 ゆらゆらと水底(みなぞこ)から水面を見上げているような錯覚(さっかく)に、カノンはぼんやりとこれが夢だと認識する。

 見慣れた分館の大広間(ホール)(たたず)む、白い人。

 硝子湾曲天井(ガラスドーム)から降り注ぐ陽の光りに、雪よりも白く輝く長い髪と肌。白くゆったりとしたローブ姿で、美しいという事だけしか認識できない不思議な顔立ち。

 どこまでも深い紫がかった青い瞳は、穏やかに笑んでいる。

「      」

 何と言っているのか。聴こえているはずなのに、わからない。

 ただ嬉しそう、楽しそうという事だけが伝わるそれに、カノンは思わず手を伸ばす。

 陽炎(かげろう)のようにその姿は揺らいで別の像を作る。

(あ。……きれい)

 黄昏(たそがれ)茜空(あかねそら)を溶かして糸にしたような金髪をうなじで一つにまとめ、ミルクのような白い柔肌(やわはだ)にのるのは、深い深い思慮(しりょ)叡智(えいち)を映す苔緑貴色(モスグリーン)の大きな瞳と花弁のような唇。

 少女とも少年ともとれそうな、幻惑(げんわく)の人。

 カノンの伸ばした指先へ、その人が手を伸ばす……。

 淡く幸福な微笑みに目を奪われ、

「カノン。気がついた?」

 パチリと目を開けた視界に声の主、セレーヤの顔が映り込んだ。

(ゆ、め…………)

 セレーヤの髪や身体の影から木漏れ日のように落ちる部屋の灯りが眩しく、カノンは二度三度と(まばた)きする。

「セレーヤ、先生……?」

 名前を呼ばれたセレーヤが、ほっと息をついた。

「良かった…………」

 よくよく考えると近い。物凄く顔と顔が近い。が、意識が覚醒したばかりのカノンはまだぼんやりとしており、気がつかない。

 ここで意識されて飛び退かれるくらいにならないと、色々厳しいだろうと、やけに冷静に考えるのはそれを見守っていたもう一人の看護者。クーことクーベルトである。

 セレーヤもわざとやっているわけではなく、純粋に心配から覗き込んでいたようで、すぐに今度は水差しからコップへ水を注いで上体を起こしたカノンに飲ませている。

「さて。何がありましたか? カノンさん」

「なに、が……?」

 水を飲んで少し頭もスッキリしたようだが、まだ本調子ではないようだ。カノンはクーベルトに顔を向けた。無意識か、カノンの片手は自身の首もとを確かめるように撫でている。

「下校中に不審者に襲われたと、メーラさん達から伺いましたが」

 そして差し出された端末のメッセージ画面。メグに見せられたのと同じアプリの会話画面には、何とも言えない会話が(つづ)られていた。


 セレーヤ ――緊急 即帰還して


 メーラ ――カノンを襲った奴見つけたら報告ね。

      俺が片付けるから


  状況が断片的過ぎます。帰ったら説明お願いします。

  ―― クーベルト


 ルドヴィヒ ――いや、マジで何があったんですか?

        パロマさん?


 セレーヤ ――運転中


 よくこんな意味不明な会話で通じるものだと思うだろうが、ようは慣れである。

 もっと言うと、慣れなきゃこの分館でやっていけない。とも言える。

 しかし、だ。

「流石にセレーヤさんやパロマさんが顔面蒼白な上、カノンさんが意識無い状態で運び込まれれば、私とルドヴィヒの心臓にも影響が出ます。状況を把握したいのでゆっくり順を追って説明して頂けますか」

 睡眠以外で意識を失った人間が運び込まれる事態は慣れる以前の問題であり、慣れちゃまずい。

「えっと…………確か、下校、しようとして」

 ぼんやりとしていたカノンの記憶が夢から(うつつ)へ引き戻される。たちまち顔色が酸性検査(リトマス)紙並みに青へと変化した。

 ポツポツと当事者のカノン自身も信じられないような面持ちで語られる経緯(いきさつ)に、最後まで口を挟まず聴き終えたクーベルトは眉間を()んだ。

「…………変質者の殺人未遂事件、ですか?」

 顔見知りが変質者の所にツッコミを入れることも、殺人未遂は言い過ぎではと庇うことも出来ない。

 明らかに普通ではない様子だったが、状況だけ見ればそうとしか言えないのだから。

「セレーヤ先生、ありがとうございました」

「気にしないで。当然だし」

 ふるふると首を横に振り、セレーヤは微笑む。

「あ、カノン。メグにお礼、言ってね?」

「メグちゃんに?」

「メッセージ、くれたから。カノンが一人で下校するって」

「なるほ…………」

 なるほど。といい掛けてカノンは違和感を感じた。

(あれ? 何で私が一人で下校するのが、セレーヤ先生に連絡行くの?)

「…………」

「カノンさん?」

 クーベルトがどうかしたのかと心配するような色を顔に浮かべ、カノンを見る。

「…………あの。セレーヤ先生」

「なぁに?」

 意を決して顔を上げたカノンはしかし、セレーヤと目を合わせた所でピタリと動きを止めた。

(教えてくれるの、かな)

 メーラにバッサリ『関係ない』と言われた記憶が(よみがえ)り胸の内にずしりと重く横たわる。

(…………でも、今度は私の事だから)

 自分自身が関わっているのだから、取りつく島もないとはならないだろう。カノンはそう思ってセレーヤを見る。

「カノン……?」

 暖かい場所の海の色。薄く輝く碧に似た大きな蒼の瞳がカノンを映しているのが見えた。

「セレーヤ先生。……どうして、メグちゃんからそんな連絡が先生達にいくんですか?」

 セレーヤは一瞬不思議そうに目を瞬いたが、すぐにその問い掛けに答える。

「頼んでいたから。……カノンが独りで帰る時は、教えてって」

「近頃は物騒ですからね」

 拍子抜(ひょうしぬ)けするくらい呆気(あっけ)なく返った答えに、無意識に強張(こわば)っていた肩の力が抜けるのをカノンは感じた。

「そう、ですか……」

 友人を巻き込んだ過保護とか、ツッコミ所が無いわけではないが『関係ない』と切り捨てられなかった事に、カノン自身も思った以上に安心して微笑みを浮かべる。

「……怒ってる?」

「へ? 何でですか?」

 セレーヤがやや(うつむ)きがちに呟いたそれに、カノンはこてっと首を横に倒す。

「相談しないで勝手に、お友達に頼んだから」

 確かに、平たく言って監視じみている。ギリギリグレーかアウトか微妙な所。

 セレーヤ達はカノンの上司兼、ユート達以外の成人するまでの限定後見人という立場ではあるが、後見人でもやって良い事と駄目な事がある。

「確かにビックリしましたけど……。でも、セレーヤ先生達が意味もなくそんな事しないの知ってますから」

(それに……)

 カノンは苦笑混じりに微笑んだ。

「セレーヤ先生は、聞いたらちゃんと答えてくれますし……」

「カノン……」

 セレーヤとクーベルトが互いに目配せをし、複雑という顔でセレーヤがカノンへ身を乗り出す。

「カノン。ごめんね」

「いえいえ。セレーヤ先生が謝る事ないですよ」

「……メーを、庇うわけじゃない、けど」

 それでも言わなければならないと言うように。

「言いたくても、言えないこと。言っちゃいけないことが、あって……」

 セレーヤが悲しげに瞳を伏せる。

「メーの判断が全部良いなんて、絶対思わない、けど……。メーと意見が違う時だって多い、けど……」

 不意に顔が上がりセレーヤの瞳がカノンを見つめた。

「カノンが、大切なのは同じだから」

 その瞳があんまりにも真剣に見えて、カノンは思わず言葉を詰まらせる。

 幸か不幸か茶化(ちゃか)せるような人物も不在で。

 だから、まるで時が凍ったような間が訪れてしまうのも当然と言えば当然。

 特にクーベルトなど他人の告白シーンを偶然目撃してしまったレベルで気まずい。ワクワク感とか皆無(かいむ)

「信じて……」

「は……い」

 いや、そう返すしか。

 半ばセレーヤに押しきられた気がしなくもないが、カノンは小さく頷く。

 セレーヤがほっとしたように肩の力を抜いて、微笑むのを見計らったかのように、三人を呼ぶルドヴィヒの声がした。




「メーラ先生は勝手です! 何でそんな風に言うんですか!」

 で、だ。これがセレーヤの心からの訴えでまとまったはずの、状況である。

「カノンには関係無いからそう言ってるだけでしょ! 変な事に首突っ込むから怖い目に合うってわからないっ?」

「でも!」

「でもも何もない! カノンは黙って知らずにいれば良いの!」

「メー!」

 唐突に、全ての音が消え去った。いや、カノン達がそう感じただけで実際はメーラとセレーヤの言い争う声は続いているのだが、それよりも意識が引っ張られるものがあったのだ。

 どうやら気持ちが一つになったらしいルドヴィヒとクーベルト、そしてカノンが違和感の(みなもと)へ視線をゆっくり向けた。

「…………」

 パロマの、微笑(ほほえみ)

 それ自体はなんら珍しくない。むしろいつもの状態とすら言える。が。

(何か、寒気が……)

 確かに秋だが言い換えると、まだ秋だ。しかし、カノン並びにルドヴィヒとクーベルトも鳥肌が立つような冬への気温降下を感じ取っていた。

 見習い達が気温が下がるほどの変化に硬直していると、パロマは困ったような笑みを浮かべてそちらに目を向ける。その時には気温を下げるような気配が微塵も感じられないのだが、むしろそれが恐ろしい……とルドヴィヒは密かに思う。

「すみません、少しホールでお待ち頂けますか? 少々話し合いが必要そうですので」

「「「はい」」」

 そそくさと蜘蛛(くも)の子よろしく三人が席を立ち、食堂から速やかに出ていく段になって、ようやくメーラとセレーヤが怪訝(けげん)な顔をするが、時すでに遅し。

「え? ちょっと」

「メーラ、セレーヤ」

 クーベルトは静かに立ち上がったパロマの顔を見ないよう視線を落としつつ、ドアを閉める。

「お話があります」

 パタリと閉まったドアの向こうから悲鳴が聴こえたような気もするが、気のせいだろう。

 そしてカノン達は顔を見合わせ、ホールの閲覧用机で自習すること約一時間くらい。

「カノンちゃん、チェックお願い」

「はい。クーさん、私のお願いします」

「ええ。ルドヴィヒ、私もチェックです」

 それぞれ違うメーラ達のテストをやって、相互に採点する。

 真面目過ぎるというより、それしかやる事がないのだ。パロマの話し合いがいつ終わるかも不明。今から街に行ったら帰りはバスがないので徒歩確定。

 大型画面端末(テレビ)でもあればと思うも、無いものはないのである。本を読んで過ごすのも曲がりなりにもこの分館の見習いなら苦ではないのだが、それならもう一ヶ月を切った試験範囲の予習復習にあてる方が精神的に楽という結論に落ち着いたらしい。……というのが九割方の理由。そして残りの一割は、


 夕食、まだかなぁ…………。


「皆さん、お待たせしました」

「パロマ先生」

「終わったんですか?」

 カノンとルドヴィヒにパロマは頷き、机の上に広げられた相互採点中の答案用紙に優しく瞳を細めた。

「ええ。皆さんもお疲れ様です。ひとまず夕食にしましょう」

 答案用紙を手早く片付け、デミグラスソースの香り漂う食堂に移動すると、メーラがテーブルに突っ伏し、セレーヤは若干沈んだ雰囲気で皿を並べたりしている。食欲を誘う香りとその光景が何とも言い難いミスマッチさを出していた。

 カノン達が食堂に入ると、顔をあげたメーラから少しばかり恨みがましい視線が寄越(よこ)されるのだが、誰も視線を合わせない。

「カノンさん。シチューよそうの手伝ってくれます?」

「はい!」

 パロマの後にカノンは続き、厨房へと早々に退散した。

 火を止めたコンロの上には使い込まれた銀色の寸胴(ずんどう)。香ばしさと(ほの)かな煮込まれた野菜の酸味、そしてとろとろに煮込まれたお肉の旨味の詰まった赤茶色のシチューが目と匂いで食欲を刺激する。

 瑞々しい葉もの野菜と数種類用意されたパン。

 もう完璧。

「美味しそう……」

 しかも過去の経験上、本当に美味しい事も知っている。

 カノンはおたまを手に嬉々としてシチューを器によそっていく。

 やがて全ての料理を盛り付けて食堂に運ぶ頃には、もういつもの雰囲気になっていて、全員が席について食事を始める。

「ルドヴィヒ、それとって」

「カノンさん、パンはどれにします?」

「メーラさん、それってどれ」

「クーベルト、水差しちょうだい」

「はい」

 騒がしいというほどではないけれど、静まり返っているとかそういう事もない食卓。

 先程の騒動など最初から無かったかのような雰囲気で食事は進み、あらかた片付けて食後のお茶になった段で。

「さっきの……俺の意見は変わらないからね」

 パロマ爆弾が爆発するきっかけとなった先程の件とは。

 最近、街で『図書館関係者』が相次いで事件に巻き込まれている事、ルドルフも巻き込まれ現在は入院中という話と、恐らくその事件の原因であるトーヤがナウでこの図書館に昏睡状態で居るという事を共有。それに対してカノンが「どうしてそんな事に……」と言った所から発展したものである。

 頭ごなしに説明もなく再び『関係ない』宣言をされたカノンが抗議、セレーヤがメーラに怒り、かくしてパロマ爆弾の爆発と相成(あいな)ったわけだ。

 ルドヴィヒがまさか同じ事を繰り返す気ではないかと胡乱(うろん)げにメーラを見る。

「メーラさん……」

 ぶすっとした表情でメーラは腕を組む。

「俺、間違ってないもん!」

「もん、て。あなた……」

 どこをどうみても色気と妖しさで道を歩けば八割がたの女性が振り返るような容姿の男性がする表情と仕草ではない。

 子供ですか。そんな言葉を飲み込んで、ルドヴィヒはテーブルに頬杖(ほおづえ)をつく。

 そもそも、ルドヴィヒにしてみたらメーラが(かたく)な過ぎる理由がわからない。

「カノンちゃんに隠し事するの、限界だってメーラさんも感じてるでしょ?」

「…………」

 メーラがぐにゅっと眉間にしわを寄せた表情が答えのようなものだ。

「それに、オレから見ても既に知らなければ『安全』な段階は終わってる。知らなくてもカノンちゃんは襲われた」

「…………」

「メーラさん。確かに知らなければ『あっち』からはまだ逃がしてあげられる。けど、デメリットの方が大きい」

 メーラがルドヴィヒを見る。

 いつの間にか、ルドヴィヒは頬杖をやめて姿勢を正していた。

 まるで別人のように厳しい顔で、メーラを見つめていたが不意に、フニャッといつものように表情を(ゆる)める。

「らしくないよ。メーラさん」

「……俺らしいって何」

「いつでも余裕で、それがどうしたの? ってのがいつものメーラさんでしょ」

「…………」

「人の考えとか周りの思惑とか諸々、自分には関係無いって顔で」

「ちょっと」

「ただ自分が守りたい子は絶対守るし、他の思惑とか何がどうなっても関係無い。だから無駄な心配しないでいつも通り過ごしていれば良い……って言葉が『関係ない』一言に凝縮されちゃうような」

 傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で自分勝手なくらい傲慢(ごうまん)で。

「わっかりにくい事この上ないめんどくさい人。それがメーラさんじゃん」

「へぇ……。そんな風に思ってたんだ?」

 ひくっとメーラの口の端が引きつる。

「みんな知ってると思うけど? メーラさんがめんどくさいくらい、オレ達を大切にしてくれてる事」

 いつだってそうだ。自分が噛みつかれても何を言われても全然相手にしないけど、カノン達に関わる事だけはどんな些細(ささい)な言いがかりも許さない。

「知ってても、わかってても、嫌な事だってあるんだよ? メーラさん」

「…………」

「自分の為だって言われたって、嫌なんだよ。メーラさんが思ってる以上にオレ達は…………」

 言葉を切ったルドヴィヒに、メーラが不思議そうな顔をした。

 ルドヴィヒはそれを見て、ニッと笑う。

「オレ達、繊細(せんさい)だから」

「自分で言う? しかもカノンならともかくルドヴィヒとクーベルトが繊細って」

「あ。メーラさん酷い」

 笑ったルドヴィヒと、半眼になったメーラの視線がカノンに集まる。

 どこかメーラの瞳には不安そうな色が見え隠れしているが、訳がわからずといった様子のカノンは気づかなかった。

「カノンちゃん。君には二つの道がある」

 そう切り出すルドヴィヒに、メーラ達はもう口を挟まない。

「一つ。これから話す事を聞く。君が知りたかった事だよ」

 ルドヴィヒも、どことなく穏やかながらも真面目な面持ちだ。

「けど、聞いたら君は戻れない。これからどこに行くにも国の監視がつき、国外に行くのは難しくなる」

「監視……?」

 戸惑うカノンを安心させようと、ルドヴィヒはほんの少し微苦笑する。

「そう。これが脅しじゃないのは、わかってもらえるかな? ごめんね」

 その言葉にクーベルトも軽く頷いて見せた。誰も遮らない事を確認してから、ルドヴィヒは言葉を繋げる。

「それとね。あらかじめ言っておくと、カノンちゃんがもしこのまま『この分館の』司書になるなら、いずれ嫌でも聞くことになる。逆を言うと、そうなりたくないなら、司書にはならない方が良いよ」

 ぴくっとクーベルトが眉を動かし、(たしな)めるように訂正を入れた。

「ルドヴィヒ、誤解を招きます。この分館のでなければ問題ないでしょう」

「ごめん。そうだね。この分館の司書、でなければ問題ないね」

 この分館の、司書でなければ。

「どうする?」

 ルドヴィヒが尋ねる。

 カノンはいつもと同じなのにどこか静かな、どこか別人のようにさえ見える菫青(コーディエ)の瞳に、自分が大きな岐路にいる事を感じた。

(どうするも何も私は)

「決められない?」

 掛けられた優しい声にカノンの肩が揺れる。

「わ」

 カノンが口を開くより早く、メーラが苛立ったように口を挟む。

「今すぐ決められる事じゃないでしょ」

「メーラさんは黙って下さい。決めるのはカノンちゃんです」

 にっこりと笑ったルドヴィヒが有無を言わさぬ雰囲気を醸し出す。

「今、聞くか聞かないか決めるのも、保留にするのも、決めるのは彼女だ」

 ぐぬっ、とメーラが何も言えずに口をつぐむ。それでも仕方なさそうに苦笑するパロマになだめるように肩を叩かれると、不機嫌そうな顔ではありつつもそれ以上は口を出す気配がない。

 ルドヴィヒはそれをクスクス笑って見つつ、カノンへと視線を戻す。

「カノンちゃん。カノンちゃんはどうしたい?」

 選びたいものを、選んで良いんだよ。そう言うかのように、優しく微笑む。

 知りたいか知りたくないか。

 選べるというのは、選ぶというのは、自由。けれど自由は責任を(ともな)う。知る選択をした責任と、知らずにいると選択した時の責任。そして、『選択する』というのは自分で選ぶ自分の責任だ。

(それでも私は……)

「知りたい、です」

「わかった。じゃあ話すよ」




 昔、世界には不思議な力が使える人達が居た。

「わかりやすく言うと、魔法使いかな」

 魔法使い達はある一つの役目を負っていて、それは紙魚(しみ)という魔物のようなものから人々を守ること。

 紙魚は迷宮の奥底から現れ、人々を(さら)っていく恐ろしい存在。連れ去られた人々は誰一人戻ってこない。

 そんな紙魚を封じ込め、見張るために魔法使い達は数ある迷宮の入り口に建物を立てました。

「それの一つが、この分館」

「え」

 突拍子もなく始まったおとぎ話とその言葉に、カノンは思わず聞き返す。

「ここ……ですか?」

「あっはは。ウソって思うでしょー? ほんとだよ」

 待って。わけがわからない。

 そんな気持ちになっても仕方無いくらい、それは現実離れした話。

「続けるね」

 迷宮の入り口に建てられた図書館には、紙魚に対処する為の特別な司書が配置され、司書は自らの幻想化身達と共に迷宮への入り口を監視し守り、紙魚を退治します。

「でも、魔法使いの数は年々減って」

 魔法使い達はどんどんいなくなってしまいました。人間には寿命と適性があるので仕方無い事でしたが、そうするといつか迷宮を監視するものも、人々を紙魚から守る人もいなくなってしまいます。

「だから国は魔法使いと迷宮対処のシステムを保護する為に、一つの制度を作り上げたんだ」

 それが今の『分館司書』だと、ルドヴィヒは言う。

「実を言うと『司書奨学生』もその一環。分館司書を育成して確保する為に作られたんだけど、分館だけってすると目立つからね」

 さて。

「ウソみたいなほんとの話。これを聞いてわかると思うけど、これは『国』ぐるみの機密事項。どれだけ荒唐無稽(こうとうむけい)でも、確かな真実。だからこれを知ったら、国の目から逃れられない」

「…………」

 どれだけ嘘臭くても、それは事実かつ真実。

 魔法使いの存在も、迷宮の存在も。そしてそこから出てくる紙魚という魔物とそれによる神隠しも。

「他国に知られるわけにはいかない。適性が関係するとは言え、魔法って言っちゃうと技術の一つだから」

 仕方なさそうにルドヴィヒは苦笑する。

 対抗する為の技術。けれど何も有効なのは紙魚に対してだけではない。それが何に使われるか。そんなものを国の争いにでも使われたら。

 だから国は秘匿(ひとく)する事を選んだ。

 同時に、この事を知ったものを生涯監視下に置くことも。

「まさしく『公務員』でしょ?」

 皮肉混じりの真実を含むその呼び名。

 ルドヴィヒの諦念に似た笑みと、どこか薄寒いものを纏う響きに、カノンは無意識に腕を軽くさすった。

「でね。今いった感じでコレ知っちゃうと司書になってもならなくても国の監視下に生涯置かれるから、メーラさん達も慎重になってた」

 人の一生に関わることだから。そう言われればそれも仕方ないと言える。

「でも、ね」

 ルドヴィヒはそう言葉を続けた。

「ちょっと事情が変わっちゃった」

「事情…………」

「そう。カノンちゃんが知りたがっても、人生に関わるからメーラさん達の判断で良いと思ってたんだけど、紙魚や魔書が出て来ちゃったから」

 紙魚は迷宮から出てきて人を拐う。それも誰でも良いわけではない。本や物語に親しみ関わる者を好んで連れ去る。

「最近、図書館関係者が相次いで事故とかにあってて、なーんかおかしいなって思ってたんだけどね……」

「図書館関係者だけだったので、ここには分館もありますし、まずは紙魚を疑ったのですが……」

 クーベルトが苦々しげに溜め息をつく。ルドヴィヒも同様に軽く首を(ひね)る。

「紙魚にしてもおかしいんだ。連れ去る事はしても、基本的に危害は加えないのが普通だし」

 迷宮に連れ去る事。それが目的で、人間を害することが目的ではない。それがこれまでの紙魚。

「それに、メーラさん達が迷宮から出ていく紙魚を取り逃がした様子もありませんでした」

「当たり前でしょ」

 むっとしたようにメーラが口を開き、クーベルトが頷く。

「迷宮への入り口には分館が建てられていますが、それはここ以外にも多数。そのうちの幾つかは厳重に封をされていますが、人手不足で閉館しているものも。今回はそのどれかから出て来たか、あるいは」

「まだ知られていない入り口があって、そこから出て来たのか。確率は低いけど、既にずっと昔に出ていて長期休眠状態だったのが復活して、本能に従って動き出した……。正直、紙魚の出所(でどころ)はいくらでも考えられるんだけど」

 出所はこの際良いとしても、行動は間違いなくおかしかった。

「紙魚が人間に殺意を向けるなんて、あり得ない」

「あり得るとするなら」

 魔書(ましょ)

「魔、書?」

「そう。簡単に言うと呪いの本かな」

「先ほど魔法は技術だとルドヴィヒが言いましたが、魔法使い達は紙魚を退治する為に『幻想化身(イマジンアバター)』という人間の護り手を創り出す(すべ)をもっていました」

「幻想化身は魔法使いに手ずから作られ媒体となった書物の化身。特殊な環境と適性で現界(げんかい)し、人間を護ってくれるんだよ」

 ルドヴィヒとクーベルトの言葉に、カノンは瞳を瞬く。

(あれ? 人を護る…………)

 どこかで聴いた事があるような気がした。遠い昔に。どこかで。

「で、幻想化身と正反対なのが魔書」

「魔法使いが人への憎しみや殺意を込めて作り現界させたもの。または魔法使いの適性が高い方が作り、長い年月を掛けて偶然にも悪意を浴び続けて現界するという事もあると伝えられていますが」

「成り立ちは置いておくにしても、肝心なのは魔書が人間を襲い殺すこと」

 到底野放しにしておけないが、普通の人間では何も出来ないに等しい。

「ルドヴィヒや私は生家が中央で図書館を統括する位置にあったので、物心ついた頃から知らされて育っています」

「だからある程度、警戒もしてるし、危険もわかってる。けど、カノンちゃん含め世間一般ではそんなの知らされていないから」

 仮に知らせても信じるものは少ない。しかし逆に信じるものが多くてもパニックを起こされて大惨事だ。

「中央の図書館司書でも上層の職員。それと分館司書になって、尚且つ適性が高い者にしかこの事実は知らされない。ちなみに本館の館長であるルドルフさんでさえ、今いった感じで知らされてないよ」

 本館の館長ですら資格無しとして知らされていない事。それを見習い未満のような奨学生に教えるわけもない。通常なら。

「そんな状態だから、メーラさん達がカノンちゃんに話していい情報か意見が対立するのも、過保護なくらい干渉するのも、まぁ仕方ないと言えば仕方ないんだけど……」

 ルドヴィヒは不満を全面に押し出すメーラを一瞥(いちべつ)して溜め息をこぼした。

「言い方ってものがあるよね…………」

「俺は間違ってるなんて思ってない。知らなければ余計な事に巻き込まれずに済むんだから」

 じとっとした目で、メーラはルドヴィヒとカノンを見遣る。

 ルドヴィヒもそれに相対するように呆れ顔になり、メーラを見返した。

「知らなくても被害に遭ったじゃないですか」

「う……」

「それに、護ろうとしたカノンちゃんが悲しくなるような事したら本末転倒だと思いますけど?」

 ね? とルドヴィヒがカノンに同意を求めて首を傾げ、セレーヤがぼそりと低い声で呟く。

「メーのバカ……」

「うぅ゛~……」

「まぁまぁ。こうして一応それはお伝え出来たのですし」

 (うな)るメーラと冷たい目のセレーヤの間に入ってパロマが取り成す。それはいつもの光景。

(…………あ)

「変わらない」

「ん?」

 ポツリと呟いたカノンに、ルドヴィヒが微笑む。

 カノンは苦いような可笑(おか)しいような、もう何とも言えない顔で。

「何も、変わらないですね」

(私、何を怖がっていたんだろう……)

 知りたいけど、いざルドヴィヒに教えてもらえるとなったら、躊躇(ためら)った。

(私はずっと、司書になるんだって事しか考えてなくて)

 司書になることが当然だと思っていて。

(でも、何でなりたいのかも忘れて)

 考えることを止めて。

(忘れたから、怖かった)

 知って、足が、歩みが、止まってしまったら。

 司書になる覚悟が出来ていなくて、怖がってしまうことが、怖かった。

 何故なら司書にならないなら、それまでの全て、メーラ達から貰った時間(おもいで)全てを、否定してしまう。

 引き取り育ててくれたユートやアウラ夫妻、ルドヴィヒやクーベルトとの時間も。

 それが、怖かった。

「何も、変わりませんでした」

 肩から力が抜けて、もう笑いたいのか泣きたいのか。

 それは顔にも出ているのがカノン自身にもわかる。

 ルドヴィヒとクーベルトが兄のような優しい眼差しを向け、笑う。

「…………まだ、だよ」

「メーラさん?」

 怪訝(けげん)なルドヴィヒのメーラを呼ぶ声にそちらを見ると、一片の笑みもなくカノンを見つめるメーラがいた。

「ルドヴィヒ。ここからは俺が話すから」

 パロマとセレーヤが何も言わずメーラを止めない様子に、ルドヴィヒとクーベルトも視線を交わして黙る。

 闇より深い葡萄酒の(あか)い瞳で、メーラはカノンを見下ろす。

「メーラ先生?」

「どうして教えない事があるのか。それは話したけど、カノンには紙魚にも魔書にも、これ以上関わらせる気はないから」

「それ、どう言う事ですか」

「理由は簡単。カノンにはさっきの話で言う所の、魔法使いの素質は無いから」

 冷たいくらいあっさりとメーラはそう口にした。

「カノンには、幻想化身は創れない。多分だけど、今回の事が無ければ特殊適性検査でそう判定されて、一生知らずに過ごしたはずだから」

「……魔法使いの素質が無いと、ここで司書は出来ないんですか?」

「それは無い。けど…………」

 メーラは一度、唇を引き結んだ。

「カノンは、大司書(ライブリア)にはなれない。大司書は、一番凄い魔法使いの司書しかなれないんだから」





 どうして。

 なんで。

 降り積もる黒く冷たい感情が、地に堕ち身に触れた瞬間、灼熱となって心を焼く。

 どうしてこんな目に遭わなければならないのか。

 どうしてこんな事になったのか。

 ――――なんで、誰もそばにいてくれないの……?

 降り積もるそれは、黒ずみ歪んで(おぼ)れるほどに深くなる。

 悲嘆(かなしみ)怨嗟(えんさ)に。

 怨嗟は意思に。

 意思は『形』に。

 ――――なんで、あなたはそんなにも愛されているの……。

 一人の少女が見える。大切に大事に思われ育まれ、光に溢れた少女。

 眩しいくらいの幸せが、目を、視界を焼く。

 目の光りまで奪おうとするかのように、それは眩しく、輝きに焼かれて訪れる漆黒(しっこく)の視界に思いは募る。

 何もかも。自分に与えられなかった全てを、持つ少女。

 ――――どうして、私は……。

 こんなに、苦しまなければならないの?

 どうして罵声を浴びせられて傷ついてはならないの?

 どうして暴力に打ちのめされて恨んではならないの?

 どうして憎まれて、憎んではならないの。

 なんで。どうして。

 答えの返らない問い掛けだけが暗闇に降り積もる。

 涙は流すことも許されず。

 声は出し方も忘れてしまった。

 空っぽなのに、激しい何かが内側で暴れまわって、いつ喰い破られるかと怯えている。

 それでも、誰も。

 助けてなんてくれないのだ。





「あら?」

 始業前の学校。その図書室の前に佇む人物に、エリーは赤銅の瞳を珍しそうに見開いた。

 図書室の扉に手を掛けようとしては止め、また手を伸ばしている。

 しばらく観察していたいとも思ったのだが、そうしていると朝のホームルームが始まってしまう。

「ご機嫌よう。入らないのでしたらどいて下さる?」

 さらりと肩に掛かった黒髪を払いながらエリーがそう声を掛けると、声を掛けられた女生徒の肩がびくっと震え、豪華な印象を与える金髪が揺れた。

「入るのかしら?」

 声を掛けられた女生徒、アレジアが怯んだように後退る。

 片手を頬に当て、どうしようかしら? とエリーは軽く首を傾げた。

「私は入るのでよろしい?」

「…………」

 アレジアが下がり、エリーがドアに手を掛ける。

 ドアが開く寸前でアレジアが身を翻したのがエリーの目端に映った。

「カノン、ご機嫌……あら」

 ドアを開け、居るはずの友人に向けて発した言葉は途中で変化する。

 確かに、友人はいる。しかし。

「どうしたの。真っ白になっちゃって」

 真っ白になって天に召されそうである。

「…………エリーちゃん」

 ギギギ……なんて音がしそうなくらいぎこちない動きで、カノンはエリーを見た。

「なぁに?」

「エリーちゃぁぁぁあん!」

「あらあら。聴いて欲しい事があるのね。放課後ゆっくり聴いてあげるから、まずこの返却処理お願いできるかしら?」

 優しく、しかし容赦(ようしゃ)ないエリーのストップに、強制的に現実に引き戻されたカノンは、カウンターに出された本を手に取り粛々(しゅくしゅく)と返却処理を行う。

「ありがとう。では放課後に。メグにも声を掛けておいてね」

「はい……」

 図書室を出て、エリーはクラスに向かいつつ携帯端末を取り出す。

 そして放課後。

「さ。帰るわよ」

「おー!」

「え。あの、エリーちゃん?」

 落ち合い開口一番、帰る宣言をするエリーとそれに元気良く同調するメグ。困惑するのはカノンだけという構図が何故か出来上がっていた。

「カノン。今日は図書館に帰るの? それとも自宅?」

「…………明日、花日で試験勉強も休み、だから」

 つまり自宅。

 エリーはその答えに満足そうに頷いた。

「じゃあ、行くわよ」

「れっつごぉー!」

 半ば連行され、カノンは自宅に帰り着く。

(エレナさ……お姉ちゃんに、連絡してないけど大丈夫かな)

 今日は明日のイベント準備で遅くなるだろうし、と。ドアを開け……

「お帰りカノン! エリーちゃん達いらっしゃーい!」

 突如訪れるベアハグ。叫ぶ間もない。

「お姉ちゃんっ?」

「さー、入って入って。うふふ。用意出来てるわよー」

 用意ってなに。そんな疑問を口にする暇も与えられず、カノンはエレナに家のなかに引きずり込まれる。

「お邪魔致します」

「お邪魔しまーす!」

 ある意味、ホラー映画ばりの光景にも動じず、エリーとメグは家に上がった。

「今日はぁ、女の子だけのパーティーよ! かんぱーい!」

「イェーイ!」

 リビングのローテーブルには飲み物と明らかにデリバリーと思われる各種軽食、高カロリーを約束するスナック菓子とケーキ。

 声高(こわだか)乾杯(かんぱい)を叫ぶテンションのおかしい姉と友人に、慌ててカノンが声を上げる。

「いや、待ってエレナお姉ちゃん! 何がどうなって」

「カノンお姉ちゃん、ノリ悪いよ」

「そうよ。せっかくですもの。楽しみましょ」

「メロまで!」

 いつの間にか妹まで混ざっていた。しかも友人と両脇からカノンをしっかり捕まえ、一緒のソファに腰を下ろさせる連携プレーまで見せて。

「あー! あたしも入るー!」

「いや、メグちゃん四人は無理だよ!」

 結局最後にはカノンとエリー、ローテーブルを挟んだその向かいのソファにメグとメロディ、お誕生日席の一人掛けソファにエレナという構図に落ち着いた。

「それで? 何があって朝、落ち込んでいたのかしら」

 エリーが落ち着き払ってそう言うのを、カノンはやや疲れた様子で見遣り、遠くを見るような目に。

「うん……。なんか、もう、大したことじゃないかもって思えてきた……」

「ダメよカノン。抱え込んだらこのお茶会の意味がなくなっちゃうじゃない」

 エレナがそう言い、メグとメロディも頷く。

「そうだよ。メーラさんのアホー! とか、暴君ー! とか、思いの(たけ)を叫ぼうよ」

「カノンお姉ちゃん。メーラさん達に何言われたの」

 メグの言葉に、ちょっと前者は思ったりもするけど後者は思ったこと無いなぁ、なんて半ば現実逃避していたカノンは、妹の言葉で現実に引き戻され視線を落とす。

「あのね、メーラ先生達が悪いわけじゃないくて」

 胸からこみ上げる苦いもの。じんわり喉を絞めるような息苦しさに、カノンは一度口を閉じてから話始める。

「私、なりたいものが、あったんだけど……素質がなくて…………なれない、みたいで」

「司書になれないって言われたの?」

 メグの問いにカノンは首を横に振る。

「ううん。普通の司書になるのは問題ないみたい。えっと、私がなりたかったのはちょっと変わってて…………」

 魔法使いの素質なんて言うわけにもいかず、どう言おうかと言葉を探す。

「大司書っていうね、司書の中でもトップの役職があるんだけど、私それになりたかったんだ……」

 でも、素質が無いからなれないらしいんだよね、と。カノンが苦い笑みを浮かべる。

「仕方ないよね」

(仕方ないよね。素質がないんだから……)

 仕方ないのに、どうして胸がつまるのか。

「あ、あはは……」

 どうして視界が滲むのか。

 どうして、鼻の奥がつんとするのか。

 じわじわ滲んだ視界を誤魔化(ごまか)すように、ぎゅっと瞳を閉じる。

「カノン。あなた、本当に大司書になりたかったの?」

 なりたかった。そうでなければ、こんな気持ちにはならない。

 口を開くと声にならなそうで、エリーの言葉に唇を噛む。

「じゃあ、諦めないで良いよ。だって、なれないかどうかなんて、わからないでしょ」

 メグの言葉にカノンは瞳を開ける。その言葉が何故か胸を(えぐ)って、思わず(にら)むようなものになった。

「なれない、よ。だって」

「メーラさんが言ってるだけじゃん。なら、カノンがやめたって言わない限り、なれないかどうかなんて誰にもわからないでしょ」

「なんでメグちゃんはそんな事」

「だってあたしは諦めないもん。カノン、あたしのなりたいもの、知ってるよね?」

「っ…………」

 メグの、夢は。

「あたしは、ファッションモデルになりたい。それもランウェイを歩く、ショーモデル! キラキラしてて、すっごくキュートでキレイな、一番輝くようなモデルになる!」

 そうメグは宣言するけど。

「でもメグ? 身長制限はどうするのかしら」

 ショーモデルは最低でも必要な身長の基準がある。今のメグはそれに届いていないし、恐らくもう伸びてもそれには届かない。

「そんなもの、知らない。あたしは身長が低くたってモデルになってランウェイを歩くし、そもそも身長なんかで決めるのがおかしいもん」

「その通り。そして…………じゃーん! 明日のイベントでメグちゃんはランウェイ歩きます!」

「え!」

 エレナが自信たっぷりの表情で胸を張る。

「私のブランドの方針は、『人に』似合う服。その人を一番輝かせる為に服はあるのよ。服の為に人があるんじゃないわ」

 だからこそ、エレナの起用するモデルは撮影でもショーでも身長制限を度外視だ。

 条件はただ一つ。着こなし輝くこと。

「身長制限は『服を』一番綺麗に見せる為。そもそも私の考えと合わないのよね」

 軽くエレナは肩をすくめる。服が一番綺麗に見えるなら、一番似合うのではないかとも言えるが、似合うというのはその人が『着たいと思うかどうか』も含まれる。

「仕事だから。条件に合うから。そんな理由ならマネキンにでも着せて並べれは良いのよ。人間じゃなくたっていいわ」

 エレナの考えは端的に言って苛烈(かれつ)である。

 けれど、だからこそ。

「あたし、エレナさんの所の服が大好き! モデルじゃなくたって、あたしを一番素敵に見せてくれるもん」

「うふふ。ありがと。メグちゃん」

 メグとエレナが楽しそうに互いの両手を合わせ、笑う。

「ひとさまに迷惑を掛けるとか、誰かを傷つけるのなら勿論ダメよ? でも、そうでないのなら、やりたいことを、望むことを、諦める道理(どうり)なんて無いわ」

「カノンがその大司書になりたいって夢、誰かに迷惑掛けるの?」

「掛けない、とは思う……けど」

 歯切れの悪いカノンにメグは頬を膨らませる。

「もう! じゃあカノンは、あたしがショーモデルになりたいって言っても、身長(そしつ)がないから諦めた方が良いって言う?」

「そんなわけ……っ!」

 にんまりとメグが笑う。言うわけがない。

 最初にメグが身長の件で夢を諦めかけた時、そんなのおかしいと言って、メグをエレナに引き合わせたのはカノンなのだから。

「素質なんて、なきゃ無いなりにどうにかしちゃえば良いんだよ」

「メグの言っていることは乱暴だし、皆がそんなパワフルで無い事は知っているけど、私も間違いではないと思うの」

 エリーがいつの間にか淹れた紅茶のカップに口をつけ、微笑む。

「それに、カノン。あなたはどうして大司書になりたいの? ……大司書でなければ、叶えられないものなのかしら」

 大司書でなければ叶えられない願いなのか?

(私……)

 奨学生として、育ててくれた人達が誇りにできるような司書になりたい。もっと最初になりたかった理由は忘れてしまったけど、でも一つだけ確かな事は。

「…………メグちゃん」

「うん?」

「やってみる」

 なれないかもしれない。

 でも、諦める必要もない。

「エリーちゃん、ありがとう」

「どういたしまして。でも、試験では視野が狭くならないように気をつけなきゃだめよ?」

「うん」

 大司書になるのは一つの手段。それが目的だったわけじゃない。

(私、まだ司書にすらなってない)

 そんな大それた夢が叶う叶わないの前に、やるべき事がある。

 まだ遠すぎて見えない壁に嘆くより、目の前の垣根を越えることを考えなければ。

(スタートラインに、立ってから。そこにさえ行けなきゃ、メーラ先生達が誇れるような司書になんてそもそもなれない)

 問題の先送りにしかならなくても、歩き出さなきゃ始まらないのも確かな事。

(まず、メーラ先生達のクビが()かってる試験! そうだよ。メーラ先生達がいなくなったら、私、それどころじゃない!)

 カノンは緑の瞳に強い光を宿して頷く。

「私、まず今度の司書試験がんばる!」

 当たり前の事を言っているだけだが、カノンの宣言に水を差す者はいない。

「カノンふぁいとー!」

「頑張って。応援してるわ」

「カノンお姉ちゃんガンバ」

「カノンちゃんなら楽勝よー!」

 再び闘志を燃やしたカノンに、それぞれがエールを送る。

「で・も。お勉強は次の種日(シディア)からね。明日、明後日はお姉ちゃんのお手伝いに決定よ!」

「え?」

「うふふふ。カーノーン、ちゃん♪」

「ひ?」

 エレナの満面の笑みに思わずソファから立ち上がろうとしたカノンの両肩を、エリーとメロディがしっかり押さえた。

「エリーちゃん? メロ?」

 その間にも、エレナは両手に衣服の掛かったハンガーを持って眼前に迫っている。

「カノン。一緒に楽しもうね!」

「メグ、ちゃ」

 逃げ道を(ふさ)ぐように、エレナとメイク道具を手にしたメグが距離を詰め。

 カノンは声にならない叫びを上げた。




 選択する、というのは怖い

 あるいは恐怖などないだろうか?

 自由意思で選べるというのは

 裏を返せば全て自分で責任を負うという事

 誰もその選択を責めず、誰を責める事もできない

 全ては、己が決めたことなのだから――


 次回、千年書館 悠久恋書

 第五話『王女と服と祝祭と』


 解答欄がずれていないか? それが問題だ

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