千年書館 ―悠久恋書―3
3.紙魚と魔書と因縁と
それはおとぎ話のような出来事で。
日差しが照らす昼の室内に、風のような、ガラス細工の鈴のような、繊細さと儚さをもった声が響いた。
『こんな所で、何をしていたの?』
雪のような白い色。
『かくれんぼ……』
夜空のような紫紺。
『ふふ。――――に見つかったら、怒られちゃうよ?』
そんな色を集めたような人だった。
『嗚呼、ごめんね。大丈夫だから。泣かないで』
妹弟たちとの隠れんぼ。とっても綺麗だけど知らないその人に見つかったカノンの目には、涙が溜まった。
『怒られるのは怖い? そうだよね。でもそれは君を心配しているからなんだ』
カノンを優しく抱き上げて、その人は窓辺に腰掛ける。
『ひとりで心細く泣いていないか。怪我をしていないか』
カノンを抱えて、丸くなった背を撫でる。
『自分達のように、寂しさに耐えていないか』
『さびしいの……?』
その人の言う見つけたら怒る人は、どうやらこの図書館で働く人達のようだ。その人達は、寂しいのだと、その人は言う。
『彼らは、大司書を待っているんだ。ずっと。長い長い時間』
その人は部屋の扉を見つめていた。その先にいる人達を思うように。
『帰ってくるのを、待っているんだよ』
そう言って、その人は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
その微笑みが悲しく思えたのか、カノンの目が再び潤む。
大丈夫とあやすように、その人は頭を撫でてくれた。
『この世界にはね、たくさんの物語があるんだ』
心踊る楽しい物語、怖くて眠れなくなるようなおぞましい物語、せつなくて涙する物語。多種多様なそれら。
『一つ一つが異なる世界への扉』
子守唄のように心地好い声音と安心感に、抱えられたカノンは微睡み始める。
『物語の中では、何処にだって行ける』
何にだってなれる。そう囁く。
『そして……物語は、人間を護るんだ』
『ひとを…………?』
その人は、声をひそめて秘密を教えるようにこう言った。
『人間を襲う、怖い物語がいて』
内緒話を囁いた。
『そんな怖い物語から人間を護ってくれる、優しい物語もいる』
まるで騎士のような存在だと、カノンは思う。
カッコいいと思うと同時に、一つ疑問が浮かんだ。
『……その物語はだれがまもってくれるの?』
その人は、驚いたように口を開いて考えているようだったが、結局寂しげというより困ったように微笑むだけだった。
人を守ってくれる物語。護ってくれるものがいないのなら。
『ならわたしがまもる!』
騎士を護る騎士。
『わたし、物語をまもるひとになる』
その名をきっと、司書という。
イリディアネス・メルベティウル。今から約五百年前の人物で、没年は不明。
図書館司書に関する事や修復師という職の確立など、彼女は司書になって一年の内に何かに追われているかのような異常な早さで功績を上げ続け、司書になって約一年が経つ頃、忽然と表舞台から姿を消した。
以後その姿を見たものは居らず、あまりにも異常な早さで次々と制度の提案と設立を行った事から、幾つかは他の誰かの功績が混じったのではないかとさえ言われている。
後に大司書と呼ばれる人物。そしてカノンの目指す人。
穏やかな日差しの午後、溜め息ひとつ。カノンは参考書とノートを下敷きに食堂のテーブルに突っ伏した。
(なれるのかな…………)
ずっと考えている。
(なりたい、のかな)
先日、ルドルフに言われた事が頭から離れない。
幼い頃に抱いた思いのまま、今まで歩いてきた。何も疑う事なく、疑問も抱かず。
(お人形……)
果たしてそれは、今でも自分の意思と呼べるのだろうか。
(私…………)
「カノンさん?」
「クーさん」
厨房の方からクーベルトが、黄昏色の液体が揺れるガラスのティーポットを手にして現れる。
顔を上げたカノンは、はたと自分がテーブルの上に溶けている現状を思い出し、慌てて身体を起こして座り直す。
「何かわからない事でも?」
「あ、あは。ちょっと」
「どこでしょう?」
そう言ってカノンの広げた参考書とノートを覗き込み、クーベルトは丁寧に解説と訂正を織り交ぜる。
「それにしても、意外でしたね」
「え?」
「カノンさんが、歴史が苦手というのが」
「う」
「悪いとは言っていませんよ? 意外、というだけで」
クスクスと笑い、クーベルトは手際よくガラスティーポットから同じくガラスのティーカップへハーブティーを注ぎ、カノンと自身の前に置く。
「カノンさんは本が好きでしょう。特に技術書よりも物語が」
「そうですね。と言うより技術書はあまり読んだことないかも」
「だから意外です。歴史は、物語ですよ?」
「歴史が物語……」
「年号の暗記をする事が歴史ではありません。年号はただの頁数。大事なのは出来事、物語自体です」
必死になって年号を覚えてもわけがわからなくなるだけ。
「後世に残したいと思われるほど魅惑的な登場人物たちが織り成す、物語。一つの出来事が一話の物語ですよ」
そう考えれば、とクーベルトは微笑んでカップに口をつける。
「むしろ次々読み進めたくなりませんか?」
「それは、確かに」
「実際、物語として記憶する方が頭に残りますし。まぁほどほどにしないと、どこかの史学バカみたいになりますけどね」
「ふふ。ルヴィさんとクーさんて、本当に……」
笑っていたカノンは不意に表情を曇らせた。
「カノンさん?」
「クーさん、差し支えなかったらで良いんですけど……どうして修復師になろうと思ったんですか?」
「…………」
クーベルトは驚いたように眼鏡の奥で目を丸くする。けれどその事には触れず、ゆっくりと思い出すようにして言葉を紡ぐ。
「そうですね。きっかけはどこぞの史学バカのお目付け役になってしまった事で、あれが司書になると言い出したから巻き込まれただけだったのですが」
「お二人って、前から気になっていたんですけど……」
(あ。聞いて良い、のかな)
言い掛けて、ふと。カノンは言葉を途切れさせる。
それだと何だか意味深な感じになったりもするのだが。
そしてクーベルトもそう感じたのだろう。口の端にやや苦いものを浮かべつつも笑って、カノンが聞きたかったのだろう事を話す。
「関係は家同士の腐れ縁です。歳も同じですからね。元々、私の家がルヴィの家にお世話になっていた……言ってしまうと、私の家は家令、ルヴィの家が主人で」
今でこそ貴族など身分の意味は形骸化しているが、長年それこそ伝統と呼べるレベルで続いていた関係は中々なくならないらしい。
「使用人根性が染みついているようで嫌なんですが、ここまで来たらもう諦めて人生設計に組み込んで行動した方が効率的と考えました」
クーベルトの遠い目と苦笑がほろ苦い。
「そこで、二人で司書になるのも気色悪いなと」
「え」
「ルヴィではありませんが、腐れ縁の男と職までお揃いは流石に嫌だったんですよ。それに、修復師は引く手あまたですから、図書館だけでなく美術館や博物館でも働く選択肢は広がりますし」
食いっぱぐれない事は大事ですと語るクーベルトは、ハーブティーの柔らかな甘みに息をつく。
「何より、ルヴィよりも秀でていると証明したかったんでしょうね」
「でしょう、ね……?」
自分の事の筈なのに、クーベルトは推測するような言葉を使った。それを不思議に思い、カノンは首を傾げる。
「ずいぶん昔の事なので。カノンさんは思いませんか? 数年前の事なのに、遥か昔の事のよう、と」
「……そうですね。あるかも」
思い返せば、数年前でも記憶は朧気になっている。よく子供の時間は大人よりも早いと言うが、それはきっと目まぐるしいくらい様々な事が起こる日々を過ごすから。
子供の日々は良くも悪くも刺激に満ちている。知らないものは全て新鮮な刺激だ。
「ルヴィよりも秀でているもの。それが欲しかった。それがきっと本当のきっかけです。司書の資格と学芸員資格の両方を必要とする修復師になるという事は、当然司書になるよりも難易度が高い」
自分の考えに苦笑して、クーベルトは頬づえをつく。
「そんなどうしようもない理由でしたよ」
「…………意外、です」
本心からそう呟くカノンに、クーベルトは微笑む。
「でも、悪くない選択だったと思っています。後悔しても、それはそれで路を変えれば済みますし」
「路を変える、ですか?」
「後悔したら別の路に進めば良いんです。選びたい思いの分だけ、自分の路は拓かれる。私はそう思います」
(司書以外の、路)
考えた事も無かった選択肢。
どこか頼りなく不安気になるカノンに、クーベルトは頬づえをやめて言う。
「きっかけも目的も、何も大層なものである必要は無いのではないかと。やってみて駄目なら変えれば良い。案外そんなものですよ」
クーベルトがカノンを見る目は、優しい。それは兄が妹に向けるような、家族としての親愛の情に近いもの。が、不意にクーベルトの目が据わる。
「立ち聞きしてるどこかのバカと違って、カノンさんは真面目ですからね」
その言葉に驚き振り向くと、廊下側の入り口からルドヴィヒと呆れ顔のメーラが姿を現した。
「違っ、いや、結果的には違わないけど」
「見苦しい言い訳はいらない」
「いや、だって」
「黙れ」
「ちょっと、クー!」
なんとなくそのやり取りに笑ってしまったカノンはしかし、いつの間にかイスを引いて腰掛けたメーラが腕組みして自分を見ている事に気づいて笑みをひきつらせた。
(め、メーラ先生、怒ってる?)
若干じとーっとした目のような気がするのは気のせいだろうか。気のせいであって欲しい。
「メーラ先生?」
「なに」
気のせいか。声が尖っているような。
「あの……」
言い掛けて、はたと。
(何を言えば良いのかな…………)
選択肢その一。どこから聴いてました?
(…………聴かれちゃまずい事でもないし)
何かやましい事でもないのに空気が重くなりそうな予感。藪をつついて蛇を出さなくても良いだろう。
選択肢その二。何か怒ってます?
(ちょ、直球過ぎるかも)
ある意味一番確認したい事ではあるが、怒ってると言われたらどうすれば良いのか。逆だとしても何だか気まずくなりそうだ。
選択肢その三。何でもないですと撤回する。
(一番気まずいやつ……)
気まずさで言えば、言い掛けて止めるものに勝るものはない。
咄嗟に出たのは話題の変更という第四の選択肢。
「あ。メーラ先生達ってご兄弟だったんですね。セレーヤ先生からこの間、教えてもらってビックリ」
「関係無いでしょ」
「え」
冷たいくらい素っ気ない声音と視線がメーラから向けられた。
「そんなどうでも良い事、気にする暇があったら他にやることあると思うけど」
メーラの視線が、カノンの開く参考書に向く。
「別にカノンには重要な事じゃないし、そんなのを知ろうとするなら、歴史の勉強しなよ。そっちの方が今は大事でしょ」
「メーラさん、それ冷たくない?」
ルドヴィヒの言葉に、メーラが今度こそじっとりした目を向ける。
「俺は間違った事、言ってないつもりだけど? ルドヴィヒも図書館学の参考書に集中しなよ。今のままだと落ちるよ」
「ちょっと縁起でもないこと言わないでよ、メーラさん」
「ほんとの事だし」
メーラとルドヴィヒのやり取りを横目に、クーベルトはカノンへ気遣うような視線を向けた。
「カノンさん」
「……あ、はい」
何でしょう? と笑うカノンをクーベルトはじっと見つめた後、手を伸ばしてその頭を撫でた。
「クーさん?」
「試験、頑張りましょう」
本当に言いたかった事はともかく、そう言ったクーベルトの言葉に、カノンも笑顔で頷く。
「はい」
「あ。クー。どさくさに紛れて! このムッツリあだだだだ!」
カノンの頭を撫でたクーベルトの手が流れるような滑らかさでルドヴィヒの頬をつまんで引っ張る。
クーベルトはニコニコ笑顔だが、目が笑っていない。
「何やってんの……」
メーラが呆れ気味の視線をクーベルトとルドヴィヒに向ける。
それはいつものありふれた光景で、ふっと、カノンは胸にわだかまっていた何かが少しだけ薄れ、軽くなったような気がした。
「メーラ」
そこへ廊下から、やや焦った表情のパロマが顔を出す。
「どうしたの。パロマ」
「少しお話が」
パロマの言葉にメーラが椅子から立ち上がり、食堂の外へ出ていく。
「何かあったんでしょうか」
(パロマ先生があんな顔するの、珍しい……)
いつだって穏やかで優しい微笑みを絶やさない人なのに。そうカノンは思って首を傾げる。
「…………」
「……あー、気にしなくても良いんじゃないかな」
クーベルトとルドヴィヒが一瞬互いに視線を交わし、ルドヴィヒがそう言った。
「パロマさんだってちょっと焦る事くらいあるっしょ」
「そう、ですね……」
カノンはどこか胸騒ぎを覚えつつ、とりあえずは頷いた。その夜、事態は思わぬ方向へ転がり始める事になる。
陽も落ち食堂の外には夜の闇。明るい食堂ではいつもなら笑い声が絶えないはず、なのだけれど。
今そこに漂い支配する空気は、それとは真逆。
「関係、無い…………そう、ですか」
きっかけはメーラの言葉。
『関係無いよ。カノンの好きにすれば良いじゃない』
試験勉強の進捗を話して、カノンは自分の迷いを取り去ろうと、メーラ達に進路についての悩みを打ち明けた。
そこで誰よりも早く返ってきたのが、メーラのその言葉だった。
「カノン?」
席から立ち上がり俯くカノンと怪訝そうにそれを座ったまま見るメーラ。凍りつくそれ以外の面々。
「ごちそう、さまでした」
自分の食べた食器を手早くまとめ、カノンは誰とも顔を合わせることなく足早に厨房へ。
「あの、カノンさん」
パロマが金縛りから脱け出して厨房へ声を掛けると同時に、カノンが厨房から食堂に戻ってくる。
「パロマ先生」
声を掛け、そして掛け返されたパロマは思わず固まった。
「食器、洗っておきました」
カノンの眼が据わっている。
「は、はい」
「部屋に戻ります」
頷くしかない。
「ちょっと。カノン?」
再びカノンとメーラ以外に緊張が走る。その時、二人以外の全員が嫌な予感を感じていた。
「何ですか。メーラ先生」
そして嫌な予感というのは当たるものである。
「関係無い事に意識散らしてると危ないんだからね。関係無い事に首突っ込まないようにしなよ」
メーラが「関係無い」と言う度に、カノンは俯き周囲の緊張は高まっていく。パロマとアイコンタクトを取ったセレーヤが、メーラの足をテーブルの下で踏みつけようとしたが、時はすでに遅かった。
「気を散らすから自分の進みたい路にも迷うんでしょ。別に司書だって、興味薄れたんならならなくて良いんだし。余計な事に首突っ込もうとする前に自分の進みたい路を見つけなよね」
しん……。と。
食堂が静まり返る。
「メーラ先生の……」
「なに?」
自分が口にした言葉が相手にどんな風に取られるかなんて微塵も考えていないようで、メーラはコテンと首を傾げた。
誰かこの考えなしの馬鹿止めて! と叫べたら。当事者以外、特にセレーヤとルドヴィヒが切実にそう願い、セレーヤは今度こそ実力行使に出ようとした。が。
そんな願いもむなしく、ふるふると肩と声を揺らしたカノンは顔を上げるとメーラをキッ! と睨んだ。
「メーラ先生のバカ!」
そのままカノンは身を翻し、食堂を飛び出す。
セレーヤが立ち上がって、後を追おうとするその背にメーラがわけがわからないという顔で言う。
「放っておきなよ。カノン意味わかんない」
途端にセレーヤがカッとなって顔を赤く染め、メーラを振り返った。
「何であんなこと言うのっ!」
穏やかな海が荒れ狂うように瞳に怒りを浮かべ、セレーヤはメーラに言う。
「カノンを傷つけるのは、メーでも、許さないから」
「セレ」
パロマの言葉が届く前に、メーラに背を向けてセレーヤは食堂を出る。
「メーラ、あの言い方はさすがに……」
「…………」
ルドヴィヒとクーベルトも顔を見合わせ、セレーヤの後を追う。
溜め息一つついて、パロマも食堂を後にした。
皆がバタバタと食堂を出ていくその後ろ姿を見送って、メーラだけが残される。
「……何でそんな事を言うのか?」
誰もいなくなった食堂で、メーラはポツリと呟く。
誰もいないからこそ、口にする。
「カノンが大切だからに決まってるでしょ」
ギシッと。腕組みをして身体を預けた椅子の背もたれが軋む音を響かせる。
カノンが何を言われたのか知らないけれど、ルドルフの来訪から今日まで悩んでいたのは知っていた。それが多分、カノンのこれからに関わっているだろう事も大体予想できていたし、いつまでも抱え込むような性格でない事くらいはわかっていたから、予想できたから、あの言葉になった。
「カノンの行き先は、カノンが決めるものだよ」
葡萄酒色の瞳が同じ色の長い睫毛が落とす影に憂いを帯びる。
「主人……そうでしょ?」
答えるものがいない呟きは、沈黙の中に溶けて消えた。
(どうしよう……。思わずあんなこと言って……)
食堂から部屋まで駆け込み、部屋のドアを閉めて寝台に伏したカノンは、猛烈な後悔と羞恥心に包まれる。
(捨て台詞と共に走り去るなんて、そんな子供みたいなこと……。しかもメーラ先生に向かって)
たとえショックを受けたとしても、そんな子供じみた事をするなんてどうかしていた。でも、やってしまったのは事実で消すことも、時を戻って無かったことにもできない。こうして黒歴史とは刻まれていくものである。
枕をぎゅっと抱き締めて、カノンは寝台の上で身体を丸めた。
(どうしてあんなにショックだったのかな)
言われた事は、カノンの進路は自分達に関係ない。自分で決めろ。
その通りだし、何故こんな黒歴史を作るような事をしたのか。当のカノンですらはっきりとわかっていなかった。
ただただ悲しくて、胸の奥が引き絞られるような痛みがあって、苦いものが喉にせり上がって、あの言葉。
(先生達とルヴィさんクーさんに呆れられたかも)
バカは自分じゃなかろうか。
枕に恥ずかしさで顔を埋め、カノンはゴロゴロと寝台の上でのたうち回った。何度目かのそれで、視界にまとめられた荷物が入る。
今日は夕食を一緒に取ったら、一旦家に戻る予定だったのだが、
(うう……。明日どんな顔で……)
これは時間が経てば経つほど恥ずかしいパターンだ。明日はまたここに帰って来てメーラ達と顔を合わせるというのに。
(まだ今の方が!)
意を決して枕から顔を上げたのと、部屋のドアがノックされたのはほぼ同時。
思わずカノンは枕を抱きしめてビクッとその場で飛び上がった。
「カノンちゃん」
「ルヴィさん……?」
カノンはハッとして枕を置いて部屋のドアに駆け寄る。
「あのさ、カノンちゃん」
まずはルドヴィヒに謝って恥ずかしさに慣れようと、カノンは部屋のドアをややためらいがちに開く。
そこから見えたルドヴィヒは、にっこり笑ってこう言った。
「カノンちゃん。お兄さんと夜遊びしよ?」
「とは言え、変なとこに連れてったら方々から殺されるので、ゲーセンです! さ。どれやる?」
「えっと、ルヴィさん……その…………」
図書館からのバスもとっくに終わっていた為、数十分歩いてたどり着いたのは街の繁華街。そして連れてこられたのは様々な筐体と呼ばれるゲーム機が並ぶ、ゲームセンター。
「まだ二十時だよ? 夜はこれから!」
「でも」
「それに、カノンちゃん。今日はどうせ家に帰る予定だったじゃない。遊んだあとはちゃんと家まで送るからね」
「そんな、ルヴィさんにご迷惑は」
申し訳なさそうなカノンと一切気にしない感を纏うルドヴィヒでは、明らかに勢いとテンションに差があった。
特にルドヴィヒはドアを開けてからここまで、半分くらい人さらいのような素早さと手際の良さである。
無用心にドアを開けてはいけない。
「いいから、いいから。さて、じゃお兄さんがお菓子を取ってあげよう! カノンちゃんどれが好き?」
戸惑いなにそれ美味しいの? とでも言いそうな笑顔でルドヴィヒがお菓子をたっぷり蓄えた筐体まで、カノンの手を引く。円卓の筐体で、ドーナツのようにぐるっと一周した溝にお菓子が流れている。半円ドームから見えるそれは多種多様。
プレイヤーはそんなお菓子をアーム操作で掬い上げ、受け取り口の上でせり出したり引っ込んだりを繰り返す板の上に落とす。上手くいけば板に押し出されて受け取り口にお菓子が落ちてくる寸法だ。
「え? あ、えっと、う。……じゃあ、あのカラフルなマーブルチョコで」
咄嗟に目についた筒状のチョコレート菓子をカノンが指差すと、ルドヴィヒは軽く腕まくりをして硬貨を一枚投入。
「ふっふー。任せて」
ゆっくりゆっくり溝を流れるお菓子。ルドヴィヒは真剣な眼差しでその流れを見つめ、神経を研ぎ澄ます。
ゲームセンターの流れるBGMと遊ぶ人々の声の中、機械のアームがマーブルチョコの筒と他のお菓子を掬い上げる。
「…………」
ゆっくりとせり出したり引っ込んだりを繰り返す板の上にアームが移動して、再び緊張が走った。
「……!」
ルドヴィヒの指がアームに掬ったものを落とすよう指示を出すボタンを、押す。
軽い音と共にマーブルチョコの筒は一転、二転、と転がり、最後にせり出してきた板に押される形で、取り出し口へと落ちてきた。
「やったー!」
「すごいです! ルヴィさん!」
ガッツポーズを決めるルドヴィヒに、カノンも思わず手を叩いて声をあげる。
「オレにかかればこんなもんだよ。はい。どうぞ」
差し出されたマーブルチョコの筒を受け取り、カノンは嬉しそうな笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
カノンの笑顔を見て、ルドヴィヒも笑う。
「よしよし。次は、と」
ぐるりと辺りを見回して、ルドヴィヒは次なる獲物に狙いを定めた。
「あ。あれにしようか」
どれ? と視線を追う前にカノンはルドヴィヒに手を引かれ、銀色のメダルが輝く筐体の前に連れて来られる。
「メダルゲーム。メダル落とすとチケットがここから出て、集めると景品と交換できるんだよ」
「へえ。何だかワクワクしますね!」
「でしょ? ま、景品自体は大したものないんだけど、でも何故か集めちゃうんだよね」
交換は最低でも何百枚から。景品自体もそんな大したものはない。けれど何かを集めて交換するというのが楽しい。
「ああ、でもこれも捨てがたい」
少し離れた場所にあるのは、いくつもの同じ筐体。
「これは……?」
床に幾つかパネルが敷かれていて、どうやらそれとセットで筐体が稼働するようだ。
「音に合わせて足元のパネルが光るから、それをタイミング良く踏むゲームだよ」
ほらあれ。ルドヴィヒが指差す方を見ると、楽しそうに遊ぶ人々の姿があった。
「わあ。ちょっと難しそうだけど楽しそうです!」
「あと、あっちの東方大陸から入ってきたやつは、あっちの打楽器そっくりに作られてて、リズムに合わせて叩くんだ」
樽のようなものに革を張った楽器で、確か太鼓と言った。それそっくりに作られている。
「異国の楽器!」
「後でやってみようね。でも、まずはこれかなー」
ルドヴィヒが自信ありといった風にカノンを連れて立ったのは、他よりも周りに人の少ない区画に置かれた筐体の前。
「じゃーん! 日頃のストレスを思いっきりぶつけて発散パンチングマシーン!」
「………え」
「え?」
カノンが思わず声をこぼして固まり、その様子に滑ったことを今更ながらに感じたルドヴィヒが同じ言葉を溢す。
(日頃のストレス……)
自信を持ってすすめられる程、自分はストレスを感じているとルドヴィヒ達に思われていたのだろうか。ちょっとショックと大分恥ずかしい。
そしてルドヴィヒも、時すら凍ったようなこの空気にどうすれば良いのかと思うの半分、そしてやはりカノン同様恥ずかしさ半分で固まった。
「えっと……ごめん」
「いえ……」
「違うのにしよっか。やっぱりさっきの」
「いえ。これで」
間違いではない。
メーラ達のクビを賭けた試験が決定されてからずっと、思っていた事は確かにある。
カノンは静かに筐体に置かれていたグローブを両手にはめた。
それはついさっき口にした言葉で、恥ずかしさに悶絶したもの。
「メーラ先生の……」
呼吸を整え、カノンは筐体の的に向かって思いっきり拳を突き出した。
「バカーーーーっ!」
その一撃を受けて、筐体が揺れる。
筐体の上部に取り付けられている画面には、今の点数が表示されているが、カノンも、それを見守って密かに顔をひきつらせているルドヴィヒも見てはいない。
一度目の測定値が軽快な音と共にリセットされ、次撃を受け入れる準備が出来たことを報せた。
(関係ない、なんて。そんなの)
ぎゅっと唇を引き結ぶ。そして無言で繰り出された拳は、明らかに威力が増している事に、本人は気づかなくても端から見ているルドヴィヒと、その一撃を受ける測定器にはしっかりバッチリ知れている。
(そんな風に言わなくたって!)
にじみ出る感情のオーラ。ルドヴィヒが固唾を飲んだ。瞬間、カノンの拳は音速を超えた……ような錯覚を覚えるほど鋭く繰り出された。
「…………」
測定器がリズミカルな明るい音と共に得点を告げるも、うつむくカノンに聞こえているとは思えない。
「か、カノン、ちゃん?」
ルドヴィヒの声はそこはかとなく恐る恐るという雰囲気が混ざる。
(あぁ、もう…………)
ずるりと打ち付けたままだった拳が腕ごとだらりと落ちた。
(最悪だよ……)
「ルヴィさん」
ゆらりとまるで幽鬼のような佇まいでカノンが声を発する。
「は、はい」
ルドヴィヒとしては内心わりとその迫力に恐れをなしていたりするのだが、見かけだけは男の意地として平常を保っているつもりだ。本当に平常と呼べるか怪しくとも、心づもりだけは。
「帰りましょう」
「はい……」
まるで生きる屍と化したかのように生気の薄いカノンの様子に圧倒されつつ、やはり見かけの平常も無理だったルドヴィヒはコクコクと小刻みに首を縦に振って頷いた。
「お待たせしました。パロマさん」
カノンを宣言通り、家まで送り届けたルドヴィヒは図書館に向かう路に並ぶ街灯の下で待つパロマに、近寄って声を掛けた。
図書館を出てからずっとパロマは距離を取りつつ見守っていたわけで。
「いえ。カノンさん、大丈夫でしたか?」
歩き出しながら、パロマがルドヴィヒにカノンの様子を聞く。
「あー……。まぁ、大丈夫と言えば大丈夫でしょうけど」
歩みは止めず、ルドヴィヒは呆れと責める気持ちが半々くらいの目をして言う。
「今日のメーラさん、ちょっときつ過ぎだと思うんですけど」
マジ空気が凍った。そう付け加え、ため息をつく。
「そうですね……」
いつも穏やかな笑みの絶えないパロマも、今回はその笑みが陰る。
「パロマさん。俺が言うことじゃないと思いますけど、カノンちゃん、今回は本当に傷ついてると思いますよ?」
「……そう、ですね」
ルドヴィヒは申し訳なさそうに顔を曇らせるパロマに眉をひそめた。
それこそパロマ達はルドヴィヒ達よりもカノンとの付き合いは長い。こんな事、本当に言われるまでも無い筈だ。
「何でですか?」
「何故、とは?」
「カノンちゃんには全部教えても、問題無いと思いますけど」
ルドヴィヒにとって、それはずっと抱えていた疑問。
自分は半ば強制的に知っている事柄で、分館に送られた理由でもある。自分が知っている事(知らされている事)を、カノンが知らない、知らされていない事が、酷く不自然に思えて仕方がない。
「…………」
「何をそんなに気にしているのか、俺にはわからないな、って」
目的地へと向かえばやがて人通りはまばらになって、終バスも無くなった街外れのバス停に着く頃には、ルドヴィヒとパロマ以外人影は無くなる。
長い沈黙は帰り着くまで。
結局、その日は帰った後もメーラとセレーヤの喧嘩をクーベルトとパロマと止める事になり、ルドヴィヒの問いに答えが返ることはなかった。
(ほんと、どうしよう……)
放課後、金色の陽射しに染まる学校の図書館、その貸し出し返却カウンターに突っ伏して、カノンはどんよりと沈みきっていた。
(メーラ先生達だけじゃなく、ルヴィさんにも迷惑掛けちゃった……)
茶色い木製のカウンターはひんやりとして気持ち良い。周囲を取り囲む本棚からは、本特有の匂いがする。紙とインクの匂い。それが時を経て、まるで人間のように個性を帯びる。
人によるだろうが、カノンにとって一番落ち着く匂い。
「カーノン」
そんな声と共に突っ伏したカノンの頬に、冷たい飲み物が入り汗をかいた透明な合成樹脂のボトルがくっつけられる。
「冷たっ……。メグちゃん」
「何してんのー? もう閉室の時間でしょ。今日は図書館行かなくて良いの? なら遊び行こうよ!」
「ごめん。今日も図書館行くの」
「むー。ま、仕方ないっか。じゃ、早く閉めないと。駅まで一緒に帰ろ」
友人に急かされ、カノンは覚悟を決めたように閉室作業をして学校の図書室を締める。
「お待たせ。これであとは職員室に鍵返して終わりだから」
「はいはーい。じゃ、いこ」
ふと。ふわふわの金髪を楽しげに揺らし、メグはカノンの顔を覗き込む。
「ね。カノン。今日は図書館サボっちゃえば?」
「え」
思いがけないメグの言葉に、カノンは目を丸くした。
「一日くらい勉強しなくても良いじゃない。お買い物したりー、美味しいもの食べたりー、あ、映画観るとかも良いかな」
「メグちゃん? うにゅ」
カノンの両頬をメグの両手が軽く挟む。
「楽しいこと、いっぱいあるんだから」
天使のような笑顔と両手の指に施された可愛いネイルがカノンの視界で笑う。
「え。いや、それはダメだよ!」
「なんでー?」
「だって、私もうすぐ試験だし」
「うん。でも明日とかこの後すぐとかでも無いよね?」
「そ、それは……そう、だけど」
(いやいや、違う! ダメでしょ頷いちゃ!)
危うく天使のような友人の言葉に傾きかける寸前、カノンは己を立て直す。
「め、メーラ先生達の進退が懸かってる試験だし! 念には念を入れる必要があるから!」
そう。人のクビが懸かっている。
「えー。別にクビになるのカノンじゃないし、良くない?」
「メグちゃんっ?」
友人のまさかの言葉にぎょっとして、カノンが思わず声を上げた。
相変わらず可愛らしい顔の友人は、うふふと笑いながら言う。
「あたし、怒ってるんだよねー。何て言うか、人の気持ち考えないって言うか、横暴っていうか」
怒っている、と言うのに表情は天使の笑顔である。
「カノンがこうやって思い詰めるの知っててやるとか」
そう言えば、試験を受けることになったいきさつをメグとエリーに話した時、微妙な顔をしながらも仕方なさそうに溜め息をついて一言「バカね」と言ったエリーとは反対に、メグは一切の感想を漏らさなかった。
ただし、薄く微笑むその顔、その目が爪先程も笑っていなかった事に、頭を抱えていたカノンは気づかなかったわけで。
「メーラさんのそーゆうトコ、ほんと、大っ・嫌・い・なんだよねー」
天使の笑顔で語尾にハートが付きそうな声音で、しかしバッサリ一刀両断するようにメグはそう言う。
天使の後ろに、別の(正反対の)何かの影絵が見えるのは気のせいだろうか。
「大体、人に自分の進退を押し付けるくせに、カノンが進路で悩んだら突き放すってどーゆう了見なのかなぁ。ほんと、おこだよー。ふふ」
ふふ、とか言ってるが目が笑っていないのが普通に怒り狂うより恐ろしい。
だがそれよりも。
「なっ……何でそれっ」
「うん? ……ああ、クーちゃんから聞いたの」
ほら、と見せられるのは携帯端末に入っているメッセンジャー機能のトップ画面。そこにクーベルトの名前も確かにあった。
「あとね、エレナさんにも聞いたよ」
恐るべし情報社会。
「と、ゆーことで。今度の花日はエレナさんのお手伝いと、遊びにカノンの予定は決定です!」
友人の笑顔に有無を言わせぬものを感じて、カノンは酸欠の魚のように口をパクパクと開閉するも、否を唱える事は出来なかった。
「あ。そうそう。最初一週間て言ってたのに、一ヶ月に延ばしてカノン占領してるのも嫌い。これはエレナさんも言ってたよ?」
メッセンジャーでは個別のやり取りだけでなく、数人のグループを作ることも出来る。メグとクーベルトとエレナのグループメッセージの該当部分を、メグは見せてくれた。
確かにそこには荒ぶる姉の魂の叫びが綴られている。
「お姉ちゃん……」
「だ・か・ら」
きゅっとメグはカノンの袖を掴む。
「無理しないで」
そっとメグは白く細い指を袖から離す。
「カノン、頑固だからやるって言ったらやるの知ってるけどー」
ぷくっと両頬を膨らませ、メグはまったく怖くない睨みをカノンに向けた。
「カノンにも、ちょっと怒ってるんだからね?」
「うん……。ごめんね」
「ちーがーうぅー」
「あはは。ごめん。……ありがとう」
その言葉に、メグはじとーっとした目を向けてから、一転して笑顔になる。
「ん。よろしい。約束ね」
それから二人で学院の玄関まで降りた所で、メグが部活の後輩に両脇からがっしりホールドされて引きずられて行った。どうやら部活をサボろうとしていたらしい。
情けなくも引きずられて行くその姿を見送って、カノンは携帯端末の画面を見た。
少し押したが、まだ間に合う。
(メグちゃんに感謝しなきゃ)
まず、メーラ先生に昨日の態度を謝ろう。それからルヴィさん達にも心配掛けたから、そっちも謝るのとお礼を……。と考えつつ、カノンは足早に校門まで歩みを進める。
そして一歩踏み出した所で。
「ちょっと。邪魔」
「あ。ごめんなさい……」
運悪く仲の悪いクラスメイトのグループと遭遇した。
駅とは反対方向に遊びに行っていたのか、引き返した所に鉢合わせてしまったようだ。
慌てて路の端にカノンが避けると、クスクスと笑い声が上がった。
「ほんとトロいよねー」
「だよね。最初から端を歩けって思うー」
さっさと行って欲しいのだが、こういう時に限って『遊ぶ』気になるらしい。黙って嵐が過ぎ去るのを待つカノンを見ながら、彼女達はさもカノンに非があるような声音で言う。
「ねえ、無視してるよ?」
「うわ、生意気」
校門と言えど校舎からは離れているし、下校のピークは過ぎている。教師はまだ帰る時間ではなく、他に通り掛かる人の気配もない。
(どうしよう。このままだと遅れちゃう)
さっきまでは急げば間に合うだったものが、そろそろ間に合わないの領域に突入しそうだ。カノンが駅の時刻表を思い浮かべ、一か八かダッシュによる離脱を検討し始めた時、クラスメイトの一人が言った。
「何、こいつ」
つられて、カノンを含めて皆の目がそちらに向く。
「トーヤさん……?」
駅の方向にまるで黒い影法師のように、図書館本館の通用口係、トーヤがいつもの作業着のエプロン姿でそこに立っていた。
だが。
「ねえ、何か変だよ」
だらんと下がった両腕と俯く顔。明らかに何か様子がおかしい。
誰ともなく、足が下がる。だが、一人。
「ちょっと、あんた何」
怯むことはプライドにかかわるのか、グループの主人であるモデル体型、金髪碧眼の少女、アレジアが一歩前に出る。
不審者を見る目は人というよりゴミを見ていると言った雰囲気だ。
「気持ち悪いわね。さっさと行ってくれる? じゃないと」
これ見よがしにアレジアは自身の携帯端末を片手にひらめかせる。
「通報しちゃうわよ」
武器を手にしているという自信からか、その顔には嘲笑うような笑顔が浮かんでいた。
「ちょっと」
一歩、トーヤがカノンとアレジアの方へ踏み出す。そのまま、近づいてくる。
「本当に通報するわよ!」
踏み出す度に、頭がカクッと揺れた。相変わらず顔は俯き見えない。
「トーヤさん?」
知り合いなのに、得たいの知れない何かを感じて、カノンは無意識に粟立つ肌に声をこぼした。
「来ないでよ!」
通報よりも思わず直接叩く行動に出たアレジアは、次の瞬間トーヤの凪ぎ払うような腕に弾き飛ばされ、その場に尻餅をつく。
「いやー!」
それを見て、他のクラスメイトが悲鳴を上げて逃げ出す。アレジアをその場に置き去りにしたまま。
「待ってよ! ねえ!」
立ち上がれずにいるアレジアの前で、トーヤが止まる。
「あ……」
アレジアがトーヤを見上げ、涙を浮かべながらも睨み付けた。
「ど、どいてよ! この変質者! あっち行って!」
それは恐怖からくる威嚇。小さな犬が自分より大きく怖い相手に対してするような、虚勢。
けれどいくら威嚇しても虚勢を張っても、恐怖は消えない。
(止めなきゃ!)
普通の状態ではない。思わず顔見知りの自分でも身体が固まってしまうほど、何かがおかしい。けれど、放っておく、置き去りにして逃げるなんて事は、カノンには出来なかった。
「トーヤさん」
ともすれば震えそうになる声と身体を抑えて、カノンはゆっくりアレジアを見下ろすトーヤに近づいた。
その肩に触れようと手を、伸ばした。
アレジアから悲鳴が上がる。
カノンは触れる寸前、トーヤに校門の塀方向へ突き飛ばされた。背中を打ち付け、衝撃で一瞬息が詰まる。
「っ!」
咳き込む暇もなく、カノンの喉を何かが、――――トーヤが、掴んでいた。
(どう、して)
「トー……ヤ、さ」
掴む手は一層強く、喉を、首を、絞め殺そうとするかのように。
苦しくて、涙が浮かぶ視界に恐怖で泣き出しそうなアレジアが映った。
「い、って! はや」
ギリッ……と。喉を掴む手がさらに力を込める。
ジタバタと足掻いても、逃げられない。
へたり込んでいたアレジアが転びそうになりながら逃げ出したのを見て、一瞬だけ安堵と悲しみが胸を過ぎる。
「うっわー。これだから偽善者ってキライー」
そこに、突如として声が響く。
「ま、いっか。邪魔者はいなくなったね。それじゃ改めて」
薄灰色のショートボブに丸くて黒い瞳、歳は十三才かそこらだろう、少年とも少女ともとれそうな容貌をした人物が、塀に首ごと押さえつけられているカノンを見て、おどけたように礼をした。
「こんにちは。お嬢さん。ボクはスーリ。君の新しい世界への案内役だよ」
無邪気な少年とも少女ともつかない声が、そう自己紹介する。
「もうそろそろ聴こえなくなるかな? それとも既に聴こえてない? どっちでも良いけど!」
キャハハと楽しげに笑う声も視界のように、滲み始めた。
「ああ、トーヤ、見える?」
愛しい恋人に向けるような目を、スーリはトーヤに向け、それから嘲笑う色へ切り替えた視線をカノンに向けた。
「ほらほら、もうすぐだよトーヤ。もうすぐ、君を煩わせる者が消えるよ」
うっとりとした声で、スーリがトーヤに語りかけ、トーヤの顔を撫でる。
「いつも比べられて、傷つけられたね。でも、大丈夫。もうすぐだから。もうすぐ……」
(も、う、息が)
目の前がじわじわと虫食いのように黒くなっていく。
(…………やだ)
嫌だ。
(やだ、よ)
放してと言いたくても、喉を押し潰そうとするような力で押さえつけられ、言葉どころか声にもならない。
押さえつける手を剥がそうとしても、びくともしない。
爪を立てても、その爪が何度も皮膚を引っ掻き、赤く血が滲んでも。
力は、緩まない。
(メーラせん、せぇ)
謝れなかった。でもそれよりも、
(ま、だ……かえ……し)
「カノン!」
聞き慣れた声と共に突然カノンは解放された。
塀にもたれ咳き込むカノンを抱き留め、セレーヤはカノンの名を呼ぶ。
「セレー、ヤ、せんせ」
解放された気道に空気を取り込み、ゲホゴホと息を乱しつつ、カノンはセレーヤの姿を見てホッとしたように表情を緩めた。
カノンを抱えたセレーヤごと背に守るように、メーラがスーリの前に立つ。
「わぁ。こわーい」
それを見てスーリはクスクス笑った。
「セレーヤ。カノンを」
「うん」
メーラの言葉にセレーヤがカノンを抱き上げ、足早にその場を離れる。
「あはは。何、やる気? キミ一人でボクと?」
挑発するように嘲る声音でスーリが言う。
「はー、やだやだ。これだから人間の真似事なんかしてるヤツは見通し甘くてまいっちゃう」
そんなスーリの足元に、櫛刃のダガーが一本投擲されて突き刺さる。
「っ、と。ちょっと! 人がまだ話してるのに!」
最初の一投から続けざまに、メーラは無言でダガーを放つ。
「何とか言いなよこの!」
ふと、スーリはメーラの顔を見て、その顔に何の表情も浮かんでいない事に何故か背筋が粟立った。
「げ。こいつ……」
キレてる。
そうとしか言いようがない。
次々と櫛刃のダガーが正確無比に人間としての急所へ繰り出される。その一つ一つにまごうことなき殺気が乗せられているのが、紙一重で避ける身体に怖気が立つ事で感じ取れた。
「!」
不意に。昏く底光りしていた葡萄酒色の瞳がどこかを見た。余所見と取るには何故か嫌な予感がして、スーリは思わずその視線の先を横目で追い、眼を見開く。
「やめろ!」
葡萄酒色の狂気が見ていたのは、傀儡が解けて路上に意識の無いまま放置されているトーヤ。ゆっくりと、鈍色に光るダガーを持った片手を上げ、感情のまったく籠らない顔のまま、メーラはトーヤに向かって缶ジュースでも放る気軽さでダガーを投げた。
「なに、考えてっ」
初めてスーリの顔に恐怖が浮かぶ。
自分よりも身体の大きなトーヤを抱え、間一髪でダガーから逃がした代わりに、その片足首にメーラのダガーが深々と突き刺さっている。けれど、スーリの浮かべた恐怖はそのダガーが与える痛みではなく、メーラ自体に対して。
「――――が、司書をっ」
殺そうとした。
今、スーリがトーヤを助けようとしなければ、ダガーは倒れ伏し意識の無いトーヤの首筋に突き刺さっていた筈だ。
「司書?」
クスッと嗤う音がする。
「違う。それは、うちの司書候補に仇なす」
白い雪のような肌。赤い、血よりも赤い蠱惑の瞳と長い髪。その瞳の奥に横たわる、黒檀よりも黒い何か。
「ただの虫」
自分の大切なものを護るためなら、躊躇いなど無い。
鏡に美貌の在処を聞く魔女のように。大切なものが害されるなら、それを亡きものにする事も厭わない。
本気でそう思っている。それを感じ取り、スーリは無意識にトーヤを抱き締める腕に力を入れた。
「それは実際、司書じゃないし」
「違う。約束を反故にされただけ」
トーヤを庇うようにスーリは叫ぶ。
「本当なら、司書になってる筈なんだ!」
「なってない」
冷たい声音でメーラは言葉を紡ぐ。
「なってる筈とか、約束とか、反故とか、どうでも良い。関係無い」
赤く冷たい笑みを浮かべて、ただ言う。
「今、司書ではない。それだけ」
その笑みは攻撃的なまでに、
「カノンを、傷つけようと、した」
残酷さを纏うほどに、
「それだけで、充分だよ」
綺麗だった。美しいと言える笑顔だった。
けれど。
「狂ってる!」
怖い。
まるで、焼けた鉄の靴で踊る魔女を見守る姫のように微笑むその存在自体が、スーリには何よりもおぞましい闇そのものに思えて、カタカタと身体が無意識に震えるのを止められなかった。
「だったら、何?」
ここに居たら殺される。自分もトーヤも。スーリは抱いたその思いに急かされるように、足首に刺さったダガーを引き抜き放り捨て、メーラと距離を取る。
メーラはそれを微笑んだまま見つめていた。
「覚えてなよ」
「大丈夫。忘れないから」
メーラは言外に『忘れてと言っても忘れない』と返す。
スーリはトーヤを抱えて路地へ飛び込み姿を消した。
辺りに誰も居なくなり、メーラもセレーヤがカノンを連れて行った方へと駆け出す。
「カノン」
呼ばれた自身の名前にカノンは振り向く。
そこにはいつも通り司書の制服に身を包んだメーラの姿があった。
「メーラ先生……」
(私、メーラ先生と喧嘩して)
「何、どうしたの? 具合でも悪い?」
「あ、大丈夫です! いつも通り元気ですよ」
(え……)
口が勝手に動く。自分が笑ってそう返したのを感じて、カノンは戸惑い、気づく。
(これ、夢……?)
ふと窓を見ると、映った自分の姿は分館の手伝いを始めて間もない頃のものだった。
「わ」
ぼんやりとそんな事を考えていたら、メーラが笑顔で頭を撫でてくる。
「なら良いよ。でも、ちょっとでも具合悪くなったら言いなよ? 業務命令だからね」
「ふふ。はい! メーラ先生」
穏やかな日差し。穏やかな時間。
(この頃は、図書館のお手伝いが出来るようになって嬉しくて)
「メーラ先生、これは何ですか?」
「それは本を保護するシート。新規の書籍が入ったらそれで保護するの」
台紙にくっついた透明なシート。分館には新刊があまり入らない。だからどちらかと言うとそれは本の補修に使うことの方が多かった。
「メーラ先生」
「なに?」
「大司書にどうやったらなれますか?」
メーラが書架を整理していた手を止め、カノンを見る。
「メーラ先生?」
「……カノンは、大司書にどうしてなりたいの?」
(私……)
どうしてと繰り返したその答え。今も見つけられないそれを問われて、カノンは、
「本を護れる人になるのが、私の夢だからです」
(…………!)
屈託なく笑った。
「本を、護る……?」
「私、本が、物語が大好きです。楽しいのも、怖いのも、不思議なのも」
遠い日の自分は、笑っている。
「どんな場所にも行ける。どんな人にも会える」
物語の世界は広大で、どこまでも無限の続く。終わりの無い世界。物語は異世界への扉。読めば、聴けば、どんな所へだって行ける。
「だから、本を守れる司書に。沢山の物語を護れる大司書になりたいです」
幼い理由。子供の夢。
(ずっと、それだけじゃ)
「メーラ先生、それだけじゃダメですか?」
過去の自分の言葉に、カノンは驚いて見られるはずの無い自分の姿を見た。
過去の自分とメーラが向かい会うその光景を。
「……ううん。良いよ」
(…………)
「それがカノンの支えになるなら。どんな理由だってかまわない」
(そう、だ。メーラ先生は)
「どんな理由で大司書を目指しても、カノンの自由。俺はずっとカノンの味方でいるから」
でも、と。
「カノン。忘れないで。もしその夢が変わっても。……司書になりたくなくなっても、俺は責めない」
優しく頭を撫でてくれるメーラの手。
「カノンの人生はカノンのものだから。司書になりたいって思い続けるなら、それを叶える。違う道に進みたくなっても」
「メーラ先生、私は司書になりたいですよ?」
「うん。それでも、だよ。それでも……」
路は残しておくから。そう言った。
「あいつ、狂ってる」
夜闇が一際濃くうずくまる路地の一角。
スーリはぼんやりと立ちすくむトーヤの手を握ってそう呟いた。
「ごめんね。もうちょっとだったのに」
もう少しで、この人の憂いをまた一つ消してあげられたのに。
ずっとさ迷っていた自分を迎え入れてくれて人。この人だけが自分の司書。
「キミの憂いは、ボクの憂い」
ぼんやりとして瞳には、スーリを認識している様子はないのだけれど。
「……なに。ボク、今はキミとも会いたくないんだけど」
不意にスーリは声を尖らせて振り返る。
音もなく、けれど『それ』は背後の少し離れた場所に居た。
闇そのもののような漆黒に、ひっそりと。
利害の一致から、スーリは『それ』を利用し、そして少し協力をした。
信用できるかと言われたら一切ないが、それでも都合が良い事に変わりはなかったから。
「ねえ、何なの?」
いつも『それ』は唐突に現れては、スーリの行動を見ている。そして遊び終わったスーリの獲物を後始末していた。
「今日は無いし、この間失敗したでしょ。勘弁してよね」
残飯を漁りに来た犬を追い払うような声と仕草でそう言うと、スーリはトーヤの手を引いて歩き出す。
その背後で、何かが動く音がした。
「ちょっと!」
スーリ自体、何故その時に限って気に障ったのかわからない。けれど、うなじがゾワゾワとなってたまらず振り返った。
振り返った、先に。
「――――」
闇が――――。
揺れる心、迷う心
刻一刻と迫る時
少女は闇の中を手探りで足掻く
次回、千年書館 悠久恋書
第四話『迷いと少女と黄昏と』
選択式問題には引っかけも存在する