千年書館 ―悠久恋書―2
2.司書と噂と勉強と
私がいる意味は、何だろう?
「うわ。図書館だけでなく学校の図書室まで『お仕事』の場所にするなんて、スッゴいねー」
問題。目の前で取り巻きを連れたクラスメイトから、不自然なくらい明るい声と笑顔で言われたこの台詞は好意と敵意、どちらでしょう?
(後者しかない……)
高等院。中等院を卒業した次の学業過程。
初等院は、街を住んでいるエリア毎にわけた学区という区分に各々一つずつ。中等院は大体初等院の数の半分を適度な位置に配置し、高等院は大体一つの街に多くても三つくらいを限度として存在している。
カノンが通っているのは、街の外縁を走る環状線の最寄り駅から徒歩十五分の所にある男女共学の『サクリーナ高等院』だ。
分館と家の最寄り駅から二駅。ルドヴィヒ達の通う大学府とも近い。
白いシャツと金ボタンのついた白いブレザーに紺色のネクタイ、そしてネクタイと同色のプリーツスカートの脇には金色の線が一つ入り、裾に校章が金糸で刺繍されている。男子の制服も上は同じで、下が灰色地に白と薄い青のチェック柄ズボンだ。
運動靴も革靴もあるが、窓から紅葉の見える図書室から出てきたカノンもカノンに声を掛けた女性徒とその取り巻きも、革靴派。という話はどうでも良い事なのだが、カノンは思わず自分の間の悪さに現実逃避した。
昼休みに図書委員の当番をこなし、予鈴を聴いて後片付けをして一歩図書室を出た所で遭遇である。
「でもさー、ここの司書のセンセって確かおじいちゃんでしょ? 守備範囲広くなーい?」
「それな」
クスクスと笑うクラスメイトに、どう対応すべきか迷うようにカノンは曖昧な笑みを浮かべた。
(あ。メーラ先生達方面か。昨日今日の二日連続って、先生達ほんと目立つんだ……)
本館の見習いのお姉さん達とクラスメイトが被る。
「ちょっと、聴いてんの?」
カノンの反応にリーダー格の女生徒が目を吊り上げた。モデルのような、取り巻きより頭一つ抜けた身長に金髪碧眼とそこそこ整った顔をしているのに、目を吊り上げた顔で台無しだ。もったいない。
あまりに興味がなくてカノンはそんな事を考える。
顔には困ったような微笑みを浮かべつつ考えている事はそんなものだから、本気で相手にしていない雰囲気を感じ取られてしまったらしく、取り囲むクラスメイト達の表情と雰囲気が険しくなり始めた。
どうにかして切り抜けなければと考えていた所で、明るい声が廊下の角から聴こえてくる。
「ハリソン先生ー、こんにちは!」
「先生、丁度良かった。生徒会の予算案についてなのですが」
クラスメイトが一様に嫌そうな顔になった。
「げ」
「うわ、最悪。あのババアいんの?」
「ねえ、もう行こうよ。授業始まるしー」
そそくさとクラスメイト達が去り、声の聴こえた角から二人の少女が顔を出す。
「カーノン。大丈夫?」
「メグちゃん。ありがとう。おかげで助かったよ」
ふわふわとした金髪、水色に近い青い瞳に子リスのような雰囲気を纏い、姿を現したのはカノンの幼なじみ兼初等院からの友人であるメグ。
「カノンは相変わらず要領悪いわねえ。ま、あの子達は頭が悪そうだったけど。頭が悪いより、要領が悪い方が可愛いし良いかしら」
「うっわ。エリー、きっつ」
そう? と首をかしげたのは、赤銅色の瞳に白い肌。黒い艶やかで真っ直ぐなロングヘアのやや痩身の少女。凛とした雰囲気でどこか大人びたその彼女もまた、カノンの友人だ。
「二人とも、ありがとう」
「丁度通りかかっただけよ。それより、急がないと本当に授業に遅れるわ」
それにしても、と。エリーは片手を頬に当て溜め息をついた。
「先生が今日、学校外の会議に出席でお休みだとホームルームでお知らせがあった筈なのに」
そう呟いて逃げ去ったクラスメイト達の方向を見つめる瞳は、心底憐れみを含んでいる。
特に悪意はなく、ただただ本気で憐れんでいるだけだと、カノンとメグは知っているのだが。
「エリー。気をつけなよー?」
「何がかしら。メグ」
「いや、あんまり可哀想って顔とか見せない方が良いよってこと。絡まれるし、攻撃されるよ?」
「あら……」
小さく口を開き、エリーは驚いたといったように目を見張る。
「それはそれで野良犬みたいで可愛いわね」
微笑ましいと言った感じの笑顔を浮かべたエリーに、メグとカノンは苦笑した。
(エリーちゃん、良い子なんだけどね……。ああ、何かすごくメーラ先生と似てる気が)
こういうさらっと自然体で毒舌なところとか。そう思ってしまうカノンだった。
「失礼しました」
「おう。助かった。お疲れさん」
陽が傾き、学院の廊下は黄色く染まる。
職員室を出て自身のクラスへ戻りつつ、カノンは隣を歩くエリーに声を掛けた。
「手伝わせてごめんね。エリー」
「いいのよ。大したこと無いわ。それに、手伝うと言ったのは私だもの。カノンが気にする事ではなくてよ」
放課後、担任から資料を職員室まで運んでほしいと頼まれたカノンは、待たせるのも悪いと思いエリーに頼まれ事があるので先に帰ってと伝えたのだが。
「メグも部活でいないのに。一人では帰せないわ」
「え? なに?」
「何も。それより、他に用がないなら帰りましょう」
「うん」
学院から駅に向かい、他愛ない話をしながら石畳の路を歩く。
すると不意にエリーが足を止めた。
「どうかしたの?」
「ん。ちょっと……」
視線の先には書店の壁に貼られたチラシ。
「発売されるのね。『マルグレートの手記』」
「マルグレート?」
カノンの様子にエリーは少しだけ心配するような表情を浮かべる。
「カノン……貴女、一月後には司書試験を受けるのでしょう?」
「……はい」
「歴史、そう言えば苦手だったわよね」
エリーにそう言われれば、カノンは気まずそうに小さく頷く。もれなく数学もだが、歴史の方が苦手の度合い的には上だ。
「一応自分の国の歴史くらいは覚えておかないと、試験も落ちるけど、恥ずかしいわよ」
「うん。そうだよね……」
しゅんとして肩を落とすカノンに、エリーは苦笑する。
「マルグレート……即位前の名はマーガレット。メグが自分と同じ名前で嫌がっていたでしょ」
「あ」
「別名、吸血王女。国民の血税を啜って過ごしたからその名がついたとされているわ」
歯向かう臣下は軒並み首を切られたとも言われている恐怖の女王。
「……今までの説では」
「今までの?」
「マルグレート王女の死後、彼女が記した日記が見つかったのよ。元々は臣下の家に代々伝わっていたものらしいけれど、歴史的な資料だから共有すべきだとして提供があったのですって」
エリーはチラシに目を向け、発売日を記憶するように見つめる。
「エリー、好きなの?」
歴史は前から好きだと言っていたし、知っていたけど。そうカノンが首を傾げた。
「ええ。私はマルグレート王女、好きよ。だって」
「あっれ? カノンちゃん? あ、エリーちゃんも」
「ルヴィさん」
大学の帰りか、ラウンドネックの紺と白に細いグレーが入ったボーダーカットソー。
その上にざっくり編みの濃いグレーカーディガンを羽織り、ジーンズとブーツといった出で立ちのルドヴィヒは、愛想よく手を振りながらカノン達に近寄る。ふわふわの金髪に菫青の瞳という非常にきらきらしい見た目のせいで何を着ても大抵は様になる為か、近付かれるカノン達はルドヴィヒに追従している周囲の視線に自分達も入ったのを感じた。
「ルドヴィヒさん。ご機嫌よう。いつも通り軽薄で明るくていらっしゃいますね。お元気そうで何よりです」
「はは。エリーちゃんも相変わらずサラッと毒舌だね。それも良いけど」
「あらあら。お上手」
「ところで二人とも、良かったら帰りがてらクレープ食べてかない? オレ小腹がすいちゃってさ」
そう言ってルドヴィヒは近くに止まっているピンクの車体にトリコロール配色のひさしがついた大規模クレープチェーンのキッチンカーを指差す。
「スタクレの今月限定フレーバーとか美味しそうだよ? スイートパンプキンだって」
「カノン、どうします?」
「えっと……」
(正直、食べたい。けど…………)
スターライトクレープ。フレーバーも多く値段もリーズナブルで、量も大満足な若者に人気の店。味もそこそこいける。
たっぷりの雪のようなホイップ、生クリームがダメな人用に濃厚カスタードへのチェンジも無料。季節のフルーツトッピングは色鮮やかで食欲を大いにそそってくれるわけだが。
(昨日、夜食…………)
年頃の乙女としては無駄なお肉を身に纏う可能性を秘めた夜食という魔物に昨晩は屈している現状、ここで更なるカロリー投下は躊躇われる。しかし自分はいいと言ってしまうと二人は買いづらいだろう。あれこれ悩んだ結果、カノンは沈黙の後こう言った。
「…………隣の、ムーンストーンレディでミルクティ買ってきます」
「…………」
「…………」
何となくルドヴィヒとエリーは察したのか、何も言わずにそっとカノンを送り出す。
カノンはミルクティ、エリーとルドヴィヒはクレープを。それぞれ買ったものを口にしながら、駅までの大通りを歩く。
「ところで二人共、さっき何見てたの?」
「えっと、ルヴィさんはマルグレートの手記って知ってますか?」
カノンの問いに、ルドヴィヒがクレープを一口食べて答える。
「それ確か吸血王女の事だよね」
「ほら、ルドヴィヒさんですら知ってるんだから」
「ちょ、エリーちゃん酷い。オレをどーいう目でみてんの」
「遊び人、かしら」
「いやいやいや、大学府生だよ? 専攻は史学だし。こう見えても真面目も真面目!」
確かに色々軽そうな見た目に反して、ルドヴィヒはわりと真面目に門限を守り、身を寄せる分館での奨学生業務(主に掃除や開館閉館作業の手伝い)をこなしているのだが。
「そんな方がどうして分館に住み込みさせられているのかしら。不思議ね?」
エリーの言葉に、ルドヴィヒが慌てたように言う。
「違うよ。ちょっ、カノンちゃんも目をそらさないで! 何か誤解してないっ? 大体、それ言ったらクーだって」
「私が何だ。ルヴィ」
「げ」
白いロングニットに、丈が長く後ろ襟が高く前で折り返す襟が特徴の紺色ステンカラーコート、ジーンズとスニーカー。手にはノートパソコンが入ったシンプルな黒い手提げ鞄。
クーベルトはどこか冷めた黒い目を、銀フレームの眼鏡の奥からルドヴィヒに向けていた。
「人のいないところで噂話? みっともない。そのような事だから迂闊に身動きの取れない分館に送られる。私までお目付け役としてとばっちりを受けた」
「クー! 別にオレ何もしてないって!」
無実だ事実無根だとその場にいる女の子二人に弁明する見た目が華やかかつ若干チャラい青年。アウトである。
クーベルトはそんなルドヴィヒに頭痛でも覚えたのか、目頭を指で揉みほぐすような仕草をした。
「黙りなさい。しかも夕食前に買い食い! 今日の夕食残したら承知しません」
どこぞのオカン。
「大丈夫だよ! 甘い物は別腹だし」
どこぞの女子。
「あの、クーさん。こんにちは」
オカンの方にカノンが声を掛けると、オカンことクーベルトはハッとしたようにカノンとその隣のエリーを見て、苦々しそうに片手で口許を覆った。
「カノンさん。こんにちは。すみません、お見苦しいところを」
「いえいえ」
気を取り直すように、クーベルトはカノンとエリーに紳士的な会釈をする。
「エリーさんも、こんにちは」
「こんにちは。クーベルトさん。相変わらずご苦労が絶えないみたいね」
「そうですね。どこぞの遊び人がいつまで経ってもコレなもので」
溜め息まじりに呆れた様子を見せるクーベルトに、ルドヴィヒがカノンへ両腕を広げた。
「カノンちゃん、なぐさめて!」
その襟首をクーベルトが掴んで無表情のまま締め上げる。
「墓穴に埋めますよ」
「ゴメンナサイ……くるし……げほっ!」
「しかし丁度良かった。カノンさん、本日は一旦ご帰宅してから分館へいらして下さい」
ポイっとルドヴィヒの襟首から手を離し、クーベルトは離した手をパンパンと叩く。
「え…………?」
どういう事かとカノンが目を瞬く。
「帰宅されればわかると思いますが、本日から一週間」
「メーラさんとパロマさん、それからセレーヤさん。特級司書総出の豪華試験勉強合宿だって。…………オレ達も」
一拍置いて二人の言葉を理解したカノンは、気が遠くなるような感覚を覚えた。
(いきなり試験合宿って……)
ルドヴィヒとクーベルトに告げられた突然の合宿に、エリーと駅で別れてからひとまずダッシュで家まで辿り着いたものの、流石にカノンも戸惑いを隠せず、やや重い動作で玄関のドアノブを回し開けた。
「ただいま帰り……!」
が。事件はそこからだ。
目の前にうつ伏せで倒れている、美しい金髪で本日は黒いスーツ姿の女性。その白さ眩しい片方の脚は、艶消しされた黒いハイヒールが脱げて転がっている。
「エレナお姉ちゃんっ?」
慌てて駆け寄ったカノンに、エレナはうっすらと菫の瞳を開け、言った。
「うぅ……。カノンちゃん…………助けて」
とりあえず死体でない事に安堵し、居間のソファに場所を移した現在。
「はい、お疲れ様」
「ありがとう。はあ。生き返るわぁ~。やっぱりカノンちゃんの淹れてくれる紅茶が一番美味しいのよね」
スーツのジャケットをソファの背に掛け、だらんとした格好で完全オフモードのエレナはカノンから手渡された紅茶のティーカップに口をつけ、酒でも呷るかのようにグビッと飲んでそう言った。
「えへへ。ありがとう、エレナお姉ちゃん」
いつでも美味しいと言って飲んでくれるエレナに、カノンも嬉しそうに笑う。と、ローテーブルの上に置かれた書類に書かれた文字が、カノンの目を引いた。
「マルグレートコラボ?」
「そう! 今度出版される『マルグレートの手記』に合わせてうちのブランドでもタイアップでコラボレーション企画を打ち出すの!」
「エレナお姉ちゃんのブランドで?」
エレナは服とそれにまつわるバッグなどの服飾雑貨のブランドを複数持っている。対応するジャンルや年代もそれぞれで、学生のお財布に優しい安価なものから高級なものまで、多種多様。
しかしその書類にある商品の写真とロゴは、カノンが今まで目にした事がないものだった。可愛いのだが、何と言うかフリルやレースが多かったり、全体の色味が暗く濃かったりする。
「もちろん。あ、カノンちゃんはあっち方面の服ってまだ着たこと無かったわよね? うふふ」
(ひっ。エレナお姉ちゃんのこの顔は……)
エレナのブランドには一つ変わったルールがある。
それは特に若年層向けのブランドでのファッションショーに起用するモデルは、プロも素人も関係なく『似合う』事だけが条件というもの。勿論、素人でもウォーキングやらの指導は本格的に行うが、普通はまず高身長などがあってふるいに掛けられる。
エレナは『服に合う』モデルではなく、『人に合う』服という考え方だ。背が低い人に似合うなら、背の低い人をモデルに。逆もある。
『服は人のためにあるの。服の為に人があるのではないわ』
確固たる信念。実績に裏打ちされた自信。
本当に、かっこよくて。憧れる。
なのだが。今、紅茶のティーカップをローテーブルに置いて怪しく笑い、ソファから立ち上がりジリジリと距離を詰めてくる姉は何か違う。とカノンは冷や汗をかく。
「うふふ~。カ・ノ・ン・ちゃん♪」
「お、おおお姉ちゃん?」
「あら、やぁねぇ、どうして逃げるの? 大丈夫。カノンちゃんならどんな服も似合うから」
何で逃げる? 怪しい笑みに危機を感じるからに決まっている。
「待って待って! 何か嫌な予感!」
ソファを挟んで二人の女性がぐるぐる回る奇妙な光景が完成した。
じゃれあってストレスが軽減されたのか、それとも最後には自分の勝利を確信しているのか、エレナはスッキリした笑顔で言う。
「うふふ。……まあ、それは当日のお楽しみとして」
(当日って!)
エレナは書類の中に入っていたチラシをカノンに手渡す。
「私の会社のブランドで『LilyRose』というのがあるの。端的に言うと、ゴシックロリータのブランドね」
チラシではビスクドールのように白い肌の女性や男性がフリルやベルトが多い服を纏っている。加工もされているのだろうが、神秘的な美しさと可愛らしさだ。
(あ。ゴシックはメーラ先生に似合いそう)
「ロリータラインのLilyとゴシックラインのRose。そこに新たにもう一つ、Margaretというラインを追加する予定なのよ。コンセプトは日常に潜む物語。様々な物語をモチーフに幻想的や神秘的なフェミニンエレガントを基本にするわ」
今度は別のチラシをエレナが差し出し、受け取ったカノンはそれを見る。
(今度はパロマ先生と、セレーヤ先生にも似合いそうだなぁ)
先ほどよりナチュラルテイストだったり、ゴシックと同じく上品だが、打って変わった明るい色合いのものが多い。
「とは言え、既存のラインとは違って主張は抑え目よ。今のだと色々恥ずかしくて着られない。けど本当は着てみたい。そんな女の子の夢を叶える為のラインだから」
(うん。こういう時のエレナお姉ちゃんすっごく生き生きして、カッコいいし憧れるけど)
本当に仕事をしている時のエレナには憧れるカノンだが、いつの間にか近寄って瞳を潤ませて見つめてくる場合は別。
「む、無理だからね。って、そんな捨て犬みたいな顔してもダメ!」
「どうしても?」
「どうしても!」
「なら、仕方ないわね」
わかってくれたとカノンは胸を撫で下ろした。
「最後の手段に訴えるしか」
「ちょっとお姉ちゃんっ?」
わかってなかった。最後の手段て何だ。
舞い踊るような足取りで書類を携え、エレナは居間を後にする。
「おほほ~。じゃ、カノンちゃん。ちゃんとお肌整えておくのよー」
「ショーモデルなんて無理だから! やらないからね!」
聞いていなそうなエレナに、カノンは深々と肩を落とした。
「カノンお姉ちゃん」
「メロ」
入れ違いのようにメロディが顔を出す。
「さっき、メーラさんから電話があったよ。試験勉強するから、着替えとか持って分館に、って」
「ありがと。ルヴィさん達からも聞いたよ。今から仕度して出るね」
「わかった。ところで……エレナお姉ちゃん、凄く楽しそうだったけど」
「ゴメンね。今は忘れてたい」
「…………ああ」
全てを理解したらしい妹の同情めいた視線に、カノンはそっと心の涙をぬぐった。
「あ」
合宿の荷物を鞄にまとめ、分館へ向かって大通りを歩いていたカノンは、何の因果か事の発端と対面し思わずそんな声を上げる。
「…………」
非常に気まずかった。
濃いグレーに細めのストライプが入ったスーツをびしっと着て、黒髪を整え隙のない出で立ちのルドルフは本日も眉間にシワを刻んでカノンを見下ろしている。
慣れているとはいえ、先日のような言葉を投げつけられるのを喜ぶような性癖もなく、軽い会釈でカノンはそそくさと横を通り抜けようとした。
「待て」
(な、何で呼び止められるの?)
いつもなら、メーラに対してはともかくカノンには積極的に関わろうとしないはずなのだが。
「…………えと、こんにちは。ルドルフさん」
若干恐々とカノンはルドルフに挨拶をする。
「…………」
呼び止められたと思ったのは気のせいか幻聴だろうかと思うような沈黙。
「あの」
「今、時間はあるか」
「え。はい」
ようやくルドルフが口を開いたかと思えば、そんな言葉だった。
そして現在。
「すまなかった」
「え!」
通りに面した喫茶店の一つ。窓際の落ち着いた席のテーブルに両手をついて、ルドルフが頭を下げている。
カノンには二人の前にそれぞれコーヒーと紅茶をおいたウェイトレスが、何事かといった顔をしているのが視界の端に映った。
「ル、ルドルフさん! あの、頭上げてください」
カノンが小声で叫ぶ。
店内は既にピークは過ぎているが、大通りに面しているからかそれなりに人がいる。悪目立ちはしたくない。
その雰囲気は伝わったのか、ルドルフも頭を上げ席に座り直す。
「言っておいてどの口が、と思うのだが……。君に対して酷い事を言った。申し訳ない」
「え? いえ、本当の事ですし、私は」
気にしていないと言おうとして、その言葉はルドルフの小さな呟きに言う機会を失った。
「わからないんだ…………」
「何が、ですか?」
唐突な言葉にカノンは首をかしげる。ルドルフも眉間にさらにシワを寄せ、頭痛でもするかのように片手で額を押さえた。
「何故、あんな事を言ったのか。ただただあの時、傷つける為だけに言葉を探していた。嘘でも良いから、と」
ルドルフは元々融通という言葉があるのを知っているか確認したくなるぐらい真面目な堅物だ。無責任な言動は彼の最も嫌うもので、当然の如く彼自身もそのような事をしないよう自分を厳しく律している。
「正直に言って、あの赤い司書には普段から同じ……いや、あの時より数倍の溜まりに溜まった苦情その他諸々があるのだが」
だが今回、彼はカノンに『傷つける為だけの言葉』を投げつけた。あってはならない事であり得ない筈の事だったのに。
「君に対してあんな事を考えた事は、本当に無かったんだ」
信じられないと我に返って呆然とし、慌てて本館を出たが、もうカノン達がいるはずもなく。かと言って、電信通話で『ごめん。さっきの間違い』などと言えるわけもない。
分館に足を運ぼうにも館長を補佐する位置にいるルドルフは業務を抱えており、開館日には仕事を離れるわけにいかず。同じ図書館という場所なので開館閉館の時間も一緒。閉館してから行ってもカノンがいない確率の方が高い。
だから意を決して、図書館の休みである種日にカノンの家を訪ねようとしていたのだ。ちなみにカノンの住所は奨学生としてデータベースに登録されており、本館と分館の一定以上の職員ならば閲覧が可能なだけで、ルドルフが怪しげな手段で調べたものではない。という事をルドルフも断りつつ、今度は先程より幾分落ち着いた様子で、静かに頭を下げた。
「すまない。今さらだな。言ったものは取り返しがつかない」
「本当に、大丈夫なんです」
気にしないで下さい。カノンはそう笑うのだが。
「…………」
「どうかしましたか?」
顔を上げたルドルフは、何とも奇妙なものを見る目をしていた。
「ダメだろう。それは」
「え」
腕を組み、組んだ片腕の肘に添えた人差し指をトントンと叩く。
「言った私が言えたことではない。が。それは、ダメだ」
苦虫を噛み潰したように、さらに眉根をきつく寄せる。
「そんなものに、慣れてはいけない」
苦虫は声にも混じった。
「あいつはいつも不愉快だが、物凄く不本意だが、……間違っているとは思わない」
物凄く、を強調している辺り本当に不本意なのだろう。
「君は必要以上に自分を卑下していないか」
ルドルフは見ようによっては冷酷そうにも見える切れ長の色素の薄い茶色の瞳を、ひたりとカノンに据えた。
「そんな事」
「ならば怒るべきだ。不当だと思うなら、それを受け入れるな」
「…………」
(でも…………)
反応を返せばいらない波風を立てることになる。そう思ったカノンの考えを見透かすように、ルドルフは言う。
「見て見ぬふりをする、波風を立てぬようにあしらう。確かに必要だ。けれど、それは時と場合による」
「っ!」
「言い方を変えよう。君はあの特級司書を無能無学な凡才だと思うか」
「メーラ先生はそんなじゃありません!……あ」
反射的にそう言い返し、カノンは両手で自分の口を塞ぐ。
「君が自分に対する不当の評価を受け入れるなら、その評価はそのままあいつらの評価になる。そう思えばわかるだろう。受け入れて良いものでない事くらい」
一息ついてルドルフは自らのコーヒーカップを手に取り、ようやく口をつける。
「…………少なくとも、君への侮辱を無視して済ませなかった時のあれは正しかった。そして私は間違っていた。その言葉を受け入れた君も」
なんと言えば良いのか迷い、カノンも自分のティーカップを手にして紅く透き通った水面を見つめた。
「謝罪のつもりが、上手くいかないな…………」
「いえ。ルドルフさんの言うとおりだと思います」
慣れてはいけないもの。確かにそうなのだろう。
それが例え賢いやり方だとしても、引き換えに失うものもあるのだから。
「ありがとうございました」
「礼などいい。こちらが謝罪したのだから」
気まずげにそう言ったルドルフの目が、足下に置いたカノンの合宿用荷物に向く。
「ところで、その荷物は?」
「あ。今日から分館で試験に備えて合宿する事になっていて」
「この時期に試験か? 珍しい学校だな」
「いえ。学校じゃなくて、司書試験です」
「待て。どういう事だ。それはまさかあいつらの首を賭けた……」
「……はい」
時が止まったかのように、ルドルフが硬直する。
「…………。いや、おかしかろう。あの試験は初秋月末で締め切ったはずだ。受験できるはずが」
現実から目を逸らすようにルドルフは呟くも、コーヒーカップの取っ手を持つ手がカタカタ震えて。
「メーラ先生が、ルドルフさんと自分の名前出したら受験登録できたって」
そこまで聴いて限界が来たらしい。
「阿保か! 何を考えている!」
ガチャン! と音がする勢いでカップを置き、ルドルフがカノンに言う。
「荷物を持て。行くぞ!」
「え、あの、どこに」
「分館だ!」
引き絞った矢を放つような勢いで(しかし会計はしっかりして)ルドルフはカノンを連れて分館に急行した。
「貴様! 何を考えている!」
到着し、メーラが分館の玄関ポーチに現れた直後の台詞がこれである。
「来て早々に何言ってるの。そもそも何でうちのカノンと一緒なわけ?」
「来る途中でお会いして……」
カノンの言葉が終わる前にルドルフはメーラの胸ぐらを掴む。
「既に締め切った受験受付に無理やり介入してねじ込むとはどういう了見だ! いきなり受験しろなど非常識にも程がある!」
掴まれたメーラは面倒くさそうにその手を軽く払う。
「最初に言い出した君に言われたくないんだけど。条件に今度の試験を言い出したの君だし、受けた以上は受験できるように整えるに決まってるでしょ。それもわからないの? 馬鹿なの?」
「貴様っ!」
「メーラ、煽らないで下さい。お話できません」
「パロマ先生!」
困ったような顔に微笑を浮かべ、パロマが顔を出す。
「カノンさん、急にお呼び立てして申し訳ありません。ルドルフさん、お久しぶりです」
その後ろにセレーヤの姿も見えた。何も言わないのだが、ルドルフに向くセレーヤの視線が心なし冷たい。
「ここで立ち話も何ですので、どうぞ。食堂にルドヴィヒさんとクーベルトさんもいらっしゃいますから」
確かに玄関先でするような話しでもないので、ルドルフも頷き案内に続く。
生活棟の一階奥にある食堂の扉を開けると、そこそこ幅と長さのある長方形のテーブルと、席に着いたルドヴィヒとクーベルトの姿があった。
「カノン来たよ。邪魔なのもくっついてきたけど」
「メーラ先生……」
再びルドルフの額がピキリと音を立てそうな予感に、カノンも気が気でない。
「どうして無理やり介入した」
しかしカノンの心配をよそに、ルドルフは大人しく席に座り、腕を組みつつもメーラに答えを求めた。
「言ったでしょ。君が条件出したからだよ。俺は受けて、受けた以上は実行できるようにする。それだけだよ」
「それだけ、で国の試験に介入するな!」
「じゃ最初からその条件出さないでよね」
「メー、進まない」
セレーヤが若干不機嫌そうな顔でそう言う。今度はメーラに向ける視線もルドルフと変わらないものになった。
「俺のせいじゃないもん」
ぷくっとメーラは頬を膨らませてそう言うが。
「いや、いちいちメーラさんが煽るからだと思う」
すかさずルドヴィヒからツッコミが入り、ルドルフを除く全員が同意するように頷いた。
「とりあえず、メーラさんとルドヴィヒは黙って頂ければ解決するのでは」
追撃するようにクーベルトが眼鏡のブリッジを片手の中指で押し上げながら言う。
「「何で!」」
今度はメーラとひとまとめにされたルドヴィヒも声を上げる。だが、それはクーベルトの冷めた笑いで一蹴された。
「あなた方がうるさいからに決まってるでしょう。それで、ルドルフさん。メーラさんと貴方のいざこざにカノンさんも私達も巻き込まれたわけですが」
「ちょっと待て。彼女はともかく、私は君達については」
巻き込んだ記憶はないし、どう巻き込まれたというのだろうかとルドルフが言い掛け、カノンが言い難そうに。
「あ。ルドヴィヒさんとクーベルトさんも、メーラ先生がついでだからと……」
「何やってるんだ貴様っ!」
ルドルフにそう言われても、メーラは黙れと言われたのを根に持っているのか、つーんとそっぽを向いたまま口を閉じている。
「何とか言え!」
「申し訳ありません」
見かねたパロマが謝ると、ルドルフがたじろぐ。
「う。いや、そちらは何もしていないだろう。私がどういうつもりか聞きたいのは、そこの赤いのだけだ」
ルドルフに指差されたメーラは溜め息を吐き、冷めた目でルドルフを見た。
「もー。めんどい。あのね、ずっと言ってるけど、言い出したのは君。俺は受けて実行できるように整えただけ。……それに、ルドヴィヒとクーベルトに関しては保護者からも言われたの」
「げ。メーラさん、家に何言ったの?」
大型画面端末すらない街からも離れたこの分館に預けられている身であるルドヴィヒが、恐々とメーラを見る。
「別に俺は何も。ただ、カノンの飛び入り受験申請したらあっちから『うちの馬鹿息子とお目付け役も一緒にヨロ』って」
「誰だよそれ……」
「メリッサさんでは。その口調だと」
クーベルトが仕方なさそうに呟く。
「母さん…………」
母の名にガックリとルドヴィヒは肩を落とす。そんなルドヴィヒとクーベルトを見て、パロマは言う。
「ですが真面目なお話で、どうやら今回受けておいた方が良いようですよ。特にカノンさんとルドヴィヒさんとクーベルトさんは」
パロマの言葉に、ルドヴィヒが顔を上げた。
「なに。どうしてパロマさん」
対照的にルドルフには心当たりがあったらしく、軽く目を見開きパロマに問い掛ける。
「まさか、あれが本当に適用されるのか?」
「ええ。次からそのように」
「ちょ、話みえない」
ルドヴィヒの声に、クーベルトがやれやれと首を振った。
「はぁ。そんな風だから遊び人だの馬鹿息子だの言われるんですよ。ルヴィ」
「クー!」
本当の事でしょ、と言った色をふんだんに含んだクーベルトの視線にルドヴィヒが怯む。
「カノンさんも、というなら難易度の引き上げ。私達に関しては大学府生または卒業生の受験条件の変更ですね」
「ええ。クーベルトさんのおっしゃる通りです。今は見習いの次に司書ですよね。見習いは司書資格を取れば司書になれます。受験資格も一定期間を図書館で勤めるか、大学府で課程を修了すれば資格が得られます」
逆に言うと、大学府を出ていなくても規定年数さえ図書館の仕事に従事して試験で受かれば司書になれるし、大学府生は試験さえ通ってしまえば見習い期間がなく即司書になれる。
「しかし、次回からは大学府を卒業していない者、大学府卒業生で難易度に差が設けられる。加えて見習いから司書になれるのではなく、司書補佐という見習いよりは一歩先程度にしかならない」
ルドルフの言葉に、パロマも頷いた。メーラがその後を引き継ぐように言葉を続ける。
「そいうこと。だったら今回受けておいた方が良いでしょ」
「うあー。それなら、確かにそうかも?」
ルドヴィヒが軽く悩むように髪をグシャグシャと掻き乱す。ルドルフがちらりと難しい顔でカノンを一瞥した。
「いや、だが彼女はまだ高等院に入ったばかりだろう。大学府生の彼らとは違う。不利だ」
メーラはそんなルドルフの言葉にカノンを見る。
「カノン。文学の分類番号でその他文学、作品集」
「あ、998です」
他にも色々な質問をメーラがカノンにし、カノンは特に言い淀む事もなく答えていく。
(流石に三年以上お手伝いさせてもらってるし……)
聞かれるのは基本的な事で、それは数日は無理でも数年やっていれば自然と覚えるものだ。覚えなければ仕事に差し支えるのだから。
「ね? これが即答できるようなら、あとは一般教養が通れば筆記は受かるよ」
(え。図書館学って……)
どうやら、メーラ達に教えてもらっていたのは試験にも出る内容だったらしい。というか、まさか三年以上掛けて試験勉強していたのだろうかと、カノンは軽く顔を引きつらせた。
(どうりで一つ一つ確認テストが定期的にあったはず!)
毎回、おさらいと称して抜き打ちテストされた記憶はしっかり残っている。ありがたいことではあるのだが。
(あ、でも。それなら残りは一般教養…………うう、でも)
「その一般教養は高等院卒業までの区分だろう!」
カノンの心の声を代弁するかのようにルドルフがそう言う。
「そこが私も一番無理だと……」
「大丈夫。だってあと一ヶ月あるし」
にっこりとメーラはカノンに微笑む。が。
「貴様は一ヶ月でこれから三年掛けて習う内容を覚えろと? 血も涙もない悪魔か」
貴様は馬鹿か! とルドルフは両手でテーブルを叩いた。
「ちゃんとフォローはするよ! その為に合宿するんだからね!」
「……合宿」
ルドルフがじと目でメーラを見る。
「そ。これから一ヶ月、試験までカノンは分館で生活してね。毎日俺達が勉強見るから」
「あの、メーラさん、それ……」
ルドヴィヒがルドルフの言葉を借りるなら悪魔でもみるような目でメーラを凝視した。
「勿論、ルドヴィヒとクーベルトも一緒に試験勉強だよ」
とびきりの笑顔を悪魔が浮かべる。
「…………君達、もし堪えられなくなったら本館に相談に来なさい。善処しよう」
酷い頭痛に見舞われたかのように顔をしかめ、ルドルフは哀れむようにカノン達を見てそう言った。
「ちょっと。ルドヴィヒはともかくカノンとクーベルトはあげないよ」
「メーラさん酷い!」
ともかくって何! とルドヴィヒから上がった声を綺麗に黙殺して、メーラがルドルフに視線を滑らす。
「それにしても」
「うわ。無視? 無視なの? メーラさん」
「この前とずいぶん態度が違うよねー。自分がカノンに言った事、忘れたの?」
「メーラ先生、それについてはルドルフさん、謝ってくれたんです」
謝ったとの事に、メーラがますます怪訝そうな目をルドルフに向けた。
「貴様に対してはともかく、彼女にあんな事を言ったのは私自身信じられない。だが、言ったのは確かだ。謝罪するのは当然だろう」
「ふーん」
「ご自分でも信じられない、ですか……」
パロマが考え込むように視線を伏せる。
「ああ。正直に言ってしまえば、記憶自体があやふやなのだ。自分でもおかしいと思うが、あの時の記憶だけがまるで白昼夢でも見ていたように朧気で……」
夢かと思った。けれど、分館に貸し出していた本が台車で戻っている。分館から貸し出されていた本がない。それがあの記憶は夢ではなく、実際に起こった事だと告げていた。
そう知覚した時、ルドルフは血の気が引いたのだと話す。
「記憶が曖昧になる前に、何か変わったことはありませんでしたか?」
気遣いつつパロマが尋ねると、ルドルフはやや考え込む仕草を見せた。
「特には……。彼女が分館から書籍の返却に来た報せを受けて、それを迎えただけの筈だ」
「そう、ですか」
「彼女達が帰った後でトーヤから連絡を受けて、夢から覚めるような感覚と一瞬立ちくらみが起こったが、それくらいだな」
「ま。君が無礼なのは今さらだし、カノンに謝ったなら良いけどね」
両手を腰に当て、メーラはそう言う。
「あ、じゃあ賭けは」
「当然むこ」
「賭けは賭け。続行するに決まってるでしょ。カノン、変なこと言わないよーに」
カノンが希望に瞳を輝かせ、ルドルフもそれを肯定しようとした。のだが、あっさり無慈悲にメーラはそれを打ち砕いた。
「ちょっと待て!」
「何?」
「貴様、本当に何を考えてるんだ? 人の身の振り方なんぞ背負わされたら」
「うん? 何?」
メーラは相変わらず笑顔だ。しかし、葡萄酒色の瞳が笑っていない。その目は、ルドルフに部外者が首を突っ込むなと言っている。
「メーラ先生……」
あ。ダメだ何言ってもムダっぽい。カノンは悟った。
「もう、不毛。賭けは一度受けた以上やる。カノンもルドヴィヒもクーベルトも受験する。以上!」
文句は受け付けないよ。と。カノンの考えを肯定するようにメーラはにっこり笑った。
そんなやり取りを行い主に精神的に返り討ちにあったルドルフを、カノンは分館の玄関まで見送ろうと共に食堂を出る。
玄関までの道のりを行く途中も、ルドルフからは疲れきったオーラが漂っていた。
「お疲れ様です……」
「いや、君もな」
玄関ポーチに出て、ルドルフが不意に振り返る。
「これは決して悪心からくるものではないのだが」
「はい……?」
言い難そうに、言葉を探すような様子でルドルフは口を開く。
「君は、もう少し主体性を持った方が良い。何と言うか」
鋭い茶色の瞳がカノンから逸れた。
「正直まるで、出来の良い人形のようだ」
(人、形)
言い難いのも当然の言葉だ。けれど、ルドルフが言ったようにそこには悪意はない。それは、よろしくない事に向けられる悪意に慣れてしまったカノンにはよく分かる。
どちらかと言えば、どこか心配しているような色さえあった。
「大司書になりたいと言ったそうだが、それは今でもそうなのか? 何故、そう思った?」
「あの…………私……」
(どうして)
喉がひりつく。声が凍ったように上手く形にならない。
「自分の意思を持てないなら、悪いことは言わない。やめておきなさい。今なら他に選べる道は沢山ある。もっとも……」
ドクッとカノンの心臓が大きく動く。
「自分というものを持てないなら、他の道など見えないかも知れないが」
「…………」
ドクドクと血が身体中を激しく巡る。
「すまない。ただ、冗談ではなくよく考えなさい。どんな道を選ぶとしても、その道は一人で歩かなければならない。進み始めれば道を踏み外したとしても、誰のせいにも出来ないのだから」
道を、選ぶ。
その言葉が心臓を鷲掴みにして、息の根が止まりそうな感覚になる。
(何で…………)
何で、と。自分に問い掛けるけれど、そんな感覚になる理由も、足元から崩れそうになる不安感の理由もわからない。
「…………やはり、私には向かないな。要は、他者に向けるくらい君自身にも興味と関心を持てという事なのだが、その」
「……いえ。わかります。ルドルフさん」
でも不安の意味がわからない。
カノンは自分に笑えと念じる。ぎこちなくても、笑えなくては今はへたり込んでしまいそうだ。
「ありがとうございます」
「ああ。ではな」
(出来の良いお人形……)
「カノンちゃん、そこ代入間違えてるよ」
「え? ……わ。ありがとうございます」
食堂のテーブルで、カノンとルドヴィヒそしてクーベルトの三人はノートと参考書を開き、パロマが夕食の時間までその勉強をみている現在。カノンはルドヴィヒの指摘に意識を無理やり引き戻す。
「ふふ。どういたしまして」
ルドルフの謝罪から五日。あれからカノン達はメーラの宣言通り試験勉強に打ち込み続けた。
「カノンさんはやはり歴史と数学、ルドヴィヒさんは概ね問題ありませんが、異国語と図書館学にミスが散見していますね」
優しく微笑んで言うパロマ先生に、カノンとルドヴィヒはうっと言葉につまった。
「ごめんなさい……」
「いえ、謝る事はありませんよ。むしろクーベルトさんも含め、ご迷惑おかけして申し訳ないです」
「パロマさんは優しいのに、メーラさんマジ鬼……」
「メーラも悪気はないので、大目にみて頂けると嬉しいです」
ルドヴィヒも本気では言っていない。
確かにあれから五日間学校から帰っても夜まで勉強だが、それは夕食まで。必ず夕食後は就寝まで休憩で、むしろ勉強しようとするとメーラに止められた。『メリハリが大事なの。闇雲に詰め込めば良いってものじゃないって覚えなよね』と。
「やり方は強引ですが、今回はメーラさんのおかげで難易度が上がる前に受験できますから、むしろ感謝すべきですよ。ルヴィ」
「へーい。……にしても、種日から怒涛の勉強漬けだったけど、もう蕾日。一週間て早い」
「そう言えば、メーラから聞いたのですがクーベルトさんは学芸員試験も再来月受けるご予定とか」
「うげ! クー、マジ?」
ルドヴィヒがドン引きの様子でクーベルトを見た。
「別にルヴィが受けるわけではないのですから、そんな大袈裟に驚かなくても良いでしょう」
クーベルトは事も無げに言い、さらにルドヴィヒのドン引き要素を追加する。
「元々、今年で学芸員資格は取得するつもりでしたから。むしろ一度に済ませられるなら一石二鳥。そうすれば来年は修復師の資格を手に出来ます」
修復師。貴重な書籍や絵画などをオリジナルに近い状態まで修復することを生業とする職。成るためには図書館司書と美術館などに勤める学芸員の二つの資格をまず取る必要があり、司書や学芸員よりも更に深い知識と技術を要求されるものだ。
「カノンちゃん、どうしようここに変態がいるよ」
「ようやく自覚したんですか、ルヴィ」
「お前だよ! お前」
ルドヴィヒがクーベルトにそう返し、パロマがクスクスと笑う。
「修復師は司書と学芸員、両方の資格が必要ですからね」
「しかもクーは全部一発クリアする気ですよ、パロマさん。これ変態だと思いません?」
「思いませんよ。まったく、ルヴィもいい加減に身を入れて勉強して下さい。そこ、間違ってます」
「え。うそ、どこ」
クーベルトの指摘にルドヴィヒが慌ててノートを見直す。
(クーベルトさん凄いなぁ……)
そう思うと同時。カノンの胸に痛みが走った。
痛みを誤魔化すようにカノンはその様子を言い表す。
「本当にお二人は仲が良いですね」
カノンの言葉にルドヴィヒとクーベルトが互いに顔を見合せて、二人揃って嫌そうな顔になる。
「男と仲が良いとかナイ」
「ただの腐れ縁です」
ルドヴィヒがカノンの方に身を寄せ、煌めくような笑顔を見せた。
「オレどうせ仲良くするなら、カノンちゃんみたいな可愛い子が良いし!」
「カノン」
「うわ!」
突如聴こえた声にルドヴィヒが驚いて椅子から飛び上がりそうになる。
「セレーヤ先生?」
声の主はセレーヤで、厨房の方から食堂へ入ってきた。
シンプルな白いエプロンを外しながら、セレーヤは首を傾げる。
「明日、空いてる?」
「学校はお休みですけど……」
学校が休み。つまり、一日丸々勉強になると思っていたカノンは、不思議そうに首を傾げた。
「ああ。あの件ですか」
「そう」
「あの、セレーヤ先生。話が見えません……」
困惑するカノンに、セレーヤはさらっと要件を伝える。
「お買い物、付き合って」
「え?」
待ち合わせの時間の五分前。
結局昨日は買い物に行くという事以外は教えて貰えず、夕食を終えた後はわざわざ迎えに来てくれたエレナの車で実家に戻ることになった。エレナいわく「週末くらいカノンちゃんは返してもらうんだから! そういう約束で合宿許可したの!」と。
(良かった。まだセレーヤ先生来てない)
一足早く待ち合わせ場所の街中央にある広場の噴水に着いたカノンは、腕時計に目を落としてほっと胸を撫で下ろす。
早めに家を出たつもりだったが、着いてみたらちょっとギリギリだ。遅れるよりはマシと気を取り直した所で、何やらまだ休日のお昼前でまばらな人通りがざわつく。
思わずざわめきの先を目で追って、カノンは嗚呼と納得した。
胡桃色のキャスケット帽をかぶり、Vネックで裾にいくにしたがってオフホワイトから濃い水色になるオーバーニット。黒いスキニーパンツに黒い革靴という出で立ちのセレーヤは、すれ違い様に男女共に視線を奪っていた。
「カノン」
セレーヤが花咲くような笑顔でカノンに手を振る。
「おはようございます。セレーヤ先生」
カノンが軽く頭を下げ、駆け寄ったセレーヤはちらりと広場の時計に目を向け、再びカノンを見て少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「おはよう、カノン。待たせてゴメンね」
そう言って、何故かセレーヤが軽く目を瞠る。
「…………」
キョトンとしているような驚いているような。メーラなどから比べれば、普段からあまり大きく表情の動かないセレーヤとしては珍しいものだった。
それはこれまで奨学生としてまがりなりにも数年過ごしてきたカノンにもわかっていた。ので、半ば固まるように黙って自分に視線を向けるセレーヤの様子にそわそわと落ち着かない心地になる。
「え。セレーヤ先生? も、もしかして、何かおかしいですか?」
急いでいたとはいえ、身だしなみは確認したはず……ではあるのだが、段々不安になり髪やスカートに無意識に手が伸びた。
「ううん。逆。今日の装い、カノンによく似合うね」
瞬き一つで我に返ったセレーヤが彼にしては慌てた様子で首を横に振って否定する。
「可愛い」
そこらの女の子より可憐な笑顔に、カノンは何とも複雑な気持ちになった。
(あ、あはは。…………セレーヤ先生の方が数倍、可愛いんですけど)
「ありがとう、ございます……」
しかし不意にセレーヤの顔が悲しげに曇る。
「あれ? どうしたんですか、セレーヤ先生」
「カノン、実はね、カノンにしか頼めない事があるんだけど……」
「私に、ですか?」
「うん。だけど……やっぱり、カノンの迷惑になるかも知れないから……」
弱々しい微笑みが余計に美少女感を放っているのだが、本人はそれに気づいているのかいないのか。とにかく、そんなセレーヤを放っておく事など出来ず、カノンは言う。
「あの、私に出来ることなら。言ってみて下さい。セレーヤ先生」
(セレーヤ先生がこんな顔するなんて……。深刻そうだけど、私でどうにか出来るのかな)
「でも…………」
カノンの不安が伝わったのか、セレーヤが遠慮がちに俯く。
「大丈夫です。私に出来ることなら、何とかしますから」
その言葉に、セレーヤがおずおずと顔を上げカノンを見つめる。
「お願い、きいてくれる?」
「はい!」
「ほんとに?」
「本当です」
「じゃあ、約束だよ?」
「約束です」
「それなら、カノン」
「はい」
(あれ?)
一瞬。本当に一瞬だが、カノンにはセレーヤが妖艶といえる笑みを唇の端に浮かべたように見えた。
「今日一日、先生呼び無しだよ」
「…………え」
声まで花を咲かせそうな無邪気な笑顔でセレーヤがそう言う。
そのまま可愛らしく小首を傾げるセレーヤに、何故かカノンはある種の圧力を感じる。
「お願い、きいてくれるんだよね?」
本当に、可愛らしいとしか言えない笑顔。なのだが。
「ね?」
念を押すように小首を傾げるその様は。
(あ、れ? セレーヤ先生? え。セレーヤ先生? 本物?)
本物でしかないはずなのにカノンの頭が、セレーヤにはめられた事実を拒否している。
何が何やらわからない様子で固まるカノンの手を、セレーヤはそっと取ると、楽しく囀ずるように言う。
「ふふ。それじゃ、行こ。まずは端末ショップ」
数社あるうちの一つのショップに入り、セレーヤはウキウキした様子でカノンに話し掛ける。
「カノンにそろそろ端末持ってもらいたいって、皆で言ってたんだ」
店内にはお値下げされた機種からお高い最新機種まで。様々な携帯端末のパンフレットと動作を試せる見本機が置かれている。
「これなんかどう? 画素もキレイだし、メモリも結構容量あるし」
どれ重視する? そんな事を聞きつつ、セレーヤはふと動きを止めて悩み始めた。
「あ、でも、操作はこっち……? 初めてだもん、わかりやすいのが良いよね…………」
「あの、セレーヤ先」
「カノン」
「う」
笑顔。それが時に叱責に匹敵するものになるのだと、カノンは初めて知った。
「…………」
「セレー……ヤ、さん」
精一杯の呼び方で名を呼ぶと、セレーヤは少し考えたものの、すぐにいつものように微笑んで首を傾げる。
「うん。なに?」
「理解が追い付いてないんですけど……」
「あのね、前々から話はあって、本当は高等院の入学お祝いとして式の日にプレゼントしようって言ってたの」
しかし、どうせだから新機種が出揃った時にしようとか、カノンの好み調べてからにしようとか、まあ諸々やっている内に時期を逃したというか。
「エレナは、カノンとカノンの妹とお揃いのにする! って言ってきかなかった」
「当たり前でしょ! 姉妹でお揃いのストラップとか色々したいのよ!」
「え、エレナお姉ちゃんっ?」
「あ。やっぱり聞いてなかったんだ。カノンお姉ちゃん」
「メロ!」
エレナがカノンの背後から抱きつき、メロディはそんなやり取りを横目に機種を選び始める。
「エレナお姉ちゃん、時間無くなるよ。手続きまでやって仕事行くんでしょ」
「そうね。くすん。せっかくのカノンちゃんとの時間なのにこんな短時間なんて……嗚呼、私が二人いれば!」
「うん。それ、二人して残る方に立候補するから意味ないと思うよ。あ、カノンお姉ちゃん、セレーヤさん、これどう?」
淡々と。しかし確実に機種を絞り込み、晴れてカノンの端末が決定。
「機種の色はそれぞれ違うけど、ストラップは同じの付ける?」
「もちろん! カノンちゃんはどれが好き?」
「えっと、じゃあこれで」
「うふふ。姉妹でお揃い……夢が叶ったわ!」
機嫌上々でエレナは突風のように仕事へ直行する。
「じゃあ、私も先に戻るから。セレーヤさん、カノンお姉ちゃんをよろしくお願いしますね」
「うん。ちゃんと家まで送るから」
小さな嵐が通り過ぎるような展開に、カノンは手にした端末ショップのショップバックを呆然と見下ろした。
「ご飯、食べよっか」
「そう、ですね……」
二人は落ち着いた雰囲気のカフェに入り、互いに食べたいものを注文した。そこまではカノンも特に異存はなかったのだが。
お昼ご飯を食べ、運ばれてきたデザート。
セレーヤはいつもの表情のまま、まだ口をつけていないパフェをスプーンですくい、カノンの口許へと差し出したのには流石に固まる。
「カノン、はい」
何いつもと変わらない顔で思いっきりいつもしない事をしようとしているのか。
「え。ええぇっ?」
「どうか、した?」
(どうかします! だって!)
まごうことなき「あーん」である。
不思議そうにセレーヤは小首を可憐な少女然で傾げるのだが、見た目は美少女ぽくてもセレーヤは異性でカノンの上司だ。狼狽えるなという方が無理だろう。
「口、つけてないよ?」
知ってます。
カノンは、どうすれば! と真っ赤になって視線をさ迷わせるのだが、そこではたと。
(ひっ!)
いつの間にか周囲から物凄く微笑ましそうなものを見る目が向けられていた。完全にカップルか仲の良い同性の友人同士と思われている感が漂っている。
(これ、どうすればっ?)
硬直するカノンの様子に、セレーヤが悲しそうに眉を下げた。
「嫌い?」
「え」
「いや?」
「あの」
「…………」
(卑怯です! セレーヤ先生!)
いかにも儚げで悲しげな美少女もとい美少年な見かけの上司にそんな顔をされ、何やら周囲の視線も段々「あら喧嘩してるのかしら?」「あの銀髪の子が栗色の子に怒られてるのかな?」となってきている状態で、逃げ場などあろう筈もない。
「っ!」
パクっと差し出されたスプーンに乗ったパフェを食べる。
「ありがと」
とても嬉しそうに、セレーヤが笑う。
(何か……セレーヤ先生…………)
「?」
「セレーヤ先生達って、時々似てるというか、兄弟みたいに仲が良いですよね」
美少女笑顔なのに今日の端々にメーラと似たものを感じたカノンがポツリと呟くと、セレーヤが不思議そうに首を傾げた。
「……言ってなかったっけ? 兄弟、だよ」
「…………え」
「メーとパロマと」
それから自分、と。セレーヤの発言に、カノンは曲がりなりにも三年以上一緒に過ごした上司が兄弟だったと自分が知らなかった事に、その日最大の衝撃を受けていた。
「まだ残っていたのか? 勤勉さは素晴らしいと思うが、そろそろ司書資格の再受験を考えて計画を立ててはどうか」
本館の閉館後、秋の陽は急速に落ちる。
既に外は茜に闇が滲み始め、本館の廊下に落ちた影絵も闇と同化しそうな頃合いだ。
同じく戸締まりを確認して暗がりに立つ人物へ、ルドルフは声を掛け、戸締まりを確認しながら、相手から投げ掛けられた問いに答えを返す。
「分館の奨学生は急遽だが全員受験する。彼女らより年数が上の君がいつまでも見習いでは」
ふと、ルドルフは背筋に寒気を感じた。
何故かわからないが、その場にいる事が酷く危険な気がして。
何か。何かがおかしい。
問い掛けへの答えから次がない相手に、不思議になったルドルフが振り返る。
「何? っ! 君!」
視界が暗く赤く塗りつぶされる。その耳に、ネズミの鳴き声のような小さな音が届いた。
世界は少女に試練を与え、選択を迫る
導き出される答えは光か闇か
そして少女は世界の真理に触れる
次回、千年書館 悠久恋書
第三話『紙魚と魔書と因縁と』
丸暗記とヤマはり、どちらに賭けるべきか