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千年書館 ―悠久恋書―1

1 夢と希望と現実と



 石畳の上で倒れ伏す葡萄酒色(ワインレッド)の髪と白い肌、妖艶(ようえん)とさえ言える美貌(びぼう)を苦痛に歪めた青年を背に、栗色の髪と緑瞳(りょくどう)をもった少女が守るように立つ。

 黒い蜘蛛(くも)の巣めいた何かが肌の下、身体の内側、()い回り(うごめ)く感覚と、その度に走る激痛。少しでも気を抜いたら意識を手放してしまう。そう確信できる程に。

 それでも、退くわけにはいかない。


 魔書(ましょ)が、そこまで迫っている。


 動くこともままならず、青年は絞り出すような声で少女に言う。

「カノン、逃げ」

「嫌だって、言ってる、じゃ、ないですかっ!」

 痛い。苦しい。怖い。身体の震えが、止まらない。

 だが、少女は逃げない。

「メーラ先生は、私が守る!」




 図書館司書。

 読んで字の通り、図書館の書物を司る役職。

 不思議な淡い光が照らす一面真っ白なだだっ広い空間には、その役職に就任する一人の少女の名前が書かれた、赤銅色の小さなネームプレートが光を放ちながら浮かんでいた。

 響くのは少女の呼吸音のみ。(おごそ)かな空気はそれでもどこか暖かい。

 赤みを帯びて燦然と輝くそのプレートを見詰め、プレートに名を記された、長い栗色の髪を軽く編み込みハーフアップにし、健康的な若さに輝く肌とパッチリとした大きな緑の瞳、紺色の図書館見習いの服を着た少女、カノンは感動にうち震える。

 幼い頃から夢見たそれが今、自分の手に届く位置にある。

(嬉しい……ずっと、この日を)

 憧れの大司書(ライブリア)に続く扉。司書になるという事は、その扉に手を掛けること。

 十六年生きてきて、その中でも上位に食い込む感動だ。弟妹と支え合い積み重ねた時が報われる瞬間。

(やっと……やっとここまで!)

 少女が八つの時に亡くなった両親も草葉の陰から祝福してくれているだろう。

 宙に浮かぶ夢のチケットに手を伸ばした時だった。

「カノン、寝てるなら減点しちゃうよ♪」

「ふぁいっ?」

 甘い声音と裏腹な不吉なワードにビシッと空間に音がして、足元からカラガラと床が崩れ落ちていく。

「いっやああぁっ!」

 どこぞの不思議の国に落ちる少女のような声を上げ、カノンは嫌な浮遊感にきつく目を閉じた。



「うん。嫌ならお仕事ね」

「あ……」

 がくっと頬づえが外れたのと、夢から醒めたのは同時だった。

(あはは……そうだよねぇ……夢だよねぇ)

 ユルナノグ図書館『分館』の『司書見習い』のカノンは、腰に両手を当てて笑顔で容赦ない上司を見やる。

「はい。メーラ先生……」

 職員の休憩室になっている宿泊棟の食堂には、柔らかな日差しがあり、それを背後にして上司は立っていた。

 歳は大体二十ちょい過ぎだと思われる。葡萄酒色(ワインレッド)の長く艶やかな髪と長いまつげ。化粧など皆無なのに色香漂う髪と同色の瞳に雪のような白い肌。

 長身を包むのはベルトなどの装飾が多い黒ズボンにブーツ、グレイの長袖シャツに黒ベスト。その胸元には、長方形の小さな金プレートが輝いている。

 見習いから正式な司書、主任司書補佐、主任司書、中央司書官、特級司書補佐、特級司書、統括書官、そして憧れの大司書。

 自分の化け物じみて有能な三人の上司が揃ってプレートに付けている、特級司書の印である遊色水晶(オパールライト)の一粒が、まだまだ道のりが遠いことを再認識させた。

「大方、司書になる夢でも見てたんでしょー。ダメだよ? その前に現実見ないと」

「う……。はい」

 笑顔でザクザク抉ってくれる。

「メーラ、そんなにカノンさんをいじめないで下さい」

「パロマ先生ぇ~」

 メーラと同い年か少し上か。

 太陽のようにきらきら輝く金髪を肩の上で切り揃え、鳩血色(ピジョンブラッド)の瞳で優しく微笑むのは分館二人目の特級司書、パロマ。

 白い長袖シャツに深い緑のベスト、黒ズボンに革靴。そしてメーラと同じく胸元には金のプレートがある。

「パロマは甘過ぎ。それに、これはカノンの為なんだからね」

「あ、はい」

 むぅっと少し拗ねたように唇を尖らせ、メーラはパロマに抗議した。

「そだ。カノン」

「はい」

 見目だけは天使のような上司は、にっこり笑ってこう言う。

「本館に返す書籍運ぶから一緒に行くよ。今すぐ」

「はい?」

「カノンが文不相応な楽しい夢見てる時に、俺とパロマで運ぶものはちゃんと用意しておいたから」

「あ、あの、メーラ先生?」

(怖い! メーラ先生怖い!)

 どこまでも笑顔。でも、確実に怒ってる!

 天使の輝きと怒りの大魔王を器用に両立させる上司におののくカノン。だがしかし、おののいても何も変わらない。

「はい、これカノンの分」

 カノンの目の前には、大変分厚い書籍が積み重なっていた。

「はい……」

「大丈夫ですよ。丘を降りた所に車を回しておきましたし、そこまでは台車で運びますから。とりあえず、台車で何往復かするので、その用意ですね」

 パロマが苦笑してそう言い、カノンの分担から半分請け負おうと手を伸ばす。

「パ~ロ~マ~」

 両手を腰に当てて、メーラが頬を膨らませる。

「それくらいカノンでも持てるから。甘やかし禁止!」

 びしっと右手の人差し指を立ててそう言ったメーラの背後から、冷たくも美しい声がした。

「メー、うるさい」

「痛っ!」

「セレーヤ先生! だ、大丈夫ですかメーラ先生っ!」

 透き通るような声音は声変わりなど無縁のようで、十代に見える外見同様、瑞々しい。

 白い長袖シャツに紺色のベスト、黒いズボン。透け感のあるレースのストールを羽織った一見すると少女にも見えそうな人物。

 青みのある月のような銀髪を結い上げ、いつもは物憂げに伏せられている事の多い海色の瞳に、今はこれでもかと呆れを滲ませたその人は、ガツッとメーラのふくらはぎを水色ピンヒールのミュール、その爪先で蹴りつけていた。

 透き通るような美貌。その言葉がぴったりの分館三人目の特級司書、セレーヤだ。

「もう! 痛いじゃん、セレーヤ!」

 ちょっぴり涙目でメーラがセレーヤに抗議するのだが。

「メーなら平気。カノンには重いから、パロマと一緒に持つよ」

 抗議など聞こえないと言うかのように、セレーヤの爪先が攻める。

「痛いって!」

「メー、黙って」

 そう一言のたまってセレーヤはヒール部分による渾身の一撃を、メーラの膝裏に叩き込む。そして今度こそ、メーラは声にならない悲鳴を上げた。

「~~!」

「メーラ先生ー!」




 イーステッド地方レンザの小都市、ユルナノグ図書分館。

 郊外の丘の上に佇む、青い屋根と漆喰の壁が年月を感じさせる貴族の屋敷めいた建物である。

 カノンの一番最初の分館の記憶は、幼い頃にまだ生きていた両親に連れられ、弟妹達と展示を見に来たこと。

 物心がついたばかりだった為かその時の記憶は朧気だが、それでもその日の事は忘れられない。

 展示を目当ての両親に連れられて来たは良いが、例によって例のごとく、途中で飽きたカノンと弟妹達は図書館の探検を始めた。カノンは何の展示だったか忘れたが、恐らく両親はファッションデザインに携わっていたので、そういった類いのものだろう。

 展示のガラスケースに入った貴重な文献より、子供にしてみれば無限に広がるような書架の方が隠れんぼや鬼ごっこが出来るという点では魅力的だった。勿論、怒られるのは確実だけれど。

 逆に言えば、怒られるまでが子供の時間である。

 図書館独特の本の匂い。大広間の遥か高いガラスドームの天井からはきらきらと光が降り、閲覧用に用意された長椅子やソファ、そして大机。その上に置かれた読書灯のランプシェードは光に透けて宝石のよう。

 一階から二階へ、両腕を広げるようにカーブを描くチョコレート色の階段には、金糸で縁取りされた絨毯(じゅうたん)が敷かれ、一段一段に絨毯止めの金属棒が段差の根元に置かれていた。

 図書館と言うより、まるで城のよう。展示を見に集まった人々の服も色とりどりで、舞踏会のようだった。

 そして、見たのだ。

(すごい……きれいな、ひと)

 白いレースのカーテンご日差しと風に揺れる部屋で、大きな、両手を広げてもまだ届かないくらい幅と高さのある額縁に入れて飾られた、女性の姿絵。その側で佇む、カノンにとって初恋の人を。正確には、今は初恋だったと思う人、だが。

 姫に傅く騎士を描いたような、一幅の絵画みたいな光景に、ただ息を飲んだ。

 とにかく、まるで物語の中に入り込んだみたいな、奇跡のように美しい光景で。

 同時に、何故か胸が締め付けられるような苦しさも覚えるのだが、その理由が理解できるようになったのは皮肉にも両親を亡くした時で、その時はただ訳がわからず泣き出してしまった。

『どうしたの?』

 いきなり現れ泣き出したカノンを、初恋の人は優しく抱き上げ、カノンが泣き止むまで髪と背を撫でてくれた。

 涙で視界がボヤけていたからか、それとも窓から差し込む西陽のせいか。とても美しかったその人の姿は、色彩も輪郭も朧であやふやに記憶された。

 泣き止むまで初恋の人は物語を語ってくれて、それがとても落ち着く、いや、落ち着き過ぎたのも原因かもしれない。

 日差しにまどろみ、心安らぐ声音であやされた幼子がどうなるかなど、推して知るべし。

 それでも夢の中へ落ちる間際、その人が言った一言と声音を、カノンは忘れられない。

大司書(ライブリア)を待ってるんだ。ずっと……』

 あの時の声より甘く切ない響きを、カノンはまだ聴いたことがない。

(顔も思い出せないのに、ずーっと憧れてるのって、我ながら馬鹿だなぁって思うんだけど。仕方ないよねえ)

 忘れられないんだから。そう溜め息をつく。

(……あの人も、一度会っただけの子供の事なんて、覚えてる筈ないし)

 それでも、カノンの夢は決まった。

 あの初恋の人が待ち望む大司書になる、と。

(大司書になって、あの人を笑顔にしたいなんて、ほんと馬鹿だよね……)

「カノン」

「あ。ごめんなさい。セレーヤ先生」

 聴こえた声に思考が現実へと引き戻される。

 青空は澄んで高く、周囲の木々は蜂蜜みたいな黄色と紅茶のような赤に染まった梢を、笑うように風に揺らしていた。

 紺色のメタリックカラーのワゴン車に、本館へ返す本を積みながら、セレーヤが小さく微笑む。

「ううん。謝らないで良いよ。疲れたら休憩して良いからね」

 メーラにピンヒールで容赦なく蹴りを入れていたとは思えない柔らかな表情を浮かべ、セレーヤはそう言った。

「昨日も、閉館後も遅くまで残って勉強してたでしょ? 帰ってからお家の事もやってるのに……。無理、しちゃダメ」

「ほんとに大丈夫なんです。ありがとうございます」

「何かあったら、ちゃんと言ってね。カノンは、家族だから」

(セレーヤ先生……!)

 特級司書のうちで一番歳が近いからか、いつも気にかけてくれるセレーヤに、カノンは心の暖かさを感じて思わず「天使!」と言いたくなる。

「ねえ……そろそろ行かないといけないんだけど?」

 感動するカノンと崇拝されそうなセレーヤに、ワゴン車の運転席から恨みがましそうな声がした。

「ご、ごめんなさい。メーラ先生」

 じとーっとした瞳が、全力で不機嫌を訴えてくる。

「メーラ、これで最後ですよ」

 台車から最後の本を下ろし、折り畳んだ台車も一緒に積んで、パロマは後ろのドアを閉めた。

「りょーかい。じゃ、カノン。乗って」

 助手席のドアが開き、カノンが乗り込むとパロマは静かにドアを閉める。

「カノン、シートベルトは?」

「大丈夫です。メーラ先生」

「よし。じゃ、行くよ」

 丘の下から街までの間に広がる森の道は、舗装という舗装もされていない為、ガタゴト揺れて乗り心地はお世辞にも良いとは言えない。

 下手に口を開くと舌を噛みそうだ。

 時折車体がやや大きく揺れる度、カノンはシートベルトを握りしめる。

 やがて街に出て道がまともになると、ほっと息をつく。

「あのねカノン……いい加減慣れなよ。俺が一度でも事故起こしたことある?」

「ない、ですけど……」

(それとこれとは別っていうか……)

 元々乗り物は得意じゃない上に、下手すれば舌を噛みそうな悪路という組み合わせ。シートベルトの一つや二つは握りたくなる。

 地元ながら可愛いと思う、鮮やかでカラフルな屋根の街並みを抜け、分館とは正反対の方向に街を進む。

 噴水のある広場を通りすぎ、街の中心をちょっとだけ過ぎれば七つから十二までの子供が通う初等院(がっこう)の建物が見える。茶色いレンガと緑のドーム屋根に風見鶏がくるくる回って、今日は少し風が強そうだ。

 初等院とその上の十三から十五までの子供が通う中等院は、規模は違えど外観は良く似ていて、その二つの学校の間に、この街の図書館は位置している。平日は学校帰りのこの時間、生徒が放課後を謳歌する為に我先にと飛び出してくるけれど、休日の昨日と今日はその姿を見ることはない。

 車が徐々に速度を落として、目的地である図書館の駐車場に入る。

 図書館は白い壁の三階建てで、大きな長方形。壁や柱の流線形の装飾が絞り出されたホイップクリームみたいに見える。

「はい、到着」

 図書館の職員用駐車場に車を停めて、書籍と一緒に積んできた台車を下ろす。

「カノン、先に受付行って、書籍持ってきたっていっといて」

「はい」

 手帳のような赤茶色の革で出来た館員証を職員用の入り口にある認証機に翳すと、軽い電子音と共にドアが開く。

「カノンさん。こんにちは」

「こんにちは。トーヤさん。メーラ先生と一緒に本の返却に来ました」

 入り口から直ぐの壁際にある受付窓から、顔馴染みの職員が声を描けてくる。歳は二十歳くらいで、目立つような容姿ではないけれど、優しそうな顔立ちだ。

「ああ、展示が終わったんだね。お疲れ様」

 宿直だったのか、その目の下には隈が濃い。

「ありがとうございます。それで、分館の本なんですけど……」

「えーと、ちょっと待ってね。ルドルフ館長代理に連絡するから」

「はい。ありがとうございます」

(わあ……今日ってルドルフさんかぁ。ルドルフさんとメーラ先生、あんまり仲良くないから出来れば私が引き取って帰った方が良いよね……)

 黒髪にいつもどこか神経質そうな茶色の瞳、スーツを着こなす本館の館長代理である主任司書補佐のルドルフと、メーラが犬猿の仲なのは周知の事実だ。特にルドルフはメーラの事を害虫並みに嫌っている。

(メーラ先生は相手にしてないから余計に腹立たしいって感じだもんね。いつも)

「カノンさん、館長代理が部屋まで取りに来るようにって。館長室わかるかな? そこのエレベーターで三階まで行って、真っ直ぐ突き当たりだから」

「わかりました。ありがとうございます」

 受付を通り過ぎて廊下を進み、職員用のエレベーターで三階へ上がった。軽い電子音と共にエレベーターの扉が開き、赤いカーペットが敷かれた廊下へ踏み出す。

 中の壁も白く、等間隔にある窓からはもう少しすれば茜に変わる陽光が白いカーテン越しに射し込んで、少しだけ眩しい。

 光に目を奪われていた間に、幾つかある部屋のうち一つの扉が開いて中から本館の司書見習い達が現れる。

 その内の数人の女性が、カノンの姿を見てひそひそと、けれど聴こえるようにわざと、言葉を交わす。

「あら? ねえ、あれ」

「やだ。何でここに?」

「分館だけじゃなく、今度はここにまで媚び売りに来たのかしら」

 見下すような視線と敵意に溢れた声音。

(気にしない、気にしない。いつものこと)

 どうせ通り過ぎれば終わるのだから。嵐のようなものだ。

 嵐の日は家にこもるに限る。

(それにしても……。やっぱりこれって、奨学生絡み、だよね)

 程度の差こそあるものの、大体の街には必ず配置されている国の建物、図書館。そしてそこに勤める司書。

 その仕事内容は、実は貸し出し返却の手続きだけではない。

 新刊や返却された本の配架、返却された本が無事か、破損汚損があれば本の修繕、新刊には貸し出し用のコードラベル貼り、利用者の望む本を探したり書庫に取りに行ったり……他にも色々地味な作業がある。

 さらに昔と比べて格段に進歩した警備装置(セキュリティシステム)があるにも関わらず、各地の分館と中央図書館には未だに宿直という泊まり込みの業務が存在しており、昨今は時給はそこそこなのに年中無休二十四時間の小売販売店(コンビニ)も嫌煙される状況とくれば、国の機関とはいえ給与の高くない図書館司書、特に分館勤務をしたい者は減少の一途を辿るのも仕方無かろうというもの。

 そこで。国から出た政策に司書奨学生制度がある。

 物凄い簡単な言い方をするなら、将来絶対に司書になって奨学元の図書館に勤める誓いを立て、司書になって働くまで、その図書館で見習いとして働く。その代わりに、図書館は学生の衣食住や勉強の手助けをする制度だ。

 ちなみに途中で止める場合、それまでに掛かった経費等を請求されるし、いつまでも司書になれなくても同じく一定期間で請求される。司書になっても三年はそこで働くなど、それなりに制約も多い。

(私は司書になるって決めてたから全然気にならなかったけど)

 分館の奨学生を決める試験会場に駆け込んだ時の事を今でもハッキリと覚えている。

『わたし、大司書(ライブリア)になりたいんです!』

 両親が亡くなり、引き取ってくれる親戚もなく、そのままなら孤児として施設送りになって妹弟と離ればなれになるような状況で、本当はそれどころじゃない時だったのだが、分館で司書見習いを募集している、見習いになれば司書になれるし住むところも与えられると聴いて、思わず飛び出していた。

(……今思うと、何で奨学生になれると思って行ったのかわからないけど)

 ただ奨学生になれば、将来司書になれる上に住むところが貰えて、家族がバラバラにならずに済む。その一心だったのだ。

 後になって考えれば、奨学生として面倒を見てもらえるのは対象者だけだろうと、その時に気づかなかった自分のうかつさも恥ずかしい。

 それでも。

(奨学生に。分館の司書見習いに。メーラ先生達に会えて、良かった)

 会場で皆が口々に迷子だ何だと、カノンをつまみ出そうとした。けれどそれを止めて、理由を聞くように言ってくれたのは、今の師である三人の特級司書だったと、カノンは聞いている。

(アウラさん達にも会えて、凄く幸運だよね)

 奨学生として面倒を見てもらえるのは志願者だけ。奨学生になっても妹弟は施設に入れられる。普通なら。

 カノンが今日まで離ればなれにならずに済んでいるのは、事情を知った分館の最大支援者、アウラ夫妻が慈善事業の一環として弟妹共々カノンを引き取ってくれたのだ。

 夫妻は国内でも有数の貿易事業者。国から爵位も与えられている。身分のある者の義務として、孤児院への寄付なども行っているのだが、その延長として引き取ってくれたらしい。

 そこには夫妻の会社にファッションブランドもあり、両親と顔見知りだったという幸運もあった。夫妻はカノンの両親に目を掛けており、事故の事を知って遺された子供達がどうなったのか気を揉んでいたという。

 本当にあり得ない程の幸運だが、そんなこんなでカノンはメーラ達にも引き取ってくれた家族にも頭が上がらないのだ。

 半ば横道にそれた思考が、すれ違い様の嫉妬と嘲笑にまみれた視線を感じて引き戻される。

(定員は一人。しかも分館は滅多に募集しない)

 利用者の多い本館では、年に数人といったように定期的に募集をしているが、本館よりも利用者の限られる分館は不定期で数年や十何年単位で一人という募集が珍しくない。ついでに言えば、分館の特級司書はその頃から見た目的な意味で非常に有名というか、女性の注目を集めていた。

(そう、エレナさん言ってたなぁ)

 その場に居た時は初等院二年。はっきり言って子供である。確かに女の人が多かったかも、とは思うが、必死だったので周囲の光景などぼんやりとしか覚えていない。

 とにもかくにも、恐らくそこで最初にやっかみを買ったのだろう。最終的にカノンは奨学生になったのだから。

(でも、表面化したのは中等院の頃からだよね)

 流石に初等院の子供にそんな理由で当たれない。それに初等院の内は奨学生としての業務はほとんどなかったので、メーラ達との接触自体ほぼ皆無だったのもあるだろう。そこまできたらそのまま無視して欲しいものだが、どうやら嫉妬の炎は下火になることはあっても消えることは無いらしい。

 奨学生の義務として放課後に分館で短時間だが業務を行うようになってから、段々と。高等院と特に見習い含めて本館の女性職員達からの視線に敵意を。声音や態度に嘲りを感じるようになった。

(仕方ないよね。それにもう慣れたし)

 有名税とはこういうものなのかも知れない。

 それが良いか悪いかは別として、慣れてしまえば黙ってやり過ごすのが賢いとわかるもの。

(メーラ先生達に迷惑かけるわけにいかないもの)

 噛みつけば、カノンを奨学生として迎えているメーラ達に泥を塗ることになりかねない。下のやらかした事は上司(ほごしゃ)の責任だから、

 何事もなく女性達をやり過ごし、カノンはホッと息をつく。

 そして突き当たりに、ビスケットのような両開きの扉が見えて、カノンは一旦立ち止まり、身だしなみを整える。それから扉を軽く数回ノックした。


 ところまでは普通だったのだが。


(何でこんな事にいぃぃ!)

 ここは冷凍庫かと錯覚するような心理的ブリザードが館長室で猛威を奮っている今現在。

「カノンは試験を受けたことが無いだけで、受ければ一発で合格する」

大学府(アカデミア)にも行っていない無学(むがく)(やから)が合格? 笑わせるな。司書試験は大学府を出たものでも一度で合格するのは珍しい。低脳(ていのう)な凡才見習いにできるわけないだろう」

「カノンの事を言ってるなら見当違いだし、低脳凡才は君自身じゃない?」

 メーラの言葉に、ルドルフのこめかみがピキと音を立てた。

「何だと?」

 ニッコリと華やかな笑顔でメーラはルドルフの神経を逆撫でる。

「君に教わってる本館の見習い生は可哀想だよね。師の質って影響大きいみたいだし?」

「貴様……!」

 プチっと何が切れる音をカノンは聴いた。

(どうしようどうしよう! ルドルフさん、メーラ先生を刺しそうな顔してる!)

 あわわわ、とカノンが狼狽えているうちに、事態はどんどん転がって。メーラは会心の笑顔でこう言った。

「君なんかより、うちのカノンの方が数段上だってそろそろ理解しなよ。カノンなら試験なんて一発合格だし、すぐに君なんか足元にも及ばない司書になるんだから」

(無理ですー! 無理です。メーラ先生ー! 私そんな頭良くないです!)

 なに煽りまくってるんですかー! というカノンの心の絶叫は微塵も届く気配がない。

 そしてメーラの言葉にルドルフの視線がカノンに向く。

(ひぃぃ!)

 視線だけで殺されるかと思うくらいルドルフの顔は凄いことになっていた。だが、不意にルドルフの口許が笑みを刻む。

「では証明して見せろ。貴様のそのポンコツが今度の試験に一発合格したら、そいつに言った言葉を訂正してやる」

「ダメ。土下座と自分より上として以後は敬うのもつけて」

(ちょ! 何言ってるんですかメーラ先生っ?)

「ハッ! 大した自信だ。本当に馬鹿なのか? 良いだろう。土下座でも何でもしてやる。だがそれなら、そいつが一発合格しなかった場合、貴様……いや、貴様ら分館の全員、特級司書から退いてもらう」

 ビシッとルドルフの指がメーラの胸元に輝く特級司書のプレートを指し示した。それを受けてメーラの顔にはニヤリとした笑みが浮かぶ。

「良いよ」

(良くないー!)

「ま、待って下さい! 全然良くないです! メーラ先生!」

 はしっとメーラの上着をカノンは掴む。

(私が試験に一発合格しなきゃ、メーラ先生達が司書やめるって事だよねっ? 嫌ぁぁぁ! そんな責任重すぎるー!)

 心の底から訴えるカノンにメーラが慈愛に満ちた微笑みを向け、優しく諭すように言う。

「カノン。大丈夫。彼すら受かる試験だよ? カノンが受からないわけないじゃない」

(う、わあぁぁ! 何でいちいち煽るんですかメーラ先生ー!)

 気配だけでルドルフがどんな顔をしているか、カノンにははっきりわかった。殺されるかも知れない、とも思った。

「無理です! そんな、私」

「もう! つべこべ言わない。決定だからね」

「メーラ先生ー!」

「はいはい。じゃ、本も回収したし帰ろう」

 片手にカノンの襟首、片手に回収した本を持って、メーラは部屋を出る。その背にルドルフは嘲りをたっぷり含んだ視線と声を投げた。

「試験は一月後だ。今の内に引き継ぎ資料の用意と次の職を探しておく事だな」

「あはは。ウケる。その冗談面白いね。君にしては」

(全然面白くありませんー!)




「……なるほど。それで」

「メーが、悪い」

「痛っ! 何するのセレーヤ!」

 分館に帰って来たカノンの顔色が青を通り越して土気色だったのを心配したパロマとセレーヤは、ひとまずと宿直が泊まる生活棟の食堂へ連れていき、カノンがほぼ半泣きで打ち明けた内容に、二人は納得の気配でカノンを労った。そしてセレーヤはメーラの(すね)に蹴りを入れ今に至る。

「そうですよね! やっぱり無理だって思いますよね! うわあぁん! ごめんなさいパロマ先生、セレーヤ先生ー!」

 巻き込まれて退職の危機に陥っている二人の恩師に、カノンは合わせる顔がない。穴を掘って埋まるべきかも知れないと、ひたすら頭を下げる。

「カノン、落ち着いて。座ろう?」

「さあ、ホットミルクもありますからね。熱いのでゆっくり飲んで」

 二人の優しさと気遣いが、今は針の(むしろ)だ。

「カノン、別に謝る必要無いでしょ。さっきから何でそんな謝ってるわけ?」

「メーラ先生! 普通に考えて無理じゃないですか! なのに先生は勝手に約束しちゃうし! 私、先生達を退職に追い込むなんて耐えられません!」

 カノンの思いの丈を聴きながら、メーラは不思議そうに首を傾げる。

「退職なんてしないよ?」

 ニッコリとしたメーラの笑顔に、一瞬カノンは口約束だし無効だからからかっただけ、とかそういう奇跡があるのかと思った。が、奇跡とはほぼあり得ない事が起こるから奇跡という。現実は非情だ。

「カノンは一発合格するんだから」

(ああ……もう、ダメ。メーラ先生、現実を見れてない……)

 メーラが現実を見られないのだと、カノンが打ちひしがれて口から魂が旅立ちそうになる様子に、流石にメーラも悪い気がしたのか、パロマとセレーヤを見る。

「ね。何でカノンこんなになってるの? 二人も別に構わないし、同じ考えでしょ?」

「あのですね、メーラ。カノンさんが合格するだろうとは私も思いますけど……」

(いや、何言ってるんですかっ? パロマ先生!)

「メー、カノンの気持ち、考えて。普通、いきなり一月後の試験受けてなんて、驚く」

(違います! いえ、それもありますけど、そこじゃなく!)

「いつか受けるんだし、ちょっと早くても問題無いでしょ」

(ありますからメーラ先生! でもそこじゃなくてですね!)

 絶望。その二文字しかない。

「先生方……そこじゃないです。わ、私、試験一発合格なんて……」

「あのね、カノン。何度も言わせないでよ。ルドルフすら受かる試験にカノンが落ちるわけ無いでしょ。現に、パロマもセレーヤもそこに関して一切心配してないし」

 ねー? と子供のように二人の特級司書にメーラは同意を求め、二人も事も無げに頷く。

「それおかしいですよねっ!」

「え。何で?」

(あぅ……。め、目眩が……)

 このまま意識を手放してしまいたくなるものの、カノンは堪えた。

「メーラ先生、パロマ先生、セレーヤ先生」

 何で先生達に向かってこんな明らかな事を言わなければならないのか。

「司書試験は公務員試験……国の試験ですよ?」

「うん。そだね」

「そうですね」

「……うん」

「普通、試験は大学府出た人が受けますよね?」

「まあ、大学府出が多いみたいだけど」

高等院(こうとういん)を出た方でも受ける方はいるようですが」

「……カノン?」

 酒は一滴も入っていないが、カノンの目が据わる。

「そんな試験、まだ高等院すら卒業してない私に何で一発合格できるなんて思うんですかっ!」

 ツッコミのままに両手をテーブルに打ち付け、音が響く。

「何だか荒れてるみたいだね、カノンちゃん」

「大丈夫ですか? カノンさん。今度は何をしたんですか、メーラさん。あ、パロマさん閉館作業、終了致しました」

 新たにそんな言葉と二人の青年が食堂の入り口から現れる。

「ルヴィさん、クーさん」

「ちょっとクーベルト、何で俺がなにかやったと思うの?」

「おや、違いましたか?」

「合ってる」

「セレーヤ!」

 カノンにルヴィ、クーと呼ばれた青年は共にこの分館の奨学生である。

 色白でクセのあるふわふわの金髪に人懐こそうな華のある顔立ちで、菫青(コーディエ)と呼ばれる濃い紫と淡い青の混じった珍しい色合いの瞳なのがルヴィこと、ルドヴィヒ。

 黒髪をきっちり整え、髪と同色の涼しげな目元に(シルバー)フレームの眼鏡を掛けているのがクーこと、クーベルトだ。

 二人は揃って動きやすいシャツにジーンズ、そして紺のエプロンという容姿に比べ随分と地味な服装である。それでも、彼ら目当てに分館に来る利用者もいるほどなので、相当素が良いのは保証されたようなもの。

「我らが大先輩のカノンちゃんが悲鳴を上げるような事案て、メーラさんの引き起こすものと黒い悪魔くらいしか思い付かないけど」

「ちょっと! ルドヴィヒそれっ」

「で、何がありました? 私達で対処可能な案件ならばお力になりますが」

「ルヴィさんとクーさんからも言って下さい! メーラ先生が」

 カノンの涙ながらの訴えに、二人は話を聞き終え裁定を下した。

「メーラさん。引くわー」

「そのうちカノンさんとそのご家族から訴えられても知りませんよ」

「ねえ、何でそうなるの二人とも! 俺間違ってないし!」

 メーラの叫びに、ルドヴィヒは真顔で応え、クーベルトは眼鏡のブリッジを押し上げる。

「いや、自分の喧嘩に女の子巻き込むのはギルティ」

「あと一ヶ月? 寝ぼけてるんですか。あなたが財務に携わっていなくて本当に良かったと、今、心底実感しています」

 容赦なく言葉のブローがメーラに打ち込まれていく。

「そもそも、試験申し込みってもう締め切られてるんじゃない?」

 ルドヴィヒがやれやれと言うように腕を組む。

「確か、先月末で最終締め切りだった筈です」

 ふぅっと息をついて、クーベルトがカノンを見た。

「大丈夫ですよ。カノンさん。申し込み出来ない以上、試験の受けようがありません」

「クーベルトさん……!」

 助かった! その安堵にカノンは心底ホッとして胸を撫で下ろそうと、した。が。

「え。申し込みしたけど?」

 空気が、凍った。

「……今、何と?」

「試験課に連絡して、分館(ここ)と本館の名前出して受験出来るように手配したよ。手続き出来たから来週中には、受験票届くと思う」

 メーラの言葉に、パロマは視線を逸らし、セレーヤはじとっとした目をメーラに向ける。

「あ、あの、いつ……?」

「え。あの後すぐ。端末から」

 事も無げにそう言って、メーラはポケットから自分の携帯端末(タブレット)を取り出した。

「うわぁー……いつもは操作の仕方わかんないとかおじいちゃんみたいな事言ってるのに」

「ちょっと、ルドヴィヒ! 誰がおじいちゃん?」

「やだな。パロマさんもセレーヤさんも使いこなしてるんだから、メーラさんしかいないでしょ?」

「俺だって使いこなしてるもん!」

 そんなやり取りを横に、カノンは呆然とした面持ちで真っ白になる。

「カノンさん」

 クーベルトはそんなカノンの肩にそっと片手を置く。

「クーさん……」

「明日と言われるより、マシですよ」

 まだ一月の猶予がありますから。眼鏡の奥でクーベルトは優しく微笑む。つまり、もう腹をくくれ、と。

「シフト、調整しましょうね。カノンさん」

「パロマ先生ありがとうございます。でも、毎日来ます。むしろ勉強みて下さい」

「はい。それは喜んで」

 パロマにセレーヤも頷く。

「でしたら、私とルヴィもお手伝いします」

「ありがとうございます!」

「いえいえ。カノンさんには私達こそお世話になっていますから」

「そうそう。カノンちゃんがいなかったら、オレ達ここでやってけるかわからなかったし」

「そんな大げさな……」

「大げさではなく、事実ですよ」

 ルドヴィヒとクーベルトは二年前に分館が新たに迎えた奨学生なのだが立場が少々特殊で、大学府(アカデミア)卒業後にこの分館ではなく、中央と呼ばれる王都の図書館へ勤務予定。

 中央本館の奨学生を預かるという形になっている。

 そうなった理由は、二人の通う大学府が王都よりも分館の方が近く、二人の両親の希望もあり閑静な場所にある(つまり遊び歩けない)ので条件がぴったりだった為だ。

 宿直用の生活棟には部屋もいくつかあるので、今はそこに住み、分館から大学府に通っている。

(中央の奨学生と分館て随分違うって驚いたなぁ)

 ルドヴィヒとクーベルトに出会った頃を思い出し、カノンは思わず微笑んだ。

「まさか、この年になって家事全般を覚える必要にかられるとは思っていませんでしたし」

「それなぁ。カノンちゃんがいなきゃ、オレ達大学いくどころじゃなかったよ」

 二人ともそれまで家事などしたことが無かったらしく、洗濯機の使い方は何とかなったものの、それ以外がまるでダメ。

 特に食事は毎日テイクアウト。栄養は片寄り、体調も崩しやすくなった。それを見かねた当時中等院のカノンが、二人に家事を教え、食事の世話をしたのだ。

 カノンとしては家でやるのと何ら変わらないので特にしてあげたと思うほどの事ではなかったのだが、家事に慣れていなかった二人にしてみれば救世主(メシア)ばりの存在となった。

 カノンの存在により、無事に大学府に通えるようになった二人は、以降カノンを先輩として敬っている。

「列車やバスに乗るのがあんなに大変とは」

「いつも車で送迎だったから、完全にあのラッシュ現象とか都市伝説だと思ってたし」

「……カノンさんに比較的人の少ない号車を教えて頂かなければどうなっていた事か」

「中等生に道を切り開いてもらってやっとだったもんなぁ……それはタイムセールでもだけど」

「お二人とも、凄く頑張ってらっしゃいましたもんね……!」

 二年前を思い出し、カノンも思わず胸を熱くする。

 冷静に考えればそれどうなのと思う内容でも、当人達にとっては不可侵の尊い絆の思い出だ。

「バスと言えば、そろそろお時間では?」

 食堂の樫の木で出来た柱時計と窓の外に見える薔薇色から移り変わる空が、丘の下までダッシュせよと告げている。

「あ。ほんとだ。すみません、私そろそろ失礼します!」

 カノンは席を立って一礼すると慌てて駆け出す。

「ああ、待ってよ、カノンちゃん! オレ送るからー!」

 すぐに追い付いたルドヴィヒが隣に並び、カノンと丘を下る。

「ルヴィさん、私なら大丈夫ですよ」

「ダーメダメ。女の子を一人で歩かせるなんてあり得ないよ。ただでさえ最近物騒なのに」

 サクサクと丘を下り、小さな道を取り囲む森を抜け、バス停のベンチが見えてきた。

「懐かしいなぁ。最初は終バス逃して街からよく歩いたっけ」

「お二人とも、買ったものを抱えてヘトヘトになって図書館のポーチに座り込んで」

 クスクスと笑うカノンに、ルドヴィヒは恥ずかしそうに頬を掻く。

「カノンちゃんとパロマさんが大慌てで中に入れてくれて、暖かいココア淹れてくれて、それがすっごく、美味かった」

 勿論今でも。そう言って、ルドヴィヒは笑う。

「試験勉強、大変だろうけど……。わかんない事とかあったらさ、ほんと、聞いて? これでもオレ、一応年上のお兄さんだからね」

 任せなさい。ルドヴィヒはそう言って片手で胸を叩き、ウィンクする。

「はい。ありがとうございます」

「クーも、カノンちゃんには協力を惜しまないよ。何てったってオレ達の救世主」

「ふふ、ルヴィさんたら」

「いやいや、マジよ?」

 口の端を微妙に吊り上げ、ルドヴィヒは何とも言えない笑みを浮かべ、時刻表を念のためにチェックすると、ベンチに腰掛け、自分の隣を叩く。

 カノンはルドヴィヒの隣に腰掛け、鞄を抱えて大きく息を吐いた。

「あんま気負わないで。って言っても無理だよね」

「はい……。さすがにメーラ先生達の進退に関わるのを気楽には……」

「うん……。オレでもビビる。まったく、メーラさんも厄介な事押し付けてくれたよなー。今度、仕返ししちゃう?」

「……ちなみにどんな?」

「うーん……。月祭(ルナリア)でメーラさんだけお留守番」

「あはは。メーラ先生怒りそう」

「だよねー。はは」

 バスが来るまでの短い時間、カノンとルドヴィヒはそんな他愛ない話をする。

「ルヴィさん、ありがとうございます。少し元気出てきました」

「そ? オレで良ければいつでも声掛けて。オレ達はカノンちゃんの味方だからね」

「はい」

 バスが来てカノンは定期を読み取り機にかざして乗り込む。

 街に向かって小さくなるバスを見送り、ルドヴィヒはもと来た道へと踵を返した。

 森の小道を抜けて丘の上へ続く緩やかな上り坂を越え、生活棟の食堂へ舞い戻る。

「カノンちゃん送ってきたよー……って、何。どうしたの?」

 食堂の扉を開けて、ルドヴィヒは怪訝そうに首を傾げた。メーラを始め司書の面々とクーベルトまで一様に難しそうな表情を浮かべていたからである。

「おかえり。ルドヴィヒ」

「うん。で、セレーヤ、どうしたの。これ」

 セレーヤはルドヴィヒの言葉にちらりとメーラを見て、クーベルトが代わりのように口を開く。

「はぁ……。事は思った以上に厄介そうなんですよ」

 やがて溜め息一つ。クーベルトはメーラ達から聞いた話をルドヴィヒにするべく、着席を促す。少し長い話になりそうだった。



 八つの時に両親が仕事先で事故に巻き込まれて亡くなった。ファッションデザイナーの母とその服を仕立てる父。二人は年に一度の晴れ舞台に気合い十分で、とびきりの笑顔を見せて、お土産を約束してくれたのに。

 叔母の家で帰りを待っていたそこに届いたのは、両親の笑顔とお土産ではなく、もう二人は帰ってこないという知らせ。

(良くわからなかった。それから、凄く、怖くなった)

 ショックはじわじわ後からやってきて、目の前も何もかも真っ暗になる感覚と、叫びたいくらいの喪失感。もう二人は戻ってこない。そう、理解した時が。

(本当の恐怖)

 一つ下の妹と三つ下の弟達。カノンは八つ。

 叔母の所で四人の子供を数日預かるならともかく、育てる事はできない。

 どう考えても、施設行きの未来しかなかったし、そうなる筈だった。それを救ってくれた夫妻は、一年の大半を留守にしているが、カノン達を本当の家族として受け入れてくれているのが、凄くありがたい。

「お帰りなさい。カノン」

「お帰り、カノンちゃん」

 分館から街中への帰路をたどり、青い屋根に石と漆喰(しっくい)の壁が味わいを出す古き良き町屋敷(タウンハウス)といった外観の家、家の前には車が数台置けそうな庭があり、そこを通り抜けて灯りの点いたポーチに上がって扉を開ける。

 丁度廊下に出ていたらしい、この家の主であるやや髪の白くなった夫婦は、いつもと変わらない微笑みを浮かべていた。

「ただいま帰りました。アウラさん、ユートさん」

 金髪をゆるくまとめて結い上げ碧玉の瞳を柔らかく細め、コロコロと笑って濃い緑の膝丈ワンピースを着た婦人はカノンを軽くたしなめる。

「もう。お祖母様(ばあさま)って呼んで良いのよ、カノン」

 髪こそ白くなり始めているが、現在でもボンキュボンのパーフェクトボディでセクシードレスも着こなせる女性をそう呼ぶのは、ちょっと抵抗があるカノンだった。

「あれ? 顔色が良くないね。風邪を引いた?」

「いえ、ユートさん。大丈夫です」

「アウラじゃないけど、お祖父様(じいさま)もしくはユートって呼んでくれて良いんだよ?」

 どうみてもお爺さんには見えない栗髪に菫色の(まなじり)の下がった二枚目だ。左目の眦にはホクロがあり、何とも言えない色気が漂っているくらい。白いシャツと黒のスラックスというシンプルな服装だが、それでも揺らがない色男感は凄いとカノンは思う。

「ありがとうございます。アウラさん、ユートさん」

 ほんのりと人の暖かさに緊張が少しだけ解ける。その背後から、再び玄関の扉が開く音と疲れた声がした。

「ただいま~」

「お帰りなさい、エレナさん」

「お帰りなさい。エレナ」

「エレナちゃん、お帰り」

 カノンが振り向くと、黒いハイヒールとグレイのスーツに身を包んだ、色白のモデルばりの美貌をもつ、長い金髪の女性がヨロヨロと壁にすがりついている。

「カノンひどい……。お姉ちゃんにそんな他人行儀。あんまりつれないと泣いちゃうんだからね」

 ぐすん。ちょっとだけ恨みがましい目でそんな事を言う。普段はキリッとまさに仕事のできるキャリアウーマンなのだが、仕事と家時間はきっちりわけるのがエレナの信条らしい。

「ゴメン。エレナお姉ちゃん」

 美人が台無しになりそうな程緩んだ、にへらっとした笑みが疲労の色濃いエレナの顔に浮かぶも、すぐに何かに気づいてカノンの顔を両手でガシッと掴む。

「何があったの? カノン」

「お、お姉ちゃん。……ちょっと怖い」

 頭を掴む両手の指先が心なしか食い込んでいるような……。

「だって! 顔色悪いし、疲れが目の下に!」

 ユートと同じ菫色の瞳がこの時ばかりはちょっと怖く感じるカノンだった。とても優しく大好きなのだが、こればかりはいつまで経っても慣れそうにない。

「カノンお姉ちゃん、帰ったの?」

「メロ、ただいま」

「メロディ、私にはー?」

「エレナ姉さんも。お帰りなさい」

 一つ下の妹が廊下の先の食堂から顔を出す。カノンと同じ栗色の髪を一つにまとめ、カノンより青が強く出た緑の瞳に赤いアンダーリムのメガネを掛け、若草色のワンピースにピンクのエプロンをつけている。

「……どうしたの? 何かあったの?」

 その妹までカノンの様子がおかしいと感じたらしい。

「カノン、さぁ、洗いざらい吐きなさい」

 妹と姉のジリジリと狭まり迫る包囲網に、カノンは抵抗する事を放棄した。

 結果。

「今すぐ説明に来なさい」

 エレナは般若(はんにゃ)の形相で分館へ電話を掛け、程なくしてメーラとパロマがやって来た。

「だからぁ、カノンにも言ったけど、ただの筆記試験くらいカノンなら大丈夫だって」

「ふざけないで。学力に問題なくても、あんた達と違ってカノンは繊細なの。そこの所を無視して勝手に顔色悪くなるような約束してくるとか、ぶっ飛ばすわよ?」

「いや、学力が一番問題だよエレナお姉ちゃん! まず一番そこだから! 私、無理」

 居間(リビング)に集まり、各々がソファに腰掛けて事の次第を聴いた後、エレナがドスのきいた声と視線をメーラに向けてそう言ったが、カノンは思わずツッコんでいた。

「エレナさんのおっしゃる通り、カノンさんの心情を鑑みず、お話を進めてしまった事については、本当に申し訳ありません」

 苦笑して、パロマが頭を下げる。

「あっれー? パロマ兄さん?」

「え。何、パロマ兄さん来てる?」

「こんばんは。レガート、パストラーレ」

 居間を覗いたのは、三つ下の双子でカノンの弟達。髪色はカノンよりも明るい茶で、その瞳は瑠璃(るり)と呼ばれる宝石のような青さ。部活があったのか、休日だというのに、中等院の黒基調で整えられた制服だ。詰め襟と前のボタンは開けていて、中には校章が胸ポケットに刺繍(ししゅう)された学校指定のシャツが見える。

 パロマが微笑み挨拶すると、双子は嬉しそうに居間へ足を踏み入れ、その横に座るメーラを見た。

「あ。メー()ぃお久ー」

「メー兄ぃ、やっほー」

「ねぇ、何かパロマと扱い違くないっ?」

 明らかに軽くついでの扱いだと、メーラが言うと双子は顔を見合わせ。

「だってメー兄ぃだし?」

「メー兄ぃだし、ね」

「だから、何で差がつくの!」

「そりゃー、パロマ兄さんは」

「僕達の授業参観に来てくれたり、いつもお世話になってるし」

「俺だって行きたいのに、許可が下りなかっただけだよ!」

 許可が下りない時点でそれなりに理由があると思うのだが、自ら掘った穴には気付かないものだ。

「セレーヤ兄さんも」

「初等院の頃とか、今でも機会があればだけど、運動会とかの行事にお弁当作って応援に来てくれたし」

「俺も手伝ったし、行ったよ!」

「あー、メー兄ぃの作ったやつだけいつも何か形がアレだったよね」

「そうそう。ゆで卵とか何の形に切ってあるのか当てるゲームできるくらい」

 お弁当丸ごと、タイトル『未曾有の大災害~破壊された街~』なんて双子が称したりと、楽しい思い出なのだが、双子以外の全員が何となくメーラがいたたまれなくて視線をそっと外した。

「うー。だってあいつらブニブニ柔らかすぎ! 最低でも林檎くらいの固さが必要なの!」

 さすがに恥ずかしそうに、メーラが頬を染める。

「はいはい。で、今度は何やらかしたの?」

 仕方ないなぁ、と弟でも見るみたいな目でレガートがメーラを見るのも仕方ないのかも知れない。

「何で俺がやらかした前提なの、レガート!」

「だってパロマ兄さんとセレーヤ兄さんは、問題起こした事ないし」

「俺だって起こしてない!」

「「うっそだー」」

「何でハモるの! 嘘なんてついてないからね!」

「ちょっと。もう、メーラが口を開くと収集つかなくなるじゃない」

 頭が痛いと言うかのように、エレナが額を押さえた。

「レガート、パストラーレ。あんた達とりあえず座りなさい。説明するから」

 エレナが事のあらましを伝え、双子は呆れたような顔でメーラを見る。

「やっぱり」

「メー兄ぃが原因だね」

 ぐぅ、と言葉に詰まるメーラに、何だか段々カノンの方が申し訳なくなってくるのだが、事実なので仕方ない。

「それで、原因はー?」

 レガートの言葉に、パストラーレ以外の全員が首を傾げた。

「カノンを巻き込んだのは、メー兄ぃだけど」

 パストラーレの言葉を継いで、レガートがメーラを見る。

「メー兄ぃ、理由もなくそんなことしないでしょ」

 弟の言葉にカノンも頷く。

(確かに。何でメーラ先生……)

「そう言えば、あんたどうしていつものように受け流さなかったのよ?」

 カノンの心の声と重なるようにエレナがメーラに問いかけ、メーラはキョトンとした顔で答えた。

「え。だってあいつ、カノンを馬鹿にしたから」

(……え?)

 メーラから出た言葉に、思いもよらない理由で目を丸くするカノンと知っていたらしいパロマ以外の全員が動きを止める。

「孤児がどうたらとか、無学がどうたらとか」

(えっと、どれも本当の事だから怒ることなんて……)

「カノンは、司書になれない。司書を目指すことすら、おこがましいって」

 その言葉には、カノンも唇を噛み締めた。

(そういえば、言われたかも……)

 その後の一連ですっかり忘れていたが、改めて言われると胸に刺さるものがある。

「勝手に決めるな」

(あ……)

 そう。だから。

「カノンの先を、あんなド三流ごときに決められる筋合いはないし、それに」

 メーラがパロマを見た。

「ええ。私達……あの分館にいる全員、カノンさんは司書になれると思っていますから」

「ね。だからいい加減うざかったけど、この辺で完膚(かんぷ)なきまでに叩き潰しておこうかな、って思って」

(メーラ先生、それなら先生達が叩きのめされる条件出さないで下さいー!)

 にっこり笑って物騒な事を言ったメーラに、居間は沈黙を返す。

「そう……」

 その沈黙を破ったのは、エレナだった。うふふふふ……とやけに明るい笑い声なのに、カノンは何故か冷や汗が吹き出るのを感じる。

「カノン」

「ひっ……じゃなくて、はい!」

 花咲ような笑顔でエレナがカノンの名を呼ぶ。思わずカノンが背筋を伸ばすと、そのままの表情でこう言った。

「一切の情け容赦なく叩き潰して差し上げなさい。再起不能でも良いわ」

「ヨクナイヨネエサン」

 思わず言葉がバグる。嗚呼もうダメ、と。カノンは両手で顔を覆った。

 その様子を見ていたアウラが、気の毒そうに苦笑して引導を静かに渡す。

「あら。エレナは言い過ぎだけど、多分ここの全員、カノンには悪いけど同じ思いよ?」

「アウラさんっ!」

 いや! 聞きたくない! と耳ごと頭を両手で押さえるという無駄な抵抗を試みるも、世は無情だった。

「メー兄ぃにさんせー」

「レガートあなたもっ?」

 保護者と双子が揃って頷く。

「カノンお姉ちゃん」

「メロ」

「夜食、いつ何が食べたい?」

「…………」

 実の妹の微笑みながらの勉強手伝い宣言に、絶望の二文字が浮かぶ。妹弟はおろか、どうやらあのパロマでさえ、メーラを止める気がないと知れる。

「うちの妹を馬鹿にした超弩級(ちょうどきゅう)の愚か者を、叩き潰すわよ!」

「「イエース!」」

(待ってえぇぇぇぇぇ!)

 カノンの心の絶叫は、エレナの力強く天に向けて突き出された拳に賛同する一同には到底届きそうになかった。




 月夜。満月の光が黒い雲に遮られ、建物の廊下は暗闇に覆われる。苛立たし気に、男は廊下の壁にある筈の灯りのスイッチへ手を伸ばした。その耳に、音が届く。

「――――、――、――――」

 それは旋律(せんりつ)。不安定で、人の心を掻き乱すような。

 人の心の闇を起こすような、そんな音。

 ――連れて行かなければ

 奥底に仕舞ったものを、優しく呼び出す。

 ――連れて、行く?

 紅茶に垂らしたミルクが、渦巻くように。

 ――いや、いらないから、仕舞うのだ

 ぐるぐると回って、溶けて、意識を濁す。

 ――不要なものは、きちんと仕舞わなければ

 クスクスと笑う声がする。

『どこに仕舞おう?』

 ――冷たく、暗い、静寂の箱に

『手伝ってあげる』

 声は楽しそうにそう囁く。

『だから、ちょっとだけ寄り道しましょ?』

 月に掛かった雲が晴れ、廊下に光が戻る。

 そこにただ一人。男は立ち尽くし、廊下の突き当たりにある扉を見詰めた。

 少女は幼き頃にみた夢に向かって歩む

 けれどそれは茨の道

 その行く手に待ち受けるのは、希望かそれとも絶望か


 次回、千年書館 悠久恋書(ゆうきゅうれんしょ)

 第二話『司書と噂と勉強と』


 麺類は腹持ちが良いけど代償(カロリー)を伴う

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