其ノ拾参 ── 現在ノ時間ヲ生キル者
孫権と呂蒙を捕らえた日の夜のこと。
子上と公閭など、一部を除く魏の一同は洛陽の大広間に集っていた。
薙瑠は孫権の移送を完了させたあと、再び子元のいる砦へと戻り、彼とともに洛陽に帰還していた。
一方で、同じ砦にいた春華と孫尚香は。
「彼女は私が責任を持って預かるわ。中心部への呉国の戦力の集中を避けるためにも、準備が整うまでは 砦に残ろうと思うのだけど、良いかしら? 賈充殿」
「ええ、整うまでは戦力の集中を避けるべきというのは同意見です。彼女に関しては、春華様がそう仰るのであれば私からは何も言うことはございませんよ」
「ですって。そういうことだから、旦那様によろしく伝えてね」
──という訳で、未だ公閭と共に砦に滞在している。
移送が完了した孫権や呂蒙は拘束された状態で牢におり、その牢は氷牙の白蛇──小さな白蛇とは別個体の、大きな白蛇が見張っているというが、氷牙曰く「小さな子も一緒にいる、何か不審な動きをしたら眠らせるように言ってある」とのこと。
そんな中、大広間にいる彼らの議題はというと。
「淮河付近の砦周辺で、鬼の気配を感じた……だと?」
「はい、ほんの微かに……ですが、確かに妖気を感じました。私だけではなく、母上や公閭も感じたと言っていた以上、気のせいではないかと」
父・仲達の言葉に、子元は頷きながら当時の状況を報告する。
それは孫尚香を連れてきた母・春華と合流し、砦内にて事情を聞いていたときのことだった。
砦の外からほんの微かに妖気を感じ、外の様子を見に行ったものの、それらしい姿は見当たらず。
「陸遜の消滅はこの目で確認したからこそ、彼でないのは明白です。そして曹操様や曹丕様の妖気とも少し違う気がしました」
「その場にいた孫尚香は何か言ってなかったのか」
「彼女が知る限りでは、呉には孫権、呂蒙、陸遜、そして孫尚香本人以外に鬼はいないとのことです」
「……そうか」
子元の話を聞くなり、仲達は小さく頷くと、その視線を彼の隣にいる薙瑠へと移動させ。
「何か心当たりはあるか? 桜薙瑠」
「心当たり……ですか。心当たりというよりは、考えられる人物なら一人だけ」
仲達の問いかけに、少し考え込む素振りをみせた薙瑠は僅かな間を開けて、とある人物の名を口にする。
「可能性として考えられるのは茱絶様……でしょうか。彼は〈蕾華〉の鬼ですが、ある程度近くにいれば〈開華〉しておらずとも彼の妖気を感じ取ることもできますので」
「茱絶……か。そいつは今も鄴に居るんじゃないのか」
「そのはずですが、拘束されていない以上、自由に動くことも可能なはずです」
「彼女の言うことも、確かに一理ありますが」
薙瑠の言葉に対し、続けて口を開いたのは子元だった。
仲達の視線も自然と彼へと移り、目があったのを合図に、子元は再び言葉を紡いでいく。
「彼は、自身を受け入れてくれる場所で暮らしたいと……そう言っていたことを鑑みれば、曹操様や曹丕様がいることで鬼に理解がある鄴を離れるとは考えにくい気がします。ですが、今のところ彼以外に思い当たる人物がいないという意見にも賛成です。彼が未だ呉国の協力者という可能性も捨てきれない以上、確かめる必要性はあるかと」
「……そうだな」
仲達は小さく頷くと、目を伏せて考え込む素振りを見せる。
自分の右手に控える神流。
彼女は妖術を封じる〈祓〉の担い手である以上、明日──孫権らの話を聞く場には必要不可欠。
そしてその隣にいる氷牙。
〈六華將〉であり、索敵に長けていると聞き及んでいるものの、呉国に居た委細を把握するべく彼女も場に必要。
一方、左手に控える鴉── 紗鴉那と鴉斗。
彼らに至っては、刻印されていることにより孫権の転移の対象になる可能性がある。
そしてそれは、刻印の有無を確認こそできていないものの、呉国にいた氷牙にも言えること。
孫権は神流の〈祓〉により妖術を使用できない状況にあるが、刻印そのものを消すことはできないと聞いている以上、油断すべからず。
最後に、子元と薙瑠。
(現状、最も任せやすいのはこの二人……だが)
「諸々の事柄を考慮すると、私たちが一番動きやすいのではないですか、父上」
同じような考えに至っていたようで、言おうとしたことを代弁したかのような子元の言葉に、仲達は視線を上げて彼を見遣れば、真っ直ぐな視線を向ける彼の青白い瞳と目があった。
「……明日、孫権と呂蒙からの話を聞く場にお前はいるべきだろう」
「では私は洛陽に留まり、索敵は薙瑠に任せる……と?」
「……そうしたいところだが」
彼にしては珍しく歯切れの悪い返事に、子元は少し不思議そうな顔をする。
というのも、推測に過ぎないとはいえ、孫権の目的が〈六華將〉、ひいては桜の鬼であることを考えれば、彼女を敢えて一人にするのは危険なのではないか、と。
「薙瑠ちゃんを案じてくれてるのよね」
仲達の心情を読み取ったかのような神流の言葉に、仲達は一瞬だけ眉根を寄せる。
「この状況でわざわざ一人で行かせる必要はないだろう」
「ええ、その意見に私も賛成。というより彼女に一任してたら止めてたわ」
「だがどうする、お前の同行は許可できない」
「…………俺が同行する」
静かに、而してどことなく強かな声音で同行を申し出たのは鴉斗だった。
彼は仲達の視線が己に向いたことを確認すると、淡々と言葉を紡いでいく。
「刻印は消せずとも、神流の〈祓〉で転移は防げる。万が一何らかの方法で転移されたとしても、その場に二人いれば圧倒的に有利な状況だろう。……何より、同じ場に鴉は二人も要らない」
「そーだな、けど兄貴、そういう意味ではあたしが同行してもいいんだぜ。孫権とは一度やり合ってるしな」
「……今まで表にいたお前ではなく、姿を見せなかった俺がこの場に残ることに意味を感じない」
「ああ、それもそうか」
紗鴉那が鴉斗の言葉に納得したように頷くと、神流はすかさず仲達に同意を求める。
「と言うことだけど、どう?」
「……いいだろう。お前も問題ないな、桜薙瑠」
「はい、お気遣いいただき有難う存じます」
薙瑠が丁寧に拱手する様子を見ながら、仲達は小さく頷いた。
話が一段落したのを見届けると、子元はずっと気になっていたとある事柄について口にする。
「……ところで、父上」
「なんだ」
「鴉……について詳細を伺っても? ……今更ですが」
「……今更だな」
だがまあ説明する必要はあるか、と内心で呟いた仲達は「神流」と一言だけ名前を呼んだ。
それが任された合図だと気付いた神流は即座に「了解」と応えを返して対応する。
「私から説明を……と言うより、説明も何も、見ての通りではあるんだけど。改めて、二人は鴉こと〈六華將〉の菖蒲よ」
「あたしが菖蒲ヶ咲紗鴉那。そしてこっちが」
「……鴉斗だ」
「薄々感づいてただろうけど、以前話した『残る〈六華將〉は魏国にいる』という話。あれは鴉のことよ」
── 姿を現さないのは、その方が〈六華將〉にとって都合がいいから。
── 絶対に、国に迷惑はかけません。もしもあなたが、〈六華將〉を邪魔だと、信用できないと思った暁には。容赦なく刃を向けてくださって構いません。
過去、神流と薙瑠が姿を表さない〈六華將〉について語っていた言葉。
そんなこともあったなと、子元は過去を振り返りながら話を聞く。
「そういうことだ。気付いていたものの言わないでいてくれたのか、本当に気付かなかったのか、何れにせよ騙されてくれてありがとうな。あんたも何かないのか兄貴」
「……ない。言いたいことは既に伝えてある」
「なんだ、既に仲良いのかよ」
「……ああ?」
何故そうなる、と言わんばかりに眉根を寄せる鴉斗。
対する紗鴉那は、特に悪びれる様子もなく「冗談だよ」と適当にあしらっている。
そんな二人の様子を、子元は静かに瞳に映しながら。
(鴉……菖蒲ヶ咲、か)
彼らの名を、内心で呟くように紡ぐ。
菖蒲の名を持つ〈六華將〉──考えてみれば、彼ら意外に当てはまりそうな存在はおらず、驚きはした一方で、やはり、と腑に落ちた自分もいた。
となると、彼──鴉斗の言う、言いたいことというのは。
── こいつを苦しめるようなことを……言ってほしくないだけだ。
(鄴で聞いたあの言葉が全て……ということか)
「おい子元、聞いてるか?」
紗鴉那の言葉を合図に伏目がちだった視線を上げれば、むすっとした彼女の顔が目に入る。
──彼女。
そう、〈六華將〉であることよりも何より、鴉の一人が女性だったことのほうが驚きだった。
「聞いている。お前たちが〈六華將〉の菖蒲だった。言われてみればお前たちしかいないなと思っていただけだ」
「何だよ、そこは嘘でももう少し驚いてくれたほうがこっちとしては話し甲斐があったんだが」
「……悪かったな」
「いやに素直だな……ま、これで〈六華將〉の全員が揃ったってことだ。狼莎はまだ蜀にいるが」
──まだ?
たった二文字のその単語が引っかかった。
いや、特に深い意味はないのかもしれない。
が、改めて〈六華將〉が全員揃ったと聞いたからだろうか。
自分の役目を果たす〝その時〟が、もうすぐそこまで迫っているのではないかと──そんな根拠のない、いわば嫌な予感のようなものを抱いていた。
そして恐らく、嫌な予感の正体はそれだけではない。
彼女が〈六華將〉として、そして桜の鬼として標的になっているという現状。
以前からそうだった、といえばそれで終わる話でもあるだろう。
しかしここまで明確に標的にされるのは少し訳が違う。
狙われると分かっていながら、このまま何もせずにいていいのか──と。
伏し目がちに思い悩むような表情をしている子元の様子を、鴉斗は少しだけ気にするように横目で見たあと、話題を戻すように仲達へ問いかける。
「捜索に行く時間は俺たちの自由でいいのか」
「……任せる」
「分かった。……薙瑠、寝るぞ」
「はい、仮眠ですね」
声をかけながらその場を後にしようとする鴉斗に続いて、薙瑠も踵を返す。
自分の隣から遠ざかっていく、彼女の背中。
──孫権も呂蒙も、〈祓〉で妖術が使えない。
転移する可能性は低い、いや出来ないと断言しても過言ではないだろう。
〈祓〉が破られることは、余程のことがない限りあり得ないと、神流自身が言っていたからだ。
然し、だ。
同行する鴉──鴉斗の刻印は消せていない。
もしも、余程のことが起こり得てしまったら──?
(……いや、起こり得たとしても彼女のみならず鴉も居る。彼らなら何も問題ない)
そう自分に言い聞かせるようにして、子元は静かに目を伏せた。
そんな彼の微かな不安を背中越しに感じ取ったのか、薙瑠と共に大広間を出ていこうとしていた鴉斗は、ふと足を止める。
「……必ずしも」
低音で、どことなく重みのある声音が耳に入り、子元は鴉斗に視線を移す。
軽く振り返りながらこちらを見据える紅い瞳は、冷静に物事を見ているようで。
「必ずしも、側にいることが助けになるとは限らない」
静かに紡がれた言葉に、子元は目を丸くする。
まるで内心を見透かされたような言葉だったが、自分に出来る可能性がある、気付きとなる言葉。
側にいるからこそ出来ることがある。
しかし一方で、側にいないからこそ力になれるときもある──そう言われているような気がして、子元は小さく頷いた。
「……そうだな」
「その時は……頼んだぞ」
「──ああ」
子元の力強い応えを聞いて満足したのか、鴉斗はどことなく安心したように大広間を出ていく。
次いで薙瑠も、子元に小さく微笑んでから大広間を後にした。
「兄貴も……いやあたしらもだけど。出来うる限りのことはして、あらゆる事柄を想定しても、完全に不安を拭うことはできてないんだろうな。刻印は消せてないし」
二人が出ていった大広間の扉を見ながら、紗鴉那はぽつりと呟くように言葉を漏らした。
彼女の言葉に同意するように、神流も言葉を続けていく。
「それでも同行すると言ったのは彼なりの覚悟でしょうね。もちろん、諸々の状況的に動きやすいのが彼だったというのもあるかもだけど、それよりも、」
「──いざとなったら自分が殺る」
「ってことね。……言い方がちょっと物騒だけど」
神流は自分の言葉を代弁してくれた氷牙を見ながら、小さく苦笑する。
この場に来てから殆ど発言していなかった氷牙だが、孫権相手には色々思うことがあるようで、青い瞳は微かに赤みを帯びていた。
そんな彼女は、静かに仲達に向き直るとどことなく遠慮がちに尋ねる。
「……様子を見に……行っても?」
「ああ。話は終わった」
「あたしも同行する。見張るなら一人より二人のほうが交互に仮眠もできるだろ」
「……ん。お願い」
「じゃ、今日は一先ずこれで解散ね。十分休んだら、明日また大広間で」
神流の言葉を合図に、各自それぞれの場所へと赴いていく。
子元もまた、仮眠をとるべく自室に戻ろうと踵を返す。
──その時は、頼んだぞ。
あの言葉は、自分のみならずこの場にいた全員に向けてのものだろう。
しかしそれでも、己のやるべきことに変わりはない。
何事もなく終わらせるべく。
何があっても臨機応変に対応すべく。
子元は手のひらを軽く握りしめ、真っ直ぐと前を見据えながらその場を後にした。
*
*
*
一同が大広間で話し合っている頃。
薄暗く冷たい空間の中、同じ牢に囚われている孫権と呂蒙は。
「……ずっと見られているのは気味が悪いですね、蛇」
「油断してると噛まれるかもな、俺は噛まれた」
「痛くなかったのですか?」
「あまり覚えていない。何せ噛まれた時には既に感覚が麻痺していた上に、その後眠らされまでしたからな」
「……徹底して対策されてますね」
鉄格子の向こう側、牢の外で人を丸呑みできるほどの大きな白蛇が、とぐろを巻いて静かに見つめる中、後ろ手に拘束された状態で壁を背に座りながら呑気に会話していた。
それもそうだろう、〈六華將〉の使いである蛇に監視され、妖術を封じられた囚われの身である以上、他にできることなどなく。
──そう、できることなど、本来はないはずだった。
「孫権様、これ使えますかね?」
思い起こされるのは、いつの日かの彼との会話。
「どうした?」
「僕の妖術……焔鏡の力を封じ込めた鏡、なんですけど」
「! そんな事ができるのか」
「役に立つか謎ですが、やってみたらできたんですよ」
「ははっ、俺は好きだな、そういうの」
「お褒めにあずかり光栄です」
そう言いながら、どうぞと手渡されたのは手のひらくらいの大きさの鏡。
微かに妖気を感じられること以外は至って普通の銅鏡だった。
そんな鏡を、孫権は不思議そうに眺めながら陸遜に尋ねる。
「お前の焔鏡の力が封じ込められてるということは、これをかざせば妖術を跳ね返せるのか?」
「反射する力の加減は鏡の大きさに比例する……というのも、僕の焔鏡本来の性質を受け継いでることもあり、その大きさでは恐らく妖術を跳ね返すことは不可能かと。ただ、吸収──一度のみですが、ここぞという時に焔鏡の名を呼べば、妖術を吸収して無効化することはできそうです」
「成る程、使いどころ次第では十分役に立つじゃないか。俺が持ってていいのか?」
「お役に立てるのであればお持ちください。僕には本体がありますので」
そう言って、陸遜は己の刀を掲げながら笑っていた。
孫権は暗い天井を見上げながら、小さく溜息を吐く。
「どうしました?」
「いや。陸遜はもういないんだと思ってな」
「……驚きましたね、未だ実感がないのも事実ですが」
白蛇に監視される中、何気なく会話を続ける孫権の琥珀色の瞳は、濁ったような影を含んでいる。
陸遜の死は、この場で鴉から聞いていた。
最初は半信半疑だったが、彼らが嘘をつく理由がないことを考えれば、それは事実なのだろう。
鬼の死は、跡形もなく消え去るもの。
骨すら残らず、その時着ていた華服のみがその場に留まるだけの、異様な死の光景はよく知っている。
──そして、もうひとつ。
鬼の妖術は、死後も効果を発揮することがある──ということも、知っている。
(まだだ。今はまだ──〝その時〟じゃない)
でも、その時が来たら、必ず。
──必ず、この手で決着を。
密かな決意と、陸遜から授かった小さな鏡を胸に、孫権は静かに目を閉じたのだった。




