其ノ拾壱 ── 祓ノ神使【鷺草】
「俺の名は、菖蒲──菖蒲ヶ咲鴉斗。〈六華將〉の菖蒲を名乗る者だ」
空が徐々に茜色に染まりつつある頃。
仲達と神流が呂蒙と相対していた砦に現れたのは、もう一人の鴉──〈六華將〉の菖蒲ヶ咲鴉斗だった。
高い位置でひとつに結わえた黒茶の髪から覗く紅い双眸が特徴的な彼は、長い脚に良く似合うすらりとした下衣式の華服を身に着けている。
「お前が鴉斗と言うならば、あいつの名前は何だ」
「紗鴉那。菖蒲ヶ咲紗鴉那だ」
「何故お前は今まで姿を現さなかった?」
「あいつが陽光、俺が陰影。それ故俺は陰影らしく在ったまで」
仲達からの問いかけに、鴉斗は淡々と応えを返す。
そしてふと、とある過去が頭に過る。
陽光と陰影、それ即ち金烏と玉兎。
烏が太陽に例えられるように、月に例えられる存在もいる。
──否、いたというのが正しいのだろう。
(……本来、俺たちが来る予定はなかったんだが)
内心で呟きながら、鴉斗は僅かに目を伏せた。
彼が何を考えているのか何となく把握した神流は、話題を逸らすように流血が見られる鴉斗の腹部を見遣る。
「ところで、あんたのその傷は大丈夫なの?」
「血は既に止まっている。この程度、ただの過擦り傷に過ぎないだろう」
「そう言うなら大丈夫そうね。それと多分、これは仲達も気になってると思うんだけど。彼の〝転移〟は彼自身の妖術じゃないと言ってたわよね」
「……ああ」
小さく頷いた鴉斗は、呂蒙の足元に転がる手のひら大の石を拾い上げる。
見る限りは何の変哲もないただの石だが。
「こいつは、転移に石を使っていた」
「石?」
「転移の術が発動したとき、この石からこいつとは異なる妖気が微かに〝視えた〟。恐らく孫権のものだろう」
「……合わせ技か」
仲達の言葉に、鴉斗は小さく頷く。
「推測でしかないが……転移を扱える孫権が、この石と呂蒙の双方に転移の術式を記す。掌かどこかに石と同じ印をつけているはずだ。あとは呂蒙本人が印に己の妖力を込めることで術式が発動する……ということだろう」
「仮に推測が当たっているとして、だ。呂蒙が転移できるその石には、孫権が転移してくる可能性もあるのか?」
「……確率は低いが、否定はできない。呂蒙だけが転移できる印だったとしても、この石に孫権が転移できる印がないとは言い切れないからだ。肝心の印の有無は、妖術が発動しない限り見えない形式、だと思われる」
「……厄介だな」
「そうね。孫権は印がある物・場所ならどこにでも転移できる可能性がある上、印の有無は妖術が発動しない限り、確認のしようがない形式──つまり、いつ此処に来てもおかしくないと見るべきね」
「……だが、恐らく今は此処には来ない」
どことなく張り詰めていた空気が、鴉斗の一言で少し穏やかさを取り戻す。
鴉斗は呂蒙に視線を落としながら、彼が孫権に対して念話したときのことを思い出していた。
孫権は今、もう一人の鴉──紗鴉那が許昌周辺で相手をしているが、こちらに来る理由があればいつでも転移できるだろう。
つまり、呂蒙から連絡を受けた時点で此処に来てもおかしくなかったはず。
しかし孫権は未だ来ていないばかりか、呂蒙が念話で伝えていた内容は。
──鴉の姿を確認しました。
──予定通り、彼にも印を付けましょう。
「……と言っていた。つまり今回の目的は、あくまでも俺たち鴉に印を付けることだろう」
「待って。まだ何かを仕掛けてくる算段があることも重要だけどその前に、あんた印を付けられたってことよね? しかも紗鴉那も?」
「……つけられた実感はない。あるとしたら……」
鴉斗は視線を落としながら、呂蒙によって傷を負った腹部を軽く触る。
印を付けられるとすれば、それは彼と接触した瞬間に限られるはず。
となると、実感がないとは言えども、考えられるのは唯一彼の刀と接触した腹部のみだろう。
神流も同じような考えに至ったようで、「成る程」と頷きながら小さく息を吐く。
「鬼は常に全身に妖気を纏っている。そして鬼が扱う刀などの武器にも妖気は纏う。
つまり妖術発動時の妖気を最小限に抑えれば、対象に悟られずに刻印することも可能。……悔しいけど上手いわね」
「鴉につけられた印を、お前の〈祓〉で解除するなり発動しないようにはできないのか」
「確かに〈祓〉は妖術を無効化するけど、妖術の発動源……つまり術者本人が対象でなければ無効化するのは難しいのよね」
「……そうか」
「でも、本来なら──」
──本来なら、できるんだけど。
そう言いかけて口をつぐんだ神流に、仲達は眉根を寄せる。
「本来なら、なんだ」
「なんでもないわ、私情だから忘れて。ところで、待たせたわね」
はぐらかすような返事をしたのち、神流はこれ以上踏み込ませまいと、先ほど拘束用の綱を頼んだ兵士を振り返ることで会話を終わらせた。
しゃがみ込んでうつ伏せの呂蒙の両腕を拘束しようとする神流に、仲達は表情ひとつ変えることなく、静かに一言。
「〈六華將〉が隠世の住人であることは、それほど秘匿すべきことなのか?」
思いもしなかった言葉に、神流は僅かに動きを止めた。
しかし仲達に目を合わせることなく、素早く呂蒙の両腕を綱で拘束してゆく。
「知ってたのね」
「ある程度は、だ」
「そう、なら隠す必要はないわね。私たちは隠世の住人だから、現世──つまりこの世界にいる上で、妖術の行使に一定の制限がかけられてる……と、詳細を話したいところだけど」
神流は拘束を終えた呂蒙の後ろ襟を掴むと、起き上がらせるようにぐい、と強く引っ張った。
起こされたことでゆらりと揺れる焦茶の髪。
気を失っていたはずの彼はゆっくりと顔をあげると、薄茶の双眸で神流を静かに見返した。
「あんた目が覚めてたなら言いなさいよ」
「……知らせる必要なんてないでしょう」
「で、いつから目覚めてたの?」
「貴女が私を拘束し始めてからです。そんなに経っていませんよ」
眉根を寄せている神流に対し、後ろ手に拘束された状態で座らされた呂蒙は、相も変わらず平然とした態度で応えを返す。
神流が〈祓〉を施したことにより彼が妖術を扱うことはできないため、妖術で綱を燃やされる等の心配はないが、未だ重要な問題が残っている。
目が覚めていたと知るなり、仲達は彼に近づき、見下ろしながら単刀直入に問う。
「鴉に印をつける、その目的は何だ」
「ああ……気づいたんですね。それはそうですよね、鴉は念話を聞いていたわけですし」
小さくため息を吐いたあと、呂蒙は表情ひとつ変えずに、仲達の鋭く輝く紅き双眸を見つめ返した。
「隠世だとか、現世だとか。私たちが普通は知るに値しないような話を、貴方は知っていると言いましたね。ならば私たちの目的もある程度は予測できているのでは?」
「……桜の鬼。彼女を仕留めて〝現在の時間〟を守る、か?」
「なんだ、分かってるじゃないですか」
仲達の返答を聞くなり、呂蒙は小さく笑う。
しかしその目は決して笑ってはいなかった。
「あの時……〈逍遙樹〉があった村で、桜の鬼を直接仕留めることができれば良かったのですが……事はそう簡単には行きませんね。
だからこそ、彼女の近くにいる頻度が高い鴉に印を付けることで、機を伺うという手段を取ったわけです」
「鴉がよく彼女の側にいるということ。それは氷牙から聞いた……いえ、聞き出したってことね」
「その通りです。桜の鬼であれば、前線に出てくる可能性が高い。
それ故、鴉も前線にいるだろうと踏み、刻印は本来別の者の役割でした。
私がここに来たのは主に陽動です。事が済んだら帰還する……はずだったのですが、為て遣られましたね。〝視える〟だけでなく、まさか念話まで〝聞こえる〟とは」
呂蒙は鴉斗に視線を移しながら、再び小さく笑う。
対する鴉斗は特に何を言うでもなく、静かに彼を見据えていた。
為て遣られたとは言うものの、彼は現に自分への刻印を成功させている。
つまり、未だ彼らの狙いは潰えていないということだ。
とは言え、刻印をどう活かすつもりなのかと追及したところで、彼は口を割らないだろう。
ただでは終わらない──そんな意図が込められているような呂蒙の瞳を見返しながら、鴉斗はわずかに痛む腹部にそっと手を添えた。
己が原因で、彼女を危険に晒すことなどしたくない。
──したいわけがない。
(……させるものか)
「させないわよ」
鴉斗の内心での呟きとほぼ同時に声を発したのは神流だった。
彼女もまた、先の呂蒙の言葉から何かを感じ取っていたようで。
漆黒の双眸は鋭さを含みながら呂蒙を見下ろしている。
「あなたたちの思い通りにはさせない。この先どんな手を打ってこようとも、必ず阻止してみせる」
「何故そこまで必死になるのです? そんなにこの世界を壊したいのですか?」
「……壊したいのか、ね」
神流はぽつりと呟くように応えを返した。
──違う。
ある意味では違わないけど、違う。
これから壊すのではなく。
既に壊してしまったのだ、この世界を。
でも今は、そんな世界に私は、彼らはいる。
その事実がある以上、私たちがやろうとしていることは世界を壊すことだと言っても過言ではないのだろう。
「否定はしないわ。私たちにとっては偽りを正すことであっても、あなたたちからしたら世界を壊すという認識になるのも頷けるから。
でもね、例えそうだとしても私たちは立ち止まらない。何があろうと為すべきことを為すつもりよ」
──世界を壊すことであっても、己が使命を全うする。
そんな意思が込められた言葉に、やりとりを聞いていた鴉斗も賛同するように、瞳を伏せながら小さく微笑った。
茜色に変わった空の下、砦の崩壊した箇所からは西陽が差し込んでいる。
神流の白い髪がほんのりと茜に染まりながらキラキラと輝く様は意志の強さをより強固に感じさせ、それはまるで、この世界が〈六華將〉の背中を押しているような──そんな光景を瞳に映した呂蒙は、あからさまに顔をしかめた。
「偽りだろうが何だろうが、〈六華將〉が好き勝手壊していいようなものじゃないんですよ、この世界は」
「ええ、そうね。その通りよ。自分たちのやろうとしていることが〝現在の時間〟にとって如何に悪であるかは理解しているし、否定する気もない。だからこそ聞きたいのだけど」
〈六華將〉とは正反対の考えを持つ呂蒙に怯むことなく、神流が紡いだ言の葉は。
「圧倒的な力でねじ伏せることができてしまうこの世界が、そんなに大事?」
思いもよらない問いかけだったのか、呂蒙は呆然としたように目を見開き、そして直ぐに眉根を寄せた。
──彼の反応は正しい。
自分たちが必死に守ろうとしているものを軽んじられるような言い方をされれば、誰だって不快になるだろう。
それを分かっていながら、敢えて意地悪な言い方をした。
我ながら酷い言い方だと思う。
けれど、私たち〈六華將〉は──少なくとも自分は。
「……正気ですか、貴女は」
「正気よ。私たちは言うなれば他所者だけど、他所者だからこそ思うわ。
私はこの世界が……現世が好きだなって」
呂蒙の言葉に、小さく微笑いながら応える神流の表情には、彼女らしい強かさのみならず、どことなく寂しさが含まれていた。
──そう、私は現世が好きだ。
この世界が好きなんだ。
自分たちが暮らす隠世にはない、美しさをもったこの世界が。
「でもね、それは現在じゃない」
神流は僅かに瞳を伏せる。
茜さす世界とは対照的に、彼女の表情には影が落ちて。
「現在の現世ではなくて、本来あるべき姿の現世が好きなの。
現在はまだ辛うじて、本来の世界の面影が残ってる。人間という平凡な存在が、世のため人のため、己のため……あらゆる目的を持って精一杯生きている世界。その世界が私は好きなのよ。
──そんな世界に、鬼という存在なんか必要ない」
鬼がいなくたって世界は回る。
国は成長する。
人々は笑い楽しみ、時には怒り悲しみ。
善悪あれど、人は人らしく生きていくことができる。
それこそが本来の現世の姿。
──だったのに。
「私たち鬼には、人間にはない特殊な力がある。それが妖力──火や水などを操る、言葉通りの妖しい力。
考え方次第では、自然や生活をより豊かにする可能性を秘めている存在であるとも言えるわ。
だけど人間では如何にもならない圧倒的な力を以て、弱者をねじ伏せ、国や人を支配できてしまう存在でもある鬼は、今や人間の上に立ち、彼らの居場所を奪いつつあるのよ。
現に、私やあなたたちが上に立つように……ね」
再び視線を上げ、光のない漆黒の双眸は静かに呂蒙を捉える。
彼を見据える神流の顔からは、笑みは既に消えていた。
冷たさを感じる彼女の表情に、呂蒙は静かに息を呑む。
長いようで短い一瞬の時間が流れたとき、神流は小さく息を吐きながら再び口を開く。
「長くなったわね。つまり言いたいことは、あなたを含め、〝現在の時間〟で生きる人々にどんな想いがあっても、鬼がいる以上はこの世界を守るという選択肢はないということよ」
「……そうですか」
神流の言葉に呂蒙はただ一言、素っ気なく応えを返すと、その視線はすぐに別の人物へと移され。
「貴方はなぜこの話に賛同したのです? 司馬懿殿」
率直な問いを、やり取りを静観していた仲達に投げかけた。
〈六華將〉が目的を持って動くならば、彼は何を思い、何を為すために協力しているのか。
直接聞いたことはない、否、聞いたところで他人に本音を伝えようとしない彼が如何応えるのか、神流も静かに傾聴する。
直ぐには答えず、呂蒙を静かに見返していた仲達は、彼にしては珍しい、穏やかな声音で言葉を紡ぐ。
「……賛同したかと言われると頷けないが、考え方を変えた。
やり直せる機会が与えられた、と。
本来ならあり得ないことだが、だからこそ機会が与えられるだけでも僥倖だろう……と」
「だとしても、そう簡単に受け入れられる話ではないでしょう」
「……そうだな」
仲達は僅かに目を伏せ、己の手のひらを見つめる。
忘れもしない、あの日のこと。
守るべき存在を、自ら手にかけようなど──そんな出来事は、ない方がいいに決まっている。
「鬼の力などなければ良かった」
ぽつり、と呟くように紡がれた言葉。
それは彼の、普段は心の内にしまっている真の言の葉。
初めて聞いた彼の本心に、神流は。
──ああ、そうか。
あの出来事がありながら、弱音ひとつ言わずにいた彼は、強い人なのだと思っていた。
でも違う。
決して弱音を吐かないだけで、本心は違う。
上に立つ者として弱さを見せなかった、彼もまた。
──この時間の在り方に苦しめられた一人だったんだ。
「……と、そんな風に考えたことがある。それ故、お前らよりは受け入れやすかったのかもしれないな」
再び呂蒙を見据える仲達の赤い双眸は暗く濁ったような色をしており、それはまさに、この時間の行く末を映し出しているかのようだった。
しかし、らしくない発言をした自分に嫌気が差したのか、彼は直ぐに眉根を寄せ。
「…………私情だ、忘れろ」
誰に何も言わせまいと、吐き捨てるように会話を終わらせると、この後の段取りを伝えるためか、仲達は兵士のもとへと踵を返す。
そんな彼の背中を、呂蒙は何を言うでもなくじっと見つめていた。
一方で、神流は鴉に呂蒙を任せると、仲達のもとへ歩み寄り。
「ねぇ仲達、少しいいかしら」
背後から声をかけられた仲達は、どこか不機嫌そうな顔をしながら神流を見遣り、兵士たちに下がるように指示を出す。
そして神流に向き直るなり小さく息を吐き、紡がれた声音は気怠げだった。
「何だ」
「私はあなたの考えを尊重する。だからこそ少しだけ確認させて」
「……」
話の流れで自然と紡がれた彼の本音。
それは彼にとって弱音とも言えるものである以上、あまり話したい話題ではないだろう。
然し、真剣な眼差しで尋ねる神流の様子に、仲達は渋々ながらも話を聞くことにしたようで、静かに神流の言葉を待っていた。
そんな仲達に対し、神流はどこか言いづらそうに言葉を紡いでいく。
「鬼がいなければ良かったと思ったことがある、だからやり直せるって考えた……私達としては、そう考えて受け入れてくれるのはとても助かる。助かるからこそ、聞きたいんだけど……やり直せても、現在の時間の記憶はなくなる……ってことは、承知の上よね?」
「当たり前だ」
珍しく遠慮がちに問いかける神流に対し、仲達は迷うことなく応えを返す。
「やり直せるだけでも正直夢物語のような話だ。それを全て覚えている上でやり直せるなど……それこそ在ってはならない状況だろう」
「……うん、そうね。あんたが理解者で良かったわ」
仲達の迷い無き言葉に、神流は安心したように胸をなでおろし、小さく微笑った。
そんなとき、『神流』と名を呼ぶ鴉斗からの念話が届き、神流は彼の方を振り返る。
呂蒙の側に立ちながら、自身のこめかみ辺りを指差す鴉斗の仕草に、許昌にいるもう一人の鴉──紗鴉那から連絡があったことを瞬時に理解し、その場で頷いてみせる。
『あいつからの伝言だ。孫権を確保したが如何するか、と』
「! 仲達、どうやら許昌で孫権を確保できたそうよ」
念話の内容をその場で仲達に伝えれば、仲達も僅かに目を丸くする。
「……鴉斗……いや、紗鴉那からの連絡か」
「そのようね。確保した孫権を如何するかって」
「お前の〈祓〉で孫権の転移を防ぐことは出来るのか?」
「推測に過ぎないとはいえ、聞く限りは防げるわ」
「そうか。ならば鴉斗に伝えろ。孫権は洛陽に連れて行け、と。加えて陸遜と孫尚香の動向も確認してくれ」
「承知。孫権の移送手段は?」
「任せる」
仲達の短くも迷いのない指示に、神流は小さく微笑いながら了解、と答えて鴉斗の元へと踵を返す。
そんな神流の背中を、仲達は少しの間静かに見据えてから、先程下がらせた兵士のもとへと戻って行った。
鴉斗のもとに戻った神流は、彼にしか聞こえないくらいの声音で仲達からの言伝を共有する。
彼が黙って頷くのを確認すると、神流はふと空を見上げた。
茜差す空の下、魏国と呉国の衝突が間もなく、終わろうとしている。
しかし未だ呉国の策略を防げたわけではない。
それを踏まえると、あまりにも──
──あまりにも、順調に事が進み過ぎている。
呂蒙はさておき、呉国を率いる立場でもある孫権を、こうもあっさり捕縛できようとは。
もしも、捕縛されることが彼の狙いだったら?
(……だとしても、私の〈祓〉のように妖術を封じる手段がこちらにある以上、捕縛されることは不利なはず……もしくは、そもそも封じる手段があることに気付いていないだけ?)
──いや、そんな単純なことではない気がする。
根拠はない。
根拠はないが、どことなく嫌な予感がするのも確かで。
(それを確かめるためにも、紗鴉那たちに詳しい話を聞くべきね)
ふわりと撫でるそよ風を受けながら、神流は小さく深呼吸をする。
燃えるように朱い空の下、すらりと立つ白鷺の彼女の後ろ姿はとても強かで。
夕陽を受けて輝く白髪は、風に乗って優雅になびいている。
──しかし、その心情は前向きなものばかりではなく。
真剣な表情で空を見上げる漆黒の瞳には、どことなく不安げな影が落ちており、人知れず彼女の心情を映し出していた。




