其ノ捌 ── 護リシ者ト護ラルル者
此処は許昌──献帝が過ごす県城から少し離れた荒野。
木々が僅かに点在するだけの見晴らしの良い場所で、風に乗りながら気持ちよく空を翔ける鴉。
その右眼には十字の模様が浮かんでおり、桜の鬼と同じように、本来は視えるはずがないものを視る力がある。
それを用いて、鴉は許昌、もしくはその先の洛陽を目指しているはずの孫権と呂蒙の姿を探していた。
しかし、ここに来るまでの道中、そして現在地の許昌周辺で、姿を消しているであろう呂蒙の姿のみならず、孫権の姿すら見ていない。
(本当に、どこに隠れてやがる……?)
氷牙には劣るが、ある程度近づけば妖気や気配で大抵の人物は探し出せる自信がある。
居場所が明確でない以上は視界に頼る部分が大きいものの、彼らがいる付近の上空を通過していれば、視界には入らなくとも肌で存在を感じ取っているはず。
にも関わらず、これまで鬼の気配がまるで感じられず、視界にすら入らない現状からして、少なくとも許昌周辺には向かっていない、と考えざるを得ないだろう。
(いや……待てよ)
奴らの標的は鴉──即ち俺たちだ。
仮に何らかの方法で洛陽に居る兄の情報を得ており、既に洛陽に向かっていたとすれば、兄から何かしらの連絡があるはず。
しかし、今の所知らせは受けていない。
この時点で洛陽方面にいる可能性はほぼ捨てていい。
ならば、やはり考えうるのは許昌周辺──
そんな時だった。
地上のわずか後方から微かな、而して強い妖気を感じ取ったのは。
(──っ!?)
反射的に空中で旋回し、地上を見下ろす。
まず目に入ったのは、姿を消しつつ馬を走らせている呂蒙。
その更に後方に、何をするでもなく、ただその場に立っている人物。
かなりの距離があるが故にはっきりとは識別できないものの、恐らく彼が孫権だろう。
しかし、その辺りは既に確認しており、最悪見落としていたとしても妖気まで捉え損ねることは有り得ない。
考えてみれば、彼らの妖気を感じ取ったのは突然だった。
無かったはずのものが、突如その場に現れるような感覚。
──そう、あれは当に。
可能性を思い当たるなり、鴉は直ぐ様神流と薙瑠、氷牙へ念話を送る。
『孫権と呂蒙を見つけた。場所は許昌の南西方向、狙いは恐らく、この俺だ。だがひとつ、気になることが──』
刹那、明るかった視界に影が差す。
それが目の前に現れた孫権によるものだと認識するまでに、僅かな時間を要せざるを得なかった。
豆粒ほどの大きさにしか見えない距離にいた孫権が、一瞬にして自身の目の前、しかも空中に姿を現したのだから。
状況把握が追い付かず、動きを止めている鴉を見下しながら、孫権は刀を振り上げ。
「まだ死ぬなよ」
そんな言葉を引き金に、刀が振り下ろされるのと、鴉が反射的に躱したのはほぼ同時。
同じ様な負傷はしまいと間一髪、鴉は器用に身を捻って回避、そのまま距離を取るべく急上昇する。
(如何やって来やがった……!?)
ある程度の距離を確保したところで、再び水平に飛びながら一先ず呂蒙の行く先を確認する。
見晴らしの良い荒野だったことが幸いし、その存在はすぐに視界に入るが、馬を走らせている方向は許昌の県城──ではなく、僅かに逸れた方角で。
許昌に見向きもせずに向かうとすれば、目的地は唯だ一つ、洛陽のみ。
再び孫権が間合いを詰めて来たときのことを考えて、鴉は応戦しやすい第二の姿──翼を持った人の姿に変化しつつ。
『神流! 呂蒙が姿を消して向かってる! 悪いが仕留める余裕はない──!』
そう念話した直後。
呂蒙の姿を瞳に映していた鴉の視界を遮ったのは、再び突然そこに来たかのように姿を現した孫権だった。
一瞬は瞳を見開いたものの、鴉の表情はどこか余裕を含んでいて。
『──その代わり、孫権は任せろ』
念話を終えると同時に薙がれる、孫権の刀。
その様子を、まるで時の流れが緩やかになったかのような感覚で瞳に映しながら、刀を受け止めるように片腕を軽く掲げた鴉は──嗤っていた。
孫権の刀が腕に接触したと思われた直後、轟、という音ともに疾風が吹き荒れる。
しかし、それは一瞬のことで。
風が収まる頃に孫権が目にしたのは、風を纏わせた腕で、いとも簡単に刀を受け止めていた鴉の姿だった。
受け止めた、というよりは阻んだと言うべきか。
刀の刃は鴉の腕に到達することなく、纏っている風に阻まれており、状況を把握した孫権は僅かに顔を歪め──否、嗤った。
「そう来なくてはな」
「はっ、期待に応えられたようで何よりだッ!」
腕で風ごと振り払うように孫権を勢い良く吹き飛ばせば、飛翔する術がない彼は落下していく──はずだったが、案の定空中で姿を消した。
否、正しくは何処かに移動したのだろう。
束の間の穏やかな時間、十字模様が浮かんでいた右眼を元に戻せば、ずきずきとした頭痛が鴉を襲う。
呂蒙の居場所を突き止めるため、普段よりも長時間、眼の力を酷使していたことによる疲れの現れだった。
しかし、今はそんな事よりも。
(ああ……くそ、面倒な妖術だな)
痛みで顔を歪ませながらも、孫権が最後に居たあたりの空一点を見つめる。
許昌に突然現れた時のみならず、地上からかなりの高度があった空中へと瞬時に移動した、あの瞬間移動の如き妖術。
そして、それにより特に危惧するべきこと。
鴉は今のうちにと、別行動を取っている二人に念話を送る。
『薙瑠、氷牙。孫権の妖術はまるで〈記憶辿咲〉だ。しかしその発動条件が現状分かっていない。つまり……』
ほんの少しだけ間を空けながら、鴉は地上の一際目立つ場所、即ち建造物が密集する県城・許昌へと視線を移した。
その瞳が真に捉えるは、県城そのものではなく──其処に居る、〈六華將〉が護るべき存在。
『あいつが、献帝に近付く可能性を捨てきれない』
真剣で、どこか暗い表情を浮かべる鴉とは対照的に、周囲の情景は嘘のように穏やかで。
それに不思議と安心感を覚え、優しく撫でるような風を肌で感じながら、鴉はふぅと一息。
『俺はこのまま孫権の相手をする。
だから万一を考えて、献帝のことは頼んだぞ』
──大丈夫だ、あいつらなら。
もしもは絶対に起こらない、いや起こらせはしない。
それに万が一、奴が献帝に近付いたとて。
──献帝に触れることなど、できはしない。
そう言い聞かせて、鴉は許昌から視線を外す。
そして未だどこかで奇襲の機を伺っているだろう孫権へと意識を移した。
もしかしたら、今この瞬間に既に献帝のもとへ行っているかもしれない、とも考えたが。
わざわざ空中に居る自分に対して奇襲をかけてきたことを踏まえれば、まだ手段が整っていないのか、はたまた献帝を狙うつもりなどないのか。
何れにせよ、献帝のもとに行っている可能性は極めて低いだろう。
(ま、自分が狙われる分にはどうってことないしな)
鴉は敢えて、孫権の注意が自分に向きやすいように地上へ向けてゆっくりと下降する。
手には己の武器──朱色に輝く鎌を構えながら。
ふわりと地に足がついたとき。
背後で微かに感じた妖気。
反射的に振り返れば、目の前でほぼ同時に姿を現した孫権と視線が交錯する。
刹那、刀と鎌による甲高い音が響いた。
風の妖術を警戒したのか、すぐに距離を取るように飛び退く孫権を見ながら、鴉は嗤う。
「さあてと。再戦といきますか」
鎌と刀、それぞれがそれぞれの武器を構えた、一時の静寂の間。
そよ風に乗って、何処からか運ばれてきた木の葉が、二人の間を揺ら揺らと舞う。
揺蕩う木の葉が地に落つ刹那、二人は再び武器を交えていた。
*
*
*
『──あいつが、献帝に近付く可能性を捨てきれない。
俺はこのまま孫権の相手をする。
だから万一を考えて、献帝のことは頼んだぞ』
そんな鴉の言葉を受け取ったすぐ後、二人は薙瑠の〈記憶辿咲〉によって許昌に来ていた。
献帝が居る建物を囲う門の前、突如姿を表した二人にすぐ様気付いた子上。
今は薙瑠が、彼に事の顛末を伝えている最中で。
「……と言うわけで、私たちもこの許昌の守りにつかせていただきたいのですが」
「なるほど。帝には僕から伝えておくから、是非ともお願いしたいな。それと、彼女が呉に居た……?」
薙瑠から視線を外した彼と目が合えば、氷牙は静かに拱手する。
「……柊氷牙。以後、お見知りおきを」
「うん、初めまして。僕は司馬子上。兄さんにはもう会ったんだよね?」
「司馬……兄さん……」
「はい、彼は先刻淮河方面の砦でお会いした、子元様の弟です」
薙瑠の補足に、氷牙は「成る程」と頷いた。
表情ひとつ変わらない氷牙だが、そんな彼女の様子を見て小さく微笑んだ薙瑠は、話題を戻すように子上へと向き直る。
「子上様。私はひとまず、子元様の元へ行ってもよろしいでしょうか」
「勿論だよ。情報共有よろしくね」
許可を得た彼女は「ありがとうございます」と丁寧に拱手をしてから、一転、瞳を伏せるように笑みを消し。
「〈紅桜・記憶辿咲〉」
そんな声が聞こえたときには、その場からふわりと姿を消していた。
先程まで薙瑠がいた場所を眺めながら感心の表情を浮かべる子上に対し、氷牙は静かに口を開く。
「……外……鴉の様子を見に、城壁の方に行ってもいいですか」
「良いけど、話を聞いた感じだと帝の側に居るのが最善じゃない? 外の様子の伝達なら、一応郭淮殿にも任せてあるけど」
「仰ることは一理あります……が、帝の守備は薙瑠に。私は……孫権の妖術を解明すべく、鴉の支援に回るが得策……かと」
「分かった。〈六華將〉がそう言うなら、その辺りのことは任せるよ」
「有り難う、存じます」
静かに拱手したあと、氷牙の姿がその場から消える。
否、消えたのではなく、近くの建物の屋根に飛び乗っただけなのだが、あまりにも静かで、且つ素早いその動きを捉えるのは、妖気に頼らなければ至難の業だった。
「隠れの白蛇……か」
建物の上を音もなく移動し、あっという間にその姿を小さくする様を瞳に写しながら、子上は無意識に奇譚として伝わる言葉を紡いでいた。
「まさに、だね」
どこか納得したように小さく微笑うと、子上は帝への状況報告のため、踵を返して門の向こうへと姿を消した。
一方、鴉の様子を見に城壁の上へ来た氷牙は。
周囲に広がる荒野の中、県城からは離れた場所、攻撃によって砂埃が舞う場所を静かに見据える。
距離があるが故にはっきりと姿を捉えることはできないが、微かに感じられる妖気は鴉ともう一人──孫権のもの。
(あいつの妖術は……恐らく)
何らかの目印に向かって移動している可能性が高いと、氷牙は考えていた。
薙瑠の〈記憶辿咲〉も〝記憶〟を目印とすることで術が発動できる。
それ故、孫権の妖術も同様の方法で発動されているはずだが、鴉もその程度のことはとうに考えているはずで。
(紗鴉那が分からない……なら)
氷牙は静かに瞳を閉じる。
私がもっと呉国を警戒していれば。
囚われるなんて過ちを犯さなければ。
皆の手を煩わすこともなかったはずだから。
──私が。
──私が、必ず暴いてみせる。
遠くに聞こえる微かな武器の交錯音。
それとは対照的に、穏やかに肌を撫でる風。
明鏡止水の如く五感を研ぎ澄まし、ゆっくりと瞼を持ち上げた氷牙の瞳は、普段の蒼白い色ではなく。
対照的な深紅の色に染まっていた。




