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三國ノ華 ◇ 偽リノ陽ノ物語  作者: 言詠 紅華
─ 第陸章 ─
77/81

其ノ漆 ── 鬼ノ終、華ノ消滅

 子元(しげん)の目の前に舞い落ちる、公閭(こうりょ)の和服の切れ端。

 それが何を意味するのか、考えずとも分かった。

 分かってしまった。

 だから驚いた。

 信頼していた味方が、これ程にまであっさりと消えてしまうことに。

 そして何より──その事実に対して、自分が驚くだけで(丶丶丶丶丶)済んで(丶丶丶)しまっている(丶丶丶丶丶丶)ことに。


「鬼って死ぬと跡形も無く消えるの、知ってるよね?」

「……」

「肉体や骨、その時身に付けていた衣服に至るまで、それは花の如く散っていく。

 本当に何も残らず消えるんだ。

 まるで、この世に存在なんかしてなかったかのように──ね」

「……成る程」

「ははっ、味方が死んで驚いた?」

「ああ、驚いたさ。亡くなっても悲しみを感じない自分にな」


 子元の予想外の言葉に、伯言(はくげん)が僅かに目を丸くした。

 そして直ぐに、嘲笑うかのように歪んだ笑みを浮かべる。


「薄情なんだね」

「そうかもな。だが、薄情で良かったと思っている」

「へぇ? なんで?」

「簡単なことだ」


 伯言の問い掛けに、子元はふ、と小さく微笑(わら)った。

 周囲でぱちぱちと燃える音だけが響く、僅かな沈黙。

 微風が彼の髪や服を小さく揺らしたのを合図に、青白い双眸で伯言に狙いを定めれば。


「お前の──」


 その言葉を残して、子元の姿がその場から消えた。

 かと思った直後、彼は伯言の目の前に現れ。


「相手に集中できるからだ!!」

「ッ──!」


 隙を与えることなく伯言の首元目掛けて刀を薙ぐ。

 しかし間一髪、刀で受け止められ、鈍い金属音が響いた。

 鍔迫り合いになり、至近距離で蒼月と琥珀の双眸が交わる。

 そこで初めて感じ取った、少しの違和感。

 それが伯言の妖気量によるものだと理解するのには、そう時間はかからなかった。


「……お前、疲れてるのか?」

「あ゛……!?」

「鬼の姿を保てないほど、妖気が少なくなってるだろう」


 表情ひとつ変えずに淡々と事実を口にする子元に、伯言は分かりやすく眉根を寄せた。

 同時に、鍔迫り合いの刀が僅かに押し戻される。


「お前に言われなくても……分かってんだよッ!!」


 伯言は鍔迫り合いの刀を半ば無理矢理押し返し、反動で隙ができた腹部目掛けて蹴りを繰り出す──が、子元の腹部に到達するよりも早く、彼は後ろに飛び退いた。

 距離を取ったその時、足元──地面から感じた僅かな妖気。

 それは伯言ではなく、公閭のものだった。

 目視で確認する余裕はないかと思ったものの、伯言が瞬時に間合いを詰めてくる様子はない。

 その一瞬の隙に、子元は視線を落とすと同時に軽く足を退けた。

 地の上にあったのは、先程目にした切れ端と同じようなもの。

 黒く焼け焦げたような形跡もあり、明確な判別はできないものの、微かな妖気も感じた以上、それは公閭のもので間違いはないだろう。


 子元が再び目線を上げて伯言を捉えた直後、彼が眼前に迫り来る。

 流れるような刀の軌道を見逃すことなく瞳に移しながら、子元は軽快に躱していく。

 剥き出しの闘争心。

 そして周囲に炎がある環境。

 以前に村で相対した、焔を操り仕掛けてきた状況とあまり変わらないはず。

 唯一異なることと言えば、変化を解いた状態──即ち人間(ヒト)の姿のままでいること。

 加えて妖術を使う様子が見られないのは、やはり。


(妖気が少なすぎるからか……?)


 然し本来ならば、妖気が枯渇して妖術を扱えなくなることを防ぐためにも、鬼は妖気の使用量を調整しながら戦っている。

 無論、やむを得ず一気に放出してしまうこともあるだろうが。


 ──言われなくても、分かってんだよッ!!


 怒りに震えた声と歪んだ表情からは、まるで予期せず(丶丶丶丶)妖気を消耗したような──そんな状況があったかのように見てとれた。

 ──だとしても。

 此方が手を抜く理由にはならない。


 ヒュン、と空を切る音ともに、頬に感じる僅かな痛み。

 蒼白い双眸が捉えるは、頬を切った刀の切っ先。

 軌道を変えて再び刃向かってくる刀を、子元は躱さず双刀で受け止めた。

 突如行動を変えた子元に驚いたのか、交錯する鈍い音の響きと共に、伯言の動きが僅かに鈍る。

 その油断を見逃さず、受け止めていた刀を弾き返し、子元は無防備になった腹部に蹴りを見舞った。


「かはっ……!」


 後方に吹き飛ぶも、伯言は地に打ち付けられるよりも前に体勢を立て直す。

 両足と土の摩擦音、それにより舞う土埃。

 勢いを殺し切った直後、琥珀の双眸が捉えたのは間合いを詰めてくる子元の姿。

 右手から薙がれる刀を己の刀で受け止めた──筈が、刀がぶつかる感触は無く。

 何も(丶丶)手にして(丶丶丶丶)いない(丶丶丶)彼の右腕だけが視界を横切った。

 その瞬間は、時の流れが遅れたかの如く、色も音もない〝静〟の世界。

 意図に気付いた刹那、急速に動き出す時間と共に、右脇腹に激痛が走る。


(こいつ──ッ!)


 左手にのみ持っていた刀が伯言の脇腹を抉ったあと、子元は右手に再び刀を出現させて肩口を狙う──が、その斬撃は弾かれる。

 顔を歪ませている伯言を蒼月の瞳で静かに捉えながら、子元が容赦なく左の刀を薙ごうとしたとき。


「〈焔鏡(ホムラカガミ)〉ッ!」

「っ──!?」


 予想だにしていなかった彼の言葉に、子元は刀を振り切るよりも速く、反射的に飛び退いていた。

 しかし、伯言の刀が変化することはなく、周囲の炎のパチパチと燃え盛る音だけが静かに響く。


(つう)っ……クソが……!」

「出来ないと分かってて叫んだだけか」

「ああそうだよ、だから何だよ?」

「……ところで」


 刀を滴る血を軽く振り払いながら、子元は淡々と言葉を紡ぐ。


「お前がそこまで妖気を消耗した理由(わけ)はなんだ?

 ここを爆破したのはお前だろう。

 妖術を扱えなくなるほど消費しなければ、お前は公閭(あいつ)を倒せなかったのか?」

「……まさか」

「だろうな。やはりそこまで消耗したのは──」


「──(わたくし)が術を仕込んだんですよ」


 答えを明かしたのは第三者。

 伯言の背後の影からゆらりと、まるで地面から出てくるかのように現れた人物の刀は。

 伯言が振り返るよりも速く、彼の身体を貫いた。


「ッ──て、めぇ……!!」

「油断しましたね」

「……っくそ……」


 刀が引き抜かれ、伯言はその場に崩れ落ちる。

 荒い呼吸が繰り返される中、胸元から流れ出る血は、身に付けている華服、そして地面を赤黒く染めてゆく。

 その様を、彼──公閭(こうりょ)は冷めた双眸で静かに見下ろしていた。

 身に付けていた筈の羽織がなく、薄着になっている腕や腹部からは所々に傷や流血が見られるものの、本人は特に気にしていないようで。

 姿を現した彼に、子元は然程(さほど)驚くこともなく、寧ろ安堵したからか僅かに笑みが浮かんだ。


「やはりお前の仕業だったか」

「お気づきだったのですね」

「妖力の減少に関しては推測でしかなかった上に、お前の存在に気付いたのも偶然だ」

「だとしても、反射が出来ないと分かったあとに、畳み掛けずに話を繋げたのは意図的ですよね?」

「お前がいるなら、そろそろ仕掛けてくるだろう……と思ったからな」

「なるほど。お陰で十分に致命傷を与えられたかと」


 見下ろす公閭の視線を追うように伯言へと視線を移せば、うつ伏せだった彼は仰向けになって呼吸を整えようとしていた。

 体勢を変えた伯言の瞳に映るは、綺羅綺羅(キラキラ)と舞う火の粉の、更に向こうに広がる青い空。

 自分とは対照的に、風に乗って優雅に流れる白い雲。

 そんな穏やかな風景を見詰めながら発した声は、自分でも驚くほど、消え入りそうなか細い声だった。


「はぁ……、っは……お前、……どうやって」

「私があの爆発から逃れたことですか?」

「……っそう、だよ」

「簡単な話ですよ、賭けではありましたが」


 そう言いながら、公閭は変化(へんげ)を解いた。

 子元も合わせて変化を解いたのを確認すると、公閭は伯言の瞳から徐々に光が失われていくのを見下ろしながら、静かに言葉を紡いでゆく。




 ──時は反射前に遡る。

 伯言が反射を仕掛ける直前に、公閭は足元に広がった〈焔鏡(ホムラカガミ)〉から距離を取るため、上に大きく跳んだ。

 鏡から距離を取ることで、少しでも威力を軽減するために。


「こんな訳わかんない場所──」


 人の頭よりも大きくなった焔玉を、伯言は頭上に突き上げて。


「領域ごと壊してやるよッ!!」


 足元の鏡に向かって思い切り振り下ろす。

 焔玉が鏡の面に触れた直後、足元から放たれた白い光が全てを覆い尽くそうとした、束の間の光だけ(丶丶丶)の時間。

 短くとも長い、反射までの僅かな時間(とき)──今しかないと、そう思った。

 展開していた空間術を解除すれば、辺りは瞬間的にもといた外の景色に戻る。

 その間に、公閭は咄嗟に羽織を脱ぎ、足元──光源に向かって広げることで、羽織の影を作り出す。

 その影に刀の切っ先を向けて、再び。


「〈影朧(カゲロウ)〉──!」


 反射された炎が羽織や公閭を覆い尽くすのと、影の空間に退避するのはほぼ同時だった。

 それ故に、防ぎ切れなかった焔がちりちりと、着衣の彼方此方(あちらこちら)を焦がす。

 羽織を脱いだことで露わになった腕も例外ではなく、至るところでズキズキと焼けるような痛みが襲い来る。

 ──結果的に、この程度で済んだのは僥倖(ぎょうこう)だっただろう。

 気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をしながら、公閭は上を仰ぎ見る。

 此処(ここ)は影の空間だ。

 それ(ゆえ)、どの方向を見ても、其処(そこ)()るは()だ〝闇〟のみ。

 しかし、先程まで炎の明るさに覆われた場所にいたからだろうか。

 見慣れたはずの空間が、より一層暗く、異様なものに感じられた。



  

「──こんな感じですね、事の顛末は」


 公閭が軽く視線を上げれば、延焼も徐々に収まりつつある景色の上に、晴れやかに広がる青い空がある。

 やはり何もない影だけの空間は異質だと、改めて感じざるを得なかった。


「間一髪だったな」


 穏やかな子元の声が耳に入り、公閭は彼を見遣りながら小さく微笑う。


「ええ、一歩でも遅ければ、(わたくし)は今ここには居なかったかと」

「そうかもな。しかし、妖術を減らした術を仕込んだというのは?」

「ああそれは、(わたくし)の領域に入り込んだ際に仕掛けました。

 と言っても、入り込んだだけでは術を刻印することはできず、相手に直接的、もしくは間接的に触れる必要があるのですが……心当たりはおありですよね?」


 紫の双眸が再び伯言を見下ろせば、彼は僅かに眉根を寄せた。

 しかし言葉を発しようとはせず、否、発するほどの体力はもう残っていないようだった。

 (ギラ)ついていた瞳も虚ろに空を見つめ、静かに繰り返される呼吸も、間隔が徐々に短くなってゆく。

 そんな彼を静かに見ながら、子元は彼のそばに屈み込む。


「伯言、一応聞くが……お前たちの目的は何だ?」

「……言うと、思う……か?」

「まさか。だから一応と言ったんだ」

「……」


 子元の言葉に対する、伯言の返答はなかった。

 その時、はらり、と子元の視界の端で何かが舞った。

 それが何かを把握するよりも早く、目の前の伯言の身体の彼方此方(あちこち)が、花弁(はなびら)となって宙に舞ってゆく。


「……気の毒……だよ」


 か細い声ともに、伯言は小さく嘲笑(わら)った。

 しかし、その双眸と視線が交わることはなく、虚ろな琥珀色の瞳は静かに空を見つめている。

 彼の手が、足が、そして胴が、少しずつ花の欠片と化してゆく。


「良いように……利用、されているお前らが……ね」

「……それはお前たちも同じだろう」

「……ハハッ……そう、かも……」


 瞳が静かに閉じられた。

 微風(そよかぜ)に揺らめいていた毛先からも、花弁(はなびら)が舞い始め。


「もっと……伸び伸びと、生きたかったなぁ……」


 そんな願いとも取れる言葉を最後に、伯言の身体は全てが花弁(はなびら)と化し、風に乗るように空へと流れていった。

 子元は舞い上がる花を目で追いながら、その場に静かに立ち上がる。

 ざわざわと梢が揺れる中、夕焼けになりつつある空へ舞う花は、籠から解放された鳥の如く、気持ちよさそうに宙を舞い、そして静かに消えていった。


 ──伸び伸びと、生きたかった。


 脳裏で繰り返される、伯言の言葉。

 同時に思い出されるのは、(ぎょう)での曹操(そうそう)子桓(しかん)との会話。


 ──この時間(せかい)に生きる者を手駒に、偽りを終わらせようとしている。

 ──自分たちの筋書き通りに、修正していくことができるとしたら。


 何をやっても利用される、抜け出せない、そんな場所は窮屈で苦しいに決まっている。

 それ故に伯言の言葉は、彼のみならず、現状を理解している者であれば全員が感じている筈だ。

 それは彼女も、例外ではなく。


 ──私は傀儡(かいらい)です。

 ──それが私の存在意義(しめい)ですから。


「……俺もだ、伯言」


 伯言の〈華〉が消えた先、少しずつ茜色に染まりゆく空の彼方を見つめながら、子元は静かに拳を握りしめた。

 そして気持ちを切り替えるように公閭の方を振り返る。


「念のため状況を共有しておく。

 (そん)向香(しょうこう)は投降し、現在母上にお任せしている。

 そして行方が掴めない孫権(そんけん)呂蒙(りょもう)は、建業(けんぎょう)から戻った薙瑠(ちる)氷牙(ひょうが)……(ひいらぎ)氷牙が居場所を探っている最中だ。

 (からす)も建業から戻り次第、許昌(きょしょう)に向かった」

「孫権と呂蒙……その二人が厄介ですね。行方が掴めない以上は手の出しようが……」

「ああ、だが〈六華將(ろっかしょう)〉の二人が探っている以上、例え何処(どこ)で遭遇しようが問題はない……と思いたい」


 そんな時だった。

 砦の方から二人の元へと、急激に近付いてくる妖気。

 反射的に臨戦態勢になるも、それが彼女だと分かれば小さく安堵する。

 しかし、偵察に出ていた彼女が急ぎ駆けてくる様子からして、何かあったと思わざるを得なかった。


「子元様」


 二人の近くで足を止め、刀を置きながら片膝をついて、丁寧に拱手する薙瑠。

 そんな彼女の声音は、普段の彼女らしからぬ程真剣なもので、空気が僅かに張り詰める。


「何があった?」

「単刀直入に申し上げます。行方を(くら)ましていた孫権が許昌付近に出現し、現在、鴉様と氷牙様が応戦しています。

 一方で、呂蒙は洛陽(らくよう)に向かっている最中とのこと。その(くだん)は既に鴉様が神流(かんな)様に伝達済みです」

「許昌付近……ということは、許昌自体に損害があった訳じゃないんだな?」

「はい。鴉様が県城の周辺を偵察していた際に現れましたので、県城へは人的・物的被害ともに及んでおりません。

 洛陽については対策しておりますので、恐らく心配はないかと」

「……言い方からして、お前が危機感を覚えているのは許昌の孫権か」


 子元の問いに、薙瑠は揺らぎのない真っ直ぐな瞳で見返しながら、小さく頷いた。


「孫権が、献帝(けんてい)に近づくのを……防ぎきれない可能性があるので」


 その言葉で、子元は彼女がいつも以上の緊張感を持つ理由を理解した。

 無論、帝に危機が迫るとあるならば、防がねばならぬ事態であることに変わりはない。

 しかし彼女が真に守ろうとしているのは、帝だからではなく。


 ──〝火徳(丶丶)でなければ(丶丶丶丶丶)困る(丶丶)から。


 束の間に訪れた静寂の中、ざわり、と揺れる梢の音が異様に大きく聞こえ、それがまるで、彼女の心情を表しているかのようだった。


「防ぎきれないと思う根拠は何です?」

「孫権に遭遇したのは私達が見つけたからではなく、鴉様から孫権が来た旨を聞いたからです。詳細は聞けていませんが、聞いた限りでは、孫権は予兆もなく急に其処(そこ)に現れた……まるで〈記憶(きおく)辿咲(てんしょう)〉のようだった、と」

「〈記憶辿咲〉だと?」

「あなたが使う、瞬間移動のような妖術のことですね」


 桜の鬼と似た妖術──それこそが、分からないとされていた孫権の、〝火徳〟による恩恵を受けた妖術なのだろう。

 彼女の場合は、鴉のいる場所、若しくは以前行った場所に移動ができるというもの。

 ()れに(のっと)るのであれば、孫権の術も何かを目印として移動している可能性が高い。

 ──という推測など、彼女はとうにしているはず。


「お前がここに戻ってきたのは状況報告のためだけではなく……献帝護衛の任に就くため、だな?」

「はい。現在子上様が担当されている護衛に、私も加えていただきたく、その許可をいただきに参りました」

「護衛に関しては子上に一任する旨を、戦が始まる前に父上が献帝に伝え、承諾を得ている。故に子上にその旨を伝えれば問題ないだろう。状況が変わった今、〈六華將(ろっかしょう)〉が側にいるに越したことはない」

「有難うございます。では……急ぎ許昌に向かいます」


 薙瑠は軽く頭を下げるように再び拱手(きょうしゅ)すると、刀を提げて静かに立ち上がり。


「──〈紅桜(くおう)記憶(きおく)辿咲(てんしょう)〉」


 聞き慣れた呼びかけをその場に残して、彼女の姿はフッと消えた。

 彼女がいた場所に揺蕩(たゆた)う少しの桜が、ふわりと宙に溶けるのを見届けて、子元は公閭を肩越しに振り返る。


「ひとまず、俺達は母上の到着を待つ」

「献帝の御身の危険を否定しきれない状況で、悠長にしてて宜しいのですか?」

「薙瑠はそう言っていたが、献帝の身に万が一があった場合、一番困るのは〈六華將(あいつら)〉だ。故に、危険に晒されることは絶対にない。──絶対に、だ」


 静かに、(しか)して力強く発せられた子元の言葉に、公閭は僅かに肩を震わせた。

 己が確信を持つ根拠は、彼女に対する信頼か、この時間(せかい)に対する失望(丶丶)か。

 今のは、恐らく──いや、間違いなく後者。

 自分も彼女も、既に決められた道をひたすらに進むしかなく、今も(まさ)にその道半ば。

 しかし、前方の砦、その向こうに位置する許昌の方角を眺める子元の瞳は、鋭くも何処か含みのあるもので。

 言い表すならば、紆余(うよ)曲折(きょくせつ)──まだ予想もしない何かが起こりそうな、そんな予感がしていたのだった。

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